●
暗い手術室に明かりが点いたかのような夜。
太陽の如き強烈な光が下から照らす中、夜風に狂気が蔓延している。
「さぁ、キッチリ終わらせるとしようか」
最後に拳の調子を確認したディザイア・シーカー(
jb5989)は小鳥遊と春夏冬に向き直る。
「小鳥遊、春夏冬……しっかり見届けろよ? 手の届くところまで連れてってやるからさ」
色々、本当に色々と思うこともあるだろうが、狂った過去に終止符を打とう。
隣でただ静かに、蓮城 真緋呂(
jb6120)は刀を抜く。
鞘から顕わになる刃は、ゆらりと冷たく、そして鋭く。
凍える切っ先は、鈍いまでの輝きを熱く秘めている。
「終わらせましょう――『救う』ために。彼女が『今』を望んでいないなら、私達がそれを消さなければ」
彼女の瞳が、宵闇の藍から炎の緋に変わる。
「願いのあった『過去』を想い、願いを込めた『未来』へ送り出すわ」
「未来へ……」
蓮城の言葉を聞いて、小鳥遊はうわごとのように呟いた。
「いよいよ、だね」
アデレイドを『救う』……葛山 帆乃夏(
jb6152)には分からない。まだ、それほどの想いをまだ持ったことが無いからだ。
「……だけど、それは小鳥遊さんにとっては必要な事なんだろうな」
いつか自分もそうなる時があるのだろうか? そんな気持ちも含まれた呟きであったかも知れない。場に漂う緊張感と寂寥は、葛山を形容し難い気持ちにさせた。
「ええ、きっと……その先の未来に、何があるかはわからないけれど……」
小鳥遊は槍を強く握り締める。
「やるしかないわ」
前を見据え、ただ足取りを確かに歩む小鳥遊。
(……本当に成長したな、イヴリン――いや、小鳥遊)
かつては姉の背中を追うのが精一杯だったような少女が、こうも立派に成長したものだ――春夏冬はしみじみと彼女の横顔を見ていると、後ろから怒鳴り声。
「ちょっと、アッキー! 敵に操られていたわけじゃないの!? だったらなんでこんな事したのよ。ラスボス戦を前に、同士討ちしてどうするのって話よ!」
今にも殴りかかりそうな神埼 晶(
ja8085)を何とか宥める春夏冬。
「ちょっと……ちょっと大声は今右の目があった所に響くからもう少し静かに言ってくれないか」
真っ青になりながらも、春夏冬は答える。今の春夏冬は一人で歩きこそするが、やはり先の戦闘と右目を失った事によって足取りは覚束なかった。それでも着いて来たのは、彼なりに責任を感じての事だろう。
「――アデレイドの問題は、俺一人で片付けるべきと考えていた。イヴリン……小鳥遊もいるし、あの子に背負うべきでない重みは背負わせたくはなくてね。どれだけ軍人としての才覚があろうとも、軍服を着ようとも、あの子はまだ十七歳の女の子で、アデレイドの妹なんだ」
「ふーん……」
暫しの睨み合い。とは言っても睨んでいたのは神埼だけだ。春夏冬は神埼の様子を伺うように、数度瞬きをしつつ神崎の瞳を覗いていた。
先に止めたのは神埼のほうで、ふいとそっぽを向いた。
「……まぁ、いいわ。この落とし前は、アデレイドを倒した後にキッチリつけてもらうからね」
「ははは、何なりと言ってくれ」
(全く! 軍法会議モノよ!)
前とは打って変わって、いつものお気楽な調子になった様子の春夏冬である。が、やせ我慢の雰囲気があるのは否めない。
「それに、何を言ってもどうせついてきただろうからもう止めないけど、これだけは言っておくわ」
踵を返し、神埼は春夏冬の鼻先を指で差す。
「私は、アデレイドを許さないわよ。二人にとっては大切な人だったかもしれないけど、私にとっては標的に過ぎないからね」
「そうよね。大怪我なんだから、無茶はしない様に……と言っても黙ってはいられないでしょうから、彼女の手が届かない場所から助言をお願い」
蓮城は続ける。
「彼女の戦闘時の癖、どんな風に攻撃した効果的か、早く戦いを終わらせられる情報は出し惜しみせずに――ずるい言い方だけど、少しでも早く苦しみから解放させたいでしょう?」
「そうだな……」
春夏冬はふむ、と考えた後に口を開いた。
「アデレイドの槍だが……とにかくスピードで攻めていたな。本気出したら残像でどう動いてるのか見えなかったレベルだ」
「それもそうよ。流派がそうなんだから。とりあえず突く。相手が反応する前に突くんなら避けられるとか防がれるとかがないもの。反撃もされないから楽だし」
小鳥遊は思い出す。かつて姉に槍を教えて貰っていた時の事を。
『外しては駄目よ、イヴリン』
先手必勝。病弱な一人の騎士が編み出したと言われる槍の一派の基礎は、凄まじい槍で相手を貫きにかかる事であった。
「なるほど……ならもっと注意をしなければいけないわね」
あれだけ執着していたのだし、アデレイドが反応して接近する可能性も十分に考えられる。奪われたり攻撃されることがないよう、阻止しなければ。
「末期の患者は早々に終わらせるに限る。だが手間をかけさせた礼だ、安らかには逝かせんぞ」
銃を静かに構えた牙撃鉄鳴(
jb5667)。彼の赤き眼前で、愛銃がリロードの音を鳴らした。
病に冒された人々。
セレス・ダリエ(
ja0189)も立場が違えば、きっとアデレイドと同じになるだろうか?
愛する人を、愛する時間を、何時までも、何時までも想い、虚空の中で、虚無の中で、熱に浮かされるだろうか。
嗚呼、それは、とてもとても、幸せかも知れない。
嫌になるほど静かな病院内。階段を上がりきった向こうにあるのは、錆び切った一枚の扉。
全員が一瞬だけ顔を見合わせ――蹴破る。
病院の屋上。中心に居るのは、アデレイド。優しいが故に気を狂わせた、アデレイド・リーベ・ルトロヴァイユ。
「待っていたわ、イヴリン」
「姉さん」
数年ぶりに再開した姉妹の間に、これ以上の言葉は不要であった。
「さ、始めましょうか。哀歌、悲恋歌あなたはどんな曲を奏でてくれるのかしら?」
麗奈=Z=オルフェウス(
jc1389)が潜行状態から一気に翼を展開。舞い現れる。
「女医さんかな?出てきた子達見ると生身の人間の治療は上手ではなさそうね」
アデレイドのその異常な姿。医療系の何か毒やそれに準ずる物、更に春夏冬を操ろうとしたことから幻惑や認識を阻害する何かがあると予想する。
「軍人の行動力と医療のハイブリッドか……なんともえぐい事になりそうだ。治す行為の逆を行えば人体は壊れるんだから、な」
やれやれ、とシーカーは肩を竦めて首を横に振る。
「終末医療だな。今日でもう終わりにしてやろう」
向坂 玲治(
ja6214)が得物を構え、呟く。
「あら、あなた達は皆患者さんなのね。私、治すのは得意なの。イヴリンから聞いてないかしら?」
ずるずるずる、とアデレイドの背から翼が現れる。
医療器具の翼。白く透明で錆付いた、歪で不気味な翼。
「一人ずつ治療してあげるわ。さあ、最初の方、どうぞ」
手に握られるのは一振りの槍。
悪魔は微笑んだまま、オペ室のランプを点灯させた。
初手。
被弾覚悟で、アデレイドの注意を引き付けるように突っ込む向坂。状況的にもまず足止めをしておかなければ。
接近した所で大降りの横薙ぎの攻撃で回避の為のバックステップを誘発する。
「素早い奴ね。コレでどうよ!」
そこを側面に回りこんだ神埼はクイックショットで攻撃を仕掛ける。
槍の間合いに入らないように、適度な射程を保ちつつリボルバーの引き金を引き続ける。
「正面切っては当たりそうにないしね」
攻撃の波を止めないように、味方援護の届く範囲で矢を放つオルフェウス。自身の攻撃は左右どちらでもいいので、肩口から腕を狙い武器の取り回しをやりにくくなるようにする。空振りでも胴体には当たるだろう。翼を狙えるときは狙い徹底的に能力を削ぐような攻撃を行う。
「バッドステータスがない方がおかしい、気をつけろ!」
「ありがと♪ やっぱり男の人は頼りになるわねぇ」
前衛に聖なる刻印を付与したシーカーに、オルフェウスは礼を言う。
「これ迄の敵を考えるとバッドステータス攻撃は豊富そうよね、創り手だもの。ここは動きを鈍らせたり、封じたりしたいところよね」
更に背後に回った蓮城が背後からコメットを打ち出す。味方の巻き込みを注意し、重圧をかける。
さらに向坂がここでフルメタルインパクト。鋼のような一撃を叩き込む。
「健康だけが取柄でな。治療とかノーサンキューだ」
懐に潜り込み、楯で強引にかち上げる。厄介な技など使わせるものか。
「健康でも、定期的な診断は必要って知っているかしら」
広げた翼で空を飛ぶアデレイド。向坂は棒高跳びの要領で槍を使ってジャンプし、叩き落しにかかる。しかしアデレイドはそれを受け止めると、つと手を伸ばした。
「もう少し大人しくしないと、痛いままよ」
大量のメスで向坂の体を切りつけ、更にはできた切り傷を片っ端から縫合してゆく。
一発一発のダメージは大したものではない。ただし、数が多い上に傷口が滅茶苦茶に縫合されていて回復術が施せない。
「こいつは下手に抜糸するとダメージが多いな――チッ、厄介なことを」
この戦闘の中で無理に抜糸や切り開きをしてしまえば、その時点でかなりの傷を負ってしまう。
今は手数を割くなら倒す方に回すべきだ。向坂には悪いが、そのまま耐えるしかない。
「俺より高く飛ぼうなどと。無様に地に這いつくばっていろ」
味方の攻撃が届くようにイカロスバレットで叩き落しにかかる。
「あら、私より高い所にいるの? だとしたらそこはあの世よ」
「あの世に行くのはお前だ。間違いなくな」
アデレイドが飛行している限りはイカロスバレットで高度を落とす。そして、味方の作った隙を利用して翼のみならず槍にも侵食弾頭を撃ち込む。
「私も、やるだけやるんだから!」
葛山が陰から飛び出す。アデレイドが上空にいる間、葛山のする事はない。しかし、仲間に攻撃してきた所を狙って体勢を崩すことはできる。
シーカーの肩を借り、上空に逃げられないように飛び上がってエアロバーストを上から叩きつける。
瞬間、アデレイドと目が合った。
穏やかな微笑み。否、それは表情だけだ。纏う雰囲気、その紫の瞳が抱える闇の色。
ぞくりと背筋が凍った。
まさか。
狙いを自分に向けたと言うのか? ――いや、落ち着け。
短く息を吸い込んで、葛山は刀を構え直す。中段の構え。
アデレイドは強い。このごく短い戦闘の中で、それは十分に理解している。
もしかしたら、万が一、不運にも、その可能性は否めない。そんな最悪の状況が頭をよぎる。
本気で戦って倒れそうになったら……
「……ううん、倒れないわ、絶対」
必死で戦うまでだ。
「でも――隙が多いわ」
すれ違うように、アデレイドが隣に居た。直後、指先が葛山の胴体に触れる。
「がっ?!」
強烈な衝撃波。
倒れ、気絶してしまう程の強烈さ。刀が手から零れ、膝から崩れ落ちて地に伏せる。
しかし、葛山は。一撃を加えるまで、倒る訳にはいかないのだ。
起死回生。ゆらりと起き上がる。
「まさか――」
「……貰った」
自分の体を陰に、サンダーブレードを突き込む。
無論、実際に自分の体を貫いている訳ではない。脇の下から、死角に潜り込むように。
当たる。アデレイドが数メートル後退したのを見てから、葛山は大きくよろける。
「おい、大丈夫か!」
そんな彼女を受け止め、シーカーがライトヒールで治す。
「うん……大丈夫っ……! 精一杯やるしかないんだからっ」
朦朧とした意識が復活してゆく。
存外消耗が激しい。
ならば。
「俺の目が黒い内は絶対に通さん!」
防壁陣、シールド、予測防御、不動……ありとあらゆる防御の技を使いながら壁となる。
「被弾上等! ずっと俺に構っててくれてもいいんだぜ?」
ニヤリと不敵に笑い、アデレイドを相手取る。向坂も組み付きの姿勢を取って、妨害と補助の構えとする。
徹底的に張り付いて妨害して隙を作る。
「あら、ライオネル。そこに居たのね」
猛攻の間、アデレイドは物陰に居た春夏冬に気付く。
手を伸ばす動き。
「あらダメよ♪ 恋に障害はつきものでしょ?」
オルフェウスが妖艶に笑いながらアデレイドの目の前に現れる。
「さ、絡めてあげる♪ 激しい獲物は嫌いじゃないわ」
更に神埼と、庇護の翼を展開した向坂が前に立ち塞がる。
「アッキーには、後で落とし前つけてもらうんだからね。こんな所で死なれちゃ困るのよ」
威嚇射撃でアデレイドを遠ざける神埼。
「あら、そうなの」
気付けば一気に間合いを詰められていた。目の前に居るアデレイドは微笑んだまま、神埼の心臓に手を伸ばしていた。
本能が一気に警鐘をかき鳴らす。生命の危機。
「――ッ! 速い!」
咄嗟に中段の蹴りで腕を弾き、瞬間に後退して間合いを取ってから射撃でさらに距離を離す。
「おっと、これ以上は好きにさせねえぜ?」
「邪魔よ」
急所を見切ったアデレイドが槍を振るうが、シーカーはそれを間一髪の所で急所を避ける。
悪魔と言えど女。しかし異常な力だ。
大きく体がふらつく。どぎつい突きであった。
だが。
「ハッ、隙あり……だぜ」
アイビーウィップがアデレイドの体に纏わり付く。
「この程度じゃ負けてやらねぇ、這ってでも喰らいついてやる」
どれだけ速かろうが、動けなかったらただの的だ。
牙撃がスターショットを右目に撃ち込む。
「春夏冬とお揃いだな。整形手術の代金も払ってもらおうか」
「……面白いわね」
右目を抑えてもなお確実に体勢を整えるアデレイド。
だが、彼女は知らない。侵食弾頭で既に翼や槍が脆くなっている事が。
蓮城の放つアイビーウィップがアデレイドを捉える。動きが取れなくなったアデレイドの翼を、根元から斬り落とす。
さらに牙撃のブーストショット。侵蝕弾頭で脆くなった翼や槍に止めを刺す。
(……これで少しは機動力が落ちればいいのだけれど)
すかさずダリエがギリギリの射程からフレイムシュートを落とし込む。ダリエがもっとも警戒すべきなのは槍による物理攻撃。接近はしすぎないように、距離に細心の注意を払う。
さらに反撃されないよう、胴などを巻き込みつつ腕を狙撃するつもりでライトニングも続けざまに放つ。
ここまで来ると、アデレイドもかなり消耗しているかのように見えた。もう終わりも近い。
臨終の時は近い。
蓮城が小鳥遊に声を掛けた。
「小鳥遊さん」
「……何?」
小鳥遊も、その声色から何かを悟ったらしい。静かに反応した。
「最期は貴女が……」
目の前で猛攻を受け、猛攻で返す姉。
もう最期の時は近いと言わんばかりの空間で、小鳥遊は数瞬の逡巡の末に口を開く。
「――いいの?」
「身内の、愛すべき人の、ケリ、区切り……つけたいでしょう?」
今はもう死んでしまった姉を想う。こんな事はもう終わりにしよう。
「……うん」
槍を構える。
「姉さん……今、楽にしてあげる」
駆け出す。
「おいで、イヴリン」
何も言わず切っ先を向けた妹に、アデレイドは自らの体を指差す。
それが何を意味するか、誰にもわからなかった。
もし、考えられる事があるとするならば――いや、止しておこう。
「外しては駄目よ」
死ぬまで聞きたくなかった鈍い音がした。死ぬまで感じたくなかった重い感覚がした。
人を殺すという事が、ここまで苦痛だったとは。
覚悟をしていてもこれだ。では、不本意から仲間を殺してしまった姉は?
味わいたくもなかったこの苦痛を、味わってしまった姉は?
全てを閉ざしても、消えることのなかった苦痛で壊れてしまった姉は?
「ごめんなさい、姉さん……私、私……!」
あなたを救うには、この方法しか思いつかなかった。
姉さん、ごめんなさい。ごめんなさい。こんな、こんな自分勝手な方法で。
「私に、何の権利があって――」
「いいのよ、イヴリン」
微笑む姉は、優しく妹の頭を撫でた。
「……姉さん」
――絶望は、熱病。
人は魘されて魘されて魘された末に頭をやられてぱたりと倒れる。
病煩は永遠に続き、人を苦しめ続け、あざ笑うように簒奪してゆく。
それでもなお、動き続けた者の末路とは、一体。
「あなたは、何故どこまでも優しいんだ」
「イヴリン」
涙は流さない。歯を食い縛り、その軋みが叫びとなるまで、その頬を濡らす事はしない。
菫色の瞳に麻酔の雫を溜め込み、それでもなお、少女は動く。動き続ける。
「強くなったわね」
吐血か喀血かわからぬ血が小鳥遊を染め上げる。生々しいまでのぬるい血を一心に浴びながら、それでもなお、小鳥遊は手を離さなかった。
今だ。そう言う必要もなかった。
「イワノビッチがあの世で待っているぞ。しばらく春夏冬は逝けそうにないと伝えておけ」
リロードの音が響く。それは、牙撃なりの最後の時間の知らせであった。
「何でこうなったかは、もういいさ……ゆっくり休みな……良い黄泉路を」
手遅れ。何もかもが手遅れなのだ。もう行き着く先は、決まっている。
弾丸は、病に撃ちこむ注射のように鋭く確実に、心臓に届き。
刃は、腫瘍を抉り出すメスのように冷たく滑らかに、皮膚を切り裂き。
拳は、失った意識を引きずり起こす電気ショックのように重く強烈に、体を撃ち抜き。
手遅れの患者に、安楽の最期を与える。
それを春夏冬――ライオネルは、静かに見守っていた。
「しょせん君も俺も、同じ病という事だよ。……アデレイド」
「ライオ、ネル……」
「もういい、もう何も言わなくていいんだ。言っただろう、例え世界中全ての人間が君を赦さなくても……アデレイド、君はこのライオネル・アントワーヌが愛そう。俺という人間は、その為に生きている。これからも……そうして生き続けるんだ」
地に伏せたアデレイドを抱え上げるライオネル。
「去らば、我が愛おしい人。アデレイド」
アデレイド、愛おしい人。
アデレイド、いと惜しい人。
「ライオネル……イヴリン……」
病から開放されたその瞳は、何を映して一瞬だけ輝いたのか。
「愛してる」
もう治ってしまった甘い病よ。永遠に続く後遺症を、患者の脳髄に刻み込め。
「君と次に会う時は、地獄ではない場所がいいな」
アデレイドの唇に、ライオネルは自身の唇を重ね合わせる。
氷のように冷たくなってゆく躯は、ライオネルの愛に応えようともしない。受け入れるだけ受け入れて、熱を失ってゆくだけだ。
「姉さん……大好きだった」
あの日留め損ねた鳥の翼の鮮やかさ、空の籠。それは確かに、最後の愛だった。
●
空が白んでゆく。
姉の――アデレイドの亡骸は美しく、静かなものだった。あれが狂気の炎と絶望の熱病に魘されていた者の、その成れの果てとは思えないほどの、穏やかさがあった。
「きっと、お姉さんはちゃんと救われたのよ」
蓮城はそう教えてくれた。もしかしたらただの自己満足かも知れないが、穏やかな顔を見ると、そんな考えも優しく解されてゆく。
「ただ……結局彼女は如何してディアボロを作る力を手に入れたのか……真に許されざるはその存在よ」
きっとその悪魔は、血のような紅茶を飲んでほくそ笑んでいるかも知れない。
だとすればこれから自分がやることは一つ。姉をここまでの凶行に及ばせた者を探し出し、自らの手で決着をつけるしかない。
何年かかっても構わない。自分は姉の分まで生きて、姉の仇を取る。
軍服についた返り血も、この気持ちも、何もかも無駄にはしない。
頬についた姉の血を袖口で拭い取り、小鳥遊は静かに槍を抱えた。
朝日で伸びる小鳥遊の影の隣、春夏冬は亡骸となったアデレイドに寄り添っていた。
「……今はこうする事しかできないが、少し辛抱してくれ」
静かにアデレイドの瞼を下ろす春夏冬。そこに声を掛けたのは牙撃であった。
「愛など所詮は一時の病のようなものだ。他人を好きだと思いこむ自分に酔って、熱に浮かされて見ている幻覚でしかない」
世の中、特にこの学園には愛があれば戦えるなどという輩もいるが、『名無鬼』にそんなものは必要ない。
「病など『もう』必要ない」
「ああ、そうだな――」
答えた春夏冬は、どこか覇気がなかった。抜け殻のように、そこには居ないかのように。
仕方はないのかも知れない。
「兵どもが夢の後、か……」
向坂は得物を担ぎ直し、遠い目で倒した敵を眺める。
激戦の後の夜明けは、それ程までに静かなものであった。
「アデレイド……君の痛みの十分の一でも代わりに背負う事ができたら、どれだけ良かった事か――」
今更になって押し寄せてくる諸々の後悔が、春夏冬に更なら苦痛を求める。
それを止めたのは、オルフェウスであった。
「ダーメ。それをしちゃうとアデレイトが報われないわ。責任があるって思うなら背負って生きてあげなさい。あの子の愛を……ね」
愛した彼女は黙して何も語らない。当然である。しかし、生々しいまでの傷跡を見せ付けるこの亡骸には、何かがあるような気がする。
「……可哀想な、人」
ぽつり、と。ダリエは呟いた。
でも、本当にそうだろうか……? これは愛する人を想い、思い続けての、結果。
アデレイドはある意味幸せ?
ならば、何を考えているのか、知りたい。
ダリエだったら、自分だったら、どうする?
「きっと、これでおしまい……」
でも熱はきっと冷めない。何もかが、終わるまで。
葛山は、かける言葉も見つかってはいなかった。
でも、でもこんな事は間違っていると思う。
(だから、私は)
覚悟を決める。
(私がこの戦いを止めるつもりで頑張らなくちゃ)
いつまでも未熟者の気分では駄目なのだ。
「私は強くならないと……もっと、もっと、もっと!」
日が昇る。白い空は、そうして赤く染まった。
●
アデレイドの亡骸は、彼女の故国へと送られる事となった。本国で葬儀が執り行われ、『軍人』アデレイド・リーベ・ルトロヴァイユとして、安らかな闇の中に葬られる。
アデレイドは、仲間を殺したとは言っても事故であり、他意はなかった事が生き残りの証言がある。それに、かのルイジ・イワノビッチのような、破壊や虐殺行為を行った国際指名手配のテロリストでもないのだ。
この処遇を下したニコラウスの判断は、各方面の感情も汲んだ妥当とも言えるものだろう。よって、実の妹である小鳥遊は葬儀の為一時的に帰国。春夏冬も、婚約者として葬儀に出る事となる。
「晴れて良かったじゃねえか」
空港のガラス張りの壁には、青い空が一面に広がっていた。向坂の言葉に、小鳥遊は頷く。
「二人とも気をつけてね」
「うん。色々あるし、すぐ戻ってくるから」
葛山の言葉に、小鳥遊は頷いた。隣では、眼帯を着けた春夏冬が笑っている。
「はるばる一日かけて日本まで来たのに、またすぐに戻る事になるなんてな」
「別に構わないわ。飛行機の中は静かで好きだし」
荷物を詰め込んだスーツケースは、来る時よりも軽い筈なのに重く感じた。何故だろうか。
「十も行きたがってたが、上官から残るように言われたみたいでな。それに、あいつ自身やることがあるらしいから申し訳ないって。ま、だからって自腹で飛行機チャーターしたのがあいつらしいって言うか」
「それでいいんじゃない。元々の事が事だし、ルトロヴァイユの家だって密葬を選んだし。飛行機はありがたいし」
「いやあしかし。まさかお前らが見送りに来てくれるなんてな」
空港のターミナルまで見送りに来てくれた面々を見て、春夏冬は軽く笑う。
「何となくだが、放ってはおけないからな。ま、今度土産話でも聞かせてくれや」
「そうね。色んなことはまた、戻ってから話すわ」
シーカーの言葉に小鳥遊は頷いた。
「向こうはきっと涼しいでしょうし、体には気をつけてね。特に春夏冬さん。まだ傷、完全には治ってないでしょう?」
「あはは、返す言葉もないな……」
苦笑した春夏冬の軍服の袖口からは、腕に巻かれた白い包帯が見え隠れしている。
牙撃がおもむろに口を開いた。
「ところで春夏冬」
「何だ」
「友人恋人と来て、あとは生き別れの弟とかはいないだろうな」
突拍子もない言葉に春夏冬は思いっきり噎せ返った後、答える。
「やめてくれ。割と縁起でもない」
「もう攫われるのはこれきりにしてもらいたいということだ。軍の財布が干からびるまで搾り取られていいなら構わんがな」
「お前さんは頼りになるけれど、俺らの給料が無くなるのはちと辛いな……おっと、時間だ」
見れば飛行機の出発まであと少しであった。十がチャーターしてくれた飛行機なので少し融通は利くとは思うが、他の飛行機にまで影響が出てはいけない。
「じゃあ、行ってくる。すぐに戻るから、近いうちにまた世話になるかも知れないな」
「今回はその……ありがと」
見送ってくれた面々を改めて眺める。
「アッキー、帰ったら焼肉、奢りなさいよ!」
「わかったわかった。戻ってきたら一番高い所連れて行くから。少し待っていてくれ」
神埼の言葉を受け取り、二人は搭乗口へと向かってゆく。
「……小鳥遊さん、大丈夫でしょうか」
二人の背中を見送ったダリエは、小さく手を振り終わった後、ぽつりと呟いた。
そんな呟きを、オルフェウスは相変わらずの妖艶に笑いに鈴が転がるような声で答えた。
「きっと大丈夫よ。ね、そう思わない?」
空港内を歩き、ぼんやりと考える。それから、ふと目の前を歩く春夏冬の事が気になって、ようやく言葉を発した。
「……で、右目はどうなの。てかもう動いていいの」
「この力に目覚めてから傷の治りはビックリする程早くなってな。右目の義眼も、まぁいずれは慣れるさ」
「そう」
「まぁ……国に帰ったら少し医者に見てもらうかな」
どこか他愛のない話をしながら、しかし笑わず、二人は飛行機へと向かう。
……少し疲れた気がする。飛行機の中でしばらく寝よう。
タラップを上りながら考えたその時、静かに吹いた風が自分を呼んだ気がして、振り返る。
「――」
誰も居ない。それもそうか。
「行くぞ、小鳥遊」
その呼び方に、何となく違和感を感じた。
自分はもう、可愛がられてきたイヴリンではない。見習いではあるが任務を遂行する、軍人の、小鳥遊だ。
「……うん」
姉も兄貴分も、そして自分も。もう昔には戻れないのだと。あの穏やかな姉の顔を見て思う。
「どうした?」
「いや、別に……何でもない。今行く」
けれど、それでいい。それでいいのだ。これを望んだのは、何よりも自分であるから。
歩みを止め、嫌になるほどの青い空を眺める。
……あの空の向こうにあるものは何?
姉がいるのか? ……何もないのか?
いや、そんな筈はないのだと、そう自分に虚しく言い聞かせた。
今はもう死んでしまった貴女を思う。
――大好きな姉さんへ。
病から開放されたあなたは、私の知る姉さんなのでしょうか。
なら、また会える時を楽しみにしています。少し時間はかかってしまいそうですが、どこまでも愚図な妹を許してください。私は、姉さんの分まで生きないと駄目なのですから。
大好きな、姉さんへ。
どうしようもなく、小さなイヴリンより――
……そして気付く。春夏冬と方向こそ違えど、自分も姉の事を愛していたと。
どうしようもない痺れと、どうしようもない痒みと、どうしようもない痛みと。
夏の気だるい風が吹く。救いようのないやるせなさが、心の中で靡いていた。
「しょせん私も――同じ病か」
あなたも私も同じ病。
後遺症を引きずり、生きてゆく。
君の為に罹る、甘い病。
【了】