この思いを 忘れない。
●
人は、どれほど強くなれるのだろうか。
体は。心は。
「行け」
告げられた言葉。
一つの意思の元に次々と受け継がれているもの。
「頑張って…!」
ここに至る全ての場所で紡がれてきた願い。
生きて。
死なないで。
ならば、届けるのが、自分達の役目。
目があった。黒と白。互いに伝えたい思いがある。
けれどただ一言。
「ご武運を!」
その思いと共に、今は、駆ける。
自分達は、一人では無い。
●
人々は駆ける。踏破してきた道程。戦いを引き受け、自分達を此処へと送り出してくれた仲間達。
「エッカルトとレヴィを久遠ヶ原に迎える事ができれば、天魔との今後の戦いにおいてどれだけ有益か…これは、必ず成功させなくちゃ!」
太珀からの説明を思い出し、六道 鈴音(
ja4192)はパンッと自身の両頬を叩いた。
前線で戦っていた現役戦力である天使と使徒の堕天。天界に不満を持つ天使達が、もしかしたら同様に久遠ヶ原に味方してくる可能性も出るのでは。そう思うと身が引き締まる。
「コアへ急ぐなら、ムスはできる限り相手にしないで駆け抜けたいね。時間をかけたくないし、体力も無駄に消耗したくない」
各務 翠嵐(
jb8762)の声に一同は頷いた。
仲間達が切り開いてくれた最速の道。その速さを殺したくない。どれほどの思いと力で成された道だったのか。その全てをこの目で見てきたのだから。
「目標は、あくまでゲートコア」
言葉を引き継ぐようにして星杜 焔(
ja5378)が告げた。翠嵐は頷く。
故に、道中の敵は倒すのではなく、道を拓くために邪魔な個体のみ打ち払い突破する方向で。
何よりもまずはコアの破壊を。
「ああ。そして――」
そして、そこにいるだろう大天使の保護を。
告げるリョウ(
ja0563)の声にも頷きがかえる。
(ルス・ヴェレッツァ。貴女が狙うその結末を、俺達は絶対に認めない)
脳裏に浮かぶのは太珀との会話。
ルスを連れ帰った場合、即座に治療できる体制を整えておいて欲しいと告げる声に、何故か悪魔教師は一秒、押し黙った。
『……。麓の救急病院であれば、といったところだな』
携帯装置による酸素吸入。AEDの類ならば対策本部でも可能。だが太珀が示したのは、即時の救急病院への搬送。
何を知っているのか。その深淵な瞳からは読み取れない。分かっているのは、ただ彼女の命はもはや限られているということだけ。
(生きてくれ。貴女以外の誰もが、それを願っている)
リョウは駆ける。その後ろに続くのは宇田川 千鶴(
ja1613)だ。
(生きて)
思いはそこに帰結する。生きて。生きて。
話し合いの中で出された懸念。自ら責任をとって死ぬつもりでは無いのか、と。否定はできず、肯定もできない。ただ今は早く駆けつけたい。彼女自身もまた、救うべき相手と見ているから。
「終わりにしましょう。次を始める為に」
傍らを走る石田 神楽(
ja4485)が告げる。
彼女は最後の幕を引こうとしている。けれど、終わりがあるならば、次には始まりがあるはず。その時に、彼女の姿を望むのは、間違っているだろうか?
「……当たり前や」
一度強く唇を噛み、千鶴は前を見据えて言葉を紡ぐ。
「コア潰してルスさんも連れて帰る」
その思い一つを抱えて。
●
「敵守護騎士は物魔両方とも防御は同等。攻撃力は物魔とも強烈。回避と抵抗力はそこそこあるみたい」
すでに同じ敵と戦闘中の別部隊から、連絡班を通じて次々と報告があがってくる。圧倒的な情報量は、それだけ彼等がこちらを支えてくれている証拠。
「星の輝き、目逸らしには有効。動きを阻害するのはできないけどね〜」
鼠型のレベルは低い。雅の星の輝きに慌てて目を逸らすのを幸いと一気に駆け抜けた。とはいえ、対象から目を逸らすだけで行動が無いわけでもない。
「前方塞いでる!」
鈴音の声に全員が鋭い目になった。さらに斜めにも敵影。
「鎹先生はコメットを! 斜めは私が! みんな一瞬さがって!」
鈴音の声が響いた。二つの範囲魔法が同時に展開する。鈴音の放った闇の魔術が広範囲を黒い霧で包み込んだ。
「今のうちに!」
その場に留まり続ける眠りの霧。前方の敵をコメットで沈め、駆ける一同の視界に青い光が見えた。
その前に三つの大きな人影。
否。
「守護騎士」
翠嵐と神楽が呟き、目を細める。名の通り守ることに特化していそうな外見。
「技はまだ使われてないね」
「そのようですね」
翠嵐の声に神楽は頷いた。エッカルトの先情報によれば、<絶界>と呼ばれる死角無効の技があるという。
「突破しましょう。可及的速やかに、そして強制的に」
全員がそれぞれの動きを見せた。コアを目指すのはリョウと千鶴。それを支援するのは翠嵐、鈴音、神楽、焔、雅。立ちふさがる騎士の向こうにコアがあると目星をつけて。
前方より走り込んでくる鼠型。
神楽が銃を構えた。その銃が片腕に同化する。手はおろか肩口まで黒く変じ、肩部に排出口。収束される黒光。
「あなた方に、構っている間はありません」
放たれた【黒煌】が一直線に敵を打ち抜いた。こちらを認めた守護騎士が身構える。距離はまだ。
…カンッ…
「この、音」
その時、焔は気づいた。遠く聞こえる、小さな金属音。
騎士の向こう。青の光の中。
金色の仄かな輝き。
「ルスさん!」
○
ある日、死病に冒されたことを知った。
逃れられない運命。
虚ろな中で誰かが呟く。
アノコハ ドウナルノダロウ
●
「邪魔! 」
声と同時、千鶴の雷遁が放たれた。敵位置のせいで三体全員は巻き込めない。
(撃破は、後!)
動きを封じ、駆け抜けるのが目的。同じく駆けるのはリョウ。放たれた風遁が防御無視のダメージを騎士に与える。だが、
「千鶴さん!」
「危ない!」
神楽と焔の声が響いた。
光が爆発した。
騎士の体から光が翼のように広がり弾ける。凄まじい一撃にリョウが膝をついた。千鶴は自身の体を見下ろし、ハッとなって膝をついた焔を見た。【光翼】による身代わりだ。即座に雅が癒しの光を放つ。
「このぉっ!」
鈴音の異界の呼び手が一体の体を束縛する。
騎士が片手を掲げた。同時に騎士三体の体に光が降り注ぐ。次いでもう一体が片手を上げた。騎士の前に光の盾が一瞬だけ具現化する。
翠嵐の放った一撃が一瞬再度現れた盾に防がれた。
「厄介だね」
焔が走った。魔具が機関砲へと変形する。連射されるのは虹色に輝く光弾。麻痺で動けない外側の敵をさらに二メートル外側へと吹き飛ばす。盾でダメージは防がれたが、吹き飛ばしは発動したようだ。
「分断させないと……!」
焔が呻く。敵を複数巻き込めるよう移動しながら、神楽は銃弾を放った。せめて攻撃を集中させる。
「そこにおるのに……!」
「ルス!」
よろめきながらも立ち上がり、声を放つ千鶴とリョウの声には無念が滲む。前へ進まなくては。だが騎士が手を打ち払う。同時に凄まじい火柱が前方を壁のように一瞬で覆い尽くした。
「くッ!」
突破どころではない。温度障害を免れたとはいえ、表皮は酷い火傷を負っている。痛みを堪え、リョウは叫んだ。
「ルス!」
音は止まない。その、力のない乾いた音。
「貴女に助けられた皆は、貴女に恩を返したい。貴女がどう思っているかは問題じゃない。俺達が貴女に返せたと胸を張りたいからだ。ここで貴女がいなくなったら、一体どうやってそれを返せばいい? 抱えた言葉は誰に伝えたらいい? 何もしてあげられなかったと、一生重りを抱えて生きなければならないのか?」
託されたもの。沢山の思い。
彼女が世界と結んだ縁。
「今貴女がしなければならない事は誰かの為に命を懸ける事じゃない。貴女自身の為に『助けて欲しい』と願う事だ」
誰も直の彼女の声を知らない。何を思っているのかも。
「願い祈ってみると良い。貴女が慈しんだ世界の全てが必ず貴女を抱きしめ返す。繋がりは、一方通行になっては駄目だ。貴女自身もこの世界の大切な一つなのだから」
激しい音がして守護騎士の<盾陣>が打ち砕かれる。二発目の【黒煌】。盾が砕けたのは攻撃を重ねられた一体。
「幸せを、自身の非を、伝えてください」
黒い煙が流れる。赤い瞳孔を細め、神楽は声を放った。
彼女自身の思いを。どうか。伝えたいと願う相手へ。そして、
「自分への感謝の気持ちを、受け止めてください」
彼女と関わった人々の思いを。どうかその身で。どれほど生きることを願われているのかを。
「自分を犠牲にして、愛する者を生かす。崇高かもしれないけど、身勝手でもある。相手の幸せは相手自身が決めるものだから」
攻撃を重ねながら翠嵐は告げる。
「相手を束縛したことを罪と感じ、解放することが相手のためになると信じる。でも、相手の本当の気持ちは分からない。それじゃ自己満足にならないかな。普通なら、命を賭した解放は重荷になるものじゃないかな? 束縛した罪を償いたいのなら、死に逃げて楽になるんじゃなく、生きて苦しみ罪を背負い続けることが罰になるんじゃないかな」
生きる意思を。
相手を思うのなら、どうか。
「レヴィさんに幸せになって欲しいなら」
虹色魔弾で再度無理やり移動させ、焔は声を絞り出した。
「残された時間が短くとも、その時まで家族は共にいないとだめです」
思い出す。失った家族を。他人事では無い。いつも絶えない笑顔が歪んだ。涙が零れた。
「突然消えてはだめです」
人は強くない。
全然、強くなどない。
突然大切な人を失って、平然としていられるだなんて嘘だ。
「ここは私達に任せて!リョウさんと宇田川さんはコアを!!」
(ルスさんの事も、頼みますよ)
思いを込め、鈴音が叫んだ。凄まじい風が騎士を翻弄する。朦朧となったその横を二人は駆けた。
だが二度目、光が弾ける。
「貴様らに構っている場合ではない!」
防御を付与されて尚、身を灼く天の光翼。放たれた治癒すら上回る負傷。
虹色魔弾でなんとか一体だけ離れさせ、焔は場を詰める。盾となり二人をコアへ向かわせる為に。
「この敵……何か言っている……?」
弧を描き飛来してきた扇子を手に翠嵐は呟く。その指摘に気づき、神楽は目を瞠った。
「これ、は」
騎士から時折聞こえる微かな声。入れられた言葉だけを繰り返し発する機械のような。鈴音と焔が顔を見合わせる。
――コエテイケ
ただ一言。そこに込められた、誰かの意思。
助けたいのならば。守りたいのならば。
本当に、大天使が望む未来を守れるのならば。
こえていけ。
それが出来ないのなら、決して望みが果たされることはない。
彼女の望みを叶えられるというのなら。
この程度の妨害など、
超えて行け。
――その力の全てを使って。
●
「言われるまでもないわ……!」
千鶴が走った。突破口は、すぐそこに。
無理やり移動させられた一体。押しとどめ壁となる焔と雅。神楽の銃弾が騎士の手首を吹き飛ばした。逆手に持った剣が千鶴を襲う。切り裂かれるスクールジャケット。
(この敵を【昴】の皆さんは撃破したんですね)
神楽は目を細める。連絡網からの一報。今は自分達が帰る道を保持すべく、死力を尽くしてくれているという。
(ええ、帰りますよ。必ず)
誰一人残すことなく。こんなにも信じてくれているのだから。
視線の先、走るリョウの動きに合わせ、翠嵐の扇が騎士の視界を邪魔するように舞う。
(僕達は、僕達だけで戦っているわけではないからね)
この場所へと向かわせてくれた仲間達。自分達の背を沢山の手が押してくれている。
「負けられないのよ。あの人達の思いも受け取ったんだから!」
声と同時、鈴音は構築した魔法を解き放つ。生まれ出るは無数の渦の刃。意識を朦朧とさせられ、とっさに放った炎の壁はリョウ達の体に触れもしない。
突破した。
「ルス!」
「ルスさん!」
すり抜ける寸前、放たれた治癒を経てなお二人共傷は重い。だが一切気にせず駆けた。
初めて見る光りを纏う大天使の背。輝ける黄金。背後からでも分かるその美しさ。
「コアを壊す!」
千鶴がコアへと向う。これがある限り、ルスは他を顧みない。
「ルス!」
リョウが手を伸ばした。カンッ、と乾いた音。コアにぶつかる力のない攻撃。その体を無理やり抱き寄せかけ――
「……ッ」
息を飲んだ。
掴んだ腕は細く、
力無く、
冷たい。
「ルス……お前、は……」
抵抗は無い。
いや――抵抗する力すら最初から無い。肌は血の気を失い白く、息はあるかなしか。生命力をほとんど感じない気配。
何故、動けているのか。
彼女はすでに、死に瀕していた。
〇
すまない。すまない。
お前を残して我は逝くだろう。
お前を天の柵に捉えたままで。
ならば、最後まで戦いを。
――出来ないことを嘆くのは、もうやめた。
●
――コア、を
声が聞こえた。例えようもなく美しい声。
「コアは壊す。おまえが無理をする必要は無いんだ!」
腕の中に力なく倒れた相手は、ただ浅い呼吸を繰り返す。
――コア、を
凄まじい音がして千鶴の風遁がコアを覆っていた何かを砕いた。
「結界!?」
レヴィがコアを守る為に施していたものなのだろう。小さく顔を上げたルスの目がそれを捉える。
振り返り、千鶴は初めて見た。
金色の髪。金色の瞳。女性の美、その概念を余すところなく具現化させたような――全てが淡い光を帯びている大天使。
「生きて」
無意識に声が零れた。
「貴女が彼等の命と幸せを望む様に、私は貴女の命と幸せを望む」
ようやく、会えた。レヴィの主。
「今迄の接触でレヴィさん達がどんだけルスさん大切か、わかってる。やから、生きて。……こんな風に死ぬとか駄目や」
こんな悲しい、何もない部屋で。誰にも何も告げずに。一人で、だなんて耐えられない。
「せめてどう思って動いたか直接伝えないと、レヴィさん達はきっと空虚を抱え生きる事になる」
ルスの手から剣が落ちる。
「回復を!」
リョウの声に雅は何故か悲痛な表情を浮かべた。それでもすぐに実行する。アウルに働きかけ細胞を活性化させる治癒ではなく、己の生命力を与えるサクリファイスを。
けれど。
「……」
ぱたん、と雅の手が下がる。ルスは項垂れたまま。
「雅。まだ、ルスは」
リョウの声に雅は無意識に首を横に振った。その目に涙が浮かぶ。
「アウルは……万能では……無いんだ」
握った拳が震えている。
「傷は癒せても……病気は癒せない。寿命は、延ばせない」
「……ッ!」
寿命とは、例えば命の器の大きさそのものが小さくなっていくものだ。小さくなった器にどれだけ生命力を注ごうと、決して器そのものの大きさは変わらない。
一時回復するかのように見えたとしても、見えただけ。まして、すでにこうして立って動いているのが不思議な程の体であれば。
(何故)
いや、
予想しなかったわけではない。
リョウは首を横に振る。
大天使も保護を? と尋ねた時、太珀は即答しなかった。告げられたのは、大天使本人に尋ねるといい、ということと、別口で頼まれているという事実。
『可能なら、人界に連れて来て欲しい、とのことだ』
――連れて来て。
生死は、最初から含まれていなかった。
(こんなのが……現実か!)
奇跡を願っていた。太珀も決して否定しなかった。起こせるのならば、それが可能ならば、誰も彼も皆が皆、それを望んだのだ。
「もしも」が起きてくれれば、と。
(許容できるものか!!)
「病院に連れて行く!」
「……」
ルスを抱えたリョウに雅は俯くようにして頷く。
例え延命処置をおこなったところで、数時間、ないし数日延びるかどうか。機械で無理やり呼吸をさせ、心臓を動かせることが果たして良いことなのかどうか、誰にも答えは出せない。
けれど、失いたくないと、その思いが人を駆り立てる。
少しでも長く、少しでも傍に、留まっていて欲しいと愛する者が望んでいるのも、また事実。それを知っているから、せめてと時を望む。
善し悪しでは無い。
そんなもので測れない。
誰もがその事態に直面しなければ分からないのだ。生と死。隔たれ二度と会えない現実を突きつけられて初めて、本当の意味でそのことを知るのだから。
相手への深い愛と共に。
「コアは私が必ず壊す。先にルスさんを……!」
荒れ狂う感情を押し殺し、千鶴は叫んだ。何かを考えようとすれば、そこで思考が止まってしまうような気がした。だから今は考えてはいけない。やるべき事を果たして――
(果たし、て……)
胸に穴が空くような錯覚を打ち消し、千鶴は再度コアへ向き直った。その体に向かおうとする騎士の足首を神楽の魔弾が吹き飛ばす。
「させません。……絶対に」
ルスを抱え走るリョウを守り、翠嵐は攻撃を他と重ねることで支援する。
「道中の鼠も排除しないとね」
「まかせて! 指一本、ルスさんに触れさせない!」
ぐい、と目元を一度だけ乱暴に拭い、鈴音は新たな魔法を構築する。制圧されていない戦場を駆けるということは、ムスの大群に突っ込むということ。通ってきた全ての戦場がこれに当てはまる。反撃も受け防御も、瀕死のルスにどんな影響を与えるかわからない今、リョウは移動以外の行動全てを奪われている状態だ。
「帰りの道も切り開くよ」
その盾になるべく焔が走る。背後で重い金属音が聞こえた。千鶴を狙った騎士の攻撃を雅が盾で受け止めている。
「先生も、撤退を」
「ゲート破壊は学園の最重要目標だ。それを成そうという生徒がいる限り、私が退避することは無い」
雅は淡々と告げる。その表情は声の冷静さを裏切っているけれど。
「後ろは気にせずに行け。私が守る」
●
退路の状況は凄まじかった。往路と復路は同じ。今なお激戦区たるその地を踏破できたのは、担当部隊の尽力によるところが大きい。その奮戦ぶりは、掃討数と討伐時間をもって後に語り草となる。
「ルスさん」
彼らの支援を受け、駆けながら鈴音はリョウの腕の中にいるルスに声をかけた。
すでに意識も途切れかけている。
限界など超えているのは分かった。けれど。
「頑張って……レヴィさんのためにも、貴方はまだ死ねないです」
必死に声をかけた。顔を見つめようとして、涙で塞がれる。ゲートはコアを破壊すれば消滅する。ゲートは異世界と異世界を繋ぐもの。出入り口が消えれば、新たにゲートを作成できる者でないかぎり脱出は出来ない。
――人界に連れて来て。
(あれは、そういう意味もあったのか)
扇を放ち、翠嵐は心の中で嘆息をつく。
(自殺する気は、最初からなくて)
ただ、時間があまりにも無かった。
止めれるものならよかったのに。
――リゼラ
ふと声が聞こえた。
否。それが肉声であったかどうかは分からない。ただ、言葉は聞こえた。
「リゼラがどうしました?」
――リゼラを
力の無い言葉が紡がれる。
もしかすると、本人も言葉にしてしまっていることに気づいていないかもしれないほどに、弱く、細く。
――リゼラを…殺さなくては
○
力が邪魔になるのなら
その力を削いでいこう
お前を殺める要因は我が向こうへ連れて行こう
どうか、生きて
例えその世界に我が生きれなくても
お前を向こうへは連れて行けない
●
「何故」
無意識に問いが零れた。穏健たる大天使の、明確な殺意。
――レヴィ…を
声が途切れた。焔は目を瞠った。
把握した。
開かれたゲート。失われた使徒の力。来訪した悪魔。コアを壊す全ての首謀者。
望みは、レヴィ達の人界への保護。
(命懸け、とは)
リョウは小さく唇を噛む。
命を捨てる覚悟では、無かった。
命の尽きる最後まで、抗い続けていたのだ。こうしてこの世に留まっていることすら奇跡のような体になって尚。今もずっと。
(そういう、こと、か)
レヴィを束縛する力から開放するために。
彼を害する者を排除するために。
「こんな体で……戦うつもりだったのか」
ああ、だから悪魔が来たのか。
どんな会話があったかは知らない。けれど、知を求め美学を愛する二柱のあの悪魔ならば、可能性はある。
力を失い、死に瀕し、それでも戦わなくてはならない彼女が全てを投げ打って出た賭け。浅ましくとも、愚かでも、今の自分で敵と戦う為に――
たとえ自らの命を引換えにしてでも、刺し違えてでも、必ず相手を確実に倒せるように。
「そんなのを誰が望んだんだ」
その体を抱え、リョウは呟く。
かつて見たレヴィの姿。主のことを話していた声。
「あいつの望みは、そんなことじゃ無いはずだ……!」
ふと、ルスの口元に淡い笑みが浮かんだ。
声は無い。
ふいに体が重くなったのを感じた。
「生きて……死んじゃ駄目!」
鈴音が叫ぶ。皆から回ってきた連絡。せめて、
「リゼラは倒したから……」
せめて、どうか、
「レヴィさんが来るから……!」
●
ゲートから飛び出す前、ゲートコア破壊の報告を聞いた。
ゲート前を守りきった六人に迎えられ、リョウはそのまま麓へ走ろうとする。
その腕を駆けつけたエッカルトが止めた。
「なにを……」
「動かすな」
俯いた天使の顔は見えない。ふと、光が増えていることに気付いた。
足元に、崩れるように金色の羽根が零れ落ち始めている。
「……動かすな」
もう、移動すら、耐えられない。
声もない一同が、救いを求めてその人の姿を探す。
こちらに向かっていると聞いた。せめて、彼が来るまでは。
「ルスさんは!?」
揺らぎはじめたゲートから千鶴達が戻って来た。最後まで守りきってくれた人々と共に。
その時、僅かに動いたルスの瞼に、リョウはハッとなった。
エッカルトの手が力の無いルスの手を握る。
――生きた…かった
「……うん」
――もっと早く…出会いたかった
「……知ってる」
時は戻らない。
過去は変わらない。
それは思っても仕方がないこと。
やっと笑顔が見えた。
全てはこれからだった。
もっと早く人界に来ていれば。出会っていれば。今と違う方法で、愛する者達と共に人の世界に降りれたかもしれない。無理矢理急ぐことも、秘密裏に動くこともなく。
沢山話し合って、沢山抱えてきたことを告げ合って。
もっと、
もっと……生きることが出来たのなら。
――浅ましいと…思えども……尚
なんて浅ましい女だろうかと。そう思っても尚、浮かんだ思いは消せなかったのだ。
「なにが浅ましいんだ」
リョウが呟く。
「生きたいと、願うことの、何が浅ましいと言うんだ!」
羽根が零れ落ちる。
逝くのか。
言葉が喉奥で蓋をされ、出てこない。沢山伝えたいことがあったのに。ルスの目は閉ざされたまま――
「え」
千鶴は驚きに目を見開いた。
ルスの目がはっきりと開いている。
「ルスさん!? わかる……?」
咄嗟の声に、きちんと眼差しがあった。頷き。
何人から押し殺した歓声があがる。けれど、雅を含む何人かは唇を噛んだ。分かってしまった。
最期なのだと。
「主様……!」
声が聞こえた。
全員の視線がそちらを向く。重症とわかる血塗れの姿。それでも駆けつけた人。
リョウはレヴィを見る。ルスからも見えるように。
駆け寄り、膝をつく相手に手渡した。手が震えているのが分かった。
どんな思いでいるのか。
想像すらつかない。
「あるじ、さま」
ルスは何も言わない。ただ眼差しだけが自分の使徒へと向かう。
愛した人間へと。
言葉は山とあっただろう。
思いも。
けれどもう、そんな力は、無い。
抱き抱え、レヴィが震える手でルスの頬に触れる。ルスの手は上がらない。レヴィが小さく告げた。
「――――」
言葉は、分からない。ルスからの答えも無い。
ただ、微笑んだ。
このうえない喜びと
愛おしさを込めて。
至上の微笑みを。
――いきなさい。
それが、大天使ルスの最期だった。
●
コア破壊後、一定期間を経過したゲートは名残を含め消滅する。徐々にゲートとしての姿がぼんやりと歪んで消えていくのを現地の人々は時折眺めているという。
小規模であれば一週間ほどで消えるというのに、一月を越えて残ったのもまた、ある意味異常なことだったのだろう。
太珀は目を閉じる。
最良を願った。――生きてまた会うことが出来れば。
程なく死ぬだろう等と事実を告げられなかったのは、同じく奇跡を願ったからかもしれない。僅か数パーセントでもいいから、と。けれど決して生徒達の負担にはならないよう、口には出さずに。
(……らしくないな)
生徒達は最善を尽くした。依頼を果たす以上の結果を携えて帰ってきた。
必死に駆け抜けた本人達以外にそれ以上を望む他者が居たとすれば、それは余程傲慢な者だろう。
持っていた全ての報告書を閉じる。
窓から入る風は、ただ優しく暖かかった。
●
山へ。
そう言いだしたのは誰だったろうか。
今はそれも思い出せない。
電車すら無い長閑で牧歌的な四国、徳島。現地はすでに混乱も無く、進む道の傍ら、時折山を見て拝む者の姿もある。
雪は、僅か。
麓はすでに春の装い。
「他の人、すでに上に行ってるって」
「早いですね」
駆ける鈴音の声に神楽は苦笑する。
連絡網は一斉に回った。動ける者から動いた結果、事情もあって遅れたり早まったりしたのだろう。
全員の旅費は雅が出してくれた。長かった彼女の髪は、今は肩の下までになっている。
「これでよかったんやろか……」
無意識に零れた呟きが風に流れる。俯いたまま、花束に顔を埋めるようにして千鶴は歩く。神楽に手を引かれて。
「ルスさんの願いは、果たされました」
神楽の言葉もまた、風に流れる。
「全てが不可能に近い運命の中で、彼女はそれでも運命に抗い、勝ったのです」
策を巡らして。届かない手を伸ばして。
自分達の力も、それに大きく貢献した。彼女が想定していなかった程に。
「そう、エッカルトさんが言ってましたよ。ありがとう、と」
撃退士達のおかげで、彼女の望みは果たされた。
自分達だけでは最終的に果たしきれたかどうか。全てが果たされたのは、ひとえに集まってくれた撃退士達のおかげ。彼等無くしては成し得なかった、と。
「……ん」
千鶴は花束に顔を埋める。
自分は何が出来たのだろうか。そう、何度己に問いかけたことだろうか。
助けたかった。生きていて欲しかった。
一緒に生きたかった。
沢山話したい事があり、けれどもう、二度と話す機会は無い。
死とは、そういうものだから。
「これからが大変だ、と言っていましたね」
雅の言葉を思い出し、翠嵐は目を伏せる。命は死ねばそれまで。けれど生きている者は、生き続ける為に努力し続けないといけない。
「うん。だから、可能なら支えてもらえると嬉しい、って」
口にする鈴音の目にも悲哀の色がある。けれどいつまでも俯いてはいられないから。
「……そうやね」
問題は色々と山積みだろう。
すくなくとも、まずは山に引き篭もりしている使徒を助けることから始めなければならない。どこまでも手のかかる者達。
「生きているんやから、生きていかな……な」
美しい最後の微笑みが脳裏に浮かぶ。
あらゆる全てをのみこみ、ただ純粋な愛情をもって告げられた声。
いきなさい。
生きているのならば、最期まで。
「どれだけ力強く生まれついても、どれだけ策を練っても、自分達だけでは無理だっただろう……。か」
山頂の片隅。花束を手向けたリョウは独り言つ。
実際に運命を切り開いてくれたのはおまえ達だと、エッカルトに言われた。例え集った者自身がどう己の力に対して思ったとしても、その事実は揺るがない、と。
(……世界を変えるのは、個では無理)
考えることは沢山あった。
最期の時間のほとんどを見守った者としても。
人の感情を糧にする天界。そこに人間の命を奪う必要性は、あまり無い。
もし天界の意識が、人の世界を武力で制圧し支配するのは難だ、という方向に向かえば、両者の間には今と違う間柄が築かれる可能性がある。
今の武断派でなく、かつて主流であった穏健派の時代の時のような。
(もし、そうであったなら)
ルスは命懸けになる必要など無かっただろう。
大天使をもってしても、おいそれと個人で変えることができないもの。完全な縦社会であり管理者会である天界とは、そういうところなのだろう。
長い時を生き、昔を知り、今も知る彼女は異端だったのだ。
人の子を深く愛する程に。
(……最初から、認めてくれていた、な)
初めて会ったのは、使徒と刃を交わした時だろう。使徒ごしに聞こえた、この世のものとも思えない『声』。良き魂だと、言ってくれた人。
当時、人間を見下し歯牙にもかけない天魔が多い中、最初から自分達を認めていた天使。
もっと早く会いたかった。
その言葉は、こちらの思いでもある。
「……道は、長いな」
理解者となったろう相手を失った。けれど状況は昔と変わりつつある。
こちらを認めだした天魔。力を増す撃退士達。
いずれ同じ盤上で会話が交わされる日も来るかもしれない。もう、対話も夢物語では無いと、数々の依頼で人々は体験しつつある。
至るべき場所はまだ遠い。
道は長く、険しいだろう。
けれど諦めて膝をつかない限り、進み続ける限り、やがてたどり着くだろう。
彼女が真実望んでいた未来に。
共に生きる、世界に。
「約束しよう」
空を仰ぐ。揺らぎは気づかないことにした。目を閉じる前の世界は、ぼやけていたから。
息を吸い込む。
「俺達が、果たすと」
最後に浮かんだ彼の人の顔は、ただ優しく微笑んでいた。
●報告書に曰く
公式文書の最後にこうある。
猛る星の誓願と、
凍てつく月の原罪と、
堕ちたる天の慟哭に、
人は抗いて地祇を纏う。
永遠は刹那の中に消え、
刹那は永久の夢幻を描き、
以て現は夢の欠片を宿す。
夜明けの月は瞬きて、
蒼穹の昴は天を穿つ。
黄昏の果てに黎明生まれ、
光は刹那の永遠を示す。
――永遠の微笑と共に。