あなたに永遠の一片を――
●
呼ばれた気がした。すぐ傍ら。どこか胸に痛い――その声で。
一瞬の空白。
目に映る白銀の鎧。鬣のような銀灰の髪。巌のような巨躯に、武骨な手。粗削りな顔。
――獅子公。
閃くように、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は悟る。
――あぁ、これは夢だ。
ゴライアス(jz0329)は死んだのだ。その認識は覆らない。夢ですら、自分を騙さない。
――これが現実ならば、甦る死者は醜いと一蹴も出来ただろう。
指先の震えを感じた。
覚えたのは怖れ。けれどそれは物理的なものではない。
――然しこれは、自らの夢だ。
右手を染める鮮血の赤。現の通り、覚えているままに。優しい偽りすらない――なんて残酷。
――此処を死地と決めているなら、いっそ自分が。
想い、駆けた。その全てに違いなく、後悔もないけれど。手の赤が、その温もりが、嫌でも自分が殺したのだと、そう突きつけてくる。
――自責なのか。
痛感する現実。
――それとも否か。
分からない。だからこその「怖れ」。震えを握りしめる。心の中で木霊する声――
――嫌だ、御免なさい、許して下さい――…
ほろほろと零れ崩れるように思いが零れる。現のように己の姿を維持できない。こうであると、こうあるべしと、頑なに信じ塗り固めた鎧は――
――夢の中には、無いのだ。
――私は―…
ただ、ただ、自分を責め立てる自分の心が怖かった。一歩を踏み出すことが出来ない程に。
なのに――
大きな両手が伸びてきて頭をくしゃくしゃと撫でた。
武骨で粗削りな顔が子供のように笑った。
『せっかくの別嬪が、そんな顔ではもったいなかろうが』
変わらない。何一つ変わらない。
夢だからか死んでいるからか、願望なのかそうでないのか。分からないけれど、ただその温もりすらも以前の通りで、今までとは別の何かが零れそうになる。
もっと語り合いたい事があった。
師を仰ぐ様に武に焦がれもした。
そして、或いは父の様にとも――
決別の時が待っていると知っていても、それはまだ後であってくれと心の何処かで無意識に思っていた。もっと、もっと。もっと――
――これを
零れる思いのままに、言葉を重ねた時は悲しい程あっという間に過ぎた。霞みだした視界に最後を悟り、差し出すのは黄金の羽根。
如何しても現実には叶えられなかったから。せめて、彼岸の岸辺で。
ゴライアスはちょっと微笑って、いつものように頭をくしゃくしゃに撫でて受け取った。
――エルは
その大きな掌の感触に、声を零す。
――彼女は、これから……どう……
己の夢の言葉であったとしても、聞かずにはいられなかった。如何しても放っておけなくて。彼女はきっと自分を嫌うだろうけれど。それでも――
(……同じ貴方の、義娘だから)
ゴライアスはじんわりと微笑う。
『儂の外套をおぬしに託した。――それがあの娘の答えだろうて』
マキナは目を見開く。覚えている。あの時、確かに、意思を貫いた義親の形見の一つを、手ずから渡された。涙を溜めた強い瞳で。真っ直ぐな目で。
『ああ、いい顔だ』
ふいに零れた素の表情に、ゴライアスは嬉しげに笑ってもう一度頭を撫でた。優しい声が耳朶を擽る。
『心のままに進め。誰が何と言おうとも、ただ己の魂に恥じぬように。……そなたの行く先に、儂の見たかった光景がある』
だから真っ直ぐに。己の思いを信じて。
どんな時でも、そなたは自分の――自慢の義娘だから。
●
ふと気づいたら一人で歩いていた。うん、わりといつものことだ。無問題無問題。泣いてなんかいないのだわ!?
フレイヤ(
ja0715)はてくてくと三歩進み、霧がかった景色を見てポンと手を打った。
(あ、夢だわコレ)
即、理解。
(てことはあたし好みのイケメンやイケメンやイッケメェェンのハーレムも可能ってわけな!?)
OK。
(といっても、夢の中でまで会いたい人って考えた時色んな人が思い浮かぶけど…やっぱゴっさん、かしら)
イケメンどこいった。
しかも思った途端に霧の中からひょっこりデカイオッサンが現れやがる。さすが夢。
「たくさん泣いてさ、もうとっくに気持ち振り切ったつもりだったんだけど、ダメねえ私ったら」
ふと笑みを零し、フレイヤは相手の太い腕を軽く叩いた。――確かな感触。もう、触れられるはずもないのに。
「まぁいいや、出て来ちゃったもんはしゃーない、ちょっとお話ししましょ、ゴっさん」
ぺちん、と地面らしき場所を叩くと、笑った大男がどっかと胡坐を組んだ。あまりにもいつも通りすぎて、一瞬、視界がブレそうになる。
だから敢えて真正面で睨んだ。腰に手をあてて。
「てかさぁ、ゴっさんてば勝手すぎ。あんな風に死なれちゃったら中々忘れらんないじゃないバーカ」
叱るように――
「私みたいな美女を泣かすとかマジありえないんですけどお? しかも私以外にもたくさん泣かしたみたいだし? えらぁい騎士サマがそんな事していいんですかあ?」
絡むように――
「バーカバーカ、困っちゃえ、こんくらい仕返ししたってバチ当んないでしょ」
子供のように――涙を零すかわりに、言葉を。
『おぬしはいつも元気よのぅ』
笑った男がワシワシと金色の髪を撫でていく。「もー。乙女のセット崩すとか! そこ正座!」の声にはむしろ楽しげに。
なんで、と。
死んじゃったのになんで、と。
そう、言葉にするのはやめた。
だってそういう男だから。
全部決めて――何もかも覚悟で、動いた男だから。
「あ、そだそだ。こないだゴっさんさ、『大事なのは死に至るまでに如何に生きるか』とかちょー偉そうな事言ってたじゃない?」
『おお。言うたなそういえば』
「ただのおっさんがあんな風に見栄切っちゃうなんて爆笑もんだったわよ、可笑しいったらありゃしない」
『うわはは』
「自分で笑わない! でもさ、あれから私も色々考えたよ」
ほぅ、と目を笑ませる男は視線で話を促す。
父親のような、悪友のような、そんな表情で。
「学園に来て色々な人に会って……初めは注目されたいってだけの理由がちょっとずつ変わっていって」
『ふむ?』
「今は皆を笑顔にしたいって、幸せにしたいって思える様になったんだ」
『……』
「人も天魔も関係ない、皆をね」
笑ってほしかった。心から。
沢山楽しいことがあった。これからだってあっただろう。
生きていればこそ手に入れられるそれらを分かち合いたかった。
『……そうか』
「ゴっさんも幸せにしてあげたかったけど…まぁ必要なかったかな」
ちょっと俯きかけたフレイヤに、じんわりと笑った男がワシワシと頭を撫でる。
遠慮の無い手がいかにも『らしい』。
「あ〜あ、こーゆーマジメな話って苦手なのよね、疲れちゃう」
一瞬零れそうになったものをぐっと堪え、フレイヤは勢いよく背を伸ばした。
思いはある。
記憶は残る。
現実は変わらない。
けれどずっと、胸を張って。
「学園行かなきゃ今年も留年しちゃうしもう起きるわ」
そうか、とゴライアスは笑った。子を見送る父親の顔で。
フレイヤも笑う。
すっきりとしたどこか力強い笑みで。
「じゃあねバイバイ。私はこれから先笑って生きるわ」
小さな拳が、大きな拳とコツンとあわさった。
瞳に相手の笑みを焼きつける。
「いつかこの世界とお別れするその時まで、ずっとね」
●
その輝きを覚えていた。
柔らかな微笑み。優しい気配。神威すら感じさせる神代の美貌――ルス・ヴェレッツァ。
(もう一年過ぎたのに…)
唇が動きかけ――けれど、その名を紡ぐことは出来ず。
「おやおや、これはまた不思議な事があるものですね〜」
思わず硬直した宇田川 千鶴(
ja1613)の隣で、石田 神楽(
ja4485)はいつものように笑む。
――幻想だ。
そこに居るのが本物だとしても、既に彼女、ルスは死んでいる。そう理解している。けれど――
「神楽さん…」
零れた呟きと、小さく上着の裾を掴まれる感触に、神楽は一度だけそっと目を伏せた。
(…まぁ、今はこれが現実…と思う事にしましょうか)
勇気づけるようにそっと頭を撫でる。千鶴が何かを言いかけ、小さく唇を噛む。
名前を口にすれば、涙が出てしまいそうだった。こんなにも会いたくて、話がしたくて、例え夢でもそれが叶ったのに、声が出てこない。
迷い、逡巡し、手探りで何かを探そうとする思いが、ずっと持ち続けていた小さな化粧箱を手に取らせた。
「貴女達をイメージして作ってもろたん」
白地に金。降り注ぐ光と羽根に似た文様に、星や月――
ルスが微笑んだ。中に入っているのは自身の羽根だ。
その微笑みに導かれるようにして喋る。
花見をした、海に行った、祭りに行った。変な鯖に遭遇したり、不思議な幼女に懐かれたり。
「な? 神楽さん」
ふられ、神楽は微笑んだ。その手が千鶴の頭を撫でる。その左手にうっすらと浮かぶのは赤い筋だ。目の前に居る天使に感応しているのか――自分のアウルが、既に『ルス』という天使を覚えてしまっているのか。
「四国の戦いは一旦落ち着いたけれど結局全ては解決はしてへん。…なぁ、ゴライアスさんには会えた?」
微笑んで頷くルスに、千鶴がふわっと笑むのが見えた。
声の震えを神楽は知っていた。おそらく、ルスも分かっているだろう。可能な限り悟られまいとする、そんな感情も――きっと。
母親に一生懸命報告する幼子の姿が重なって見える。
(彼女が語る思い出には、私も居るのだろうか)
見守る先で、ルスが楽しげに微笑んでいるのが見えた。
――ゴライアスさんはきっと、今頃どこかで豪快に笑っている。
――エッカルトさんはきっと、どこかで思いふけっている。
――レヴィさんはきっと、貴方の事を想い続けている。
――そして、千鶴さんはこうして貴女に甘えたがっている。
(私はそれを傍らで守りましょう)
『白』の対たる『黒』として。またこうして、貴女と話す時を得る為に。
ふと、視線を上げてルスが神楽に微笑んだ。おや気づかれている。苦笑に似た笑みが零れるのに、暖かい眼差しが微笑む。
(本物――ですか)
夢路を伝って、会いに来たのだろう。こちらが覚えていたように、覚えていたのだろうか。今際の際にしか会えなかった子供達に。
「…レヴィさんに会った? エッカルトにも…貴女に会いたい人達にも。…本当に会いたいのは彼らやから、例え夢でも会ってくれると嬉しいな」
くしゃりと笑んで言葉を紡ぐと、差し伸べられた手がやんわりと千鶴の頬を挟んだ。
目の前でルスが柔らかく微笑む。大丈夫よ、と。我慢しなくていいのよ、と。幼子を見守る母親のように。
――会えて、嬉しかった
優しい声が紡がれる。
――覚えていてくれて、嬉しかった
心から幸せそうな、その微笑み。交わる夢路の中で、永遠の欠片が此処に在る。
(嗚呼)
一年経ても、やはり微笑んでいる。
必死に生きて、勝負に勝ち、いってしまったひと。
(黄金の羽根)
声ではなく思いで、言葉を紡ぐ。
(託されるとか、継ぐとか――は、私はわからん)
だから、せめて覚えていようと思った。あの日、何時かのクリスマスに約束したように。ずっと。ずっと。
助けたい命を助けてくれた。
犠牲の上の鈴。
でもそれで助かる命があった。
全てが繋がっている。一つ欠ければ『今』は無かった。
だから――
(善行もそうじゃない事も死ぬまで覚えてる)
(私が覚えてる限りきっとそれはその間だけでも「永遠」の約束)
(薄れても掠れても、絶対に忘れへん)
「やからさ」
ぽろりと、零れたものに気付かず言葉を紡いだ。優しい手が目元をぬぐってくれる。
「またその内会いたいな、夢でもいいから。なぁ、ルスさん…」
その様を神楽は見つめていた。
(私は終焉を紡いだ黒)
終わりを覚えているからこそ、次の何かに筆を託す。
――だがまだその時ではない。
「……という事で、またこうして千鶴さんの話を聞いてあげてください」
(私はそれを、こうして聴いていましょう。黄金の天使と白い永遠、その約束の立会人として)
視線の先で、黄金が微笑む。
――約束しよう
その時もきっと、自分は無力でまた沢山迷惑をかけてしまうだろうけれど。
――いつかまた、現世の傍らで
●
さわ、と風が草原の草を撫でた。
「うふふ。御誂え向きですわね」
靡く髪を手を押さえ、笑む悪魔はメイド服を着ている。
マリアンヌ。――大悪魔メフィストフェレス直属部隊において、序列第五位の凍魔竜公。
(……いつものお祭り騒ぎに紛れ込みならともかく、面と向かって一対一で会う状況も理由もない筈だ)
感じるのは違和感。草の匂いも、頬を撫でる風も現実そのものだが。
(無い筈、だが……)
夢か、現か。
だが、思い出す記憶が久遠 仁刀(
ja2464)の中に熱を生み出す。
――機会がありましたら、いつでもお相手いたしましょう
手合せを。
そう告げられた言葉。誘うような微笑み。
イベントに紛れて僅かに相見えるのではない、こんな好機はいつ得られるかわからない。
なら――
「あの日の言葉を……覚えているか」
告げて、構えた。
「勿論」
一瞬で具現した相手の槍。笑みぐむ悪魔の目が細まる。誘い。合図とすれば、それで十分。
「……ッ!」
<模擬戦>――だが、真剣。技の制限もなし。
風鳴りを置き去りに踏み込み、薙ぎ払った。草が散り、僅かな動作で避けた相手の足が弧を描く。
「ぐ……!?」
衝撃と共に体が吹き飛んだ。だが着地と同時に仁刀は魔法を解き放つ。即座の反応。雷剣の如き光が空間を裂くように走り、追撃に来る女の『足元』を吹き飛ばした。
(外した……!?)
目の前の女が笑う。瞳が竜のそれに変じ、笑みを刻む口が開かれ――
――『食われる』
直後、驚くべき速さで仁刀は身を捻り、回避した。書から薙刀へと変えた魔具が凍魔の槍と激突する。
「うふ♪」
凍魔が笑った。嬉しそうに。――待ちかねたように。
(嗚呼)
バックステップで距離を開け、仁刀は相手を睨み据える。
心の中にある迷いを、彼は知覚した。
――敵対しきっていない相手。己の内側で未だ整理のつききっていない思い。
(俺の刃は、こんなだったか?)
間合いの外しも、狙いのブレも、己のものと思えない程にもどかしい。
(違う)
す…、と一度構えを解いた。凍魔は動かない。動くはずがない。彼女は『待って』いるのだから。
「これでは発破をかけられた時と何も変わっていない」
頭を真っ白に。
クリア――全ての力を思いを全身に行渡らせるように。
(そもそも俺が気遣うようなレベルの相手ではない)
具現化するのは手になじむ剣。即座に選択できるよう選ぶは刀。
(遠慮は、無用)
走り出す。耳を過る風の音すら違う。
全力――後先考えず、唯只管力の全てを叩き込む!
(そうだ)
これが、俺の戦い方だった筈だ。
四の五の物を考える前に、より強く、より激しく、命を燃やして穿つ刃のような――
視界の先で凍魔が微笑う。
その嬉しげな笑みが、答えだった。
「……は」
どさ、と。落ちた膝に苦笑が零れた。
息はあがり、血塗れの体はすでにどこが痛いのかが分からない程。
敗北――けれど苦い思いは抱かなかった。むしろ、いっそ清々しい。
(戦えた)
充分に。全てを出し切って。本当の意味での全力勝負を。
満足だ。迷いも虚無も、今この胸には無い。
ごろりと大地に転がると、青空の中に微笑う女の姿が見えた。何故か、気分がいい。思わず冗談が口をついた。
「隠喩じゃない意味であんたに食われるのは勘弁だからな」
途端、
ニマァ、と。
(い゛?)
瞬間の怖気に、幾度となく頭部を乳間に仕舞われた過去が蘇った。
「いや、隠喩の意味ならいいという訳でもないぞ!」
「あらあら。うふふ」
「待て! 近づくな! その勝負は不要だ!」
あらゆる意味で肉食な竜公がワイヤーを装備する。
第二ラウンドの始まりだった。
●
カラン、と手の中のグラスで氷が鳴った。
テーブルと手元を照らす淡く暖かな光。鼻腔をくすぐる年代を経た酒の香り。
(ここは……)
ファーフナー(
jb7826)は一度だけ大きく瞬きした。
いつか雨の日に入った酒場と似ている。あの日は依頼の終わりだった。仲間と入って――
見やる先で、グラスがやたらと小さく見える巨漢が美味そうに酒をあおっている。
(夢、か)
すぐさま理解した。
この場所のことも。
視線があい、ニカッと笑った男が、現実にはもう死んでいることも。
――相手の言動は自分自身が作り出している幻…独り言に過ぎないことも。
『なかなか良い店よな』
笑う相手の声も質量も、その熱すらも現実そのもの。それでもこれは夢でしかない。
その言葉は、自分の思いか、と。自嘲めいたものが浮かびそうになる。
だが、
(……嗚呼、これは、夢だ)
儚い夢の一時ならば、他人を憚ることなく楽しもうと思う。
――表の世界では許されないから。
「向こうの世界で、ルスや妻子やバルシークらと会えたのか」
そっけない口調の問いに、ゴライアスは面はゆそうに笑った。
『おお。まぁ、えらい勢いで怒られたわ。若い連中を身勝手に置き去りにしたからなぁ』
そう言いながらも、その顔は嬉しげだ。
その様子にファーフナーは目を細める。
ゴライアス――自身とはすべてが正反対の男。
天使にも人間にも等しく心を開き、受け止める度量。
妻子や朋輩を失っても自分の信念のままに生きた強さ。
目の前の男の姿に、戦場での姿が重なる。
――死に至るまでに如何に生きるか
痛みを、ファーフナーは知覚した。それは物理的なものでは無いのに、臓腑を貫くような痛みだった。
与えられた役割をこなすことでしか、社会に認められないという強迫観念。
悪魔の血を忌避し、人を遠ざけ、家族を持つことも諦め――
捨てられない僅かな望みと、ちっぽけな意地に縋る緩慢な生。
死に至るまでの『生』。
自分と相手の、この、埋めがたい違い。
「お前のように生きられたら、世界は違って見えるのかもしれないな」
苦い思いが、何を思うでもなく、ほろりと口から零れた。意識せず零した言葉に、ゴライアスはただ笑う。
『おぬしは、これからだろうて』
反射的に睨むように見やると、ボトルを掲げられた。入れられた液体が、グラスの中で明かりを柔らかく反射し、香気を放つ。
『生きることは辛いものよ。ありのままは認められず、抗い生きるのもまた、辛い。信じれば裏切られ、託せば奪われ、願いは悉く叶わん……そんな時代が、儂にもある』
「……」
『おぬしには、意地があろう。おぬしには、捨てれぬ望みがあろう。どんなにちっぽけだとおぬし自身が思おうとも、それはおぬしの強さだ』
絶望を経て尚、望みを捨てず、意地も捨てず、死に逃げずに現で踏みとどまる、その強さ。
『おぬしは、頸い男だ』
炯と鋭く光る目が、次の瞬間にはニヤリと笑んだ。
『背を預けるに足る戦友を見つけるがいい。それは命を預けるということだ。すぐにでなくともよい、……自覚なくとも、よい。ただ積み重ねあった時と現実が、いずれおぬしを今は見えぬ世界へと導こう』
楽しみだな、と笑う相手の心底嬉しそうな目の色。それに、と続ける顔はどこか悪戯小僧のようだ。
『儂でよければ、いつでもおぬしの酒宴に付き合おうぞ。生きていれば、朋輩となったやもしれんしの?』
ばんばんと遠慮無く背を叩く男に、どんな反応を返せばいいのか。
「……全部を知っているわけではなかろう」
『おおとも。だが、男の会話に、言葉は不要という時もある』
ふんぞりかえる男に、鼻を鳴らす。
現の時のように、感情を、言動を、抑圧する強迫観念(ちから)は無い。
何かしらの思いが零れたとしても、それはきっと、夢の酒が美味いからだ。
「……ここの酒は、いい酒だ」
『おお』
男が笑い、不器用に差し出したボトルを嬉しげに受けた。
『また、酌み交わそうぞ。いつでも』
●
蛍が舞っていた。
小さな燐光を闇に引きながら、それは音もなくたゆたっていく。
山地に佇み、東城 夜刀彦(
ja6047)はじっとその様を見つめる。
――後悔の多い人生だった。
けれどその全てが今の自分を作っている。
戻りたい道もあれば、やり直したいと思う出来事もある。
「それでもきっと全部が大事なことだから……この気持ちを抱えて前に進んで行くんだろうね」
振り返り、後ろに佇んでいた相手に小さく微笑む。
「エッさんは、どうかな?」
「……どっちの夢なんだろうな、これは」
「両方じゃないかな? 夢路に距離や垣根は無いだろうから」
そんなものか、とエッカルトは呟いた。夜刀彦はそんな相手に笑う。
「学園に居ても会えないって少し寂しいね」
「……ああ」
「元気かな? まだ一人で辛いとか悲しいとか溜めこんでないかな?」
エッカルトは苦笑する。なんだか、会う度に何時も尋ねられている気がした。
「他の奴に会わなくてよかったのか」
「夢でならもういない人にも会えるかもって思ったけど、会えてもきっと、俺は何も言えないだろうから……。そう思ったら、エッさんどうしてるかな、って。おまえに心配されるまでもない! って言われるかもだけど」
「いや……別に……心配されるのは……悪くない、し」
言われてエッカルトは口をもごもごさせた。視線が右往左往している。
「ご飯食べてるのかなとかちょっと心配」
「……お前の心配はまず飯なのか」
「お風呂入ってる? 耳の後ろ洗った? 靴下の裏擦れて薄くなったのとか履いてない?」
「お前は僕の母親か!?」
「まぁ、こんな小言みたいなことしか出てこないのもなんだけど」
困ったような顔の母性あふれる少年の眼差しに、エッカルトは真っ赤っかだ。
「俺はあんまり難しい事は考えれないから、当たり前の生活の当たり前の日々のようなことをエッさん達としてみたいし、してみたかったんだ」
特別な会話ではなく、何気ない日常の話を。
もしかしたらごく当たり前に存在したかもしれない、宝物のような日々を。
――それは、エッカルト達がずっと望んでいたものと同じ。
「生きて、生き残って、俺達は何を世界に残せるかな」
喪った悲しみを胸に、この世界に、残されて。
それでも――
「……おまえは、どうしたい?」
「うん。……もういない人達の思いや願いを途絶えさせることなく、自分の先にいる人にも、周りにいる人とも一緒に、ずっとずっと先にまで続かせていきたいな」
喪ったものへの愛を胸に、ただひたすらに生きて。
前へ。
「エッさんも一緒に」
差し伸べられた手に、エッカルトはぴしゃりと自分の顔を片手で覆った。
思わず浮かべかけた表情を――泣き笑いにも似たそれを――隠して。
「お前は相変わらず、お人好しだ」
「エッさんは相変わらず意地っ張りだね」
「い、意地なんか張ってないからな!?」
真っ赤になった顔で何を言うのやら。必死にぶすくれた表情を作りつつ、エッカルトはおずおずその手を取る。にこにこ笑われて、首まで赤くなった。
ふと何か思いついた顔で夜刀彦が夢路の傍らに雑誌を置く。
「なんだ?」
「うーん。なんだか別の意味で悪魔生迷ってそうな人用の本……かな?」
周囲を見やれば、いつの間にか霧の中。遠くを行く誰かの気配。
「……皆、夢路を還っていくね」
「在るべき場所に――な」
「うん」
呼び止めることなく、ただその気配達を見送る。
懐かしい顔もあったけれど――ただその安寧を祈りながら、ひっそりと。
「夢だからきっと会話とか覚えていないだろうけど……会えた思いや温もりが、目覚めた後の皆に残ってるといいね」
夜刀彦の声に、そうだな、とエッカルトは頷いた。
覚えているといい。哀しくも愛しい一時を。
生きていくうえで、それは闇を照らす光になるかもしれないから。
隣の少年が笑う。
「今に至る為の全てと共に、遥かなる時の流れのその先に歩いていく為に」
●
霧の深い場所だった。
何処とも知れない空間で、雨宮アカリ(
ja4010)はぽつんと立っていた。
(静か……)
音の無い風に吹かれて、霧がゆっくりと流れていく。霧の向こうには闇。追うともなく目でそれを追い、そうして気づいた。
これは夢なんだと。
「夢は心、心は夢。あの時散ってしまったお義父様の心は、或は多くの人の心に宿っているのかも知れないわね」
追い縋りたかった。逝かないでくれと。
けれど出来なかった。武人としての強い意志を理解していたから。
何かの為に、誰かの為に、己の全てを賭して男が動くのなら、邪魔をするのは女が廃るというものだ。例えどれほど、この胸が痛んだとしても。
(でもねぇ、お義父様)
少しだけ、愚痴を言ってもいいかしら。一度だけでいいから。今だけ言ってもいいかしら。
口の端に刻んだ笑みが震えるのを自覚して、アカリは苦笑を深めて顔を上げた。
目を瞠った。
「お義父様……」
ひょっこりと。何の前触れもなく現れる巨体。軽く挙げられた手。まるで散歩に出かけて出会ったかのように。何気なく。あり得ない程に『日々の続きのように』。
「お義父様…!?」
声を。
出した時には駆けだしていた。何を思う前に涙が零れた。滲んだ涙が憎らしい。見たいのに、きっちり見たいのに、姿がぼやける。飛びついた体。その巌のような力強さ。あの時のままに。まるであの光景が嘘であったかのように。
――そんなはず無いと、分かっていても――いや、分かっているからこそ。
「――ッ」
思いのままに、アカリはその胸で泣いた。
「ふ、ふふ……もう、唐突なのは、変わらないんだから」
泣いて、泣いて。気を落ち着かせて。
照れて身を離したアカリに、ゴライアスはニカッと笑った。アカリも笑う。
「私は《皓獅子…冗談よ。二つ名なんて立派なものは無いわぁ。アカリよ。改めてよろしくねぇ」
ぽん、と分厚い胸板を叩いて、どこか擽ったそうに。
「ふふっ、遅い自己紹介ね」
知っているかしら。名前も告げられなかったことを。その事実を思うだけで、胸が締めつけられるこの思いを。
けれど、この場でのそれはきっと野暮だから。
「お付き合い願えるかしら?」
ウィリアム種の洋ナシブランデーに、ゴライアスが朗らかに笑った。
「全く、初恋の人に会いたくて追いかけて、やっと会えたと思ったら死に目って相当ヘビーな展開じゃないのよ」
小さくグラスを噛むように、チラと拗ねたように睨めば、相手の大男は申し訳なさそうに体を縮めた。
『すまんの。なにしろ、時間が無かったものでな?』
「もう。……ふふ。なーんてね。私は大丈夫よ。生きる事は辛い、愛すれば尚更に。お義父様だって一度は経験されたのでしょう?」
『ああ……』
眼差しを和らげる男に、アカリは微笑む。
――辛くとも、乗り越えずして重過ぎる皓獅子の志を継げようか。
「むしろエルさんが心配ね……」
僅かに視線を落とし、アカリはマントの留め具をそっと握りしめた。
彼女は義父の死をどう受けとめただろうか。必死に感情を押し殺していた姿を覚えている。
『あれもまた、戦を知る者。周りにも恵まれておる故な』
大丈夫だ、と笑った男が大きな手で頭を撫でていく。
「……ん」
そうね、と。寄せられる無上の信頼が羨ましくもあり、微笑ましくもあり。
「私も武に生きるわ。立派な最期は望まず、しかしてその時まで志を貫いて」
『……そうか』
継ぐ者の言葉に、ゴライアスはじんわりと笑った。
「冗談で義娘と呼んだのかもしれない、でも私は凄く嬉しかったわ。一瞬で恋してしまう程に」
『……』
「もう時間ね…」
名残惜しい気持ちに蓋をして、アカリはからりと笑って立ち上がる。
未練は残して行こう。どれほど思いが募っていようとも。
「共にしたのはほんの僅かな時間でも私にとっては素敵な時間」
あえて引き摺るのは、きっと自分にも相手にも似合わないから。
かわりに立ちあがる隙をついてゴライアスに身を寄せた。
乾いた唇の感触。
これくらいはご褒美もらってもいいんじゃないかしら?
「今度は逆に惚れさせてあげるわよ! 絶対お嫁にして貰うから覚悟しててねぇ!」
離れ、振り返り、笑ってみせる。
――誰にも見せない心からの笑顔。
「会えて嬉しかったわぁ」
●
幸いあれ、と。
愛娘二人を見送り、笑顔の少女と別れ、朋友となったかもしれない男と別れたゴライアスは祈った。
愛してるよ、と。
愛娘とその守護者を見送ったルスは微笑んだ。
またお会いしましょう、と。
可愛い好敵手を逃がしてしまったマリアンヌは楽しそうにくすくす笑い、
おまえが僕の導きの光だ、と。
掌の温もりを胸に、エッカルトが少年の背を見送った。
夢の果て、人々は朝の光で目覚める。
それぞれの胸に、小さな灯火を宿して。
――現の時が、また始まる。
※ ※ ※
ふと、夢路で足を止める者がいた。
傍らに置かれた雑誌を拾い上げる。
【結婚☆情報誌】
「……つまり、余の目指すべき世界か」
無駄に渋い偉丈夫が、よしわかった、と言いたげな顔で大きく頷いた。