――世界はまだ、止まったまま。
●
四国、徳島、剣山。
リフトのアナウンスが山に響く。小さな座席から降り、フレイヤ(
ja0715)はツカツカと一直線に出入り口へと向かう。視線の先にあるのは、彫造のような白熊だ。
「また山登りですよ奥さん。 また山登りですよ奥さあん! 大事な事だから二度言いましたあ!! 足腰鍛えられますねチクショー! 案内すんだからおぶって行きなさいよねゴっさん!」
「おお、えらく元気ではないか」
「元気じゃないわよ!」
熊、もとい巨漢の大天使は大きな手でわっしわっしとフレイヤの頭を撫で、軽々とその体を俵のように抱え上げた。
「まぁ、肩にでも乗っておくがよい。落ちんようにしろよ」
「ほぁああああ!?ちょ・まままま恥ずか死ぬる!!」
右肩に乗ったままバシバシ背中を叩くが、この熊がビクともするわけもなく。いきなり賑やかな二人を見て、小田切ルビィ(
ja0841)は苦笑めいたものを浮かべた。
大天使ゴライアスからの申し出。それは、山中に眠る使徒と、今は亡きその大天使の元に行かせて欲しいということ。案内と称したのは、そこが阻霊符と警備で守られた場所だったからだろう。
(オッサンの実力なら…俺達の意向に関係無く、力尽くでルスの亡骸を奪還する事だって可能だった筈)
大天使とは、そういうものだ。
その巨大な力を振るえば、ここにいた撃退士など容易く打ち破れたことだろう。
けれどそれでは、眠るその人の墓前を荒らすことになる。
それに何よりも――
(敢えてそれをしないのは、ルスの望みと反するからなんだろうな)
愛する使徒と我が子のような天使を学園に託し、永の眠りについた黄金の大天使。奪い去るということは、彼女の願いを無に帰すということだ。
「…よっぽど大切な存在だったんだな」
懐に忍ばせている黄金の羽根に触れ、ルビィは小さく零した。
援軍の件といい、おそらくゴライアスはルス側のほとんどの事情を察していたのだろう。
けれどそれが上に伝わった気配は無い。例え天の意と違えていれど、己の信ずる道とは異なっていれど、目を瞑り沈黙し、礼節を守る程には、騎士にとって黄金の大天使はかけがえのない存在だったのだ。――エッカルトが、そうであったように。
(彼女達の眠りを妨げるような真似はしたくないからの申し出か…見ていれば分かる事ですか)
ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)は静かな眼差しでゴライアスを見やる。
死を慮るその姿勢には、思うところがある。人を家畜と見下し、異種の強大な力を持って思うままに押し通そうとする者達とは一線を画する者。けれど同時に、彼は未だ学園と敵対する騎士団の一員。今は大人しくしているが、いずれ雌雄を決することもあるだろう集団の一人だ。
(動きを…見ておかないといけませんね。敵ですから無条件で信じるには)
けれど、
(…ただ私もお姉様の評価も、彼の人となりと性格は信用は出来るという事で一致しましたが…)
大柄な体に相応しい大らかさと、実直で裏表の無い性格。例え命を賭け刃を交わした後であっても、戦場でなければ酒を組み合わせるような――そんな男だ。
その大きな男の背中を見つめて、思う。
――何故、今の時期に。と。
(まるで…いえ、考え過ぎですか)
緩く頭を振るファティナの後ろ、リフトを降りて小走りで歩み寄り、鑑夜 翠月(
jb0681)はファティナの隣で足を止めた。
その視線が魔女を肩に座らせている大男に向けられる。
(ゴライアスさんとお会いするのも久しぶりですね)
雨の地で、戦場で、あるいは別の場所で。時に大きな壁となって立ち塞がりながらも、こうして時には穏和な対話が可能な相手。
(感傷的になっている可能性も有りますけど、できれば色々とお話ししたいですね)
そんな二人の横を小走りにフィノシュトラ(
jb2752)が駆けていく。
(レヴィさん、そろそろちゃんと起こしてあげないとね!お寝坊さんなのだよ!)
巨大な岩蔵の下、眠る彼の世界は、あの冬の日から止まったままだ。
(できれば、エッカルトさんからレヴィさんにお手紙かメッセージを預かってきたのだけれど…いなかったのだよ)
寧ろ、エッカルトが知れば自分も行くと言ってきかなかっただろうけれど。
(エッカルトさんもきっと、いい加減に起きてこい、とか思ってそうなのだよ)
大天使ルスの願いと、その使徒を守る為だけに天を裏切った天使。今どんな思いで過ごしているのか、胸中を思うと少し切ない。
出来れば伝えたいと思う。ここにいない人の思いや、願いも含めて。
(きっと、私たちはルスさんから想いを託されたと、思うから…)
様々な思いの巡る場所に、やや遅れてファーフナー(
jb7826)と石田 神楽(
ja4485)は降り立つ。
「周辺で動きあれば、鎹先生が連絡してくれるそうです。…何もないに越したことはありませんが」
「……ああ」
神楽の声に小さく呟き、ファーフナーは何気ない動作で周囲を静かに見やる。風の音、鳥の囀り、木の葉の擦れるざわめきにも、これといった違和感は無い。
(静かだが……何もいないのか、潜んでいるのか)
判ずるにはまだ情報が足りない。
冷ややかな眼差しで観察し、ファーフナーは視線を山頂へと向けた。あの日に喪われた命と共に、使徒が今も眠っているという場所。
(記憶は喪った傷を癒す慰めであり、また自らを過去に呪縛する呪いでもある)
さわ、と風が髪を撫でていく。
時は止まらない。一時も。
(思考を捨て、眠りにつき、終わりの時を待つ…自身の緩慢な生と何が違うのだろう)
静かな思いは、けれど心に細波をたてるものではない。ただ静かに、ほろりと零れるのみ。
「では、行きましょうか。特注の目覚まし時計を、お休み中の使徒へ届ける為に」
神楽の声に人々は足を山頂へと向ける。
結局フレイヤは肩に担ぎ上げられたままらしい。その様子を見やって、神楽は僅かに苦笑した。
(…ちょっとサイズ大きすぎますけど)
今も眠る使徒が、巨大なベルで起きてくれる事を祈りながら。
●
「向こうに着くまでに幾つか話しておくことがある」
そうファーフナーが切り出したのは、登り初めて少しした頃だった。
「条件、というやつか」
「いや、追悼の妨害を防ぐためで他意は無い」
ひょいと片眉をあげたゴライアスに、ファーフナーは淡々と告げる。
「この場の存在は学園も秘匿しており、そこに天使を連れて行く以上、隠し通せなくなる可能性は高いですからね」
神楽が言葉を添えた。
「その為こちらも慎重に事を進めます。貴方にとって面倒、無駄だと思う事もあるでしょうが、必要な事だと認識して欲しいものもあります。貴方自身を危険な目に遭わせる可能性はゼロではありませんが、こちらに敵意はありません」
ゴライアスは口を挟まない。ただ眼差しで先を促す。
「学園側も悪魔と接触し、あちらが天使勢をよく観ている事が分かっています。だからこそ警戒して進みたいのです」
苦笑したゴライアスが、神楽の頭を相手が拒否するより速くわっしわっし撫でていった。
「気苦労をかけるな」
「頭をもがれるかと思いましたよ」
くしゃくしゃになった頭で神楽がぼやく。嘆息をつき、手早く直しながら告げた。
「私たちは貴方を彼女と彼の元に送り届けます。不確定要素が多い為、誓う事は出来ませんが…」
その先行きに、誰も完全な保証はできない。
未来を誰も読むことができないのと同様に。
「ですが、最大限の努力はしましょう。あ、でも何かあったら持ち前の馬鹿力でどうにかしてくださいね」
にこにこ笑って言う神楽に、ゴライアスが笑顔で再度手を向ける。流石に二度目は避ける神楽とゴライアスの様子を確かめ、こちらへの敵愾心の無いことを把握しながらファーフナーは告げた。
「上の連中に受けた指示がある。他の天使、悪魔の動きに警戒せよ、と」
ゴライアスもそれなりに工夫してきたのか、格好は休日のオッサンみたいなありふれた姿だ。同行のメンバーを加えて見れば、一見して引率の教師(体育系)に見えなくもない。だが、知る者が見れば一目でゴライアスと分かるだろう。それ故に、周囲への影響は少なくない。
「目的の場所に行くには阻霊符の効果を切る必要がある。が、不測の事態が起こったら阻霊符を一時的に発動させる可能性があると、理解してもらいたい」
「当然であろうな」
ゴライアスはあっさり頷いた。が、
「騙して閉じ込めるわけではない証として、フィノシュトラが同行する」
その一言には、首を横に振られた。
「すまんが、それだけは遠慮してもらいたい」
一瞬、撃退士達の間で視線が交わされた。戸惑いの色が僅かに流れる。
「見張りといった意味は無いが」
「私は物質透過使えるから…よかったら一緒に行きたいのだよ…? 私たちも、レヴィさんと毎日を過ごせるのを待ってるってのを伝えたいのだよ! もちろん、三人の時間の為にちょっと離れた所で待つのだよ?」
「……そうではない」
静かなファーフナーの声と、使徒と使徒を思う天使への思いやりを滲ませるフィノシュトラの声にゴライアスは苦笑する。
「レヴィが……愛する唯一人を喪った男が、己を眠らせなくては心が壊れてしまうほどの絶望を負ったのだ。その姿が、どのようなものであると、おぬしらは思うか…?」
僅かな逡巡が流れる。そんな中、ファーフナーは小さく息をついた。
「……成程な」
誰よりも早く客観的に判断したのだ。それは美しいものではない、と。
ゴライアスは憂慮を滲ませた眼差しを一度伏せ、感情を排して静かに問う。
「おぬしらの問おう。ここに、尋常では無いほどに病み衰えたであろう家族の病室があるとする。――そこへ、状況の確認も出来ぬままに他人を踏み入れさせたいと、思うか否か」
そんな家族の姿を誰かに見せたいと思うか、否か。
「儂は敵だ。敵である儂に対する対応であるのならば、見張りをつけるのが正しい。だが、もし僅かなりとも家族としての儂をあの者達の元に通してくれるのであれば、同行は遠慮してもらいたいのだ。あの者達を思ってくれる、おぬしの心は嬉しく思うが……頼む」
せめて心を大きく欠かせてしまったであろう使徒が、人前に出ても大丈夫だと判断できるまでは。
「大丈夫そうであった時は連絡しよう」
ぽむ、と大きな手に頭を撫でられ、フィノシュトラは頷いた。
「待ってるのだよ!」
小柄な天使の頭をくしゃくしゃに撫でる姿を見やり、話が一段落したことを察してファーフナーは口を開いた。
「続けていいか? ……次に阻霊符の件だが、他の悪魔等の尾行に備え、阻霊符をフェイントで切った振りをする」
「ふむ…?」
やや懐疑的な顔になったゴライアスにファティナが言葉を添える。
「ゴライアスさんにこの場所を知られたのであれば他に知る天魔がいても不思議ではありませんから」
「ははぁ」
「もし知る天魔がいるとするなら、ルスさん達に目的をもって興味を抱いている可能性がありそうですし。こんな場所です。興味も無しに調べようと考える筈もありませんから」
「それに、剣山は以前レヴィさんを狙ってユグドラさんが現れた事もある場所です」
巨漢を見上げ、翠月が言葉を紡ぐ。
「その時にレヴィさんの場所を知りえた魔界側の情報網が残っている可能性は大いにあります。あまり考えたくはないですけど、再度襲撃があるかもしれませんから、しっかりと警戒をしておいがほうが良いと思います」
重ねられた言葉にゴライアスは考える。
「飢狼ならば、そこに強い者がいると聞けば喜んで向かって行こう。……だがあの時、すでにあの場所にゲートが開かれると、あの者自身が予見していたとは確かに思えぬな」
「誰かが教えた、ということですよね」
翠月の声にゴライアスは頷く。
「左様。ならば、そう……その相手とやらは、おぬしらの前に既に姿を現していよう。下僕か、もしくは己自身の姿を。わざわざこんな所まで来て黄金のに、というと……儂が思い当たるのは『腐喰の』悪魔か」
「『腐喰の』?」
首を傾げるファティナにゴライアスは頷いた。嫌悪というには些か重い声で告げる。
遥か遠くある墓標の方角を見つめながら。
「猛毒の呪を操る悪魔。穢れを纏う者。蠱毒の主。怨嗟と慟哭を好み、絶望と悲嘆を是とする悪魔。名をザイケラ・ヴェ・バール。……純粋すぎる興味を持って人の魂を『熟成』させることを好む――悪食の人魚だ」
●
長閑な山道を一行は歩く。
警戒すべき者の名を知ったとはいえ、出来ることは道中警戒する程度で、今までと変わらない。例えゴライアスにしたところで、広大な山中を見渡す視界や術という、尋常ならざる力は持ち合わせていないのだ。
「その悪魔がこの付近で今まで目撃されていないのは、僥倖というところでしょうか」
学園の雅に確認をとり、神楽が呟く。
「さて。この付近には、度々黒い猫悪魔が巡回に来ていたらしいからな。確か連中はあのおっぱい…いや、大公爵の下にある者同士。何らかの憚りがあった可能性もあろう」
「……レックス達か」
ルビィが呟く。かつての戦いでもまるで救援の如く現れた二柱の悪魔達。戦場に居た女天使が彼等の美意識に反した為の一時的な共闘。けれど本当の所がどうなのか、自分達は知る由も無い。
(おまえも、守ってた、ってのか……?)
去る前の黒猫の温もりを思い出す。きっと、問うても答えてはくれないだろうけど。
けれどそんな悪魔達も、先頃旅に出た。
最早、護りは無いのだ。
「それにしてもこの時期に墓参りとは急ですね…この何かりましたので…?」
ふとそう問いかけたファティナに、ゴライアスは片眉を上げた。
「ほぅ?」
「いえ、これから何かある、もしくはしますので?」
「さて…。戦況は常に移り変わる。何が起こってもおかしくはないこんな情勢であれば、会える時に会っておらねば…な」
その言葉は何処か哀愁を帯びているような気がした。
何かある。
だが口が重いところをみるに、おそらく騎士団そのものの関連なのだろう。
(流石に団の事に抵触するものは語らないでしょうし…ね)
ただ分かるのは、この先の未来でまた刃を交わらせる時が来るだろうということ。そしてその時は、おそらく彼もまた――命を賭して来るだろうこと。
僅かな沈黙が風に流れる。
いい加減運ばれることに諦めの入ったフレイヤが、「てかゴっさんとも不思議な縁になったもんよね」とゴライアスの頭をわしわしかき回しながら呟いた。
「初めは騎士団で皆ボコボコにして今じゃ裸の付き合いもしちゃう位だし。…人も天魔も今はケンカばっかだけどさ、いつかはゴっさんみたいに仲良くなれると良いわよね」
ゴライアスはくつくつ笑う。
「その橋渡しをレヴィさんが手伝ってくれると良いなぁ、なんて思ったりもすんだけどね。生きる目的、て言えばいいのかな…レヴィさんも起きたばっかりだと何すればいいか分かんないだろうしね」
ぐてぇ、とゴライアスの頭を脇息がわりにして、フレイヤは嘆息をつくように呟いた。
「自分で目的を見つけられれば一番なんだけど、いきなりじゃ難しいだろうからホントにやりたい事を見つけるまでの繋ぎで…って何かごめんね? 何か私口うるさいおばちゃんみたいよね、あぁやだやだ。とりまレヴィさんに会ったら顔面チョップね。心配かけさせんなバカヤロー、てね!」
「うはは」
楽しげに笑うゴライアスに、フレイヤは「なによー」と相手の髪の毛をかき混ぜる。なんだか爆発した鳥の巣みたいになったが、本人は全く気にしていないようだ。
「ゴライアスさん、せっかくだから、ルスさんとかレヴィさんとエッカルトさんとかの思い出話とか聞きたいのだよ!」
ちょこちょこと横に並んだフィノシュトラに、ゴライアスは笑ってもう片方の肩にフィノシュトラを担ぎ上げた。
「ははぁ、あいつらの、なぁ」
「えっと、受け売りですけど、故人の供養としてその方の事を誉れ高く語る事があるそうです」
てててて、と翠月が横に並ぶ。
「ですから、教えて下さいませんか、ゴライアスさんから見たルスさんについて」
ゴライアスが一瞬迷ったのは、さてどうやって抱え上げようか、という悩みのため。何故か右腕の上に座ることになった。
「……ま…丸太の上に座ってるみたいです」
「熊が子ヤギを乗せたり抱えたりしてるみたいですね…」
ファティナが忌憚無い意見を述べた。白熊大天使は笑いながら空いている手で自分の髭を撫でる。
「あやつらのことで儂が語れることか…レヴィがおっちょこちょいなのは知っとるか? 戦場以外ではわりとぼんやりしとるから、エッカルトと黄金のが心配してな、訓練の為にこっそり大穴掘ったら見事に頭から突っ込んでなぁ。しばらくしょげかえったレヴィを復活させるのに二人して悩みまくっとったわ」
「エッちゃん何やってんの…」
「…というか、ルスさんも…」
フレイヤと神楽が遠い目。
「エッカルトはなぁ、真面目すぎて融通が利かなくてな。おまけに不器用でな?レヴィを守る為にちょくちょく命令違反スレスレの独断行動をとるもんだから報奨される機会を自分から捨てに行っておった。あやつにすれば当然の行動なのだろうが、レヴィにはこれが分からなくてな。あやつらは二人とも不器用ゆえ、よくすれ違う。時々調整してやるとよかろうよ」
言ってから、「ちなみに二人とも儂より年上な」とさっくり続けた。
「え゛」
「わりとジジイだぞ、あの二人」
「そういえば八八八歳だったんだよー」
フィノシュトラが何とも言い難い顔で言う。
「オッサンが年下ねぇ…ピンとこない、っつーか…」
ルビィがぼやき、神楽がしみじみとゴライアスを見上げた。
「そのわりにゴライアスさんの方が老け…大人びてますよね」
「なぁに、あと二百年もたてばおぬしのほうが儂より老けとるというものよ」
「そこは普通に死んでおきます。人として」
神楽とゴライアスがにこにこ。ゴライアスの楽しそうさ加減が半端ない。
「ルスは……そうだな、完璧、というのとは少し違っていたな。間違いも犯せば、ミスをすることもある。何気に行動派でな。好奇心も強いからエッカルト達が時々胃痛を訴えておった。そうそう、儂から見れば最初から穏やかで優しそうな女性だったが、全盛期を知るエッカルトに言わせれば『丸くなった』後らしくてな。…偶に怒らせると相当怖かったから、まぁ、そういうことなんだろうて…」
「ゴライアスさん、震えてませんか?」
「顔色すごく悪いんだよー?」
「なにこの全身ブルブルマシーン」
巨漢の上に乗ってる翠月、フィノシュトラ、フレイヤの三人が一緒にブルブル。
「むしろ、怒らせる何をしたのかが気になりますね」
ファティナの声にゴライアスは悪戯小僧のような顔でニカーと笑う。
「レヴィが人形っぽいということで悩んでたらしいからな? よっしゃ任せろと、まぁ儂の知る『綺麗所』に連れて行こうとしたら」
「なにやってんだよオッサン」
「……それで怒られたんですか」
「てゆーか、綺麗所について、詳しく」
ルビィと神楽、フレイヤがそれぞれ反応した所で、先に前を進み周辺を見やっていたファーフナーが振り返った。
「見えたぞ」
青い屋根の建物の向こうにある大きな岩。
――宝蔵石神社だった。
●
「さて、出る前にちっと腹ごしらえしようぜ」
巨大な岩の前、ルビィは荷物の中から大きな握り飯と麦茶を取り出す。
「大きな荷物だと思ってましたが…」
ファティナと翠月が自分の拳より大きなそれを思わず凝視した。
「ま、味は期待すんなよ?」
ニヤリと笑い、ふとゴライアスを見ると岩にドッキングしたような背中が見えた。
「……」
ルビィはしばし声をかけずに待つ。岩に額をつけ、じっと俯いている姿は祈っているようであり、泣いているようでもあった。
(あの時は…冬、だったんだよな)
今は夏。すでに春すら通り過ぎた後。
本当はずっと来たかったのだろう。出来ればもっと早くに。けれど、騎士団の一員として、争わずに訪れる方法は無いに等しかったのだ。
その様子に、フレイヤはふと別の日の姿を思い出す。
(信頼しすぎるのもいかん! なんて言われてもねぇ…泣き顔なんて見せられたら放ってなんておけないっての…ホント我ながら簡単なんだから)
ゴライアスが岩から体を離す、ふと、懐を探ってカメラと小さな宝石のようなものを神社の前に置いた。一瞬『雫』かと思ったが色が違う。
「さて、いただこうか」
くるりと振り返った大男は、いつもの顔。笑ってルビィは握り飯を放った。
「一番大きいやつだぜ」
「儂の拳ぐらいあるな」
がぶりと噛み付くと半分ぐらい消える。あっという間に食べきるのを見守って、もぐもぐしながらルビィは何気ない口調で告げた。
「オッサンも承知の通り、四国の情勢は複雑だ。他天使や悪魔から横槍が入る可能性も充分に有り得る。そこで、だ」
もぐもぐ。
「先生から特別に光信機をお借りしました。一応、名目は周辺探索時の緊急時用、ということですが」
後を一旦引きうけたファティナがそのうちの一つをゴライアスに渡す。口の中のものを飲み込み、ルビィは告げた。
「ルスの元に到着したら、これで直ぐに連絡してくれ。墓参りが終わる迄と不測の事態発生の際は、防衛の為に阻霊符を発動させて貰うが――承諾して貰えるか?」
「通信か…」
ゴライアスは思案し、それならば、と小さなペンダントのようなものを取り出した。
「エッカルトに渡してもらおうと思ったものだが、一時的に使うといい。この下に黄金のの遺体があるのなら…声を届かせることができるはずだ」
「もしかして…通信機なんですか?」
目を丸くしたファティナに、一対象限定だがな、とゴライアスは苦笑する。
「対になる石とだけ声を届かせあうことが出来る。これはエッカルトの分だ。天界から持ってきた」
本人は持ち出す余裕も無かったらしいからな、と苦笑するのに、一同はそれに視線を落とす。小指の爪ぐらいの小さな涙型の石だ。
「対はルスが持っている。額飾りだ。今はレヴィが持っているかもしれないがな」
なら、これを使えば声を届けることは出来るのだろうか。今も眠るその人にも。
「距離が離れれば声は小さくなる。最大効果を狙うならこの場所ぐらいがよかろうな。まぁ、今は遠慮してもらいたいところだが」
「…だな。邪魔するつもりは、ないぜ」
渡されたそれを受け取り、ルビィは小さく頷く。
「頼めるな?」
「ああ。任せろ」
握り込んだそれは、小さな熱をもっているようだった。
ファティナが視線を神社の方へと向ける。
「あの神社に置いたのは何です?」
「あれが、儂が手放すと言った品よ」
(あれが…)
カメラは、写真だろう。察するに、映っているのはルスか。なら、あの石は。
(普通の手段ではなく天界由来の特別な何かか…彼に強く影響のあるルスさんが残した何かが予想できますか…)
「アレで起きるかどうかは分からん。だが、レヴィであればアレを無視出来んだろうよ」
「あそこに置いていっていいのか」
周囲を見やりながらのファーフナーの静かな声に、ゴライアスは苦笑した。
使って起こせるかどうか。それを試す気は、ゴライアスには無かった。
「おぬしらが起こすといい。それは儂の役目では無いだろうからな」
会えばまた何か色々と面倒になるだろう。すでに道は違えている。見て見ぬふりをするためにも、これ以上の関わりを持つことは出来ない。
(これで、こちら側での儂の役目も終わった)
後の物語を綴るのは、この世界で生きる者達。
「オッサン。それでいいのか?」
「…ああ」
ルビィの声に頷き、心配そうな物言いたげな表情のフィノシュトラの頭を大きな手で撫でた。
ゴライアスは起こしに来たのでは無い。
ただ、会いに来たのだ。
じんわりと笑んだゴライアスに、ルビィは懐から黄金の羽根を取り出す。
「俺が持ってるよりも、オッサンが持ってた方が良いんじゃ無ぇかな…?」
ゴライアスはその頭をわしわし撫でる。
「おぬしらが継いで行け。儂はもう、沢山貰った。次の代にも手渡したからな」
「それはどういう…?」
ファティナの声に軽く笑って、ゴライアスは膝をパンと叩いて立ち上がった。
「さて、ちょっくら行って来るか」
「……。阻霊符を切るぞ」
意識を研ぎ澄ませながらファーフナーが告げる。一瞬だけ全員が視線を交錯させた。
「阻霊符は切ったが、最後にもう一度、注意事項の確認だ」
「ふむ?」
ゴライアスが片眉を上げる。ファーフナーが確認事項を繰り返す中、全員が周囲に神経を配った。
だが変化はない。
(杞憂だったか…)
それとも、
(…想像以上に隠密能力が高く、用心深いか)
「――以上だ。何かあったら連絡を頼む」
「おう」
ゴライアスの巨体が岩の前へと進み、一瞬で沈む。
「さって、のんびり待ってましょ。にしてもゴっさんみたいな大天使が動いて冥魔側が何にも動きなし、てのも不気味よね」
「何事もなければ、それが一番ですが…」
フレイヤとファティナが周囲を見渡す。
十秒。
十五秒。
ただ時だけが流れる。
全員が光纏を済ませていた。杞憂であればいい。だが、期待は裏切られるのが常だ。
二十秒。
「何か、肌がざわついている気がしますね」
翠月が呟く。
二十五秒。
カチリ、と。
何かの蓋が開いた音がした。
●
地を這う音の波が襲いかかってきたのは、三十秒を経過した瞬間だった。
「! 建物側!」
弾かれたように神楽が叫ぶ。
「おっさん!非常事態だ!」
「ちっ…」
警告にルビィが通信に向かって叫び、ファーフナーが阻霊符を発動させた。
見えたのは巨大な甲虫。人間の子供ぐらいの大きさの。
「虫…虫籠の男、ですか!」
ファティナが素早く術を発動させる。
(タイミングから見て、狙いは恐らくルスさんかゴライアスさん!)
「ルスさんの側に異変は!?」
ファイアーブレイクが発動した。雪崩のような虫の戦闘集団を纏めて払い、ファティナは叫ぶ。
「向こうは何もない!」
「もしくは『弾かれた』か」
受信し、叫ぶルビィの背に背をあわせ、ファーフナーが次の一陣の先頭を射抜く。倒れた虫の後ろから雪崩れる虫に、ルビィがさらに一撃を加えた。
「割り込みは厳禁だぜ!――なあ?どっかで見てる誰かさんよ…ッ!!」
答えは無い。
(数の多さが厄介か…だが)
ファーフナーは冷ややかに戦場を把握する。今見えているだけでもざっと三十余り。しかも続々と増えているように思える。この人数では囲まれ押し潰される危険とてあるだろう。だがそれよりも気になることがある。
(この派手さ…陽動か)
その時、翠月のファイアワークスが一瞬で先頭集団の十数匹を消滅させた。
「ここは多くの人から慕われた方が眠る地です。狙いがルスさんなのかレヴィさんなのか、他に何かなのか分かりませんけど、ここを土足で荒すような事はさせません!」
圧倒的な火力と広範囲。不意打ちによる態勢を立て直すには十分な隙だ。
「ルスさんとレヴィさんを守るのだよ!」
フィノシュトラの魔法が横から突出してきた一匹を吹き飛ばす。フレイヤが渾身のファイアーブレイクを放った。
「お呼びじゃないって、このことなのだわっ!」
「全くです」
消滅した集団の穴に身を進める虫に神楽の照準が合わさる。
「此処から先、通すわけにはいきません」
腕が黒く変じるのが見えた。どこか禍つ気配を宿す黒い長銃。肩部に現れた排出口にアウルの残滓が吸収されていく。
生み出されるのは黒い光。極細の一点に収束された光の束。
―黒煌(トコヤミ)―
(踏み躙らせるわけにはいきません)
太陽と月と獅子公、新たな道の始まり。
――私の隣に居てくれる人の為。
「最大限の妨害をさせて頂きます」
光が一瞬で五匹を貫通した。
「チィ…キリがないぜ!」
さらに建物側から現れる虫に、ルビィが顔を顰めた。次々に向かってくる虫の波を削り防ぐ撃退士側の壁も崩れない。背に守る岩に辿り着く虫は居ない。
(上位種は…何処だ)
ファーフナーは鋭い視線を虫とは逆へ流す。
その時、
歌が、聞こえた。
「この、声」
フィノシュトラは息を呑む。
この世のものとは思えない程の美しい声。美しい歌。柔らかに微笑むその人の姿すら見えそうな。
「なんで、ルスさん…ッ!?」
同時に全員の背筋に凄まじい悪寒が走った。
「クク…ははは…! あはははははハハハハハハ!」
影が差す。
哄笑が響き渡る。
嘲笑うような、狂喜するような。
瞬間的にファーフナーと神楽がそちらに照準を向ける。
黒い人魚。
手に、カメラと石。
石――
類い希な歌声が零れ聞こえる――使徒へと贈られるべきもの。
無言で放たれた銃弾が、中空に現れた銀の鱗のようなもので防がれた。
「行かせません!」
翠月の禍つ刃が迫る。だがやはり銀の鱗に阻まれ、砕け散る。
「アハハハハハ!」
嗤う人魚が空中を泳ぎ去る。全力移動なのか凄まじい速度だ。虫の雪崩れの前にあっては、追うことも攻撃を集中させることも出来ない。
「返しなさいコラーッ!」
フレイヤが叫んだ。
ほんの僅かなミス。優先順位を絞ったが故の。
誰も手放されたその品を『保持する』ことを念頭に置かなかった。ただそれだけ。その結果が、今。
「チクショウ!」
「騙し合いは…奴のほうが上、か」
ルビィの憤りを背に感じながら、ファーフナーは淡々と呟く。
託されるはずの物は奪われた。
人魚の姿が消えた後も哄笑だけが耳に残る。
同時に虫達が波が途切れたのを感じた。やはりあれは、目くらましと撤退支援だったのか。放っただろうヴァニタスの姿すら見えない。
「あれが…ルスさんの声」
初めて知るファティナが呟く。同じく初めて耳にしたルビィも唇を噛んだ。
僅かに聞こえた歌声。その中の言葉。
――いきなさい
それは確かに、愛する使徒に向けられたただ一つの歌だった。