久遠ヶ原の音楽室が、ピアノの優しい旋律で満たされていた。曲が終わり、より一層の静寂に包まれる。
「……これくらいなら、もう大丈夫ですね」
ニッコリ笑い、ピアノの前で川知 真(
jb5501)が楽譜を閉じる。
「真らしい音ね」
「ケイさん」
ケイ・リヒャルト(
ja0004)が真の傍らに立つと、楽譜を手に取り目を通す。
「登山は聞いたかしら?」
「はい。ドライフルーツのパウンドケーキと、洋梨とチョコレートのプリンでも作ろうかと思います」
戸口からアルジェ(
jb3603)が顔をのぞかせ、2人を見るなり頷く。
「こんにちはね、アルジェ。あたしは唐揚げを多めに付合せのパスタ、オープンオムレツ……主食はパンが良いかしら? 全粒粉のコーンパンに好みで何でも挟めるように、野菜とチーズ、ハムなんかも持って行くわね」
「登山の話か――アルは緑茶、紅茶、珈琲を一人分づつティーバックに小分けた物などを用意するか」
「俺も団子でも作っていくか」
いつの間にか、窓の外に江戸川 騎士(
jb5439)が立っていた。
「お作りに、なられるんですね」
「作るより食う方が好きだけど、隣室婆へのお返し作りで覚えた」
意外そうな顔で「そうなんですね」と、いつもの口癖。
そしてふと、廊下から流れてくる聞き覚えのある歌声に気付いた。
「なんや皆さん、おそろいで」
「まあこの面子でこの場所なら、わからなくもないな」
やたら上機嫌な亀山 淳紅(
ja2261)と、苦笑気味の君田 夢野(
ja0561)までもが集う。音が聞こえるならば、自然と足が向かってしまうのだろう。
「今度は山に登って、紅葉見ながら練習やったな……楽しみやなぁ!」
「あかん――もう死ぬ……」
バスに乗って数分。すでに淳紅はピンチを迎えていた。
「申し訳ありません、酔い止めは持ってきていませんね」
「いや。数分でバス酔いとかって、パネェから」
「淳紅、生きてる?」
ケイの呼びかけに、まるっきり反応しない。
「返事がない、ただの屍のようだ」
自分で言って自分で大笑いする澄音。
「海よぉ。この前は悪かったな――お前の言う神様冒涜しちまったみたいでよ」
手を振り、笑顔で「大丈夫」と答えてくれた。
「怒ってないよ、友達だし」
「友達――人間に言われたのは、2人目だな……なら、嫌な事はきちんと言えよ。お前が何考えているなんて、口に出さなきゃわかんねぇしよ」
「うん、りょーかい」
皆がこうしている間も、理子は夢野の隣に座り、真剣な顔で講義を聞いていた。
「理子さんに足りないモノ……そうだな、根本的な所で言えば『知識』だろうか。勿論、肺活量などを考えると体力の強化は有効と言える。
しかし高音域に必要なのは、体力よりも適正な唇の形と舌の形だ。それを知っていれば、より楽に高音は出せる筈だ」
「唇と、舌の形ですか」
首を傾け、自分の唇をつまむ。
「ああ。良いアンブシュアを作るには、表情筋や口輪筋を上手く使えるようにトレーニングをする事だ。例えば頬を吊り上げたり唇を突き出したりの反復や、割り箸の先端を咥えて地面と平行に保つとかね」
例えに合わせ頬を吊り上げ唇を尖らせると、理子もそれにならって真似をする。
「まぁ、コレは継続こそが力だ。帰ってからロングトーン共々、毎日続けてくれ」
「はい、センセイ」
急にセンセイと呼ばれ、表情は崩さなかったが目をぱちくりとさせてしまう。言ってしまった本人は「あっ」と、口を押えるのであった。そしておずおずと、夢野の表情を盗み見しながら「スミマセン……」と、か細い声で何故か謝る。
「謝ることはない。ほんの少し驚いたのと、自分が今、教える側に立っているのだという事実に改めて気づいただけだ」
理子に漂う気まずさを察知し、あえて講義をごく普通に続けた。
「シラブルについてだが――普段は『Tu』という発声イメージで吹いていると思うが、高音時は『Ti』とイメージして発音してみてくれ。楽に吹ける筈だ。
イ行の発音時は舌で口内の空気の通り道が狭まるから空気圧が掛かりやすくなり、高音が吹き易いんだ」
気を取り直した理子が唇の形を教えられた通りに動かし、「なるほどです」と納得する。
「それと、マウスピースを唇に押し当てすぎない事に気を付けてくれ」
「わかりました、センセイ」
「大分色づいているな。季節により色を変え、同じ山でもその表情は随分変わるのだな」
「絶好のハイキング日和ですね」
2台の電子ピアノを背負い、落ち葉を拾ってはノートに挟んだり、時には歌ったりと、上機嫌な真が足を止める事無く言う。
「歌いながら行きましょうか。皆で楽しく進めば急な斜面すら、きっとツラくないわ。腹式呼吸の練習にもなるしね」
ケイに改めて言われるまでもなく、澄音が真に触発されて歌いだすと、夢野が合わせて声をハモらせる。
これだけ歌声が響けば、さすがの熊も近寄ろうとはしないだろう。
「理子も歌うといいぞ。高音域を出す際に疲れるってのは、高音を吹く息のスピードや唇の力を中音域で使ってるんだと。口輪筋っつー下唇の下の筋トレをすると効果的だぞ。
口輪筋は正しい発音で鍛えられる。とりあえず歌え、羆避けになるしな」
騎士にそう言われ、楽しそうに歌う澄音の顔を見つめる理子。そして意を決し、口を開こうとした時――
「信じるなよ。これは、嘘だ。
マジは、毎日5分。親指・人差し指・中指を口にくわえて、チューチューと吸う。他にもマウスピースのスロートを、唇だけでくわえる練習とかあるぜ」
疑いの眼差しで騎士の顔を見て、夢野へと視線を向けるとこくりと頷いて答える。
「それと修平はよ、プロでもウォーキングをしたりする際、鼻から吸って口から細く吐き出すとかやってるから、やってみたら?
フレーズ取りと呼吸の関係って結構、基礎らしいぜ」
「そうね。例えピアノでも、フレージングと呼吸の関係は大事だわ――ね、修平。どの枝が好み?」
「枝、ですか。あんま好みってのを考えませんけど、あえて言うなら、あれですかね」
ケイからの質問に答えると、「ではあの木の色、どう思います?」と真も間髪入れず、他の質問をしてくる。
それだけでなく「何か紅葉について思い出とか無いの?」などと、道中、様々な質問をされていた。
そして質問といえば、年齢的に理子達に混じってもまるで違和感のないアルジェが様々な事を聞いている。
「理子達は幼馴染だったな、幼少時の話を聞きたい」
「そんな特別はねーかな。生まれてからこの歳まで、ずっと同じ保育所、同じ学校に通ってるくらいだ」
澄音が後ろから覆いかぶさるように抱きつきながら、答える。
「……そういえば、修平の眼鏡は女性物の様だが何か逸話でもあるのか?」
「あ、少し聞いた事ある。お祖父さんが昔、眼鏡壊しちゃった子のために買ったんだけど渡し損ねた物らしくて、それに気づいてほしくて修君にかけてもらってるんだって。修君には、伝えてないみたいだけど」
「さすが海、詳しいな」
抱きついたままの澄音が、感心している。
「澄音……抱きついてくるのはいいが……歩き難くないのか?」
珍しく困惑気味なアルジェは「全然。こうするの好きだし」と平気な顔で返され、それ以上何かを言うのは諦めた様子だった。
「抱き付かれるのは……そうだな、嫌いではない。体温の交換だけでなく、形容し難い色々な感情が感じられるからな」
そして澄音の腕からするりと逃れると不意に、修平を後ろから抱きつく。抱きつかれた修平は硬直し、振り払う事すら忘れてしまっていた。
「ところで――亀山君、大丈夫か。さっきから歌うどころか、一言も喋れていないのだけど」
後ろでなんとか登っている淳紅に、声をかける――だがなかなか、返事がない。
「直接登って見んでも……今は……テレビて便利なもんが……」
かなり息が荒い。バス酔いの影響もあったかもしれないが、それを差し引いても登山にやられ過ぎである。
「まだまだ若いのに……しかたないわねぇ」
智恵が淳紅を後ろへ引っ張り、両腕でしっかりと抱きあげる。見事なお姫様抱っこだ。
「これだけ撃退士の大学生がいるなら任せても大丈夫そうなんで、ちょっと先生、先に頂上行ってるわ。貴方達は無茶しないように、ゆっくり来なさいね」
淳紅を抱きかかえたまま登山道をひょいひょいと、駆け昇っていくのであった――
全員が山頂に到着すると、凛と立ち、景色を眺めている智恵。その足元では淳紅ががっくりと、肩を落としていた。
「気を取り直して、お昼にしましょう。淳紅さん」
「そうそう、皆の分のお弁当を作ってきたの!」
クスクスと上品に笑う真がビニールシートを敷き、ケイが弁当を広げると、現金なもので途端に復活する。多めのから揚げも「マジうめぇ」を連呼して騎士が綺麗にたいらげ、食後のデザートへと移行。
「お口にあうといいんですが」
真のケーキとプリン、それに騎士からは可愛いカップに入った手製の団子。餡、みたらし、ゴマ黒蜜タレ、南瓜餡、梅ダレとなかなかに幅広い。
それらを理子だけでなく、澄音も海も一口を大事そうに食べながら、感動に身を震わせていた。だが修平の方は、普段の口調で「美味しいですよ」と言うばかりである。
「アルのSPブレンドだ。その都度変わるから、味の保障はできないが」
「ありがとう――美味しいよ」
やはり、どことなく無感動――その様子で、ケイも真も自身の考えに確信を持つ。
「何か秋の思い出ってありますか?」
「秋……これと言って季節ごとの思い出ってないですね」
予想通りの回答。
「よし、ここらで俺のトランペットを披露だな。近所の工場が終業時流すんで、いい練習になったんだぜ♪」
騎士が立ち上がり、 一曲披露する。それの出来は完璧と呼べるほどに、騎士のトランペットは上達していた。
「休日のパッセージは練習中だけどな、ここまではできるようになったぜ――おっとそうだ、理子。
俺のマウスピースで吹いてみろよ。高音が楽になるかもしれねーぜ」
差し出されたマウスピースに一瞬ためらいを見せたが、受け取って試してみせる。だが高音どころか、中低音もままならなくなってしまう。
もはや自分のマウスピースに慣れ親しみ過ぎた、という事なのだろう。
「修平に足りないモノ……それはきっと感情移入。今日のことを思い出して……そして一番印象に残った『感情』を音に変えてみて。聴いてみたいわ」
「感情を音に、ですか」
「そう。今回の練習はみんなで即興曲を演奏してみましょうか」
「いちばん! 澄音、プリンの歌、歌うぜい!」
恥ずかしげもなく歌いだす澄音に、意外な事だが理子がトランペットで合わせてきた。それに真もピアノで伴奏を始めると、海も続き、騎士も続く。
ホルンの準備ができた夢野が修平に声をかける。
「悩むのもいい事だが、今は楽しむ事が一番大事だ――さあ心ゆくまで、澄み渡る空に音を響かせてやろうか!」
理子のトランペットを主役としながらも、ホルンが存在感で自己主張する。
「それならあたしは、紅葉に合うイメージで……」
即興の歌声は、燃え盛るような色彩。だがこれから散りゆく切なさが修平でも確かに感じ取れた。
だがそれでも、音が出せずにいる。
そんな修平に淳紅が顔を近づけ、こそりと耳打ちする様に小声でこう告げた。
「個人的には感情のこもらん技術特化の演奏いうんも、好きなんやけどな。身も蓋もないけど、感情を伝える術は基本『技術』やろ」 ハッとする修平の手から、ピアノを手に取る。
「修平君ほど上手くないけど、ちょっとだけ聴いたってな――まずはスタッカート多めの、アマービレ」
そう言うと、淳紅の指がピアノの上を跳ねまわる。
何の変哲もないはずのキラキラ星だが、音符数も音階移動も多めで、まるで星まで兎が跳ねる様な演奏だった。
「スラー多めで、ソット・ヴォーチェ」
今度は夜に1人で星を見上げている、そんな演奏。そして手を止めると、ピアノを修平に返す。
「自分、極力なんも考えんと弾いたんやけど感情、こもってへんと思った?」
首を横に振る――曲からは情景と感情がイメージで来たのだから、当然だ。
「調律すれば機械音やって人の声みたいに歌う。感情を込めるんが苦手なら、感情を表す音を技術で作ればええ。
音を楽しむ方法は色々や、選択肢は狭めたらあかんよ。修平君に、理子ちゃんもな」
楽しそうに吹いている理子に目を向け、修平に視線を戻す。
「修平君が感情込めた演奏したいー強く望むんなら、話別やけどな」
そこまで伝えると淳紅は駆け出し、山頂から見下ろせる紅葉を背に、歌いだす。
「いつだって 揺らぐ陽炎を捕まえてた いかないでって 君をさらってく冷たい風に悲鳴あげて 紅い小さな手が僕に触れる」
そして絞り出すような感情剥き出しの言葉。
「忘れないで――届かない さよならが痛くても……」
そして突如ばっと両腕を広げ、艶やかで楽しげに笑う。
「ま、いつか自分の歌で涙も笑顔も止まらんようにしたる。楽しみにしとき!」
自分への、絶対的な自信。それを目の当たりにした修平は唇を噛みしめ、ぽつりと「選択肢、か」と漏らすのであった。
(修平の感情を引き出すには、何か環境の変化が必要か?)
「黒松先生といったか。少し相談したいのだが……」
『良い? これから毎日、一番印象に残った出来事を振り返って。で、その時の想いを即興で音にしてみて。短くても良い』
あれから数日。下山時にケイからこっそり出された宿題をちゃんとこなしつつも、淳紅の言葉が頭から離れないでいたそんな、ある日。
「今日は転校生を紹介するわよ!」
「久遠ヶ原学園から来た、アルジェだ。よろしく、修平」
思わず立ち上がっていた修平がツカツカと歩み寄り、小声で説明を求めた。
「うむ、黒松先生の依頼という形でな。依頼に必要だからと申請したら、久遠ヶ原在籍のまま、ここに転校できたのだ――もっとも他にも依頼がある以上、常にここに居れるわけでもないのだが」
あまりにも強引な選択肢の増やし方に――笑うしかなかった。自分の小さな悩みも含め。
さらに数日後。真が修平の家に顔を出した。
「みんなで行った思い出です。もしよかったらお使いください」
そう言って差し出したのは、登山の時に拾った落ち葉をラミネート加工し、栞にしたもの。それを全員に渡してまわっているのだ。
そして修平にはラッピングされた、綺麗な景色の写真集と、それにあうイージーリスニング系のCDも添えられていた。
「もしよかったらどうぞ。あっ、返品は可ですから」
「いえ、ありがとうございます――それとですが、亀山さんに伝えてもらいたい事があるんですが、いいですか?」
「はい」
一呼吸置き、淳紅の楽しそうに歌っていた顔と、自分への羨望の眼差しを思い出しながら、続けた。
「僕は――選択肢を狭めずに、どっちもできるように目指しますって」
拙いなれどその音律は心に3章 終