●
雲ひとつない晴れ渡った空の下に、その廃病院はぽつりと佇んでいた。青い空を映す筈の外壁の白い塗装は剥げ落ち、重要な看板の文字も清清しいまでに抜け落ちている。
「くっ、無事だといいけど……」
佐藤 としお(
ja2489)は後悔する。自分がもっと春夏冬を抑えていれば、と。
「いや、春夏冬も春夏冬だ。感情任せの行動など、諜報員としてあってはならないことだろうに」
しかし牙撃鉄鳴(
jb5667)は、先日の春夏冬の行動に呆れ返っていた。
「やれることを全力でやるしかあるまい。ここで立ち止まっちゃいかんのさ」
廃病院の様子を伺いながら、ディザイア・シーカー(
jb5989)は話題をまとめる。
「はい。ですが俺一人でできる事なんて限られてます……力を合わせて絶対に救出しましょう!」
「うん。そうだね。……これ、いつか映画化できる気がする」
敵の拠点に捕らわれた仲間を救いに、廃病院へと突入する――水枷ユウ(
ja0591)の言うとおり、どこか映画的だ。
「さて、と」
最早恒例である。
「すまんが情報を頂くぜ」
先程の偵察で見繕った手身近な見張りの背後を取り、素早く意識を落とすシーカー。そしてユウが記憶を覗き込む。
「ふむふむ……」
今回、まず彼女が得るべき情報は四つである。
『須藤ルスランについて』
ここの長たる須藤ルスランとは一体。どこにいる? 能力は? 性格は?
問いかけると、記憶が浮かんできた。
須藤ルスランは天使をも陥落させそうな美貌を持った青年。気だるげに葡萄酒を飲む姿が似合う人物もそういるまい。彼は病院の五階、特別個室にいるらしい。
しかしその性格は酷い有様である。部下の選定基準は「有用か否か」。選りすぐりのエリートを小間使いにさせ、失敗を犯した者を口汚く罵り、あまつさえ怒りに触れた者は容赦なく処刑してゆく。
では、その能力は。
広範囲を薙ぐ大鎌と怪力。だがさらに恐れるべきは――糸? 否、ワイヤーだ。
ごく細い鋼鉄の糸をさらに撚り合わせて作った特殊なワイヤーを自在に操作し、周囲に張り巡らす技、通称『マリオネット』。触れただけで肉すら切り裂くワイヤーで敵の動きを防ぎ、時には設備を利用した帯電や引火さえもしてみせる。厄介だ。
『発電設備の場所』
マリオネットの帯電は、設備を利用したものだと判明した。それに、この男の装備も充電が必要なものが多数含まれている。ならば、その発電施設を押さえる事ができたら戦略的にも有利にできる。
場所は――二階、最奥の診察室。なるほど、燃料などが持ち込みやすく、位置的にも守りやすい場所を選んだか。
『春夏冬は今どうしているのか』
救出対象である春夏冬は、無事なのか。そうでないのか。
これについては、理想の情報を得られなかった。現在の状況はおろか、無事かどうかもわからない。どうやら担当外らしい。
だが、居場所は特定できた。
『三階のMRIって使えますかね? 丁度いいんで』
『好きにしろ。準備が出来たら呼べ』
春夏冬を運んできたイワノビッチと須藤の会話。つまり春夏冬は、三階にいる可能性が高い――
得れる情報は、
「えっとね――」
「ふむふむ」
ユウが話す情報から、入手した地図に敵の配置や占拠時に追加された設備を書き込んでゆく神埼 晶(
ja8085)。
それを基に担当を迅速に決め、そして病院への突入を開始する。
●
佐藤には気になる事があった。
現時点でも春夏冬は救出できないのか?
皆と病院に突入し、直後から一直線に三回・MRIへと向かう。
監視カメラ死角を縫っての到着する。巨大で分厚く、どんなにパワーに自信があるアウル覚醒者でもぶち破ることはできないであろう鉄の扉。
「今、助けますからね」
その頑丈なドアノブの隣にある鍵穴の開錠を試みる――が、開錠はできない。それどころか、鍵穴がかなり特殊な形状らしく、一部分を動かす事すら叶わない。
「……っ」
この先にいる。いるのだが、今は助けられないのが歯がゆい。だからこそ、ここで足踏みをしている訳にはいかない。
「――速攻で潰すっ!」
ならば須藤が鍵を持っている可能性に掛け、敵の早期撃破に挑む。
●
生爪を剥がれ、指を折られ、バーナーで炙られ、麻薬を打たれ、電流を流され、頭にズタ袋を被された状態からランダムに針を刺され、眉間に水滴を一定間隔で垂らされ、口に突っ込んだ漏斗から百足に蛆にゴキブリを流し込まれ、体の至る所にネジとボルトをねじこまれ、釘を打ち付けられ、熱したペンチで皮膚を剥がされ、ナイフで削がれ、硫酸を飲まされ、目に塗られ、声が出なくなり――痛みを感じなくなり――自我は崩壊し――人間という存在は蹂躙され――やがて――
「あれぇ、もう終わり?」
人間だった肉の塊。が、そこにあった。いや、まだ辛うじて人である。痙攣し、風の抜けるような音がする。然れども風前の灯であり、消えるのは時間の問題。
「いや、まだ生きてる」
目の前の光景をただ見させられた春夏冬も、最早抜け殻と化していた。
仲間が拷問されている所を、瞬きも許されずに、ただ淡々と見せられ続けた春夏冬は。
地獄にも等しい苦しみを味わっていた。
「上官の言葉さ、覚えてる?」
そんな事も構わず、
「殺すな。生かせ。生かして、生かして、生かしたら――どんな奴にも利用価値はあるって」
昔の言葉。そう、あの二人はまだ死んではいない。まだ生きている。
「そう、俺は殺す以外の事はするが殺さない。だからその結果死なれても俺は知らない。止めを刺したのは俺じゃない。向こうが勝手に死ぬ」
詭弁の持論であった。
殺しはしない。死ぬのは、向こうの勝手だ。
イワノビッチの犯行の被害者達の多くに、明確な致命傷はない。刻み込まれた数多の凄惨な拷問の結果、その失血やショックによって死ぬ。
では、何故イワノビッチは止めを刺さないのか。イワノビッチの場合、理由は二つある。
一つ。拷問の末に利用価値がなくなったと判断し、そのままどこかへ捨て置く場合。
二つ。拷問の末に利用価値があると判断し、共犯者が見せしめに殺す場合。
何故ならば。
「いやあ、俺さ、服汚れるの嫌いなんだよねぇ。前に何度か殺した時、すっげえ血がかかっちゃってさ。お陰でお気に入りのジャケットがオシャカになっちまったんだよ」
それだけの理由である。
「まぁ、でも今回は出血大サービスだ」
ちらりと須藤と目線を合わせたイワノビッチ。すると須藤は覆面の男に指示を出し、工具が置かれた台車の中でも一際大きい鋸を取り出す。
「ねぇ、アキちゃん」
続ける。
「人間って、三枚におろせるのかな?」
●
一番の懸念となる電源施設は五人がかりで一気に破壊する。ユウと神崎、そしてミハイル・エッカート(
jb0544)とRobin redbreast(
jb2203)とルーカス・クラネルト(
jb6689)だ。
ユウの読み取った情報から得た敵配置の少なく、かつ防犯カメラの死角となるエリアを一気に突破する。
「こっち」
「了解した」
ユウは後方に発煙手榴弾を投擲。意味は二つ。背後の敵の目隠しと、煙感知が生きていれば防火戸が動く可能性。
そして前方は、クラネルトが担当する。
臨機応変なサポートができるように中衛の距離感を保ちつつ、敵の手や武器を狙撃し行動不能を図る。
途中でエッカートと神埼とRobinがホール付近に留まる。ユウとクラネルトが電源施設の破壊に集中できるようにここで敵を迎え撃つ。
ここの通路は狭い。よってエレベーターホールなどでない限りは密集した戦いとなる。しかし幸いした事に通路は入り組んでいるため、遮蔽を取るのは容易だ。
Robinはホールを背後に取る曲がり角を遮蔽とし、物陰からの奇襲に備える。手身近にストレッチャーやカーテンなどを階段上から投げ入れて物理的に妨害。そして敵の接近を確認し、周囲をに闇の帳を張って認識を狂わせ、さらに凍て付かせて深い眠りに誘う。
敵の攻撃を避けつつ、愛用のリボルバーCL3による射撃で戦う神埼。彼女は距離によって巧みに戦術を変え、近距離になればシルバーレガースでの肉弾戦も辞さない。
そんな激しい戦闘の中でも彼らは急所は外す。もどかしいが、クライアントの意向だ。
「本来なら殺しても構わんが今は方針に従うさ。お前ら命拾いしたな」
硝煙を吐き出す銃口の先を見ながらエッカートは呟いた。
さて、そろそろ電源施設も破壊される頃か。
ユウが発電施設の入り口にいた見張りの手足を潰し、これを到着の合図とする。
『エレベーター破壊完了だ』
「これから電源施設を破壊する。終わり次第すぐ向かおう」
いいタイミングでシーカーの報告を聞き早速行動に移る。
ユウは精密機器らしきものを手当たり次第破壊し、クラネルトは重要そうな配線もしくは配線板を撃つ。ショートの火花と煙が部屋一面に広がるのには一分もかからず、素早く離脱する。
エッカート達と合流して別ルートで戻る途中、ユウは転がっている敵から再び情報を読み取る。
派手に暴れていた二階に敵が密集していたようで、半分は削れているようだ。連絡を受けて各階から増援が来る手はずになっているので、急いで一階に戻ったほうが良さそうである。
「よし、行こう」
行きとは違う道を辿り、一階へと向かう。
そんな中、牙撃とシーカーは逆側で敵の進軍を阻止していた。二人の武器はショットガン。複数人の手足を狙う。通路が狭いお陰で複数に当たりやすいのがいい所だ。
「コレで多少は時間を稼げるか?」
ホール側で支援を行うシーカーが問う。
「十分だ」
牙撃が頷いた後、エレベーターが到着する。敵を待ち構えている時、シーカーが呼び出しておいたものだ。
箱の中に体を滑り込ませ、シーカーはドアやカメラ――特に天井部を動かないように徹底的に破壊してゆく。
「エレベーター破壊完了だ」
『これから発電施設を破壊する。終わり次第すぐ向かおう』
「よし……っと。こちらもあらかた片付いた」
クラネルトの報告を聞いたシーカーは頷く。ホール側まで撤退する中、牙撃は近くの診察室からシーツを取り、ほんの少しの逡巡の後に手袋を填める。
「戻ってきたか」
発電施設を破壊してきた面々を確認し、シーカーは持ち込んだワックスを床にぶちまける。
「よし、階段で行くぞ!」
牙撃と共に翼を広げたシーカーがわざとらしく叫び、エレベーター穴に飛び込む。そして持ち込んだシーツでブランコを作り、一人ないしは二人を乗せる。
(少しの辛抱だ)
梯子は使わず全力で運ぶ。
シーカーが五階の扉をこじ開け、その先に女子達を下ろす。次は男子達だ。牙撃とシーカーが協力して男子を、今度は一人ずつ。エッカートは陽動を続け、迎えが来たら地下への階段にワックスを、上の階には発煙手榴弾を投げ込んでシーカーに掴まり、五階まで移動した。
●
そうして足を踏み入れた五階は、驚くほど静かであった。それもその筈、五階には敵は配置されていない。つまり、この階には現在、須藤しかいないのだ。
この中から須藤がいる部屋を断定するのは簡単であった。五階の最奥。他の部屋の扉と比べ、雰囲気が圧倒的に違う。人の気配もする。間違いはない。
「さて、と……」
この廊下で神埼は、敵を待ち受ける。
周囲の個室から仮眠用のベッドや来客用のソファーなどをディザイアや牙撃と共に持ち出し、特別個室に続く通路にバリケードを築く。そして牙撃はバリケードの向こうの床に侵食弾頭を撃ちこみ、踏めば床に穴が開くようにする。
「撃退士の怪力、なめんじゃないわよ」
これくらいの家具ならばどうという事もない。血管を浮かせながら、神埼は微笑む。
「さ、行って」
遠くで足音が聞こえ、神埼がスナイパーライフルを構えた。悠長にしていられない。
「……来たわね。悪いけどココは通行止めよ。守るべき背中があるもの」
一瞬だけ穏やかに微笑み、通路からやってくる敵を迎撃して増援を防ぐ。
活性化させたスナイパーライフルの音を背に、部屋へと向かう。そして扉と向かった緊迫の中、ユウは特別個室の扉を悠長にノックし、開いた。
「おじゃましまーす」
直後、Robinとシーカーがストレッチャーを室内に蹴り入れる。ストレッチャーは勢い良く滑走するが、けたたましい音と共に破壊された。ある一点を中心に大きくひしゃげるストレッチャーは蹴りによって破壊されたのだと悟る。
「ふん、来たか。待ちくたびれたぞ」
廃墟の病院という場所では、あまりにも場違いな革張りの椅子。
そこに座るのは須藤ルスラン。グラスに入った残り少ない葡萄酒を一気に呷り、子供の背を悠々と越える刃渡りの大鎌を肩に担ぐ。
「揃いも揃って間抜け面、か……全く、こいつらが二件の取引と一つの拠点をブッ潰したという事実が情けない……」
目頭を揉みながら、須藤はゆらりと立ち上がる。
「来い屑共。ここでまとめて始末してやる」
大鎌を構える須藤。それに対応し、各々武器を構える。
撃つ。しかし器用に大鎌の分厚い刃で弾き返されてしまう。
そこでRobinが闇の中に紛れて潜行し、多数対一の人数差を武器に、死角から他に注意を向けている隙を突いて遠距離攻撃を試みる。
「甘い」
須藤は圧倒的な膂力で一気に詰め寄り大鎌を振るい上げるが、Robinは何とか距離を取る。モーションが大きいお陰で動きは見極めやすいが、攻撃範囲が広い上に怪力なので掠めただけでも厄介そうだ。
罠を使ってこない上に動きも俊敏ではないので先の筒井よりも戦いやすい。ただ、筒井とは違うまた別の悪質さがある攻撃だ。
鎌の鋭利な刃先にかかれば、たちまち体は二つに切り裂かれる。
須藤もそれを熟知しているのか、その刃が届くか届かないかのラインで攻撃を仕掛けてくる。
クラネルトによる牽制の射撃や、大鎌を振るうその一手前にユウが放った雷光や氷を放つが、見切られているようで悉く弾き返されてしまう。
「それだけか?」
細い首を少し折り、傾げる。
「逃がさん」
直後、空気が張り詰める。
じりじりと迫る見えない壁――否、壁の形をしていない壁。
宵の空に溶けて消えるような艶消し黒のワイヤーが無数に張られ、じりじりと一同を取り囲む。
「これが『マリオネット』か――!」
エッカートは辺りに張り巡らされたワイヤーを見て呟く。仄暗い中で視認は難しいが、なるほど、確かに鋭利そうなワイヤーである。
六角の分銅がついた鎖でワイヤーを絡め取るが、増えている状況では全てに対処しきれない。
一気に距離を詰め、銃を模ったシールドの銃床を振りかざす――弾かれた。だが、狙いはそうではない。
ゼロ距離ならば、命中率を犠牲にした三連撃だって当たる。
「甘い」
鎌を動かしていないのに、弾き返される――否、ぶち当たったのだ。
張り巡らされているものよりもずっと太いワイヤーである。
どうやらあのワイヤーは一定の太さに束ねるとアウルの弾丸を防ぐらしい。
「面倒だな、これ……!」
エッカートが呟いた次の瞬間、銃声と共にワイヤーが切れた事を確認する。
リロードの音。もう一発。
「厄介なものを使うな……お前」
金色の瞳が赤の虹彩を睨み、ワイヤーを溶かす侵食弾頭に舌打ちを一つ。
赤の虹彩は何も悟らせず、ただリロードを一回。そして再び撃つ。
鎌を狙ったのだが、そこここで垂れるワイヤーを見て一発で悟った須藤は弾き返すのではなく避ける。
狙った牙撃は何も答えない。悪態も吐かない。「口を動かす」という身体機能すら、今は戦闘能力に回されているからだ。
侵食弾頭は弾切れだ。その換装の合間は、Robinが引き受ける。
見えない弾丸や虹色の爆発が巻き起こる。しかし弾丸は新たに張られたワイヤーの束にぶちあたって落とされ、爆発は巧みに避けられる。
膠着状態のうちに空は雲が立ち込め、灰色へと色を変える。これでは、ワイヤーの視認もできない。非常に危ない。
「――そうだ」
足元に転がる消火器を見て、佐藤は思いつく。
古ぼけていて使い物になるかはわからないが、試してみる価値はありそうだ。
消火器を持ち、グリップを握って一気に消火剤を出す。
発煙手榴弾の代用とも言っても良いが、手榴弾とは大きな違いがある。
ただの煙ならば霞んで消えるが――消火器の煙は粉だ。よって、白い粉がワイヤーにこびりつく。
「これでもっとわかりやすい筈です!」
仄暗い部屋の中では、艶消しの黒よりも白の方がよく見える。
「チッ……」
まさかの案に、須藤の美しい顔はまた怒りに歪んだ。
ここまで、須藤の思い通りになった事など何一つもない。
先程から防戦一方の須藤。攻撃らしい攻撃は何一つ成功しておらず、もどかしい思いをするばかりか苛立ちが募って冷静さすら奪ってゆく。
「選ばれた力を持ちながらも……天魔に加担する……この屑共が……」
片手で髪の毛を掻き毟りながら、須藤はいっとう呼吸を荒げ、焦点の定まらない目でぶつぶつと何かを呟く。
「世持様の理想郷に巣食う害悪が……俺がここで滅ぼしてやる……」
眼が、変わった。
「こいつ――」
ディザイアが真っ先に気付く。
眼、だけではない。雰囲気も、纏う殺気の質も変わった。
言うなれば、彩度の変化。目が醒めんばかりの原色から、くすみきった黒へと。
須藤の微かな指の動きと共に、ワイヤーが一本、また一本と張られてゆく音。
どす黒い殺意の檻が、完成する。
「やばくなったな」
エッカートの服や肌に塗ったワセリンの上をワイヤーが滑る感覚が走る。
怪我こそしないが、油分の膜がこそぎ取られていくのがわかる。
このままでは、ワイヤーという見えない壁に圧迫され、切り刻まれてしまう。
「これじゃあキリがないな……」
ディザイアはワイヤーを全て腕に絡めようとするが、これではキリがない。
つまり、向こうは終わらせにかかっているのだ。
あのくすみきった金色の殺気がそう叫んでいる。
「殺す、滅ぼす、殺す、滅ぼす、殺す……」
この状態の須藤に正気が残っているかは、最早別の問題であった。
殺気からは目に映る動く物を敵と認識する獣のような本能が、動きからは自己暗示をかけて冷静に動こうとする理性も感じられる。
ただ、言えるとすれば。
狂わんばかりの憎悪か。怨念か。
自ら盾となり、前を陣取るシーカーは笑う。
「面白い。……さぁ、終わりにしようぜ」
終盤だ。
出し惜しみはしない。各人、持てる力で須藤を攻撃する。それに対して須藤は見事なもので、弾き返し、避け、ワイヤーの檻を構築しにかかる。
激戦の中でユウは悟る。囲まれた、と。
これは須藤も例外ではない。
なれば。
「逃がさない」
何故か背後に、小柄な少女がいた。
須藤は知らない。ユウが、<門>を開き、背後に回った事を。
風に舞う薄水色の淡雪がひらり、と。
風を彩る桜色の花弁がふわり、と。
全て光景がスローモーションで流れる中、須藤の脳内は真っ赤な警鐘が鳴り響く。
――やばい。
本能的な生命の危機を瞬間で悟る。
胴体に迫る、冷え冷えとした雪色の切っ先。
――やばいやばいやばい。
反射でワイヤーを一本。防いだ――否、しくじった。
この攻撃は囮だ。本命は……別!
数瞬遅れた頭狙い。
牙撃が撃つ、破壊力を高めた弾。
掠めたワイヤーを抉り取りながら、猛然と進む
避けられない? いや、防げる。多少の命中率を犠牲にしたような弾丸で、この須藤は殺せない。
ワイヤーを束ね、防ぐ。モーションは大きくなるが、悠長な事は言ってられない。
この時須藤は気付かなかった。自分の身を守る事が最優先で、ごく基礎的な事すら忘れたのだ。
振るった腕の軌道上に、別のワイヤーが張られてあった。
気付いた時にはもう遅い。
時にはアウルの弾丸すら切り裂き――人の体も容易に切り裂くワイヤーは。
「う、」
悲鳴。
左腕の断面から、噴水のように噴出す血。
数瞬遅れて、何かが落ちる鈍い音。
「腕が、腕が、腕が、腕が腕が、腕が腕が、腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕があぁあああああアアアあアっ!」
パニックである。
我を失った須藤は残った手に持った鎌を振り回し、その痛みと絶望に苦悶する。鎌は張り巡らされたワイヤーを切り裂き、須藤自身もまだ張られているワイヤーに触れて白い肌を切り裂く。
足取りどころか自我すら危うい須藤を狙うのは簡単であった。
仕留めるつもりでエッカートが撃つ。
当たった。だが、動きが不規則なせいで場所は急所ではなかった。命中した場所は――脇腹。それで十分である。
「う」
糸を切られた操り人形のように、須藤の手足は崩れてその場に倒れる。
深紅が、色の褪せた緑のリノリウムに広がってゆく。
「――まだ生きてる」
Robinは様子を伺うように呟いた。どう見ても意識不明の重体であるが、須藤もまたアウル覚醒者ならば――手当ての必要はあるが――近かれ遠かれ再び目覚め、『夜明けの八咫烏』の重要参考人になる。
倒す必要こそあるが、殺す必要は必ずしもない。先に待ち構える末路はどうあれ、生きているのであれば、連れ帰ったほうが有益だ。幹部であれば、得れる情報は多いだろう。
クラネルトやディザイアが黙々と応急を行っている中、佐藤はあるものを発見する。
須藤の首にかけられていた、銀色に光るこれは――鍵であろうか。
「もしかして、これ――MRIの」
ここにあったのか――と頷く佐藤の横で、シーカーとクラネルトは血が止まったのを確認して立ち上がった。
「よし、なら……行くか。こいつは、別の奴らが好きにするさ」
全てにおいて確証はない。だが、行かなければ何も得ることはできない。
扉を開ける事の出来る鍵があるのであれば、恐れずに使うべきなのだ。
●
MRIの扉を開けると、広がる真っ赤な惨状と、そこで一点の染みのように佇むイワノビッッチが目に飛び込んだ。イワノビッチはストレッチャーに腰掛け、ニヤニヤと春夏冬を見ていたが一同に気付き、やがて視線を移した。
「アキナシ、見ーつけた。それに岩のおにーさんも」
ユウは春夏冬に目立った外傷がない事を確認しつつ、イワノビッチを指差す。
「やあ冬色のお嬢さん。おじさんからお兄さんに格上げたぁ嬉しいね。俺一応コイツと歳同じだからさあ」
「同い年……? ぜんぜんそう見えないんだけど。ヒゲそったほうがいいよ」
「あんま似合ってないのかねぇ。考えてみるよ」
芝居がかった動きでわざとらしく嘆くイワノビッチは、ストレッチャーから降りて立つ。
「逃げるの?」
不意打ちや隠し通路などからの逃走を警戒するRobin。しかしイワノビッチはうんにゃ、と答えた。
「ここはMRIだぜ? 四方八方を天魔でもブチ破れない鉛で塞がれてるってのに、どう逃げ出そうってのかい。普通にお前らが入ったところから行儀良く出るつもりだよ」
「……」
「お? 疑ってるのか?」
そもそも、今の今まで逃げなかったのが不自然だ。自分達を待っていたのか?
それに、人を食ったようだと聞くこの男が丸腰だとは到底思えない。罠や動く壁、自爆装置等、何らかのスイッチを押すような動作に注意する。
「俺はなぁんにもしねぇよ。今回ばっかりはタネも仕掛けもねぇ」
「――なら」
近くにあった衝立を、Robinは勢い良く蹴飛ばす。衝立は鉄のひしゃげる高い音と共にイワノビッチに迫る。
「かわいい顔しておっかないねぇ。駒鳥のお嬢さん」
気付いたら後ろに回られて、耳元で囁かれていた。
「――!」
反射の振り向き様に、魔銃を突きつける。引き金を引きかけた所で――止めた。
「鳥の肉はね、あんまり好きじゃあないんだ」
胸に突きつけられたナイフ。いや、ナイフのように尖らせたやすりだ。
「おっと全員動くなよ――よし。取引をしよう」
周囲を見回し不敵に笑いながら、イワノビッチは懐からあるスイッチを取り出す。
「俺を見逃してくれるんなら、お前らにこの施設の自爆スイッチをやろう。押せばたちまちこんな廃墟なんざボカンの代物だ。だが見逃さないってんなら、お前らを全員動けなくしてからこれを押す。ボカン、ってな」
「……私たちを打ちのめす自信はあるの?」
Robinは釈然としなかった。この男の根拠のない自信はどこから来るのであろうか。
「あるさ。俺はその木偶の坊の弱点を全て知っててな。何なら、永遠に使い物にならなくさせる事だってできる。おぉ、やるか?」
凄惨な拷問死体と廃人状態の春夏冬。そして躊躇のない闇を孕んだイワノビッチの瞳。
――春夏冬は、救出対象であり今後の作戦にも必要な存在だ。
「外道が……」
佐藤は拳を握り締めたが、ここで感情に任せて行動するのはそれこそ春夏冬の二の舞だ。
「――取引成立だな」
スイッチをぽとりと落とすと、やすりを懐に仕舞い、これみよがしに一同の間を縫ってMRIを出ようとする。
「五分だ。五分待て。言っておくが、くれぐれも追いかけようなんざ思うなよ」
その、去り際。
「ま、自爆スイッチってのは嘘だがな」
「……してやられた」
イワノビッチの足音が消えたとき、誰かが呟いた。誰かはわからない。しかし、今は悔いるよりも先にやるべき事がある。
「……おまたせ、アッキー」
神埼が春夏冬に駆け寄る。と言っても彼は何の反応も示さず、焦点の合わない目で呆然とどこかを見ているだけであった。
「よう、迎えに来たぜ。……これが終わったら、酒、飲みに行こう」
拘束具を破壊しながら春夏冬に話し掛けてみるエッカートだが、勿論反応はない。
無傷で廃人の春夏冬と、目の前の惨死体、そして微笑んだイワノビッチ。
これらから、導き出される解は一つのみ。
「――この世界に生きるってのは、こうなることも覚悟の上だ」
今の春夏冬に聞こえているかはわからない。だがしかし、言わないと自分まで気を狂わせてしまいそうな、そんな錯覚さえした。
そして考える。
イワノビッチの言葉を。春夏冬の行動を。
二人の間に一体、何があったのか。
春夏冬の過去に一体、何が起きたのか。
謎は、解き明かされる必要がある。
全てが黒いヴェールを脱いだその時に――
深淵に広がっている、闇の色が分かる。
【続く】