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マスター:川崎コータロー
シナリオ形態:シリーズ
難易度:難しい
形態:
参加人数:7人
サポート:1人
リプレイ完成日時:2016/12/01


みんなの思い出



オープニング


 春夏冬が学園に帰還して暫く。
 あれから春夏冬にはバロックの『呪い』の兆候は見られず、また体調面に於いても何ら異常も見られない。戦闘での負傷の回復も順調で、あと数日もすれば通常の学園生活に復帰するだろうという域にまで到達していた。
 その期間、春夏冬と小鳥遊の間には何となく、微妙な壁が形作られていた。
 それは無自覚な共依存が発覚したための罪悪感。それは密やかな劣情が露わになったための気まずさ。欲と望みが絡み合って白日の下に陳列された諸々の全てが距離となり溝となり、そして壁となった。『義理の兄と妹になる筈だった』二人には、些か酷な話であったのだ。
 一応のこと、小鳥遊は様々な用事や手続きのために春夏冬の見舞いには毎日出向いていた。だが形式的もしくは儀式的なもので、見舞う間の言葉も少なく、用が終わればさっさと帰っているのが現実であった。
 小鳥遊は怖かった。目の前にいる男が、いつ自分の前から再びふらりと居なくなるのかを。
 この男は『大丈夫』などというものではない。今倒れてもおかしくないような一本の棒に寄りかかり、寒空の下で凍えている寂しい男だ。だが自分にはその寂しさを消せる唯一の方法を実行できるだけの勇気と行動などなく、結果としてそれが新たな壁を生み出す一因にもなっていた。
「――以上、これで今日の報告はおわり」
「そうか。苦労をかけるな」
「いいのよ。別に、仕事だし」
 そう言えば、かつてはどのような話をしていたのだろう。いつも交わしていた筈の他愛のない話も消えて落ち、辺り一面には目障りな枯れ葉の絨毯が敷かれていた。
 幻だとは知っている。それでも垣間見える狂気の片鱗……バロックによって作り出された毒気の足跡が……幻覚となり幻聴となり、小鳥遊が見る春夏冬の周辺を漂っていた。それも怖かった。
 春夏冬はまだ『大丈夫』ではない。呪いは消えていないと、そう錯覚してしまう自分が、誰よりも怖かった。
「それじゃあ、私はこれで」
 立ち上がろうとした時、春夏冬が胸を押さえて苦しみ始めた。
「ねえ、ちょっと、ねえ、どうしたのよ」
 声にも反応できない程の苦しみらしく、低く唸るような苦しみを、何とか吐き出す息と共に発している。看護師を呼ぼうとした瞬間、小鳥遊は春夏冬の手に現れた傷を見た。


「ベルンゲル、休暇はどうだった」
「お陰様で。英気を養えました」
「そっか」
 シャウレイとコッペリウスが紅茶を飲んでいる。テーブルの横ではベルンゲルが給仕をしており、二人の喫茶に合わせて茶を継ぎ足したり、茶菓子を出すなどしている。
 ベルンゲルの淹れる紅茶は美味い。シャウレイは基本的にベルンゲルの淹れた紅茶しか飲まない主義であるのだが、ベルンゲルの紅茶を飲んだコッペリウスはなるほどその理由に触れた。
「よし、じゃあ出かけようか。このままずっと兄さんの家にいるのもそろそろ暇になってきたし、ベルンゲルも帰ってきたし」
「えっ、どこに行くの」
「ちょっそこまで。兄さんもおいでよ。もしかしたら、ドルディー兄さんやドルダム兄さんより、もっと懐かしい顔に出会えるかも知れないよ」
 人の邪悪を知らない、否、忘れてしまっている純粋なコッペリウスは知らない。
「ベルンゲル、出かける準備を」
「御意」
 これから会いに行く人物が、どんな事件を引き起こしたのか。
 これから会いに行く人物が、どんな事件を引き起こすのか。
 仮初の純粋は知らない。知れないままでいた。


 日が、沈もうとしている。
 すっかりと冷たくなった夕闇の風。野望の廃墟を一望できる島の一番高い場所で、バロックは地平線の向こう側を見ていた。
 『あの人』と落ち合う時間はもうすぐである。視界の端にその影を感じながら、面白い事を起こしてやろうと思い至る。それが『あの人』へ一番伝わる狼煙であり信号弾であった。

『この男の呪いを解きたいか。ならば条件がある』

 緑が生み出す赤の惨劇。血と肉の交じり合う、劣情と共依存の照明が出演者を照らす。
 明かされつつある真実。それでもまだ近づけぬ真実。
 さあ、豊かで静かな毒を吐こう。その末を耐えた先に、緋色の蜜を吸う者が現れる。

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リプレイ本文


「でも、まさかまたこの島に来ることになるとは思わなかったわね」
 遡れば二年前の年の瀬であった。神埼 晶(ja8085)はこの島で春夏冬らと共にルイジ・イワノビッチとの決闘に挑んだ。
 既に埋もれつつあった過去の事件の場所。よもや再び足を踏み込もうとは思いもしなかった。
「……またか。いい加減おねぇさん、怒っちゃおっかなぁ」
 麗奈=Z=オルフェウス(jc1389)は、何度も起こる事件に最早腹を立てつつあった。
(春夏冬メ……面倒を掛けやがル)
 長田・E・勇太(jb9116)は内心舌打ちをした。小鳥遊と春夏冬がどうなっているかは現時点ではまだ分からない。だが、春夏冬が先のように襲い掛かってくる可能性は濃厚で、ともすれば自分が彼を前線で引き受ける役となる。そうならない状況が一番良いのだが、『不確定』という名の現状が先見の邪魔をしていた。
(下手に力が強い者よりも心理戦に強い者の方が厄介ですね)
 雫(ja1894)はアル=ジェルの全てを知っている訳ではない。だが、佇まいからして意志の強そうな女がバロックの扱いには手を焼いていた。そして確固とした信念でバロックと接した春夏冬ですら、その魔の手に堕ちてしまった。
 次は小鳥遊も……
(彼奴の能力を考えたら情を憎しみに変えて殺し合いをさせかねません)
 その事態だけは何とか回避させなければならない。
「この状況下で散歩は無いでしょうから、十中八九バロックが絡んでいるでしょうね。急ぎましょう」
「小鳥遊さんがバロックに会いに来たなら、たぶん毒の解除の事かな。バロックに呼ばれてでてきたなら、罠に違いないと思うけれど……」
 感知で周囲の状況を探る五十鈴 響(ja6602
「いるなら返事をしてください。小鳥遊さん、春夏冬さん」
 激戦の痕が未だ色濃く残る廃墟の島では、五十鈴の呼び声が不自然なまでに響き渡る。残響が次の発言を憚られる静寂の中、足音すら必要以上に大きく聞こえた。
(春夏冬さん抱えて動くのも大変ですし、あまり道から外れてないかな)
 気配はこの島にある山の頂上から感じられる。街灯一つとない夜の道であるが、月の光のお陰で視界は明瞭であった。
 辿り着いた先。そこに居たのは、春夏冬を伴った小鳥遊、そしてバロック。
 五十鈴達が状況を確認せんと、身を隠して二人がどのような会話をしているのか探ろうとする。だが距離が遠い所為で、二人が何を話しているのかわからない。
 だがバロックが静かに頷いた瞬間、春夏冬の呻きが消え代わりに小鳥遊の姿勢が僅かに崩れ、息を詰まらせ胸を押さえた。
「小鳥遊ちゃん!」
 一瞬で展開される最悪の状況。木嶋が身を乗り出して叫ぶ。
「そいつから離れた方がいいよ。悪いこと、言ってないから。とにかく離れて! お願い」
 広場に到着した木嶋 藍(jb8679)らを小鳥遊は少し分が悪そうに睥睨した後に、やがてじりじりとバロックから距離を取り始める。
 即座に動いたのはオルフェウスと五十鈴である。
「どうしてこんな無茶をされたのですか……!」
 小鳥遊は突如とした五十鈴達の登場に驚いている様子で、目の前の事象を受け止めきれていない様子であった。少し感情的になっているようで、五十鈴の言葉に声を荒げながら反論した。
「だって!」
「今は落ち着いてください」
 首を動かさず、五十鈴は視界の端で立っているバロックの姿を確認する。バロックの毒を避ける為に目を合わせないように警戒しながら、その動向に注意を払う。
「大丈夫ですから。私たちは小鳥遊さんたちが急に消えて心配して探しに来ました。バロックは生け捕りにしたいと思っています。聞きたい事がまだ沢山ありますから」
「バロックを……?」
「小鳥遊さんはどうしたいですか? できる限りサポートしますから」
「大丈夫。ゆっくり……は少し難しいですが、しっかり考えてください」
 オルフェウスと共に二人を木嶋達の背後へと再度瞬間移動で運ぶ。その後、五十鈴から春夏冬を任せられたオルフェウスは春夏冬を猿轡を噛ませ布槍で捕縛した。
「ちょ、ちょっと」
 有無も言わさぬ滑らかな暴挙に小鳥遊の方が声を上げたが、オルフェウスが放つ威に圧されて押し黙った。
「じっとしといて。これ以上あたしを怒らせないでね♪」
 浮かべたのは怖い方の笑顔である。
 しかし何よりも心配なのは、バロックの毒の効果である。小鳥遊と、そして弱っている春夏冬を見る。
「……」
「な、何?」
 春夏冬はともかく、小鳥遊に毒が施された様子は見られない。だが油断は禁物で、もし暴れられたらスリープミストで眠らせ、バロック捕縛の名目で用意した道具で縛り上げる、最悪の場合はスタンエッジで一旦気を失って貰うしかない。
「大丈夫? ケガはない?」
「ケガは……ない」
 どうして小鳥遊がこのような表情をしたのか。木嶋は少し引っかかったが、バロックの目を見ぬように、首から下を努めて見ながら様子を伺う。
 ようやく、直接対決である。問いたい事は沢山ある。
 バロックは『掌の上で踊る』と言っていた。
 ――誰の? 誰の掌? この状況を望んでるのは、バロックじゃないの?
(……なんだろう、何かの意図を感じる。―――透明な悪意のような)
 それは木嶋が感知しているよりもずっと昔から緻密に構成されたゴブラン織りの華美さと、森の奥深くに佇む湖の透き通った静謐さ、それらが混ざり合った純粋な悪意。まだその姿を捉える事は不可能で、それでも『そこにいる』という気配だけは察することができる。
(――『そこにいる』の、あなたは)
 ここはこの島で一番高い場所。俯瞰する場所などありはしない。だが、それは人間に限った話。天魔の類であったら、この事件を観覧する事ができる場所が一つだけ存在する。
 天。
 星輝く宙。夜の帳の裏側の黒に、針を刺して穴を開けたかのような光。
 煌々と輝く月の光。その光の線の中で、ふと誰かの視線を感じた、気がした。
(あなたは誰?)
 春夏冬に言った『向こう側、望むもの』。誰を指しているのかが知りたい。だが、そう易々と教える訳もないだろう。
 察するに、バロックが保った一年の沈黙を、易々と保たせる人物。
 それは報告書でアル=ジェルが供述していた、彼女の末の弟なのか。
 証言はあまりにも多いのに、それを裏付ける物証があまりにも少ない。
「小鳥遊さん、アッキーはわかるけど、一緒にいるソイツはなんなの? 見るからに普通じゃない風貌だけど」
「カマかけなくてもこいつがバロックよ」
「ん、そっか。ごめんごめん。……ま、私としては小鳥遊さんとアッキーを無事に連れて帰れたらそれでいいんだけど。――そういうわけにもいかない状況になってる?」
「無事とは言えない状態よ」
 小鳥遊の傍らには蹲る春夏冬。
「アッキー、聞こえてる? まさかルイジ・イワノビッチと同じ場所で死にたい、とかそんな感傷に浸っているわけないわよね? そうはさせないし、きっちり連れて帰るから」
 愛用のリボルバーCL3を取り出す。
「こいつを倒したら、アッキーも悪夢から解放されるのかしらね?」
「否、悪夢は続く。様々な容貌で」
 ゆるやかに差し出された右の腕。それをオルフェウスが吹いた角から発せられる衝撃波が妨害する。
「あら、それ以上のオイタは無しにして欲しいわ」
 視線、会話、一挙一動の全てが毒の契機になりかけないバロック。まだその能力の得体が知れない内は、怪しい言動全てを虱潰しの要領で潰していかねばならない。
 回避射撃で小鳥遊と春夏冬の後退の援護を行いつつ、神崎がデスペラードレンジを放つ。命中精度を犠牲にした、攻撃力と言うよりも破壊力重視の一撃。
「長引かせたら、コイツの毒にやられる。さっさとケリをつけてやるわ!」
 二年前を掘り返せば、ここはルイジ・イワノビッチが仕込んだ地雷原である。それが今でも残っていたら良かったのだが、生憎と当時の戦いで殆どが爆発。数少ない残りも撤去された事だろう。悔やまれるばかりだ。
 いや。
「拘束具であれだけ動きが制限されているなら、むしろ懐に飛び込んだ方が安全か……な」
 シルバーレガースで一気に距離を詰める。詰める最中、アシッドショットを放って更なる機動力低下を目論む。
 五十鈴は小鳥遊も毒を施されている可能性を見越し、 彼女の動きを見張ることを優先。バロックの攻撃をシールドで防ぎながら、技が届く距離に位置取る。もしも小鳥遊が自傷行為などに走り毒の兆候を見せれば、即座に瞬間移動を行って一度意識を奪う。
 取り出したポリシーアナイフでの斬撃。飛ばされるバロックの刃に怯む事などなく、むしろ攻撃を受けることで加速とし、長田は一瞬のうちに距離を詰めた。
「サァ、楽しいインファイトの時間ダ」
 接近戦。
 十字斬り、掌底、破山。ありとあらゆる手持ちの技を駆使し、バロックをじりじりと追い詰めてゆく。
 間に割って入ったのは、これまで身を潜めていた雫。小鳥遊たちをバロックから引き離す為に、背後から兜割りで一気に仕留めにかかる。
「彼奴に何を聞かされたかは知りませんが、今までの行いから信用は出来ない筈」
 小鳥遊にそう言い聞かせた後、バロックに向き直る。
「バロック、答えなさい。小鳥遊さんに何を吹き込んだんです。個人的には此処で滅殺したいところなんですがね」
「取引」
「取引?」

「その男、救いたくば、毒、移し替える。取引」

 場が凍りついた。
「小鳥遊さん、あなた」
「……ええ、そうよ。私はバロックと取引をした。だからあいつはもう大丈夫。」
「確りと現実を見なさい! 貴方に都合の良い事を提供してくる筈が無いでしょうが!」
「そうよ! 私の都合に合わせて万事うまく行く話なんてないのよ! 無かったのよ! だからあいつの毒を私に移し替えたのよ! でもこれで何の心配もいらない。だって、ここから先は私達の問題だから!」
 その時雫は目にした。
「私は一人になりたくなかったの。わかる……? 私にとって孤独は、どうしようもない苦しみだから」
 その諦観の微笑みを。今にも涙を零しかねない大きな瞳の奥にある虚無を。
 次の瞬間、雫の体は動いていた。闘気を解放し、周囲をぐるりと回りこんで背後から仕掛ける。あまりの速さにバロックの反応は遅れたが、間一髪の所で防護陣を張り受け止める。
「お前の存在は危険過ぎです。そして、何より人の心を弄ぶその行いが気に入らない」
 表情を一つとして変えないバロック。先ほど小鳥遊に何をしでかしたのか、詳細はまだわかってはいない。だが、これまでの許し難い所業を鑑みるに、まだ成人もしていない少女に過酷な毒を背負わせたのは明らかであった。
「俺は死ぬべきか」
「然り。いたずらに邪悪なものは存在すべきではないので」
 小鳥遊は言った。『何も心配はいらない』と。しかし、バロックの事を鑑みるにまだ不安が拭えた訳ではない。妙な動きや変に接近している時には、仲間に声を掛けてすぐにでも動きを止められるようにしておく必要がある。
「これを望んでるのは、誰なの?」
 木嶋はバロックに問う。
 過ぎてしまった事を
「我が主」
「名前は、教えてくれないの?」
「名前、高貴。教えられない」
「そっか」
 教えられないならば、もう聞きたい事もない。アウルを両眼に集中し知覚力を研ぎ澄ませる。
 目を見てはならない。
 殺してはならない。
 何とも加減の難しい一戦である。だがやらねばならない。目が見れない以上、バロックが次に狙う場所や人間の予想がし辛い。だからこそただでさえ鈍足そうな足を狙い、更に機動力を落とす。
 また、バロックはただ鈍足なだけではない。鈍足な分、異様に頑丈でまた魔法に非情に優れている事が伺える。ああいうタイプに近距離で一撃撃ち込まれでもしたらたまったものではない。
 銃での攻撃に絞って行動しつつ、できる限りバロックの視界に入って目立つように動き、攻撃は木嶋自身の身体で防ぐ。
 すると、影――
 影と共にぞろりと現れたのは数多 広星(jb2054)である。
 バロックには数多がいつからそこにいたのかすら見当もつかなかっただろう。
「いつから」
「最初から。元々、隠密からの奇襲が本分なんだよな」
 春夏冬には前科があるため、まずは仲間の後ろ側で警戒していた。バロックを発見後そのまま遁甲の術で隠れ、無音歩行でバロックに接近。
(生捕りが『理想』、つまりデッドオアアライブ。死なない程度には攻撃可、死んだらそれまで)
 後はその時をじっと待つ。それだけである。
 悪意はなく、殺意もなく、音も気配もなく。味方も敵も、自分の事を完全に忘れる程に一切の行動を起こさず、背後を取って動かない。
 ある程度背後を取った状態で静止、味方の攻撃で更なる接近を待つ。味方には一切の援護をせず、敵には一切の妨害も行わない。攻撃の余波を受けても動じず、自分を岩だと思い、動かない。
 そうして待っていた。この時まで、ずっと。
「これからもっと楽しもうじゃないか」
 死のソースを沁み込ませたアイマスクを無理やりに装着させ、素早く裸締め。嗜虐的な微笑みを浮かべ、バロックに耳打ちをした。
 バロックは強烈な刺激と絞め技に僅かな呻き声を出した。が、すぐに平静を取り戻した。
「否、その笑みは未熟者の笑みか」
 直後、バロックの背から爆発が起きた。大きく乾いた音と共に、数多が吹っ飛ぶ。一同は突如の事に数多の安否を案じたが、数多自身も拍子抜けする程にダメージは少ない。どうやら、音が強烈なだけの、相手を後ろに吹き飛ばすだけの術のようだ。
 しかし、バロックを自由にさせてしまった。
 何とかアイマスクを外すバロック。しかし直接目をやられたせいか、痛みで目を押さえながら後ずさる。背後には切り立った崖。
「まさか」
 神埼が身を乗り出す、と同時にバロックの足元が強く瞬く。

「さらば」

 呻き混じりの言葉の直後、バロックの周囲を砂煙が覆い尽くす。
 周辺の見通しを一度に奪う砂煙。目に入らぬように咄嗟に瞼を閉じる。やがて収まった時、バロックの姿はどこにもなく、夜空に一筋の星が走り去った。
「逃した、カ……」
 今度は実際に舌打ちをした。実際に接触できたのだから生け捕りが理想だったが、それが叶う事はなかった。
「うう……」
「あらお目覚め?」
 目覚めた春夏冬の拘束をオルフェウスが乱雑に解く。
「あ、あの」
 端的に言うと、オルフェウスは冷静な方向性でブチギレている。
「本当に弱い。過去に囚われて今も未来も失くすつもり? 下らない。あなたはもう戦う事も、誰かの仇を取る事も軍人としている事も、総てに於いてその資格はないわ。誰も来ない牢屋にでも一人で籠って一生悩んでなさい」
「ちょっと、やめて!」
「分かるかしら。こんなに言ってるのにこの男は変わらないのよ。ならもう首輪付けて管理するしかないの。あなたにその覚悟はある?」
「あるわよ。だから私はバロックと取引をしたのよ!」
 意識を取り戻してすぐの春夏冬には、何のことか全く理解ができなかった。
「なあイヴリン、お前何を――」
「何でもないの! 何でもないから!」
 つい出た素。イヴリンという小鳥遊の本名。
「何でもなくないよ」
 木嶋は感情的になっている小鳥遊を優しく抱きしめた。
「触れてあげて、春夏冬さんの心を守ってあげて。そうしたいんだよね? そうしたかったから、小鳥遊ちゃんは……」
 ぴたりと止まる小鳥遊の動き。悪い熱と共に、呼吸が鎮まってゆくのがわかる。
「一歩だけ、前に踏み出して。難しくないよ。幸せになることは決して」
 最後に頭を撫でて微笑む。
「たぶん、こういうの嫌いだったかもだけど、ごめんね」
「全然嫌いじゃない。……ちょっと、姉さんを思い出した」
「そっか」
 さて、少女は心の整理をつけようとしている。ならば男は? 木嶋は小鳥遊の顔に穏やかさの片鱗を垣間見たのを確認すると、颯爽と歩いてゆき春夏冬の背中を勢いよく叩く。厚い布地で音こそ響かなかったものの、それでも威勢のいい音が聞こえた。
「うおっ」
「目を開いて、ちゃんと守ってあげてください! どれだけ強くったって、女の子なんですから」
「そうか」
 目の前にいる少女は、かつて愛した女の面影を濃く残していた。だが、彼女ではない。想像していたよりもずっと細く儚い体を、静かに抱き寄せた。
「……ごめん」
「謝らないでしょ、バカ。惨めになるでしょ」
「そうか。そうだな……」
「だからって、なんで黙るのよ……」
「うん。ごめん……」
 夜は、まだ続く。だが極めて遠くで白んだ空が、朝の到来を予告していた。


「あ、バロック。こっちこっち」
 聞こえる声を頼りに、バロックは頼りなさげに飛ぶ。やはり戦闘は不得手な部類に入る上、何よりも目の刺激が強烈であった。
「我が主、久しく」
「いやあようやく会えた。もっと長引くかと思ってゆっくり来たんだけど、思った以上に早く終わらせたね」
「ない、申し訳」
「君が謝る事じゃない。何が起こるかわからないからこそ面白いのさ。それにしたって彼ら酷いことしたねえ。大丈夫? 見えてる?」
「心配御無用。回復、二・三日、あれば」
「そっかそっか。君やっぱ頑丈だねえ」
 とは言え目を開けることができないのは事実。バロックは黒い包帯を取り出して装着した。目が開くようになるまでは視力を封じる事となるが、バロックは耳と鼻が利く男で、これといった不便さを感じてはいなかった。むしろ長らくの監視生活からのリハビリにはちょうど良いとすら考えている程である。
「懐かしい顔って、バロック?」
 ベルンゲルにしがみつくコッペリウスが身を乗り出してぶんぶんと手を振る。
「ひさしぶりー」
「ご無沙汰、随分と。ないようで、大きな変わり」
「しっ、身長はちょっと伸びたからね! 変わってなくないからぁ!」
 さて、長らく手元から離れていたバロックがようやく戻って来た。あの事件を起こしてアル=ジェルに取り上げられてから十数年。
 長かった。実に長かった。退屈という時間を、紅茶を流し込むことでようやく正気を保って過ごしていた時間はとても長かった。だがそんな時間ももう終わる。
 もうすぐ終わる。
「こうしてひとまずの落ち着きを見せる。既に死んだ者はそのまま沈黙を保ち、兄さんと姉さんは死に、僕達はバロックを取り返した……」
「へ、何の話?」
「何の話だろうね」
 兄はまだ知らない。
「そう言えば何て言ったっけ、兄さんの娘の名前……」
「ええ、忘れちゃったの? あんなに可愛がってくれたのに?」
「あははごめんごめん。もう十七年くらい会ってないから」
「もー。……二人とも、元気にしてるといいなあ」
 無垢とは、無知である。無考である。
 弟の言動が意味不明なものだとは思っても、それ以上の領域に踏み込む事などありはしない。そうするようになっているのだ。だが、その事実を知るのは、もう少し先である。
「二人ともきれいになってるだろうなあ」
 もう十数年も会っていない娘の名。
 どれだけ彼女らの成長した姿を想像した事だろう。きっと妻のように美しい娘になっているに違いない。
「会いたいなあ……アデレイド、イヴリン」


 それから六日が経過した。厳重な体制の下に置かれた春夏冬が毒の兆候を見せる事は終ぞなく、春夏冬の傷の完治と共に退院する事となった。
「やーっぱり馴れねえな、アウル覚醒者の治りの早さってのは……」
「もうちょっと入院したかったりするの?」
「まさか」
 軽く笑いながら神崎の冗談に首を横に振る春夏冬。
「でも、もう無理しちゃ駄目よ。色男」
「う……わかってるよ」
 オルフェウスが指でちくちくと脇腹を小突いてくる。物理的な痛みはないが、心理的な痛みが凄まじい。
「小鳥遊さんもですよ。今回は上手く事が運びましたから良しとしますが、こんな事はしないでくださいね」
「わかってるわよ。もうこんな事……起きて欲しくないし」
 雫の言葉に、どこか陰を落としつつも答える小鳥遊。
「でも大丈夫? 気分悪くなったりとかはしてない?」
「今の所は……大丈夫」
 顔を覗き込んだ木嶋に、ふるふると首を横に振る小鳥遊。
 気分が悪い、とは即ちバロックが小鳥遊に移し替えた毒の事である。小鳥遊の中に息衝く毒の詳細がまだわかっていない以上、小鳥遊も慎重に監視下に置かれていた。
「マァ、それはこれから調べていけばいいだろうサ。当面、あちらも仕掛ける事はないだろうしナ」
「また殺せばいいだけなんだろ。その時が来れば楽しくやるさ」
 長田と数多の言葉は、ある程度の物騒さがありながらも前向きさも兼ね備えていた。
「うん、ありがとう」
 数多の言葉を遮った小鳥遊は力なく笑い、二人を乗せたタクシーはそのまま走り去った。
 冬の乾いた空気で冴える空。肌を冷やす澄んだ空気の中で、一陣の風が吹く。優しく、そして危なっかしく。冬の風に似つかわしくない様相で通り過ぎた風に、五十鈴はかつて出会った一人の悪魔を思い出した。
(コッペリウスさん、バロック、小鳥遊さん……?)
 彼の名はコッペリウス。どじでのろまでお人好し。心優しい人形師のはぐれ悪魔。
 人を疑う事を知らない緩い笑顔が、五十鈴の脳裏からしばらく離れなかった。

 一週間ぶりの我が家である。
「家捜しの後はなるべく消したつもりだけど、変な所に変なものがあるかも。ごめん」
「冷蔵庫の中にボールペンとかじゃないなら全然大丈夫。気にするな」
 ようやく落ち着ける、とソファーに腰を下ろしてコートを肘掛に置く。
「何て言えばいいのかな、あー……」
「あんた何様のつもりよ」
「……ごめん」
 心の棚の中に並ぶのは、色とりどりの苦悩と苦痛の瓶詰め。一様に似通った色をしたそれらは、これからも春夏冬の心中に鎮座し続ける。慈悲も救いもなく、ただただ静かに精神というものに向かって攻撃してゆくことだろう。
「ごめん、本当にごめんな。お前にばっかり、こんな目に」
「……なんであんたが泣きそうなのよ」
 締め切ったカーテンの隙間から、僅かに外の光が漏れている。今はその光すら疎ましかった。こうなってしまったからには、せめてこの時だけでも、外との繋がりは一切合財切断したかった。
「そうだよな。ごめん、ごめん……」
「つべこべ言わずにさっさとやるわよ」
「ああ、はい……」
 ソファーに腰掛けた春夏冬に、小鳥遊が折りたたみ式ナイフの刃を引っ張り出す。春夏冬がまじまじと刃を見と、薄暗い室内にも関わらず刃はその鋭さを顕示するかのように鈍く光っていた。
「しかし何だ、こういうのってやっぱり首からいくもんなのか? それとも腕か? サッと出せるつったらこの二つしか出てこない」
 首を傾げながら、それとなくシャツの腕をまくる。
「個人的には腕の方がいいけど……これからの事を考えると、あんたの生活に支障が出るからアウトね。じわじわボディブローみたいに効いてくるわよ」
「……となると首か」
 ネクタイを緩ませ、ボタンを外す。僅かに見える胸から肩にかけての線が、想像よりもずっと逞しく精悍である。そんな肌を切り裂く事に、小鳥遊は躊躇いを覚えた。
「ま、一思いにザクっとやってくれ」
「なるべくすぐ治るように浅くはするけれど。要領がわからないわね」
「そんなのはこれから掴んでいけばいいだろ。案ずより産むが易しだ。……いやこの場合、産むより切るか? それとも吸うか?」
「何で今そんな事を聞くのよ! ほら動かないで、切るから」
 意を決して、首の後ろに一筋の切り傷を作る。鋭い痛みから春夏冬の体が僅かに強張ったが、小鳥遊がそれに気付く事はなかった。
 切り裂くと同時に流れ出す血。うなじを流れる血を惜しそうに舐め取った小鳥遊は、そのまま流れ出る血を啜ってゆく。
 やがて血が止まるその時まで。小鳥遊はいつまでもいつまでも春夏冬の首筋に顔を埋め続けた。視覚を占める黒い髪。触覚から伝わる体の温もり。味覚に広がる鉄の味。嗅覚を満たす香水のにおい。聴覚をくすぐる吐息の音。それだけが今の、彼女の世界だった。
 そんな小鳥遊の小さな体を、春夏冬が力のあまり入らない腕で支え続ける。心のどこかで燻る劣情が僅かに満たされる事を喜ぶ自分に苦悩を覚えながら。苦痛を抱えた精神を、肉体が持て余している事は確かだった。横たわる退廃的な歓喜だけが、彼の世界を彩っている。

 呪いは続いてゆく。

『この男の呪いを解きたいか。ならば条件がある』
 バロックは小鳥遊にある取引を持ちかけた。
 春夏冬の毒を、変質させて小鳥遊に移し替える。そうすることで春夏冬は毒から解放され、いつ来るかもわからぬ残忍と凶暴の復活に怯えずに済む。
 小鳥遊はこれを承諾した。姉に続き兄まで失いたくなかったからである。そして承諾すると同時に、ある事も要求した。
 それが、毒の支配権の放棄である。
 春夏冬を救いたければ、バロックの要求を飲む必要がある。しかし、バロックは信用に足る者ではない。バロックの意のままに暴れる人形。そうなる事だけは避けたかった。だから小鳥遊は毒の支配権の放棄を要求した。
 まだ年端も行かぬ少女がこのような要求を出したのに関心したのか、はたまた別の思惑があったのか……それは不明であったが、バロックはこれを承諾。
 春夏冬に施した毒を変質。「他者の血を見たいが為に見境無く他者を襲う」という毒は、「一週間に一度、特定の者の血を吸わなければ凶暴化する」という毒に変化し、バロックによる支配権の一切を放棄された。
 特定の者とは?
 即ち、春夏冬である。

 呪いは続いてゆく。

 ライオネルからイヴリンへ。姿を変えたバロックの呪い。兄妹になりかけた男と少女が背負う新たな罪の形。
 不特定多数から特定へ。他者からライオネルへ。
 血を見たいという感情から、血を口にしたいという衝動へ。
 取引によってライオネルから、そしてバロックからも離れた毒。
 イヴリンに息衝いた毒。一週間に一度、ライオネルの血を吸わねば他者を襲ってしまう毒。
 こうするしかなかったのか? こうする他なかったのだ。
 とびきりデカダンスで、とびきりダダイズムな共依存という名の贖罪。

 呪いは続いてゆく。

 全てに流れる緋色の蜜だけが密やかに微笑んでいた……

【了】


依頼結果

依頼成功度:大成功
MVP: 歴戦の戦姫・不破 雫(ja1894)
 STRAIGHT BULLET・神埼 晶(ja8085)
 青イ鳥は桜ノ隠と倖を視る・御子神 藍(jb8679)
重体: −
面白かった!:4人

歴戦の戦姫・
不破 雫(ja1894)

中等部2年1組 女 阿修羅
幻想聖歌・
五十鈴 響(ja6602)

大学部1年66組 女 ダアト
STRAIGHT BULLET・
神埼 晶(ja8085)

卒業 女 インフィルトレイター
死のソースマイスター・
数多 広星(jb2054)

大学部4年4組 男 鬼道忍軍
青イ鳥は桜ノ隠と倖を視る・
御子神 藍(jb8679)

大学部3年6組 女 インフィルトレイター
BBA恐怖症・
長田・E・勇太(jb9116)

大学部2年247組 男 阿修羅
甘く、甘く、愛と共に・
麗奈=Z=オルフェウス(jc1389)

卒業 女 ダアト