――このせかいは、ほんとうは、とてもこわい。
何も知らなかったあの頃。
幸せに満ちていた世界の尊さも知らないままに、外へ出る事を望んで。
久遠ヶ原学園に来て、沢山の友達ができて。新たな幸せを見つけた。
自分で考え、努力し、成す事。その大切さ。
――このせかいは、しあわせで、とてもこわれやすい。
だけど、この世界の本当の顔も知った。
貼りだされた依頼から見える、外では沢山の街が襲われている事実を。
大きな戦いの噂から聞こえる、この学園の人達の生命が失われている事実を。
無慈悲な、現実を。
●
「自然が豊かで、とてもいい所ね‥‥」
ざああ、と真宮寺 神楽(
ja0036)の言葉をかき消す様に、木々の漣が合唱した。
見下ろせば萌黄色が幾重にも連なるパノラマと、遠景に霞む美しい海。
窓から吹き込む風には潮の香り。そしてまだ青い蜜柑の爽やかな香りが感じられた。
「‥‥」
俯いたまま、口をぎゅっと結ぶ沙羅。いつもの天真爛漫な笑顔は影を潜め、優しい縹の瞳は不安の色を濃くしている。
綺羅に至っては、所々破壊され――いや、ディアボロにとっては押し潰しただけなのだろうが、形を変えた街々を見てからずっと、沙羅にくっついたままカタカタと小さく震えていた。
2人とも頭と胸がいっぱいで、まともに周りは見えてはいなさそうで。
今自己紹介をした所で、さして覚えても貰えまい。そう思った鳴海 鏡花(
jb2683)は一先ず安心させる事を優先した。
「大丈夫。拙者達で皆を助けるでござるよ」
ぽふり。暖かな手で沙羅の頭を撫でる。
にこりと笑んだ凛々しい姿に双子は少しだけ落ち着きを取り戻して。
小さな手に『魔法の紙切れ』を握りしめて、大きく頷いた。絶対に、助けるんだと。
「沙羅ちゃんと綺羅ちゃんはわたし達と救助班なの。絶対に、撃退士さんを助けなくちゃ」
「例の撃退士は見つけたらおっさんがすぐに連絡するよ」
言うと若菜 白兎(
ja2109)は双子の手を取り、また綿貫 由太郎(
ja3564)は携帯をひらりと見せ山林に消えていった。
救助用の大荷物を背負った由太郎と小さな背中3つを見送ると、
「さぁ、救助は救助班の皆に任せて、私達は私達の仕事に専念しましょう」
「私達はディアボロとツインテ勝負…じゃない、ババーンと市民救助ですよー!」
神楽と二階堂 かざね(
ja0536)の号令で、一同は東へと走り出した。
●
まだ強い残暑の日差しの中、蒼穹に漆黒の翼が舞い上がる。
登山道に沿って飛翔しながら、緑の稜線に視線をやるレイティア(
jb2693)。
「ピンク色のでっかいディアボロかぁ。目立つだろうしすぐ見つかるといいんだけど‥‥」
「観光名所で人攫いとはメフィストのババァのしたっぱは不粋なヤツよの〜」
やれやれと溜息をついてハッド(
jb3000)はくるりと身を翻すと、高度を下げて天鵞絨の波々を泳いだ。
乱立する木々を透過の力でやりすごし、地図を見ながらひたすらに星ヶ城山の頂に向かって翼を羽ばたかせる。
「飛行は便利そうねぇ。でも、地上だからこそ踏めるステップだってあるわよ♪」
3つの黒翼の元、杜若色の衣装を風に靡かせ神楽が舞い駆けて。続くかざねはツインテールをぶいんと振り回し、
「本気出せば私だって飛べ‥‥る訳ないですね! 心だけは飛んでる! つもりで!!」
白銀の髪を元気よく弾ませる。
楽天的な素振りを見せる面々を横目に、ソーニャ(
jb2649)は走りながら自分の掌を見つめた。
――人の死は一人のものじゃない。
誰かが遺されれば悲嘆が伴うし、その死が不条理であれば憤怒に染まるだろう。
そして、この世界ではそんな死がありふれていて。
(でもそんなの‥‥嫌)
比べて自分の手はあまりに小さく拙く、掴める生命は無にも等しい。
それでも。
自分はこの無慈悲な世界の中で、救われたから。だから、手を伸ばしたい――。
(幸せな死を迎える権利を、奪わせはしない)
と、その時スマホから鏡花の声が全員の耳に飛び込んだ。
『寒霞渓側に1体発見でござる! 救助の妨げにならぬよう東に誘導するので助太刀を頼みたいでござるよ!』
鏡花は、最速で星ヶ城山の頂上を目指すレイティア達とは別で寒霞渓周辺を飛び回っていたのだ。
「ふ〜む〜。1体だけって事は、バラバラに動いてるのやもしれんの」
「それなら、ボク達全員で引き返すのは危険かも。この先にも居るかも知れないよね」
首を捻るハッドの言葉に、ソーニャは最悪の事態を想定した。
敵と鏡花は背後から来るはずだが、1匹に構って2匹を取り逃がす、なんてあってはならない。
かといって、必ず星ヶ城の頂に来てくれる保証もなく。
「‥‥今は迷ってる場合じゃないわね。私が引き返して応援に回るわ! 皆はこのまま進んで!」
「「「了解!」」」
神楽はそう叫ぶとヒヒイロカネから昇竜の描かれた扇子を喚び出して、鏡花の誘導を頼りに山道を引き返していった。
それは登山道から少し外れた、高低差の激しい地帯を跳ねていた。
サテライトの針を身を捩って避け、鏡花は桃色の巨大な物体の中に目をやる。中に居る市民は凡そ15人。
さてどこを攻撃したものか。そう考えてる矢先。
「鬼さんこちら――手の鳴る方へっ♪」
球体の向こう側から飛来する大扇がサテライトを打ち据えた。
「おお、神楽殿! 助太刀かたじけのうござる!」
樹を蹴って体を空に踊らせながら飛龍の扇を手に収める神楽。灰桜色の上着が弧を描く。
着地を狙った針の攻撃が神楽の肌に突き刺さり、慌てて鏡花は蒼刃の風でそれを押し返した。
一陣の風の様な一瞬の攻防に木々がざわめく。
だが、バルーンの足は止まらない。刃を向ける鏡花や神楽の頭上をも飛び越え、愚直に跳ねる、跳ねる。
「本体は私達を気にも留めないのね。でも、これ以上は進ませないわよ!」
言うと神楽は祝詞を唱え始め、扇についた鈴がしゃんと鳴る。
神舞に招かれ渦を巻く風を感じ、時間を稼ぐべく鏡花は忍刀を構えて突進しサテライトの注意を引きつけた。
そして。やがて舞が完成すると風がうねり、バルーンを捉え、戒める――。
「成る程、本体が止まれば汝らも暫く動けんでござるな。さぁ、覚悟でござる!!」
鏡花の握りしめた血霞が、妖しく煌めいた。
●
「きゃっ‥‥」
足を引っ掛けた倒木を恨みがましく見ると、綺羅は立ち上がって滲んだ涙をふいた。
人が殆ど踏み入らない山林は想像以上に危険な所だ。小さな双子を覆い隠す程に伸びた茅萱や、その足元に転がる岩や枯れ木、更にはいつ捨てられたとも知れない割れた空き瓶がいくつも転がっている。
――絶対に上下ジャージと履き慣れたスニーカーだ。そんなひらひらの服で山に行ったら、酷い事になるよ。
出発前に由太郎に着替えを強要された事で少し反発した。どうしてそんな必要があるの、と。
それで現地に来るまで、少し由太郎を無視したりもした。だけど、現実は火を見るより明らかで。
洋服が汚れるだけでなく、きっと怪我も沢山しただろう。
「ゆたろー、‥‥ごめんなさい。ゆたろーの言ったとおり、ちゃんとお着替えしてよかった」
と、スマホから漏れる申し訳なげな綺羅の声に、由太郎は苦笑した。
「はは、そうだろう。おっさんの豆知識だからねえ、怪我はしてないかい?」
「うん、綺羅はだいじょうぶ。でも撃退士さん、みつからないね」
頂上駅を出発した後、白兎と由太郎の案によりまずは戦闘の痕跡を探す事となった一行。
敵の移動ルートから範囲を絞り、連絡を取り合いながら散開して血痕や木に刀傷なんかがないか捜索していくのだが、僅かな血痕は深い雑草に紛れてしまい中々足取りが掴めない。
「困ったなの‥‥あまり時間がかかると、撃退士さんの体が心配なの」
ひたひたと躙り寄る焦りと不安。白兎の言葉に、沙羅はふっと掌に握りしめていた物を思い出す。
――綺羅ん、沙羅ん、我輩がよいものを授けよ〜ぞ。困った時は見てみるのじゃ。
渡された『魔法の紙』には携帯と思しき電話番号と『着信音で位置を特定するとよかろ。頑張るのじゃ』と、一言。
救難者が撃退士として撃退庁に登録されていれば通話記録からの番号探知はそれほど難ではなく、緊急人命救助を理由にハッドが照会しておいたのだ。
「ねぇ、お電話かけてみようよ!」
照会すれば救難者の名前も開示されるだろうが、敢えてそれを書かなかったのは――。
ざあざあ、ざあざあ。雨の様に葉擦れの音が降り注ぐ。
「やだ‥‥っ! じい、しんじゃやだぁ!!」
静かな山中に響く着信音を頼りに、生命探知や索敵をフル活用しながら辿り着いた先。
綺羅と由太郎が見つけたのは、大きな岩を背にぐたりと項垂れる――とても、懐かしい顔の老爺。
白兎と沙羅が駆けつけた時には由太郎の手当てが始まっていたが、じわりと包帯に広がる赤が状況を物語っていた。
「ねぇ‥‥っ、しろー、どうしよう! じいが」
「黙ってなの!!」
白兎は動揺し涙を零す沙羅を大声で一喝する。
星屑のアウルを瞬かせ、持てる能力の全てを治療へとつぎ込む姿は同い年とは思えない程に凛としていて。
爽風を喚び、暖かな光で傷ついた体を掩い、まるで奇跡の様に傷を塞いでいく。
それに比べて、喚くばかりで何も出来ない自分がとても悲しくて。沙羅は、涙を拭いて双子の妹の手を握った。
「何、撃退士ってのは死んで無いなら必ず治る。大丈夫さ」
そう言って由太郎は塞がった傷口の汚れを水で洗い落とし、清潔なシーツを広げてじいを載せて担架の代わりに――と、思ったが彼の身長に釣り合う持ち手が他に居ない事に気づくと、苦笑して老爺の体を背に載せた。
●
その頃、星ヶ城山の頂上付近では既に2体のバルーンとの戦端が開かれていた。
「一先ず、これで心配はなくなったようですね」
由太郎らの下山報告を聞いて、ソーニャは安堵の溜息と共にライフルを打ち鳴らす。
目的こそ市民救助だが、全員の心内にはやはり救難者の救助も大きな要因で。それが解決した今、残る目的は1つ。
心置きなく目の前のディアボロを退治するだけだ。
『此方は残るは本体だけでござる。しかし、その後は市民を搬送せねばならんであろうな‥‥』
「残るは4人か、よいよい。ここはズバッと風船どもを撃ち破って、子供達に王の威光を示さねばなるまいて〜」
別動の神楽・鏡花は追いつけそうにないが、逆に2人で処理できるディアボロという事。
実際サテライトの針は直線的で避けやすく、そこまでの脅威は感じない。
ハッドは木々の合間を縫ってバルーンの背後に回りこむと、白銀の残光を描いてサテライト2体を切りつけるかざねの剣に合わせて雷解きの刃でバルーンの横腹を刺し貫いた。
「本体に2房のツインテ――これは私への挑戦ですねっ!? 負けられない戦いがそこにある! 的な‥‥!」
びんびんに疼くツインテセンサーを抑えながら、迎撃の針が掠った腕をひと舐め。
「それ絶対に違うと思うよ!? あ、でも負けられないのは合ってるかな」
もう1体のバルーンは白鎖で締めあげられ、既に遠距離射撃の的と化していた。
レイティアの和弓がサテライトを撃ち落とし、それからソーニャが中の人達を避けるようにバルーンの外郭を削っていく。
攻撃手段を失ったバルーンは鎖の中で暴れ身を捩ると、鎖を振りほどき最後の力を振り絞って跳ね進んだ。
が――。
ぱぁん、と乾いた破裂音と鮮やかな虹色の焔が山林を包み、それからバルーンが融解する様に崩れ落ちて。
何が起きたのかと振り返ったレイティアが見たのは、崩れゆくバルーンの向こうで葡萄色の冠を片手で押さえて無邪気な笑みをみせる、ハッドの姿だった。
●
結局、市民は1人も喪う事無く、島はまた平穏な時間を取り戻しつつあった。
「お嬢様達が私どもを助けに来て下さるとは。大変ご立派になられて、感服致しましたぞ」
搬送された病院で意識を取り戻した老爺は、しっかりと握りしめられた左右の小さな手を眺めて思わず顔を綻ばせた。
安堵に泣きじゃくる双子の頭をそっと撫で、神楽は初めて双子やじいと出会った日の事を思い出す。
「そう、貴方は撃退士だったの‥‥。だから沙羅ちゃん、綺羅ちゃんの能力にも理解があったのね」
「元は雇われ撃退士としてお屋敷に入りましてな。ほっほ‥‥いつの間にか世話役になっておりましたわい」
にこりと浮かぶ暖かな笑み。
もしも、こんな理解者が自分にも居たら、私も――と、そこまで考えて神楽は頭を振った。
『If』なんてない。だからこそ、今生きているこの一瞬が大切で、愛おしいのだ。
「実に充実した人生でしたが、こうして生き永らえると中々どうして手放すには惜しい物ですのう」
そう噛みしめる様に呟く老爺に、優しく告げるソーニャ。
「貴方は十分に生き、戦ったのだろうけど‥‥死も生も貴方だけのものじゃないから。貴方を思う2人の為にも、もう少し――ううん、これからもずっと2人の居場所になってあげてください」
安らかな心の拠り所の大切さを、脆さを、知っているから。
さて。
事件が落ち着き思考に余裕ができた双子は、ようやく『初めまして』の顔ぶれを意識し始めていた。
「えっと‥‥おねーちゃん、どこかで会ったような気がするの」
レイティアの綺麗な濡羽色の黒い羽を眺め、綺羅は一生懸命それを思い出そうとするけれど。
思い出すのは茄子とサクランボ――?
「ええっと、きっと初めてかな!? 私はレイティアだよー、よろしくね」
「我輩はバアル・ハッドゥ・イル・バルカ3世。王である!」
ずいっと横から現れるハッドに驚いたのは沙羅。だが、そうだ確かあの紙をくれたのはこの人だ。
「あの魔法の紙のお陰でじいが助かったの! ありがと、おーさま!」
「苦しゅうない! そうそう、我輩子供にはアンパンをあげるといいと学んだのじゃ! どうじゃ、いちごオレもあr」
「あー! 双子ちゃんにお菓子をあげるのは私の役目ですよー! お姉ちゃんポジは断じて譲りませんよー!」
かざねこぷたーで更に割り込むかざね。
最早ここが病室である事もじいが居る事も忘れられているレベルである。
「わああ、かざねお姉ちゃんおちついてええ!」
あわあわと沙羅が止めに入るが、既にハッドvsかざねの謎の対決は収まる様子はない。
そして部屋の隅で苦笑しつつ騒動を見守る鏡花の元に、綺羅がやってきて。じいっと見上げ、一呼吸。満面の笑みで、
「えへへ、おにーちゃんもありがと!」
ですよね。そんな気がしてた!
「拙者、鳴海鏡花と申す‥‥こう見えても『お姉さん』でござるよ‥‥?」
慌てて謝る綺羅に、病室内はまた笑いが溢れて。
またひとつ、幸せな世界が胸に灯る。
「さっきは大声だしてごめんなさいなの」
帰り道。茜色の空が眩しいフェリーの甲板で、白兎は沙羅にぺこりと頭をさげた。
山で怒鳴った事。撃退士として成すべき事を示す為とはいえ、家族同然の人が目の前で倒れている2人に対し、あまりに冷たかったのではないか、と白兎は気にしていた。
「ううん。しろーはかっこよかった! けど‥‥わたし、何も出来なくて。すごい、悔しかったの」
同じ撃退士でも、役目が違う。敵を倒す為の力、それで救える人も勿論いる。
授業では聞いてたけど、こんなにも、こんなにも――自分が目の前の死に無力だなんて。
護りたい、助けたい、そして皆が『幸せな世界』を手に入れられるように。無慈悲な現実を変えられるように。
だから決めた。沙羅はぎゅっと口を結ぶと、白兎の耳に小さく囁いた。
「しろー、みんなにはないしょだよ」
あのね、わたし‥‥アストラルヴァンガードになりたい――。