乾いた枯れ枝が、パキリと音を立てる。
静けさに包まれた森の中では、それはあまりにも大き過ぎる音のように錯覚できた。
「熊に、縁があるわね……わたくし。童話だと可愛げもあるけど、『人さらい』では、可愛がることもできないわ。まったく残念ね」
お嬢様然とした身なりのシュルヴィア・エルヴァスティ(
jb1002)が、木の幹につけられた爪痕を調べながら、小さく息を吐いた。
「……ふぅ。このあたりも縄張りみたいね」
「熊ベースのディアボロとはいえ、何処まで熊でいるのか……羆並に好奇心の強いヤツなら、こうしているうちに寧ろ向こうから来てくれそうですが」
ライフルを背負った小柄な少女──ジェイニー・サックストン(
ja3784)が、彼女に同意する。
「もう少し、獣道を奥に入ってみますか? 足跡を追うなら、それしかないですよ」
ハーヴェスター(
ja8295)が、生い茂った枝をかき分けながら言った。
「他の餌場は?」
「事前調査では、ここで最後です」
「人が歩きやすい場所は獣も歩きやすいといいますし、餌場なら何らかの手がかりが残っていると思ってましたが……これ以上の情報を集めるのは、難しそうですね」
「でも、足跡を見失わなかったのは幸いだわ。諦めずに追っていけば、必ず追いつくわ」
「……じゃあ、決まりですね。後続班に定時連絡を入れてから、先に進みましょう」
まとめるように言ったジェイニーの言葉に、ハーヴェスターとシュルヴィアは頷いた。
今回、依頼を受けた撃退士たちは、自分たちを二つのパーティーに分けていた。
ひとつは、ディアボロと巣を捜索し、状況に応じてディアボロの誘導を行う先行班。そしてもうひとつが、ディアボロの隙を突き、巣から被害者を救出する後続班だった。
「……うん、分かった。獣道は足場が悪いことも多いから、十分に注意をしてね」
スマホで話をしていたのは、高等部の諸伏翡翠(
ja5463)。後続班では、彼女が先行班との連絡担当だ。電話の相手はハーヴェスター、彼女があちらの連絡担当になっている。
「先行班の人たちは、なんと……?」
彼女に声をかけたのは、今回のグループ内では唯一の男子生徒木花小鈴護(
ja7205)だった。
「ディアボロ及び巣の発見はまだだって。ただし……」
「ただし? 何かいい発見でもあったんでーすかー?」
独特の口調で、狂々=テュルフィング(
jb1492)が聞き返す。
「足跡を追跡して、少し奥まった獣道を進んでみるって言ってるよ」
「そうなんですか……先行班の皆さんには、気をつけてほしいな……」
「気になることでもありまーすかー?」
「うん……熊は待ち伏せしたりするくらい、頭が良いんだ……人間の想像を超えた行動をしてくるんだよ」
ぶるり、と小鈴護が体を震わせた。
「……ともかく、今は少しでも早く被害者を探すしかないよ。こっちも頑張ろう」
翡翠の言葉に、狂々が黙って頷く。
小鈴護は森の奥に目を向けながら、わずかに表情を険しくした。
「本当に……ワンゲル部の人たち、無事でいてほしいな……きっと救助を待ってる。早く助けに行かなきゃ……」
「それにしても……本当に、知恵の働く動物ってのは面倒ですよねぇ。天敵が居ないから調子に乗っちゃって、まぁ」
ハーヴェスターを先頭に、がさりと木の枝をかき分けながら、三人は慎重に奥へと進んでいく。
もっとも、そうそう急ぐことはできない。積み重なった落ち葉の中から足跡を見分ける作業は困難を極める。足を早めれば、それを見失ってしまうのだ。
「熊の天敵って、何ですか?」
「さあ? でも、熊型ディアブロなら、天敵になりそうな存在に心当たりがありますよ」
後ろに振り向くと、不敵な笑みを浮かべるハーヴェスター。
「ディアボロの天敵、それは私たちに決まってるじゃないですか」
「とは言っても……討伐依頼じゃないからね。救助第一に、頑張りましょう」
「ええ、もちろんですよ」
釘を刺すようなシュルヴィアの言葉に、異論はない。すでに被害者の中に撃退士がいるのだ。つまらない功名心に逸るほど、ハーヴェスターは自分が未熟な精神をしているつもりはなかった。
そう、撃退士がいた──というあたりで被害者のことを思い出し、彼女は携帯の中に記録しておいたメモを再確認する。
「事前に調べたところ、被害にあったワンダーフォーゲル部の面子は五名。『保存食』とするには十分です。ディアボロはすでに巣に籠っている可能性も、考えられますね……」
悲観的な予測に、彼女の眉根がわずかに寄せられる。
「でも、後続班からも、特に何の連絡もないのでしょう?」
「ええ。こちらが捜索のメインとはいえ、索敵は向こうも行なっているはずですが……網に引っかかったということは、ないようです」
状況は停滞していると言っていい。三人の顔も、浮かない表情だった。
「ともかく、ディアボロと巣を見つけないことには、話にならないわ。少し、急ぎ……」
シュルヴィアが今まさに足を踏み出そうとした瞬間、動きをピタリと止める。
「……!」
ほかの二人の表情も厳しくなる。
瞬間、ハーヴェスターが小柄な二人を脇に抱え、藪へと潜り込んで『遁甲の術』を使った。気配が周囲に溶け込み、まるでそこには最初から誰もいなかったかのように静寂だけが取り残される。
遠くから、地響きのような音が聞こえた。それはゆっくりとした、そして規則正しい音だった──まるで、『足音』のように。
(……ビンゴ! ですね)
心で声をあげたジェイニーの視界が、すうっと大きな影に覆われる。
「!?」
一瞬、何事かと思ったが、すぐにズン、ズンという足音ともに、『影』は遠ざかっていった。
そして、彼女は見た。
小山ほどもある、巨大な毛むくじゃらの『塊』。その存在質量の大きさに、思わず息を呑む。
考えるまでもない、これこそまさしくワンダーフォーゲル部を襲ったディアボロに違いなかった。
(か、可愛らしさは微塵もねーですね、このテディは……!)
ジェイニーの感想をもっともだ。
確かに熊だった。熊である。しかし大きさが、尋常なものではない。なるほど、これでは一人や二人の撃退士では手が出ないのも無理はない。
幸いにして、ディアボロは三人に気づくことはなかった。もっともそれを確認するすべはなく、ただ悠然と通り過ぎて行ったことから、そう判断したまでのことだったが。
しかし、これで第一の目的は果たした。あとは、追跡を始めるだけだ。
「……ハーヴェスター、エンゲージ。目標監視に移行」
携帯を使って、後続班に連絡を入れる。余裕の表情こそ崩していないが、そのたたずまいには、緊張感をまとわせつつあった。
「……これ、本当に巣穴なの?」
どこか呆れたような、翡翠の言葉が全てを物語っていた。
先行班が、ディアボロの追跡を初めて数分後。
しばらくの捜索ののち、後続班は、ディアボロの『巣』を、あっけないほど簡単に発見していた。
それは、木の根元に掘られた穴。巨大な穴だ。
「奥から何か匂いまーすよー?」
くんくん、と鼻を鳴らす狂々。
「これ……ハチミツの匂いじゃない?」
「うん、そうだね……保存食として、溜め込んだんだと思う……」
「調べてみようよ、もしかしたら被害者も近くに!」
急いで、ハチミツの香りの源へと三人は駆け寄った。
「こ、これは……」
「……言うなれば、人間のハチミツ漬け、かな……?」
そこにいたのは、ハチミツのプールに漬け込まれた被害者の姿だった。
数はきっかり、事前調査の通り五人揃っている。どうやら、先んじてディアボロの夕餉となってしまった犠牲者はいないようだ。
だが全員、肉体的にも精神的にもめっきり衰弱してしまい、口もきけないようだ。
「と、とにかくまずは助け出さないと!」
「うん……分かってる、けど……」
どこか、思案げな顔をしながら、ハチミツを指ですくいとる小鈴護。
「けど? 気になることでも?」
「これ、ただのハチミツじゃないと思う……粘性とか、臭いとかいろいろ変なんだ……たぶん、熊の……ディアボロの唾液が混ぜられてるんだと思う……マーキングの可能性がある。最悪、このハチミツに混ざる唾液の臭いを、ディアボロは追ってくる……」
「……洗い流してる余裕はないよね……。ともかく、被害者を早く助け出しちゃお? 私はその間に先行班に連絡しておくから、ディアボロが巣穴に戻ってこないように頑張ってもらおう」
「そう、大丈夫だから。皆で手を繋いで山から下りるよ。一緒にね」
翡翠が被害者たちに、優しく声をかける。
小鈴護の用意していた携帯用の栄養食と水を与え、自力で歩ける程度には被害者を回復させた後、後続組は下山を開始した。すぐにディアボロを観察中の先行班も合流する手はずになっている。
順調ではあったが、時間はあまり残っていない。現在はすでに夕方だ。なんとしても日が落ちるまでに、下山したかった。
「さあ、怖がらなくても大丈夫。貴方達はたまたま運が悪かっただけ。本当の山は素敵なところだから……怖くないよ」
精神的に参っているのか、ディアボロと出くわすことを、被害者たちは過度に恐れていた。それをなだめるだけでも、一苦労だ。
「ん? あれは……?」
殿として集団の最後尾についていた狂々が、ひさしのように手を掲げて目を凝らす。
そこには、人影が三つ。見覚えのある姿だ。
「おおっ! 先行班の人たちでーすねー?」
ここですよーと言わんばかり、手を振り返す。だが様子がおかしい。狂々のことなど眼中にないかのように、必死に走っている。
「どうしたの? 何かあった? もしかして、ディアボロ見失った」
翡翠がスマホに向かって尋ねる。
『違います! 風向きが変わったと思ったら、急にディアボロが走りだしたんです! 予想以上に速い! すぐそこに現れます!!』
電話口のハーヴェスターが言うが早いか、潅木をへし折りながら、巨大な影が姿を現した。
この世のものとは思えない咆哮が、朱色の空を震わせる。
「……確かに速い! けど、やらせないっ!」
被害者たちの前に、三叉の槍を構えた翡翠が立ちはだかる。
彼女を襲う咆哮、そして烈風。巨木をも切り裂く爪は、かすめただけでも少女一人を吹き飛ばすには十分だった。
「あうっ!?」
地べたに転がることはなくとも、受け止めた衝撃は両腕をしびれさせ、槍を構える力すら、ただの一撃で奪い取る。その余波は真空の刃となって、彼女の服や頬に傷を刻んでいた。
「翡翠さん!」
小鈴護が彼女に駆け寄り、アウルの輝きで彼女の傷を癒す。
だが翡翠が決死の覚悟で作った隙に、先行班の三人も追いついていた。
囮になるようにディアボロの前に割りこみながら、シュルヴィアが言う。
「あなたたち、生きてるなら聞いて! 小鈴護さんの言うとおり、ディアボロは巣のハチミツの匂いに反応するわ! 風向きが変わったときに反応したから間違いない! そのハチミツがあれば、誘導に使える!」
「やっぱりね……よし、被害者から上着を脱がせる……!」
翡翠と小鈴護が、すぐさま被害者のハチミツにまみれた上着を脱がせる。
「服を囮にしましょう! 熊は自分の獲物に強いこだわりがあるんです! だから、こうやって目を潰してしまえば……」
ジェイニーが持っていたペンライトを、ディアボロの目に向けて照らす。網膜を焼く強烈な光に、苦悶しながら顔をそむける熊型ディアボロ。
「これで、鼻しか頼れません! ディアボロを騙せます!」
「やりましたー! だったら後はこれで……!」
「ちょっと汚いけど、この際しかたないわね」
狂々とシュルヴィア、そしてハーヴェスターが、ハチミツにまみれた被害者たちの上着を拾い上げると、それを旗のように振り回して、ディアボロを誘う。
「さあ、こっちですよ……! こっちに来てください、こっちがあなたの『獲物』ですよ」
じりじりと後退りしながら、熊を被害者やそれを守る翡翠たちより引き離す。
ディアボロは焦れているのは、彼女も肌で感じている。じりじりと間合いを保ちながら、少しずつ、少しずつ被害者たちと距離を取る。
思惑通り──ではあったが、同時に囮役たちも追い詰められつつあった。
あまりにも必死にディアボロを誘い過ぎて、足元まで注意が回らなかった。今、後退りしている三人は、急斜面の崖っぷちへと追い詰められつつある。
ディアボロが焦らず、様子を伺うようにじりじりと近づくのは、それを分かっているからなのだろう。
「……狂々さん、ハーヴェスターさん、一、二の三で飛びましょう。わかるわね?」
「ええ、大丈夫です。把握できてます」
「わっかりましたー!」
囮役、と言っても悲壮感はない。三人はただなすべきことをやる、といった雰囲気の表情を浮かべていた。
「「「一、二の……サンッ!」」」
三人が声を揃えて、身をかわしながら崖下へと上着を放り投げたのと、ディアボロが突進してきたのは、ほぼ同時だった。
だが熊ディアブロも馬鹿ではない、とっさに爪を地面に突き立て、急ブレーキをかける。
だがそんな千載一遇の好機を、見逃す法など撃退士にはない。
「背中ガラ空き! カッキーン! なのでーす!!」
ディアボロの背中を、勢い良く振り回された狂々のバットが痛打し、大きくバランスを崩す。
ガラガラと音を立てて、ディアボロの重量を支えきれなくなった崖っぷちが崩れ始める。なんとかしようと必死にもがくが、熊ディアボロは自らの重さが起こした土砂崩れに足を取られ、そのまま巻き込まれて──崖下へと、消えた。
「さあ、今がチャンスよ、急いで下山しましょう! あいつが起き上がって来ないうちに!」
シュルヴィアに言われるまでもない、とばかりに、一行は急ぎその場を離れ、下山を再開するのだった。
それ以降、熊型ディアボロに襲われることはなかった。
一行は無事に下山し、麓へとたどり着くと、被害者たちを待機していた救急隊員に預ける。
「やっと終わりまーしたー!」
「お疲れさま。今さらだけど、囮の人たちも怪我はない?」
最後の最後、身体を張ったシュルヴィア、狂々、ハーヴェスターの三人を、翡翠がねぎらう。
「あなたのほうこそ。まともに受け止めたでしょう?」
「小鈴護さんに、癒してもらいましたから平気ですよ」
にこりと笑う翡翠。その後ろでは、小鈴護が照れ臭そうに頭をかいている。
「……あのディアボロ、これからどうなるのでしょう?」
一人山を見つめていた、ジェイニーが呟く。
「いつかは、討伐令が出るかもしれない……悪いのは山でも、ディアボロでもない。誰の、何の所為でもないのにね」
翡翠の言葉は悲しそうだ。
「悪魔の手によって捻じ曲げられてしまっただけなのよ。あの人たちも、山を嫌いにならないでくれればいいのだけど……」
機会があれば、その想いを伝えに、お見舞いにでも行こうか。
翡翠は、そんな風なことを考えていた。