今度 ――… ―…ったら、
そのときは また 遊んでね
●
朝焼け空の下を総勢二十六の人影が走る。夜明け前。港は奇妙なほど静まり返っている。
(リロさんと…ヴィオレットさん)
自分達の足音以外、それこそ鳥の声すらも無い港を見やり、Rehni Nam(
ja5283)は僅かに目を細める。
(味方では、ない)
救出を請われた。だがその相手は、今は敵対していないとはいえ、敵対陣営の悪魔。
(でも、死んで欲しくない人達も居る…)
チリ、と胸を掻く痛みを押し殺した。脳裏を過った忘れえぬ面影に、ぐ、と一度だけ強く目を瞑ってから見開いた。
(助けましょう――何としても)
前を見据えるRehniの傍ら、魔具を具現化させながらファリス・メイヤー(
ja8033)は眉根を寄せた。
(天使にも色々いるのだと分かっていますが…)
胸を掻き乱すのは怒りと嫌悪感。決して一緒にしたくない。伝え聞くだに吐き気のする『敵』と、自分の知る天使達を。
「――ヴィオレット。同胞の…シマイ達の死を悼みに遣って来たのだろうに…!」
痛ましげに顔を顰め、綾羅・T・エルゼリオ(
jb7475)は歯噛みした。
一度だけ邂逅した事がある悪魔の少女は、五つにも満たない幼女だった。天使の無慈悲な仕打ちには、ただただ怒りを覚える。
「必ず助けてみせる。…楓、力を貸してくれ!」
多くの学生がその幼子を覚えていた。
(ヒトでもヒトじゃなくても。見知った顔がいなくなるのはやだよ)
形の良い唇をきゅっと引き締め、みくず(
jb2654)は紫 北斗(
jb2918)と共に走る。
一緒にご飯を食べた。小さな約束も、まだ果たされてはいない。
(ぜったいに助けるからね)
決意を固める妹の気配を感じながら、北斗も共有した同じ時を思い出していた。
(探りいれる為近づいた俺を慰めてくれたあの優しい娘が。ゲスに殺されるなんて認めんぞ)
小さな手で頭を撫でてくれた。わずか二カ月前のことだ。言葉を交わしたのも、妹と一緒に美味しそうにご飯を頬張っていたのも。
こんな日が来るなど、一体誰が想像できようか。
(帰ったら約束のご馳走作ってやるからな)
だから帰ろう。こんな場所で、さよならなんてしたくないから。
鷺谷 明(
ja0776)は天使をぶん殴ると決めた。
――無論これは戦争であると知っている。
無論、自身もリロに手荒な事をした事がある。
だが殴りたい。
(――故にこれを私怨と言おう)
常と同じ得体の知れない笑みの中、その瞳だけに奇妙に深い色を宿して。一瞬後には幻だったのかと思うほど飄々とした顔になった。
(まあとりあえず助けんと。このような話は後に笑い話にする位がいいんだ)
狂宴は悉く切り裂くのが愉悦。いつか未来で、あんなこともあったねと、軽く話せる日をもぎ取るためならば是非もない。
その傍らを小柄な影が走る。金色の瞳に意思を込め、駆けるのはフィノシュトラ(
jb2752)だ。
(絶対…絶対に助けるのだよ!)
その存在をずっと気にしていた人を知っている。今どれ程の苦痛だろう。それでなくても、幼い子をいたぶるなど許せるはずもない。
(皆で助けに行くからね……!)
「稚い者への加虐……万死に値しますな」
黄昏色の鎌を手に、ヘルマン・S・ウォルター(
jb5517)はひやりとする声で呟いた。最愛の人と、複雑な思いを抱いていた宿願たる者の喪に服してしばし――種子島の平穏を護らんとする老執事にとって、今回の騒動は到底看過できるものではない。
ましてや悼みに来た子供達に対し、なんということをしてくれたのか。
「さて。では、礼儀を教えてさしあげるといたしましょうか」
若執事たるリアン(
jb8788)が救済の魔術書をその手に呼び出す。軽く片手の指で押し上げたモノクルの奥、その瞳が金色を宿す。
「女の子を見捨てちゃ男が廃るってね。可愛い女の子の損失は世界の損失だぜ。天使ってやつはその価値が分かんねえ奴ばっかでいけねえや」
長大な剣を具現化させ、ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)は鼻を鳴らした。
「一度、しっかり教え込んでやらねえとな!」
それらの声を聞くともなく聞きながら、ファーフナー(
jb7826)はふいに浮かぶ奇怪な感覚に頭を振る。
――悪魔の生死など別に…
そう思っていたのに、何故こうも心乱れるのか。思い出しかける声と小さな手に嫌な動悸がする。
(これは仕事だ)
隣から花見月 レギ(
ja9841)の視線を感じた。数分前の記憶が蘇る。
――行きたい?
そう、問われた。気持ちを見透かすかのように。
同じ記憶をレギも思い出していた。避暑中の種子島に、緊急招集がかかった時のことだ。
(戸惑っているんだね)
それが分かった。
心を留める事に理由も意味も必要ない。――後悔は動いた後ですればいい。
(俺には縁はないけれど)
行きたい? と問うて、反射的に頷いた相手に微笑った。
「なら、行こう。俺でも、盾にはなれる、よ」
無くしたくないと、そう思えた相手なら。手放してはいけないと思うから。
「そろそろ件の倉庫が見えてくるころぢゃな」
アヴニール(
jb8821)の声に、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は無言で拳を握る。
決して味方ではない相手――それを助ける事の意味は考えない。
過ごした時は僅か。けれど敵意も害意もそこに無かった。『彼』なら笑って言うだろう。同じ時を共有し同じ飯を食った――助けに行くのに、それ以上の理由が必要かと。
「……さて。静かとはいえ、見たままを信じるわけにはいきませんね」
夜来野 遥久(
ja6843)の声に、揺らぐことの無い静かな表情のベアトリーチェ・ヴォルピ(
jb9382)がコクンと頷いた。
「隠して…配置…罠…ありえる…」
「伏兵は常套でしょうね」
すでに銃を具現化させている石田 神楽(
ja4485)が前を見据える。その顔に笑みは無い。
いつも何処からともなく飛んできて、一緒にご飯を食べていた幼女。いつのまにか日常に溶け込んでいたその存在が、誰かに傷つけられたなどどうして許せようか。
片手が動き、ずっと無言の宇田川 千鶴(
ja1613)の頭を撫でた。千鶴は無言のまま頷く。
(何時か来る別れでもこんなんは嫌)
『いつか』は必ず来ると知っていた。けれどこんな形では無いはずだ。
小さな手を、その笑顔を思い出し、千鶴は握った拳に力を込めた。
(絶対に助けたる)
その力の入った肩をポンと優しく叩かれた。
「何が出てきても、こっちで最大限カバーするわぁ。……頼むわねぇ」
「……ん」
小さな頷きに微笑み、勁い意思を込めてジーナ・アンドレーエフ(
ja7885)は両刃の戦斧を具現化させる。阻む敵が出たとしても、切り開き仲間を前へと進ませる為に。
(待ってて――)
思いは千鶴と同じく。
(さよならはまだ早いよ。まだ言ってない事が多すぎる)
奪わせない。
なくさない。
例え未来に別離があろうとも、出会ってから続くこの狭間の日々を取り戻す――そのために、この力はあるのだから。
(メリーは、メリーに出来る事を精一杯やるのです)
人々の様子に、メリー(
jb3287)はそっと胸を押さえた。戦闘は怖い。それは変わらない。けれど誰かを護る為に立つこと――その為に力を振るう事。それはきっと、受け継いだ意思にも通じる。
(沢山の思いがここにある)
熱を背に感じながら、レイ・フェリウス(
jb3036)は力を解放した。他の空を往く者と同じように、その背に種族の証たる翼を生み出す。
心の中で幼子に呼びかけた。声が届くとは思っていない。
(待っていて。君を大事に思う誰かの為にも)
ただ、祈りを込めて。
(必ず君の元に届けるから)
拘りは、枷になるだろうか。
久遠 仁刀(
ja2464)は自問する。脳裏に浮かんだ相手なら、何と言っただろうか。
(この胸の内の焔と、瞳の奥の刃……朽ちる前に拾い上げられた義理は返す)
戦いなさい、と告げられた。戦い続けなさい、と。この体の動く限り、この魂があり続ける限り。
(俺は)
仁刀は唇を噛む。
無意識に避けていた武器。他の戦いを模索しながら、意識しない部分でも手に取らずにいたもの。それを掴んだ。
思いを、鎖を、断ち切るように力を込める。
(俺は、為すべき事を前に手段を選んでられるほど、強くない!)
手に馴染む感覚――肌に吸いつくような。長く使っていなくとも、それは何よりも自分になじんだ武器――長大なる力刃の剣。
ふといつになく無言なディアドラ(
jb7283)の背に翼が広がった。同じく飛翔能力を持つ人々が空へと飛び立つ。ディアドラの感情を排した目が眼下を見下ろし、小さな血痕を認めて一度だけ眉を跳ね上げた。
(嗚呼)
零れるのは濃密な憎悪。明確な殺意。研ぎ澄まされた意識の中で思う。
ケッシテ イキテ カエサナイ
ここに座し旧知の少年と悪魔少女達を傷つけた――天に属する全てを葬り去る。そうでなくては、この胸の奥にある憤怒をどうして押さえられようか。
「マスター鎹、突入の準備は万全か」
チョコーレ・イトゥ(
jb2736)の声に、鎹 雅(jz0140)はこみ上げるものを堪えて頷いた。唇を強く噛み過ぎて血の味がする。
「ならば、直ぐに向かおう」
時間がたてばたつほど危険は増すだろうから。
「涼風殿を救った機転、死なせるには惜しい」
その静かな声を聞きながら、ファラ・エルフィリア(
jb3154)は前を向いたまま雅に問うた。
「せんせ…和幸ちゃんの容体は?」
その陰に籠った声に驚きながら、雅は答える。
「重体だが、一命はとりとめたと出発前に連絡がきた。……大丈夫だ」
告げる声に、無理をしているとわかる微笑みが返った。
「……そか。ありがと、せんせ」
どんな苦境でも笑って突貫する少女の、こんな昏い瞳は見たことが無い。
慰めるように背を叩く手に軽く頷き、ファラはただ走る。僅かに俯いた顔の中、唇が無音声で呟いた。
(和幸ちゃん重体と)
病んだ目が、見えはじめた倉庫を捕らえた。深く深く、その瞳の殺意が凝っていく。今はここにいない、誰かの姿を幻視して――
(へぇ)
限りない憎悪を込めて。
(天使ブッ殺)
●
例え罠だと分かっていても、いや、だからこそ尚、解き放たれた矢のように。一直線に駆ける仁刀達の姿にざわりと港の気配が揺れた。
「やはり――敵」
後方、無謀な程に隠れることなく走る彼らを見る遥久が目を眇める。何かが待ち受けていると誰もが予感していた。本隊とも言うべき一団の中には雅の姿。先行するのは陽動を受け持つ二班だ。
(涼風さんが必死に届けてくれた情報――無駄にはしません!)
悪意が満ちる周囲に、ファリスは鋭い視線を向けた。姿は見えない。気配すらも朧げな隠密。――主の狡い性格を反映するかのような。
「ねちこそうな性格から影に敵潜ませるタイプとみましたが、合っているようですね!」
「ええ。ですが――どうやらそれだけではなさそうですよ」
ファリスの声に走りながら神楽が前方を見据えて声を返す。
空気が揺らいだ気がした。目指す倉庫――その入口へと血痕が続いていることはディアドラが空から確認している――その大きさが膨れ上がったような錯覚を覚えた。
――否。
「大蛇!?」
「ちょ……大きいってどころじゃないのですよ!?」
とぐろを巻くようにして倉庫を内に抱え込む巨大な蛇に、千鶴とRehniが目を瞠った。
全長にしてどれ程の大きさか。胴の太さなど人間のそれを超える。呼び出したフェンリルと併走していたベアトリーチェが、僅かに遺憾そうな色を目に宿した。
「長くて…大きい…可愛く…ない…ギルティ…」
「思いきりこっちを見てるのだよー?」
目があってしまったフィノシュトラが呟き、その大きさと姿に「やだー」と美味しく無さそうなものを見る顔をするみくずの横、北斗は忌々しそうに顔を顰めた。
「わざわざデカブツで塞いでおくとはな!」
「すごくいじわるなのです」
メリーはきゅっと唇を引き結ぶ。障害と守り。同時に果たす大蛇こそ敵の用意した罠なのだろう。
「あんなのに塞がれていては、中に入れんな……!」
「引き剥がす!」
綾羅の険しい声に、仁刀が鋭く告げた。その身に滲むようにして闇の力を引き出す。
――戦え、と言ったな。
脳裏に亜麻色の髪。凛とした眼差し。
前へと進む為に。刃を研ぎ澄ます為に。歩みを止めぬ為に。この命続く限り、この力ある限り、何度壁にぶつかり何度心折れそうになっても真っ直ぐに――戦って戦って戦って戦い続けろと!
(おまえは)
幻が笑う。
刃の輪郭が黒いオーラに浸食される。闇の被膜――まるで日月を蝕むかのような。
(その先に何を求める!?)
覆い尽くされた闇が大気を蝕まんとするように靄を広げる。踏み込む足。入口近くにある巨大な頭部――こちらを睥睨する大蛇の無機質な瞳。瞬時に体の力が闇の属性に染まる。天を蝕む破天の力――
―蝕―
裂帛の気合と共に放たれた闇の力が、黒い舌を小刻みに動かしながら様子見していた大蛇の胴を驚くほど深く切り裂いた。
「よし!」
直後、大気を震わすような凄まじい音が響いた。威嚇音だ。目を真紅に光らせた大蛇がその鎌首を大きくもたげ、頸部の皮膚を広げて真っ黒な口を開く。全身を大きく波打たせるような動きにあわせて入口が見えた。入れる――この巨体を上手く誘導すれば!
「久遠さん!」
ファリスが警告をあげた。ハッとするより早く、蛇の大きな口が開かれた。緑とも紫ともつかない液が勢いよく放たれる!
(しま……っ)
だが身体に劇毒の液がかかる前、ヘルマンがその二メートル近い長身を盾に仁刀を庇いきった。即座に放たれたジーナの癒しが猛毒の傷を癒す。悪魔たる身では天属の力は脅威。だが、一時的にヘルマンよりも遥かに闇に傾いている仁刀がくらっていれば、この程度の傷では済まなかっただろう。
「……その刃、届ける為の一助となりましょう。防御はお任せくだされ」
敵を見据えたまま深い声で告げられる。
躊躇なく全力で行けるように。身を蝕む毒を身の内の抵抗力で撥ね退けて。
驚き、即座に口の端に覇気のある笑みを浮かべ、仁刀は刃を構え直した。
「力を借りる!」
「存分に」
力とは重ねることでその威力を増させるもの。己では無く全体を見据え、私心を捨てられるかどうかはその者次第。
「では、私は影に隠れて狙われぬよう、暴きましょう」
押し迫る見えざる敵にファリスが生命探知を解き放った。
「前方右斜め方向に一体、左方向奥に一体―― っ! 左後方一体! 救出班、気を付けて!」
状況から倉庫近辺罠在りと見ていたが、道中の敵配置は広域点在だった。大蛇という巨大な壁に侵入口を塞がれ、陽動の動きを見守りつつ空に飛翔していた本隊に一瞬緊張が走った。
「ならば、私はその刃を打ち砕きましょう」
ひやりとする声と同時、銃弾すら見えぬ速度で黒の魔弾が走りこんできた何かの頭部を打ち砕いた。
―黒蝕<ゲンジツ>―
吹き飛ぶようにして倒れたのは犬。奇妙にぼやけた輪郭が、事切れた瞬間に影に似た色合いの黒犬になった。
神楽は冷ややかな目でそれを見る。
「……あなた方は私の日常を脅かした」
覚えている。他愛のない会話や仕草を。
――にーに。
呼び声を知っている。すっぽりと腕の中に入ってこちらを見上げてくる目も。ふかふかの髪の毛も。抱き上げた時の重さも。
千鶴と自分の間にちゃっかり入って、ここがホームだと言わんばかりにくつろいでいた子供。すでにそれは日常の一部になりつつあった。
なのに、
そのあなたが、ここで傷つけられましたか。
酷い虐待を受けましたか。
誰とも知らぬ相手に――私達の、あの小さな命が。
(奪うというのなら、容赦はしない)
例え相手が何であろうとも――奪わせない為ならば、悪魔にも魔王にもなろう。その全てを排除して。
「取り戻します」
誰かを思う心は弱さだろうか。いいや、それらは困難すらも撥ね退ける力だ。
「…何の為に来た天使だとか、どんな階級だろうとか…どうでもいい」
病んだ瞳のまま軽く手を掲げ、明確な殺意をもってファラは地上に力を放った。撃ち抜かれた影がギロチンのように首を落とされ、数歩首のないまま走って崩れ落ちる。
「奴の系譜は全部殺す」
長く多く殺す殺す。隠れているものもそうでないものも全部全部。一匹だって逃すものか。
「ええ」
ゾクリとするような声に、むしろうっすらと笑みすら浮かべてディアドラが頷いた。たおやかな笑みは変わらない。けれどどこか不吉な気配がするのは、やはり奪われかけた命のせいか。
青弓から放たれた蠱毒が、本隊側に近い一頭の胴を貫いた。敵意をもって唸るその口から血が零れる。じわじわと毒がその身を殺す。膝をつくように前足が崩れたその体に、リアンが放った金輝の炎がとどめをさした。
「周りの犬はこちらで対応いたしましょう」
倉庫を抱き込んだまま、大蛇は大打撃を与えた仁刀を標的と見なして目で追う。その死角からベアトリーチェがフェンリルに命じた。
「…油断大敵…」
放たれたサンダーボルトに大蛇が僅かに身をくねらせた。動きにあわせてしっかりと倉庫を抱き込んでいたのが緩み、隙間が出来る。
「……あれは」
Rehniが目ざとく二階部分にある横長の窓を発見した。まだ大部分を塞がれているが、隙を見計らえばあそこからも侵入できそうだ。
「問題は、入口よりちっちゃいことですか……」
「なに。そこは機転で如何様にもなろうし」
明がひやりとする笑みを浮かべたままどこか厳かに告げる。
「入口から行くか、窓から颯爽と飛び込むか。ふむ。課題ではある。が、やはりここは窓か」
「です」
コックリ頷くRehniの腕の中で、雅が普通に首を傾げた。
「なんでだ?」
「何故入り口から入らないか?いや、罠とか怖いじゃん」
明、まがお。
「……。その二つ以外、入口は無いみたいだ、ね」
周囲を見据えていたレギの声に、Rehniはふんすと気合を入れて高度をとった。行動の危なっかしい雅を抱えたまま、人一人抱えても雅が走るより早いというその移動力で慎重に距離を測る。
窓を見つけた他の一同も次々にそのタイミングを見計らう。蛇はまだ巨体で両方の入口を塞いだまま。仁刀の動きに合わせてずるずると滑るように動き始めていた。
あと何秒であの巨体が離れるのか――
誰にもわからない。――待っているだけでは。
時間が経てば経つほど少女達の身に危険が迫るのではないか。その焦りが焦燥となる。慎重に。けれどじりじりとした気持ちを抱える救出班の下では、陽動と地上を行く人々が大蛇の体力を削りつつ、音もなく飛びかかる影犬を容赦なく蹴散らしていた。
「なかなかの隠密精度ですね」
「んー。犬の出現がずいぶん散発的なのだよー?」
「かなり広範囲に散ってる…みたいなのです。慎重なタイプなのかもしれないのです」
リアンの攻撃にあわせ、空から攻撃援護するフィノシュトラに、追撃を放ちつつメリーが答える。合わさった視線の先で、二人、小さく頷き合った。
敵の配置の仕方。選び方。――倉庫内に入っても、警戒しなくてはならない。
「あの図体、邪魔やな」
「けどだいぶ体が浮いてるね……上手く誘導してくれてる」
皆の負傷をチェックしながら呟いた千鶴に、僅かに浮いて死角のフォローをしていたレイが突入タイミングを見計らいながら声をあげた。
標的を狙うためか、鎌首をもたげた蛇の頭は上空にある。その為、体そのものがやや上向きに動いているのだ。
「いっそ切断しますか」
さらりと言った神楽に、一同が視線を蛇の胴を見る。やりたい。しかし硬いうえにぶっといのが難。しかしやりたい。上空のファラが小さく「切断…」と呟いたのをこの時誰も気づかなかった。
かわりにファリスが声をあげた。
「あれ、下からくぐり抜けられないでしょうか」
ジーナが目を細める。
「……いけそうだね。隙を見て走れるかい?」
「入口は吹き飛ばしましょう」
ジーナの声に、遥久がその長い指に氷の護符を具現させる。
――頼んだ、と。いつになく真剣な面持ちで告げた親友を思い出す。どれ程助けに来たかったろう。託された熱が、今この胸にある。
なんとしてでも、助け出さなくてはならなかった。
●
駆けるフェンリルの冷炎の爪が閃いた。熱の無い瞳を向け、ベアトリーチェは不可視の敵に警戒しながら敵の負傷度をはかる。
「…こっち…向かないうちに…削る…ガンバルゾー…」
上空、別方向から攻撃と離脱を繰り返していた綾羅もまた、敵の状況をつぶさに観測しながら魔法を放つ。
「大きさのわりに移動が速いのが救いか」
執拗に仁刀を狙う蛇の口腔で雷刃が弾けた。ファラだ。威嚇の為開きっぱなしの口をディアドラの一射が強襲する。抜刀した仁刀の一撃が空を駆け長く伸びた胴に切り込みを入れる。吐き出された毒液を前に立ちはだかったヘルマンが庇い受けた。
攻撃にあわせ、インパクトブロウを叩き込んだベアトリーチェが、感情の籠らない声で呟いた。
「…頭、ブレるだけ…吹っ飛ぶ…しない…」
「あの巨体だからな」
声をききつけ、綾羅が呟く。
走り通し攻撃し通し、駆けながらベアトリーチェはフェンリルを見た。二度目の召喚をした子だった。通常より長く呼び出しておけるベアトリーチェだからこそ、もっているともいえるだろう。強力だが、呼び出しておける時間が少ないのが召喚獣達の難点だった。だが――
「…思った以上に…強い…」
その二回目の子も、もうすぐ召喚が切れる。見やる先、空には侵入先を窓と定めた人々の姿。
――もし、今に至るまでの間に、空に在る過半数たる彼等が協力して蛇の体を押しのけるなりの可能性を模索していれば、もしかすると最終的な結果は違ったかもしれない。だがそれは、誰も知らぬ未来の話だ。
「! 入口!」
北斗がみくずの腕をとった。眼前で蛇が大きく動く。
「今です!」
間髪入れず響いた声は遥久。大きく開いた入口前に向けメリー達が走った。放たれた遥久の氷刃が扉を吹き飛ばす!
「ニア君。下が早い、よ」
全てを見ていたレギがファーフナーを引いた。一直線に走りこんだ千鶴、レイ、メリーが倉庫内に突入する。一度持ち上がった胴が下りて入口を塞ぐ前、ファリスがその巨体を頭上で受け、叫んだ。
「急いで!」
頷き、レギとファーフナー、北斗とみくずが突入する。ギリギリで重さに堪えきれぬようにファリスが退いた。地に落ちた胴がズルズルと勢いよく流れていく。擦り切れた上腕を癒しながら、ファリスは蛇の動向に注視する。蛇がこちらに取って返す気配は――無い。
(大きさのわりに…軽かった…?)
思えば、倉庫に乗り上げている部分もあったのだ。蛇の体重が巨体通りの重さなら、そもそも倉庫は移動開始と同時に潰れている。
窓側でも動きがあった。大部分が陽動に引っ張られて移動している為、ずりずりと動く動きの合間に入口同様隙間ができたのだ。
「突入します!」
「頼む!」
雅を抱えたままReniが空を駆けた。位置は仲間維持。真っ先に横長の窓にとりつき、明がウォーハンマーで窓をたたき割り、大勢が潜り抜けるには難な窓を人が余裕でくぐれる大きさに開かせた。飛翔組が次々に窓へと向かう。蛇の胴が動く。塞がれるか、いや、阻めるか。だが問題はむしろ彼等の移動距離にあった。
「蛇が!」
ハッとなったジーナが走り、蛇の尾が通過した入口に陣取って構えた。その隣に遥久が並び盾を構える。
「! あんたは中に!」
「ここで防がなくては、留守番にあわす顔がありませんからね」
同時に気づき、大蛇を睨み据えた神楽の前にファリスが飛び出す。
大蛇がその巨体を大きく震わせるのが見えた。毒液では無い。体を突き動かしたのは予感だ。
「気を付けて!」
警告に、大技の気配を察していた空の救出班も身構えた。だが空は地上と違い遮蔽物も無い!
「水!?」
大蛇の周囲に満ちた水の膜にロドルフォが声をあげた瞬間、ソレは起こった。
凄まじい水圧に全身が叩かれる。踏ん張ることもできず吹き飛ぶのを他人事のように感じた。体に走る痛みと痺れを堪え、目を開けて茫然とする。倉庫のすぐ前まで来ていたのに後ろに吹き飛ばされていた。しかも――体が動かない!
「うー。くらくらするのだよー……」
「そうやすやすとは進ませてくれんか!」
頭を振るフィノシュトラの横で、チョコーレが苦々しく吐き捨てた。大技の一撃。それで体力がごっそりと削られた。流石に一撃で気絶する者こそいなかったが、この威力と範囲――まぎれもなく、あの大蛇こそがこのフィールドのボス。
発動した雅の範囲回復に癒されながら、抵抗に打ち勝った者達が倉庫に飛び込んだ。ギラリと光る眼が、広範囲にまばらにいくつも見える。あれが、話に聞く犬。
では、悪魔少女達は何処に。
戦意を高める人々の嗅覚が、その時間違えようのない臭いを嗅ぎとった。
血の臭いを感じた。何故、これほどに濃い臭いがするのか。
倉庫中央には何かに覆いかぶさるようにして俯せになっている桃色の髪の少女。血は、その下から広がっている。僅かに幼い子供の姿が見えた。
力無く投げ出された小さな腕。
――その腕は半ば獣傷で切断されかかっている。
血に汚れた銀色の髪。
――その髪は無残に切り散らかされている。
(――)
浮かんだ言葉を。名前を。ファーフナーは意識しなかった。冷静な仮面を吹き飛ばし一瞬で荒れ狂った感情に、けれど行動に移す前にレギが鋭く腕を掴む。呑みこまれるな。感情の暴走で大切な者を傷つけた――あの過去を繰り返してはならない!
「――ッ」
すぐ傍で魔力が急激に高まるのを感じた。千鶴が、レイが、目の色を変えているのが分かった。怒りが熱となって伝播する。驚愕も悲しみも全てが激しい怒りにかわり弾けた。
翼が広がる。ファーフナーも駆けた。空からレイ、ファーフナー、レギ、北斗、みくずが走る。同時に駆けつけたのは移動力のあるRehniだ。
「お願いするのですよ!」
「ヴィオレット!」
雅の悲鳴にも似た声が響く。一直線に落下し、リロ・ロロイの傍らに着地した。
「!」
次の瞬間、行動の早いファーフナーがリロの背後に降り立ちその力を振るう。展開した氷の夜想曲に近くの犬たちが眠りに誘われバタバタと倒れた。連鎖する敵愾心に弾かれたように顔をあげ、目をギラつかせる犬達の体がグラリと揺れる。範囲から漏れた犬を眠らせたのはレイの氷の夜想曲だ。千鶴の闘刃武舞が重なった一部では、切り裂かれた犬が絶命し倒れる。
「天狐!」
Rehniの指示にあわせて召喚獣たる天狐が威嚇を放った。天狐の近くにいた何匹かが反応し、起きているその周囲の犬が連鎖反応を起こす。全ては網羅できない。だがそれでかまわなかった。
リロの前に降り立ったレギが挑発を放ち、最初にターゲットをとったファーフナーへと向かう敵を連鎖を利用して惹きつける。
「後ろ!」
隙をついて走る犬の前、メリーが素早く走りこんで構えた。盾と体がぶつかり、衝撃が走る。メリーはコンクリートを踏みしめ、負けじと跳ね飛ばした。
「目の前に助ける対象がいるなら助ける為の手段に全力を出す……メリーは諦めないのです!そう誓ったのです!」
痛みが何だ。恐怖が何だ。耐え抜き、切り開く力を持つ自分が耐えずして、力を持ち得なかった人々をどうして守れるというのだろう。今ここにも、傷つき斃れている無力な子供がいるというのに!
「くぅ…っ!」
Rehniが痛みに呻いた。ターゲットをとっている天狐のダメージは召喚主たるRehniに反映される。痛みを堪え、足を踏ん張った。ここで倒れるわけにはいかない。背には少女達がいる。
「それ以上はさせないのだよ!」
瞬間移動で飛び込んできたフィノシュトラがアーススピアを放った。迫りくる敵のど真ん中で炸裂した天を衝く尖槍に、走りこんでいた犬達が悲鳴をあげる。
僅かな時間差で幾つもの影が飛び込んできた。周囲を撃退士に囲まれ、僅かにリロが身を起こしたのは雅が回復を使うのを知覚したからだ。その脇を固めるべくチョコーレが降り立つ。
「マスター鎹、どうだ?助かりそうか?」
素早くリロの戒めを切ってそちらを見――愕然とした。飛び込んできた仲間達もそれを見る。初めて明るみにされた無残な姿の全貌を。
みくずが喉の奥で声をひしゃげさせた。北斗の口が戦慄く。
ふっくりとした幼女の腹が、なぜあんなにへこんでいるのだろう。服は赤に染まり、何重にも切り裂かれボロボロになっている。まるで家畜やペットのようにつけられた首輪。恐怖と哀しみに開かれた瞳には光が無い。
一度、二度、息を吐いて、みくずは傍らにしゃがみ込み、ヴィオレットの耳元に呼びかけた。
「助けに来たよ!」
聞こえるかどうかは分からない。けれど届いて欲しい。
助けに来たから。もう大丈夫だから。もうこれ以上痛い思いをさせないから!
放たれた力が五芒星を描く。僅かな間とはいえ、みくずを中心にして周囲の害意ある敵はみくずに近づけない。その力で隣接するヴィオレット達の側面を護る。
「こんな子によくも……!」
北斗の怒りをのせたファイアワークスが倉庫内を赤々と照らした。どれほど痛かったろう。どれほど怖かったろう。悪魔であっても、相手は無力な幼子なのだ!
「壊すだけの何の価値もない力なんざここに置いていけや! 男の力はなあ、次代を育む女を守るためにあるんだよお!」
ロドルフォが吠え、大剣が犬の首を刎ね飛ばした。
振り上げたチョコーレの手の動きにあわせて無数の赤刃が光り、一瞬で地上に降り注ぐ。撃ち抜かれ、悲鳴をあげてのたうつ体を再度フィノシュトラのアーススピアが撃ち抜き、千鶴とファーフナーの範囲攻撃が起きている負傷敵を中心に炸裂する。
突然の事態に目を瞠り、致命傷を癒されるヴィオレットを茫然と見ていたリロの傍らに、傷をおして飛び込んできた明が降り立った。
「さて。これを聞くのは些か忍びないが――無事かね、リロ君」
リロはそちらを振り仰ぐ。
声でわかっていた。明だ。
いつもの飄々とした笑みの中、その瞳にたいそう真摯な何かが見えた気がした。リロは何かを言いかけ、口を噤み、もう一度開きかけて、やはり唇を引き結ぶ。ただ真っ直ぐに明を見るその瞳が、一瞬揺れた。
「まぁ、会話は後回しだけれども。ところで、怒りをぶつける気はあるかい?」
明の声に、リロは数秒逡巡してから「無理」と答えた。
攻撃かヴィオレットの保護か。万全なる行動はいずれか一つ。全ての脅威が取り除かれない限り、ヴィオレットを護ることを優先しなくてはならない。
「了承した。ならば、代わりに晴らしてこよう」
彼らしい言動にこんなときだというのに、少しくすりとしかかったのが何か悔しい気がする。
「こんなもの、ふざけているのですよっ」
幼子の首にはめられた首輪に、憤慨してRehniが手を伸ばした。待って、と声がかかる。
「恐らく、外れない。あの天使が作って行ったものだから」
「何者なのです?」
「名前しか――『ファウルネス』……おそらく、研究者」
何を研究している天使なのか。それはリロにも分からない。だが、不吉な感じがするのは何故だろうか。
「いずれにしろ、ろくな奴じゃないな」
「ま、ゲス野郎なのは確かだな」
北斗とロドルフォの声に、人々は頷く。
悪魔少女達を内側に、みくず達が全方向の脇を固める。明が味方だけが固まっているのを見てリロ達を中心に癒しの風を放った。
広範囲に展開する攻撃の合間を縫うように、ロドルフォ達が漏れた個体を葬っていく。飛び込む狂牙をメリーの盾が阻み、最後の個体を北斗の放った白光の護符が撃破した。
「あっ」
みくずが声をあげる。ヴィオレットの首にはめられていた首輪が、犬が息絶えたと同時にぼろぼろと崩れたのだ。地上に縫いとめていた紐のようなものも消滅する。
「連動していたのか……」
北斗が顔を顰めた。
件の天使の作――だとすれば、こういった束縛系の能力に長けている可能性は高い。
「どうやら、中はもう大丈夫のようですね」
倉庫入口から聞こえた声に、一同はハッとなってそちらを見た。盾を手に入口を外の敵から守っていた遥久が無事なリロと、その腕に抱かれている幼女の姿に僅かに目元を和らげる。だが、その顔色を見て眉を潜めた。
「ヴィオレットさんの容態は」
「命はとりとめたが――」
雅の答えは歯切れが悪い。その顔色も青いまま。
(……時間が経ち過ぎた)
だがそれを、どうして今皆に告げれようか。
「外へ! まだ戦いは続いてる!」
「先生達は中にいてくださいなのです!」
内部は制圧した。だが外からの轟音にチョコーレが鋭い声をあげ、メリーがヴィオレット達を気にして言葉をつづけた。飛び出した一同の前で大波が弾けるのが見えた。距離があるためこちらには届かない。
遠距離への攻撃可能な者が魔具を構えた。飛び立った者は、空から急襲しているリオン達への加勢に走る。
「連発に気を付けろ! なりふり構わなくなってきている!」
気づいた綾羅の警告にレイが頷いた。大蛇の猛威に晒され続けていた陽動班の傷が深い。大蛇の目に向かって攻撃を放ち、綾羅は鬱血した腕の痺れに顔を顰めた。
「この大きさだ。適格に急所を突いていかねば埒があかないぞ」
「最後まで…油断せず…」
強波に叩きつけられた体を抱きしめ堪えながら、ベアトリーチェが呟く。
ファリスの生命探知で影犬の討伐が終わっているのは確認できた。あとは大蛇のみ。
「ご無事ですかな、久遠殿」
「なんとか、か」
周囲一帯を押し飛ばす強波では、流石に庇いきるのは不可能。それでも仁刀の前に立って負傷を減らし続けてきたヘルマンの傷は深い。即座に飛んできた回復に癒されながら、同じく癒してもらった神楽が、【黒渺】の力を込めた一撃を大蛇の牙に放った。鈍い音がして、ディアドラ達の攻撃で亀裂の走っていた牙が折れ飛ぶ。もう片方の牙が無いのは、仁刀へと直接攻撃を放った際、二撃目に庇いに入ったヘルマンのクロスカウンターで砕かれたためだ。
「そのうち決戦だ、この蛇、ここで潰しておきたいが……」
仁刀の呟きに、老執事は深く頷いた。
「ええ」
その確信に満ちた声に視線の先を追えば、駆けつける仲間の姿。救出は成った。なら、遠慮はいらない。
「行くか」
剣を構える仁刀に、ヘルマンもまた構える。防御ではなく攻撃を。
気づいた大蛇が鎌首をもたげ――大きく身をくねらせた。
「!?」
攻撃前動作とは明らかに違う。その体の一部から血が迸るのを一同は見た。場所は最初に仁刀が与えた大傷の位置。ずぶり、と突き出た人の手にレイが目を瞠った。
「ファラ!」
呼び声をファラは聞いた。だが構わず突き進んだ。
倉庫から離れて後、ディアドラと共にずっとずっと同じ場所を攻撃し続けた。
宿す力は属性攻撃。天を葬るための力。進み、抉り、さらに進む。毒の体液に身を浸して尚――!
(許せるものか)
天使。おまえは知らないだろう。誰かを大切に思うその気持ちを。その相手が奪われかけた時、どれ程の怒りと憎しみを向けられるかということを。
(絶対許すものか!)
「ァアアアアアッ!」
声と同時、ブツリと鈍い音がした。切断された胴の片方が地面に転がる。激しくのたうち、頭部側も大きく態勢を崩した。
その頭部へと仁刀とヘルマンが走る。
――そのうち決戦。
その言葉、ヘルマンにも理解できた。そう、やがて来るだろう。天界陣営との正面衝突も。だから――
(さぁ鏖殺しましょう)
微笑みの中に、一欠けらの殺意を。
(貴方の眠りを妨げる全てを。貴方が還るその日まで)
宿されし封砲の力に黄昏色の鎌が落日の光の如く煌めく。大きく頭部を切り裂いた一撃にあわせ、仁刀はその剣を振るった。
(考えるよりも、前へ)
理屈をつけるのも意味を考えるのも全て後。振るうべき時にその力を振るう事――すべては前へと進み続ける為に!
「これで――最後だ!」
傷口目掛けて重ねられた一撃が、大蛇の頭部を真っ二つに切り裂いた。
●
頭を撫でながら、神楽はその体を見下ろしていた。
小さな体は、今は真新しい服に包まれて横たえられている。
獣傷の跡は消せなかったが、千切れかけていた腕も無事。今は清潔な包帯に包まれている。
<にーに>
頭の中で声が聞こえた。肉声では無い。
力無く投げ出されたままの小さな手を千鶴が握る。もう片方はジーナが。ぷよぷよした幼い手は、けれど握り返してはくれなかった。
「ひどいのだよ…こんなの、ないのだよ…」
唇を噛むフィノシュトラの頭をファリスが撫でる。
常の無表情を必死に纏いながら、動揺を押し隠すファーフナーの背をレギが支えた。
<じーじ>
頭の中で声がする。やはり肉声は無い。
「これだから天使連中はいけすかねえ」
胸糞悪いとばかりにロドルフォが自身の拳を掌に打ち付けた。
メリーがそっと自分の手を胸に抱く。
ギリギリで命は助かった。最悪の結末は防ぐことができた。けれどやるせないのは、幼い子供が自力で動くことすら出来なくなってしまったからだ。
「完全に断絶してるわけではない。……リハビリを続ければ、動けるようになる可能性もあるそうだ」
雅の声に、リロは小さく頷いた。
「沢山技をつかえても、こんな……」
自身の手を見つめ、Rehniが唇を噛んだ。学園に戻れば回復のエキスパートに戻れる。だが、学園へひとっ跳びできる技術は今は無く、学園からの援護も今は無い。
「いや、マリアンヌの力ですら無理だったからな……」
「『後遺症』は…消せませんもの」
仁刀の声に、ようやく駆けつけれたマリアンヌが応えた。その目が赤いのは、合流して後、ヴィオレットを抱きリロの服の裾を握って子供のように泣きじゃくっていたせいか。今もすんすん鼻を鳴らしている。
あとほんの少し回復が早ければ――だが、回復が見込めないわけではないのは、力を尽くした成果だろう。
「これから…どうするのです?」
メリーの声に、リロはマリアンヌを見、メリーへと視線を戻した。
「閣下の元へ。裁可を得にいく」
「裁可、って……」
「判断を仰がなきゃならないことが、たくさんあるから」
リロの視線は、自然、ヴィオレットへと向けられる。
「学園でリハビリ出来ないかな!?」
「そうだ。リハビリ用の器具もある」
みくずと北斗の声に、リロは一瞬押し黙り、やはり裁可を仰がなくてはならないと首を横に振った。
おそらく、ヴィオレットはもうメフィストフェレスの直属としては役に立たないだろう。移動特化の転移力だけは残っているかもしれないが、自力で動けないのではそれ以前の問題だ。復帰できるかどうかすら分からない。
「向こうに戻ったとしても…。いや……戻って来たら、今度こそ、美味しいもの作ってやるからな」
北斗の声に、ほんの僅か、ヴィオレットの瞳が輝いた気がした。
「こんな状態で言うのもどうかと思ったが……」
逡巡を挟み、綾羅は声を落とした。
「――楓達を弔いに来てくれて、有り難う…」
数秒考え、楓の名に思い至ってリロはゆっくりと首を横に振る。
「……シマイは、あんなんだったけど、兄弟子だったから」
シマイ自身は気付いてなかったかもしれない。自分にも、ちゃんと縁はあったことを。あまりにも長い間独りでいすぎて、自分で作ったもの以外を信じられなくて、他から発せられていたほんの僅かな繋がりに気付けなかったのだ。
(シマイ殿……あなたにも、ちゃんといらっしゃったのに)
ヘルマンがそっと眼差しを伏せる。自身の抱いていた思いも、きっとあの悪魔は気付かなかったに違いない。
縁は結ぶもの。一方的にではなく、互いに。けれど『彼』は確かにそこにあった他方からのそれらに気付かず、そして気づかぬままに終局を迎えてしまった。それが少し、切ない。
「やれやれ……。まぁ、やっといつものあいつに戻ったかな」
重体になったファラの部屋から帰ってきたレイが嘆息をつく。「和幸ちゃんと同室希望!」とやんや騒いでいた妹分は、念願叶って和幸と同じ部屋に放り込まれたらしい。
(まぁ、流石に部屋に入る時は大人しかったから、大丈夫かな)
たぶん明日にでも放り出されるだろうなぁと思いつつ、ちょっとほっとする兄貴分だった。
その向こうではチョコーレが思案気な顔をしている。
「しかし、新たな天使か……連中、何を企んで……」
言いかけ、チョコーレは首を横に振った。
「いや、企みなど、一つしか無い、か」
「…天魔の狙い…土地目当てなら…ゲート…」
ベアトリーチェがひんやりとした声で告げる。
分かっている。使徒との間に友誼に近いものが結ばれようと、その上に立つ天使の意識が変わらない限り――最終的な目的が力の獲得に他ならない限り、その存在の先には『それ』があるのだと。
「彼等の目的は古今東西現在未来、須らく同じだからねぇ。いやはや、少しぐらい変わり種があってもいいと思うのだがね?」
「秩父はいかがでしょうか?」
「あれは却下」
リロの傍らで嘯くような明に、リアンが声をあげ、流れるような自然さで明にダメだしされる。
「ああ、そうです。転移不可能なせいで学園で地団駄している親友からリロさんに」
さも今思い出したような顔になり、遥久はそっとリロに告げた。
「『やり返すならいつでも手伝う』…だそうですよ」
誰の事なのか分かって、リロは瞬きしたあと、ほんの少しだけ微苦笑を浮かべた。
「覚えておく」
やり返したい思いはある。それはもう、滾るほどに。こうして平静を装うのにどれ程の胆力を要していることか。それはマリアンヌも同じだろう。
だが、この地で自分達が――『メフィストフェレス直属の悪魔』が――天使と直接対決すれば、それは特異な状況下ですらないのに秩父と同じ状況をこちらで作り出すことにもなりかねない。
種子島の戦いへの不介入。
それは、メイド長から直々に下った命令でもある。戦いたい。この怒りを思い切りぶつけたいけれど!
「……裁可を仰ぐ案件に、一つ、追加がいるかもしれませんね」
「…マリー?」
ふとマリアンヌの声が聞こえた。もらったミネラルウォーターを手に、全てが終わってからでしか関われなかったマリアンヌはある方向を見据えている。
リロも気づいた。
自然、その目が険しくなる。
そうして一同を振り返る。
「キミ達の助力……閣下にはちゃんと報告させてもらう」
ありがとうございました、と。
深くお辞儀するリロの後ろでは、同じくマリアンヌも深く頭を下げている。礼を前に矜持は意味をなさない。顔を上げた時には、憔悴の色は払拭されていた。
「いずれ、また、お礼はさせてもらうから」
「どのような時、どのような形になるかは分かりませんけれど」
ゆっくりとヴィオレットの傍に歩き、その周囲にいる心配げな眼差しの一同を一人一人目に焼き付けて、マリアンヌは微笑んだ。
「吉報を、どうか、お待ちくださいませ」
抱き上げられたヴィオレットを胸に、もう一度深くお辞儀して遠くで待っているレックスの側へと歩く。
「もしかしたら」
同じく踵を返しながら、リロがぽつりと呟いた。
「わりと早く会えるかも、ね」
「ふむ?」
明の声に、リロは一瞬だけその服の裾を摘み、すぐに離してマリアンヌの後を追った。
また、と。言われた気がした。だが真実は分からない。
レックスに乗る前、振り返ったメイド二人が声を揃える。
『我らは盟約を護る者』
撃退士の戦いは撃退士のもの。それに手出しをしてはならない。
けれど、思う。
「私達の怒りをあなた方に」
「私達の願いをあなた方に」
何度も顔をあわせ、手合せをし、言葉を交わし、思いをぶつけあった。
だからこそ
『託します』
そう、この瞬間は、同志として。自分達が認めたこの世界の人々を。
『どうかご武運を』
声と同時、天が光った。
「な……!?」
突然の閃光に目を眇め、思わず一同はそちらを向く。
「あれは……」
「来たか――ついに……!」
天を衝くその異様を何度仰ぎ見ただろうか。
ある時は怒りをもって、
ある時は悲しみをもって、
ある時は悲願をもって、
数多の者がそれぞれの思いとともに、武器を手に仰ぎ見続けたもの――
即ち、ゲート。
「……あそこに」
ぽつりと、ディアドラが呟いた。
「きっと、あそこに行けば会えるのですね――元凶と」
「ええ。今回ふざけた真似をしてくださった方も、きっとあの場所に」
ゆらりと立ち上がったディアドラと、ゆっくりと立ち上がった神楽が微笑みあう。
視線の先――天を衝く光の柱。清廉なディアドラの美貌の中、壮絶な笑みが零れた。
ああ
ああ
殺しましょう
殺しましょう
凄絶なる憎悪と純粋なる怒りをもって。この場にいる、同じ思いを抱く人々と共に。
――天使。
おまえだけは絶対に許さない。
種子島、最後の戦いが始まろうとしていた。