「な、澄音ちゃん。もし自分が人間やない、って言うたらどうする?」
歌遊びと称して、澄音に歌を教えていた亀山 淳紅(
ja2261)が歌の合間にそんな事を尋ねた。
サックスを磨いていたアルジェ(
jb3603)の、手が止まる。
問われた澄音はというと、何を言ってるのかわからないという顔で、淳紅の顔を覗き込んでいた。
「超人です、とかか? なんっつーか、こうやって喋れんなら、そんなのどーでもいんじゃね?」
「ふむ。なら、実は自分の親とか友達が人間やなかった、とか」
「おんなじだろ。それとも人間でないからって、今までと何かかわんのか?」
裏も表もなく、ただただ本心を率直に述べるだけの澄音に、凪いだ海のような微笑みを浮かべる淳紅は「そっか」と満足げに頷き、アルジェの止まっていた手も、再び動き出す。
「これは……もうだめかな」
マウスピースを新しい物と交換し、音を出す。
「ん……この新しいのは当たりかもしれない。
すーみー、スウィング……しようか」
「サックスに合わせて歌うってか? かまわねーよ」
アルジェと向かい合う澄音。その後ろに、ポケットへ手を入れている淳紅が立っていた。
澄音の頭を引き、背中を押して背筋を伸ばさせる。
「……そのまま真っ直ぐ。
どんな時でも、前を向いて歌うんよ。目閉じて歌うんは駄目。目は見開いて、背中しゃんとして」
背筋を伸ばしたままの澄音に、「そうそう」と淳紅が満足げに頷く。
「大事なことやから忘れたらあかんで――約束な」
背中を軽く叩き、それから部屋を後にする。
すると廊下で、修平とばったり出くわした。
会うなり、修平の頭をなでる。
「ずっと大事なもん守ってきたん、ご苦労様でした」
手を離すと、その鼻面に指を押し付ける。
「隠し事してしまった時はね、素直にごめんなさいって言うんよ。
理子ちゃんええ子やから、きっと『ええよ』って言うてくれるから」
そして横を通り過ぎて、手をひらひらとさせて行ってしまう。
言葉を反芻していた修平だが、とある事に気づいて振り返り、淳紅の背中に声をかけた。
「どこか行くんですか?」
振り返らず、淳紅は「ちょっと、調べもの」とだけ伝え、行ってしまうのであった。
なんだか元気がないなとその背中から感じ取ったが、自分から掛けるべき言葉が思いつかず、結局ただ見送るだけに終わってしまった。
「どうした、修平」
「アルジェ――ちゃん」
驚き振り向いた修平の目の前に、ビシッと指を突きつける。
「アルジェ、だ。間を開けるくらいなら、呼び捨てで良い。年上なんだ、呼び捨てくらい普通だろう?
知っているか? 仲が深まるほど、相手の呼び名は短くなるんだそうだ」
「そんなものかなぁ……じゃあ、アルジェ――は、練習どうしたの?」
「すーみーが、昨日夜更かしして眠いというのでな。一眠りしている間に、やることをやっておこうと思っただけだ」
理子の前に、見た事の無い手書きの楽譜が、向けられた。
「これが、俺と理子さんでやる曲だ。今日から練習に入ろうか」
向けられた楽譜を手に取り、目を通した理子の顔がほんの少しだけ曇った。
不安げな顔で、すぐ目の前にいる君田 夢野(
ja0561)の顔を見る――それだけで理子が何を言いたいのか、夢野は察した。
「大丈夫だ。今の理子さんなら練習すれば、きっとすべてが最上の出来になる」
所々、確かに難所はある。
だが今の理子なら、それすらもあっさり乗り越えられると信じていた。
「そうだな、あえて言うなら――後はゆっくり眠るだけだ。できる奴ほど、よく眠るぞ」
夢野が微笑みかけると、嬉しそうに理子も頷きながら微笑み返し、すぐに練習を始める。
まるっきり心配していなかったが、思った通りであった。
(初見で、ここまでもう出きるか……さすがとしか言えないな)
いつまでも進化を続ける彼女の音を聴きながら、夢野も練習を始めるのだった。
理子が練習に励んでいる時、理子の父、郁也の元へ姿を現した川知 真(
jb5501)。
仕事をしている郁也が手を止めそうになったが、真がそれを手で制する。
「こんにちは。お忙しいのは承知してますので、そのままお続け下さい」
そう伝えると、郁也の手が再び動き出したのを確認して、まず「美亜さんがいないので私の想像でお話します」と前置きしてから続けた。
「美亜さんはとても貴方を愛していたと思います。
最後まで天使であることを隠したこともそうですが、ピアノを自分の為に弾いて欲しいというお願いが全てを物語っていると思うんです」
そして真の背に、白い4枚の翼と白く光る輪が頭上に浮かび上がると、途端にその神秘性が溢れ出る。
「私は天使です。
……私事ですが、好きな人が私の頭を撫でる瞬間がすごく幸せなんです。彼が自分だけを見てくれている気がして」
目を細め、少したれ目がちに微笑む。
その笑顔には、言葉以上の想いに溢れていた。
「同じように美亜さんは自分のために貴方がピアノを弾いてくださる時間、貴方が美亜さんの為だけに時間を使ってくれることが幸せだったと思います」
表情を引き締め、そして少し悲しげな目で郁也を真っ直ぐに見る。
「今も美亜さんの為だけに弾いていると、伺いました。
それを美亜さんは、どう思うでしょうか?
貴方の世界には、美亜さんしかいない。そんな過去だけを見ている貴方を、美亜さんは喜ぶでしょうか?」
返答は、ない。
聞いているのかさえも、わからない。
それでも、真の言葉は止まらない。
「もしお気持ちが変わりましたら、演奏会で演奏していただけませんか?
日本では8月にお盆という霊が地上におりてくる言い伝えもありますし、墓前なら降りてきた美亜さんを1番近くに感じられるんじゃないかと思うんです。
美亜さんのためにも、今のご自身と成長した理子さんを美亜さんに見せる意味でも弾いていただけないでしょうか?」
翼と光輪が消え、いつもの柔和な、ぼんやりとした感のある真に戻った。
「事情を知らない身で、色々言ってすみません。でも少しお考えください」
頭を下げ、静かながらも足早に、誰にも見つからないようその場から立ち去る。
――しばらくの間、工場は音もなく、静かなものだった。
そこに足音がひとつ。
「よう。ちっと話聞かせろよ」
江戸川 騎士(
jb5439)が横に立ち、返事も待たずに喋り出す。
「あんたの妻の死因についてだけどよ、修平は嘘をついていないが、ガキだ。勘違いって事もある。
自分で調べたことしか信じないタイプでね――納得いかんのよ」
ずけずけと、土足で踏み込むような行為だが、騎士にはそんな遠慮はもとよりなかった。
「真相究明。俺の為か、他人の為か……どっちだろうな。
死んだ日の事、死亡の立会の事、それと診断した医師も教えてもらおうか」
「……なかなか、言いにくそうな事もズバッと聞いてくるね」
「しかたねーよ。それが俺の性分だ――それに、悪魔だしな」
性分と言い切った騎士に郁也は腹を立てる事もなく、ただ1つ溜め息を吐き「少し待ってなさい」と、家へ一旦引っ込んだ。
それから間もなくして戻ってきた郁也の手には、質素な茶封筒が。
その茶封筒を無言で差し出され、受け取った騎士。中身を確認すると、死亡診断書だった。
「きっと見たいだろうと思ってね――美亜はその日の朝、特に熱もなく会話できるほどの状態だった。
だけど昼過ぎか。修平君が飛んできて美亜が動かないっていうから見に行ったら、もう……」
さすがに言いにくそうだが、郁也はそれでも騎士を真っ直ぐに見つめる。
「外傷なし、病気の疑いもなかった。だがその日、急に生命活動を停止した――それの原因は不明だと言われたよ」
「へぇ……」
診断した医師の名前を確認し、診断書を返す。
(外傷なしで、ある程度体力も残っていたのに急変した、ね。
吸魂ばかりでなく、生命力を吸う奴も確かいたはずだ――魔界時代の事とはいえ、天使や人を殺す事を生業にしてきた事が役に立つとはね)
人間では思いもつかない方法だろうが、騎士は悪魔だ。
人間では起こりえない事を起こす存在。それが天魔だと、よく知っている。
「……何か分かったら、連絡はするよ」
「待った――何か、心当たりがあるんじゃないのか?」
「まあ……人間同士の出産で母体が死ぬ事は、今でも少なくない。
女ってのは、どの種でも命削って母になるもんだ。出産が負担になった可能性もあるだろう?」
沈黙する郁也。
「その点、男は基本産ませっぱなしで、子の親になるのには努力が必要だ。
俺がとやかく言う筋合いねえが、まあ、あんたは常々理子に誠意を音で示せって言ってきた訳だし、言葉で足りない分、音で誠意を見せてもいいんじゃね?」
楽譜を、整備中の車のボンネットの上に置いた。
「気が向いたら来てくれ。きっと理子の覚悟も見れるだろう」
背を見せ、礼も言わずに立ち去ろうとしたが、その足が止まる。
「ああ、そうそう。残念なお知らせがあるよ。
天界側に理子の存在がバレちまった。覚悟は必要だぜ」
騎士が去って行った後、入れ替わりで淳紅がやってきた。
「君も、何か聞きたい事があるのかな」
先に切りだされた淳紅は開きかけた口を一旦閉じ、それから再び開いた。
「‘もし’自分がミアさんやったとして、目の前に死があると知り、愛してる夫と子を残して逝かなければならないのに‘何も残さない’のは、至極不自然です。
……自分の想像でしかないんですけど、外れたなら外れたで、無かったですむ話ですし――心当たりは、ありませんか。
例えば、あれから一度も演奏していない、曲の楽譜の中とか」
「あいにくと――あ、いや。関係があるかはともかく、愛の挨拶の楽譜が1枚なくなってたか。もう揃え直したけど。
それと前日に、オルガン続けて下さいねって」
その話に「ふむ」と顎に手を当て、感謝を述べると歩き出すのであった。
「夢を心に抱いた奴は、その為に死ぬ事も厭わないし生き抜く意志も抱ける」
練習の終わり際、夢野がそんな意味深な事を呟いた。
理子は手を止め、夢野の深刻そうな顔を見ながら次の言葉を待った。
「君の母は、きっと君という名の夢の結晶を抱きしめて天へと行ったんだ」
それは死んだ者の意志を彼なりの解釈し、喩えた言葉。
理子の目を、真っ直ぐに見つめ返す。心を通わせるために。
「来月の演奏は、彼女の献身への恩返しなのだと。そして、夢を抱いて今も生きている事を――伝えよう」
「……はい」
確かな意志を感じさせる力強い眼差しで頷く理子に、夢野も満足したか、微笑む。
「辛くなったら、俺がいる。何時でも頼ってくれ、それが俺の望みだ」
目を細くし、満面の笑みを浮かべた理子は、夢野の言葉の真意を何処まで汲み取ったかはわからないが「はいっ」と嬉しそうな返事を返すのだった。
静かになったのを見計らってか、遠慮がちに開けられた戸から、ケイ・リヒャルト(
ja0004)がひょっこりと顔を覗かせる。
「練習、終わったかしら? 良ければ、理子を借り受けたいのだけど」
「――ああ、大丈夫だ」
多少の気恥ずかしさをごまかすためにも、理子の背中を押して促す夢野。促された理子は名残惜しそうな顔をするが、ケイと共にその場を後にした。
連れられた先には修平が先に座っていて、理子もその隣に座る。
ケイはアルジェが管理している茶器を使って3つ、お茶を淹れてテーブルに置くと、2人の前に座り肘をテーブルに乗せ、組んだ手の上に顎を乗せて理子へ向けて微笑む。
「理子のお母様は、天使のような人だったのね。今の理子の姿を見て、そう感じるわ」
照れを見せる理子から視線を外し、自分の湯呑をじっと眺めその縁に指を這わせ、ためらいがちに口を開いた。
「あたしは……言ってしまえば、親に恵まれなかった。
それでも祖母や父は自慢の種だった。母は心の弱い人だったけれど……それでもやっぱりあたしの母に違いなかった。
そして……家族は皆、あたしのことを1番に想ってくれてた、と」
指を止め、何でもないかのように極平然と、「あたしの母も、亡くなってる」と明かす。
子供な2人はどう反応してよいのかわからず、ただ黙っているしかなかった。
「あたしは耐えられなくて逃げ出したけれど……理子は其処にちゃんと居て、弔いを――想いを伝えていて、素敵ね。
ね、理子。思い出すのは辛いかもしれないけど、お母様と最後にかわした言葉は何?」
「――音楽を、ずっと好きでいて。きっとそれが、最後の言葉です」
「そう……この1年であたしはより、歌がなくてはならないものだと確信したわ。
2人はどうかしら?」
2人が顔を見合わせ、そして先に理子が答える。
「もともと演奏は好きでした。でも、上手くなる喜びを知った今は――もっと好きです」
「僕も今なら、はっきり音楽が好きだと言えますね」
「なら、来月の心の準備と練習も、ばっちりかしらね」
笑みを漏らし、少し茶目っ気を含ませて問いかけると2人そろって「ぼちぼちです」と、シンクロしてみせた。ここら辺はさすが幼馴染ねと、ケイは密かに思ってしまう。
「そうだ。ついでに修平には、久遠ヶ原時代の想い出も語ってもらおうかしら」
ここまで長く話したのは珍しいかもしれないというほど、3人の談笑は続く――
「どうした淳紅。こんな所に」
墓を掃除した後で、保育所のオルガンもついでに掃除していたアルジェが、姿を見せた淳紅へ不思議そうに問いかける。
「ん、ちょっと調べもん」
「そうか……おや、こんな所に傷……? いや、文字……か?」
並んだオルガンのうち、一番奥にあるオルガンの前でしゃがみこむアルジェがその傷を指でこする。
「イクヤさんへ……?」
淳紅がそのオルガンの鍵盤を開いた。そしてそこにある1枚の楽譜を手に取り、裏を確認すると――淳紅の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
一向に口を開かない淳紅の手から楽譜を取り、アルジェもその裏に目を通して声に出してそれを読む。
天使である告白と、楽しかった日々の事がつらつらと書き連ねてあった。
「いつかあなたとあの子に打ち明けようと思っていたけど、私の口から言えずにごめんなさい。あの子に教えてあげて下さい。
それと最後に、私の愚痴ですが――もっと、生きていたかった」
淳紅がその楽譜を届けると、郁也も涙する。
そこにちょうど帰ってきた理子へ、郁也は楽譜を握りしめ、やっとその一言を絞り出した。
「理子――お前のお母さんは……天使だったんだ」
突然の告白に目を丸くした理子。だが思いのほか動揺した様子もなく、何かに納得したように頷いていた。
「そっか、お父さんが何かおかしかったのはそれを言いたかったんだね」
「……ああ」
「そっかそっか――ごめんねお父さん」
言いにくそうにする理子が屋上を見上げる。
「その……実は知ってたんだ。夢かなと、思ってたけどね」
拙いなれどその音律は心に12章 終