●雨狐山
雨児村の後ろに堂々と構える山は、村の古い名と同じくアマコヤマと云う。
大した標高ではない。手入れは行き届かず熊も出るとはいえ、頂上の神社へと続く道もある。
特に撃退士の体力、脚力であれば登山自体は大した問題では無かった。
深緑の匂いを深く胸に吸い、一行は頂上を目指して歩いていた。
カラン、カラン、と鐘田将太郎(
ja0114)の腰に括られた熊避け用の鈴が木々の合間に吸い込まれて行く。
それぞれが手に半升瓶をぶらさげている以外は、まるで流行しているらしい登山を楽しむ若者に見える。
「あ、頂上!」
鬱蒼と茂る木々ばかりの景色の中から鳥居を見えると、ソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)が指を差した。
皆がつられて顔を上げる。
頂上に出ると視界は開け、そこには境内があった。
ただし明らかに人が通っている気配はない。山の頂上なのにかさかさと乾燥した印象を受けた。
地面は砂地で、所々に少ない水分を奪っていそうな態で雑草が生えている。
奥にはこじんまりとした拝殿があるが、こちらも屋根の痛みが一目で分かった。
そして片隅には小さな社がある。
何かしらあったのか、二体の狐のうち片方の狐が、土台から倒れ地面に転げていた。
その光景に渡瀬 渚(
ja7759)が口端を結ぶ。
この事を知ったら、年老いた村人たちはどんなに胸を痛めるだろう。
「…狸さんも、熊さんも、好きですが、小夜は狐さんが1番好きです……」
夜科小夜(
ja7988)も、直ぐにでもその倒れた狐を直したい想いだった。
それでも計画の為に堪え、皆と共に拝殿へと向かう。
ピクニックを装う彼らは、雑談を交えて拝殿へ向かった。
「神社、てことは、二礼二拍一礼か」
将太郎が二つ礼をする。
彼も日本有数の米所の出身だ。雨が降らないと大好きな米も食べられない。
信心深い訳ではないが、死活問題だという想いを込め、二つ手を打ち鳴らした。
「二回礼をして、それから二回手を打ったらお願い事をするんです」
その横で紅葉 公(
ja2931)が、元々顔見知りであるイタリア生まれのソフィアに神社のお参りの仕方をおっとりとした口調と共に、実際にやってみせながら説明する。
「本当に神様ならば、あるべき所にそれをお願いします」
参拝しながらそう告げたのはイアン・J・アルビス(
ja0084)だ。
狐の居場所には狐がいるべきだ。そこに狸がいるのはモヤモヤする。几帳面な性格なのだ。
そしてそれぞれがお参りを済ませると、山登りの後、頂上で食べるご飯は絶品―――、いや、今回の敵を匂いで誘き出すために、持参して来た食べ物を出し始めた。
イアンの用意したサンドイッチは特に手が込んでいる。
「もしかしたら実際に食べるかもしれないですから」
そこからも几帳面さが滲み出ていた。
ソフィアも元々料理上手とあって、密閉していた容器の蓋を開けると、狸が出て来る前に食べたくなる美味しそうな匂いがする。
「なんだか紅茶に合いそうです…」
公が思わず感想を漏らす。
渚と小夜はディアボロの嗅覚を擽ろうと、特に肉を多く使った料理を持って来ていた。
狸たちが根城にしている社を密かに警戒しながら、密閉容器の蓋を開ける。
それぞれが食べ物を手にした様子はピクニックに限りなく近い。
しかし拝殿を離れ、社から数メートル離れたところにそれを置くのは、明らかに穏やかなピクニックとは異なった。
「あげちゃうのは気に入りませんが…仕方ないですね」
イアンが呟く。
皆、敵が出て来易いよう、警戒していることを表に出さないまま、ゆっくりと置いた料理と社から距離を取る。
将太郎とイアンの持っていた御神酒は、一旦渚とソフィアが預かった。
瓶のぶつかる音がする。その音は妙に山裾へと木霊した。
けれど、透過能力を持つ狸がこちらを窺がおうとも、音はしない。
さりげなく気配を探り、そして目視するしかない。
石造りの社の中から黒い鼻先が一つ出た、その瞬間も、やはり音はしなかった。
「いましたね」
ひの、ふの、み…、匂いにつられ、社の中から鼻面が、次々に現れる。
仕掛けるタイミングを辛抱強く待ち、堪える時間はほんの数秒だっただろうか。
数分にも感じるその時を過ごした後、一気に時計の針が進んだ。
五匹が同時に社から踊り出るや、置かれた料理へと駆ける。
確かに元は狸だったのだろう。
しかし常に威嚇する形相の眼球、剥き出しになった血生臭い歯牙は既にこの世のものではない。
先陣を切った一匹目が一直線に向かったのは、やはり肉の料理だった。
全部で五匹。それ以上はもう社の中から出て来る個体はないか。
そう見極めると、イアンは自らタウントを展開する。
食欲という本能に駆り立てられていたディアボロらの意識が、邪魔をされ、一斉にイアンに向く。
一匹が咽喉奥の赤さを露出させる程に顎を開き、威嚇する。
それを合図に、四匹がイアンを目掛け駆けた。数で一体を狙って来る。
「こっちも見とけよ!」
そこに将太郎が横から入り込んだ。
手にしたトンファーを振りかぶり、最も距離の近かった一匹の鼻面に思い切り叩き込む。
抉り取られた歯牙が飛ぶ。
しかしそれだけで手は休めない。次の一打を痛烈に脳天から叩きつける。
動いていたのは将太郎だけではない。
「居座らせる訳にはいかないね。キッチリ退治しちゃわないと」
ソフィアが御神酒を守り敵と距離を保ったまま、指に召炎霊符をはためかせる。
たちまち炎の塊が一直線に一匹に向かい、イアンに向かう軌道から弾き飛ばす。
みるみる間に尾の先まで火が回った。
既にその一匹の行く末は見えていたが、獣の最も嫌う炎に焼かれ行く先を見失い、転げまわる。
我を失い、なりふり構わぬ狂気じみた様子で、闇雲に元の社に戻ろうとする。
「…ごめんなさい……」
その直前。間合いを詰め、炎に包まれ焦げる横腹へ深々と打刀を突き刺したのは小夜だった。
動物の命を奪うのは好きではない。
けれどそれ以上に、お狐様を守ることが小夜にとって大事なことだった。
迷いなく刺し込まれた刃に呻いたのを最後に、その一匹は動かなくなった。
イアンに向かう数が削れたとはいえ、援護しなければ。
公はそう判断し、イアンの後ろへと駆けた。
手の中にばちりと稲妻の青白い光が生まれる。
「ここはお狐様の場所です」
「さて、場違いはお帰り願いましょうか!」
一方、イアンはぎりぎりまで自分に敵を引き付け、後衛の公に敵を近づけまいと、時を見計らって防壁陣を張る。
公の鋭く狙いを澄ました雷が最も距離を詰めていた一匹を穿つ。
それは同時だった。
狸の成れの果ては雷を受けて宙で反り返り、そのまま砂埃を上げて地面に落ちる。
その脇でイアンに向かって駆けていた最後の一匹は、ソフィアの二撃目を喰らった。
「今ので何匹だ!」
将太郎の声。自らが手に掛けた獲物が地面にうずくまり動かなくなると、ざっと視線を走らせ確かめる。
もう一匹は何処だ。
「神社で殺生をするのは……気が進みません」
元々はこんな姿になる前は、一つの命であったはず。
それでも人を傷つけるディアボロは討たなければ。
悲哀に満ちた渚の視線が、皆とは別の方を見ていた。
イアンに向かわず早々に逃げ出した一匹が、その身に光の矢を受け、境内の隅で息絶えるところだった。
●雨
渚は境内から出た参道の脇に、始末したばかりの亡骸を埋めた。
命は戻らなくとも、せめて土に還れますように。
将太郎倒れていたお狐様を持ち上げ、台座の上に置き直す。
「こんなに荒れ果ててたんじゃ、お狐様が怒るのも無理ないぜ」
被っていた砂を払い、全員で神社と社の両方に御神酒を供えた。
改めてお狐様が二体並んだお社に、手を合わせる。
「…どうか、雨児村の人達を、お救いください、お狐様……」
小夜は目を伏せ、手を合わせたまま小さな声に想いを込め、祈る。
「――――あれ?」
先に顔をあげたソフィアが、空を見上げた。
空は相変わらず晴れている。
梅雨だというのに青々と透き通っている。
それでも、ぽつ、ぽつ、と頬を打つ小さな粒。
晴れているのに。これは雨だろうか。
首を捻りながら、ソフィアはバトルアンブレラをヒヒイロカネから取り出そうとする。
それから公も合わせていた手に雫が当たったような気がして、顔をあげる。
すると鳥居の向こうに気配があるのに気付いて、そのまま視線を転じる。
「……誰か、来ます」
誰か来る。
村人たちには自分たちが下山するまで近寄らないようにと言い聞かせていたのに、誰か来る。
熊だろうか。
警戒しかけるが、その気配はどこか儚く、朧だった。
息を殺していなければ、淡く消えて見失ってしまいそうな気配だった。
華奢だ。
そして、長い、行列だ。
くねくねと山を登る参道を、足音もなく行列が歩いて来る。
嫁入り道具を担いで境内へとやって来る。
白無垢の凜とした、狐の花嫁。
「お狐様の、嫁入り――――」
それは幻だったのだろうか。
瞬きをすると寂びた境内しか無い。
ただ、皆の服も地面の砂も、しっとりと優しく濡れていた。