それは包囲を縮めるというよりも、まるで突撃の様だった。
倒れたファサエルを中心に円陣を組んだ撃退士たちに、怒涛の如く押し寄せるオークたち。得物同士が激突し、甲高い金属音と火花が散る。
「踏ん張れぇー!」
「押し返せぇー!」
肉と骨とがぶつかり合う鈍い音。押し込まれて地を滑る靴底── クラリと揺れる頭を振って反撃に転じようとした永連 紫遠(
ja2143)は、だが、眼前のオークたちに急に退かれてたたらを踏んだ。
波が引く様に距離を取るオークたち。敵はこちらを一思いに揉み潰そうとはしてこなかった。波状攻撃を繰り返すことにより、こちらに更なる消耗を強いる気だろう。弄る気だね── と紫遠は鉄塊剣を構えて嘆息した。相手はオークと言えど状態は万全だ。対するこちらは連戦による疲労が鉛の様に圧し掛かっている。
「とにかく、囲まれたままではまずいわ。負傷者たちを巨人の陰に。アルくんはファサエルをお願い!」
「松岡先生! 他のみんなと隊列の維持をお願いしますっ!」
叫ぶ月影 夕姫(
jb1569)と川澄文歌(
jb7507)。とりあえず戦う場所を──状況を変えねばならない。
撃退士たちは雪室 チルル(
ja0220)を先頭にオークたちを押し返すと、斃れた巨人と巨大クラゲの死骸の間の、狭まった空間へと移動した。巨人の遺骸を積み上げた土嚢代わりに、迫るオークたちに大型ライフルを連射する夕姫。うんうん唸りながら負傷者を遮蔽物の陰へと引っ張り込んだ文歌が汗拭く間もなく立ち上がり、「代わりますっ!」と前線に出て、後輩たちを治療に下がらせる。
「おいおい、どこに行くんだい、仔猫ちゃんたち〜? そいつ天使だよ? 君らがそんな必死になって守る必要なんてないって!」
にこやかに笑いながら、のんびりとこちらへ歩を進めて来る悪魔。
白野 小梅(
jb4012)はファサエルを庇うように立ち、毛を逆立てる仔猫の様に『フーッ!』と悪魔を威嚇した。
「まったく…… 美意識の欠片もない『行進』ですわね」
そんな悪魔を遠目に見やって、桜井・L・瑞穂(
ja0027)はフッと笑うように息を洩らした。疲労に息乱れる重い身体を強引に奮い立たせ、それを感じさせぬほど美しくピンと背筋を張って『星輝装飾』を発動させる。
カッ! という音と共に、瑞穂の背後に満天の星空の如くマテリアルの光の粒子が瞬いた。
再攻勢に出ようとしていたオークたちの何割かが思わず目を逸らし。歯の掛けた櫛の様にでこぼこになった敵隊列に、雫(
ja1894)はここぞとばかりに己の闘気を解放。後輩たちと共に逆撃を仕掛けて敵の攻勢を破砕する。
やるね、と悪魔が目を細めた。斯くの如き手段であれば、使い手の疲労は関係ない。
当然、とばかりに瑞穂は汗で張り付く髪を掻き上げ、その大きな胸を張った。
悪魔はそんな瑞穂を興味深げにまじまじと見つめ…… 唐突に、ポツリとこんな事を呟いた。
「……キミ、ドMでしょ?」
「……は?」
「うん、見た目や態度はドSっぽいけど、それは本当の自分を護る為の鎧ってやつだ。思い当たる節はあるんじゃない?」
……いや、確かに友人たちにはよくそんな一面を面白おかしく弄られているような気がしないでもないけれど。
納得しかけ、瑞穂はぶんぶんと頭を振った。悪魔の戯言は黙殺し、己のすべき事に集中する。……まずは『アウルディバイド』で『霊光芳香』の回数を回復。気絶した負傷者を回復させ、まずは動ける人数を……
思考の最中、唐突に視界が暗転し…… 瑞穂は膝から崩れ落ちた。
「あふっ……ん……ッ!?」
そのまま己を描き抱く様に倒れ、痙攣と共に動かなくなる瑞穂。
(……精神攻撃!)
雫は歯噛みした。瑞穂は撃退士たちの中でも一際高い特殊抵抗の値を持っているはずだった。連戦の疲労で抵抗力が落ちていたとしても、まさかこうも簡単に術中に落とし込もうとは……!
前進を再開する悪魔。雫が瑞穂の意図を引き継ぎ、気絶した負傷者たちを中心に皆を『癒しの風』で回復させる。雫を向く悪魔の視線。その前進を阻むべく、チルルと勇斗が前に出る。小梅はその支援の為に魔女の箒を振り、全身の毛逆立てたアウルの猫たちを悪魔目掛けて突撃させ。直後、横合いからオークに殴り掛かられ、箒でそれを受け止める。
オークたちの殴り込みへの対処に忙殺される雫と紫遠。小梅の猫たちと共に突っ込んで行くチルルと勇斗。それを見た悪魔は慌てて精神攻撃の目標を雫から勇斗に移した。糸の切れた人形の如く地に転がる勇斗。それをハードルを越える様に飛び越えながら、ジェットストリームと化した文歌がアウルのスプレー缶をしゃかしゃかしながら悪魔へと突進する。
「初見殺しも、封じてしまえば……っ!」
『幻霧』の射程に悪魔を捉えるべく肉薄を試みる文歌。だが、それを成す前に視界が暗転し。文歌はぽつりと立ち竦む……
──何物をも見通せぬ、深い、深い闇の中。まるで舞台の上の様に頭上から落ち降るスポットライト。その光の輪の中に、幼き日の文歌が所在無さ気に佇んでいた。
闇の中に一人きり── それは、本当の両親を知らない文歌が、子供の頃にずっと心の奥底に抱え込んでいた心象風景だ。
実際の所、養父母はやさしかったし、明朗快活な文歌には友人も多かった。好きな音楽を思う存分やらせてもらえたし、日常において寂しいと思ったは殆どない。ただ、ふとした瞬間に── 例えば、参観日などに。或いは友人の家に行った時などに。なぜ本当の両親は自分を手放したのだろう、と考えることはあった。
私は一人じゃない! ──精一杯、声にならぬ声をあげて周囲の闇を押し退けて。結果、光に満ち溢れた舞台の上で、なお一人きりの自分を見出す。
自分という存在は何物なのか。どこから来たのか── 自身のルーツ。己を定義すべきもの。確固たるべき存在意義に対して、決して癒されぬ渇望が心の奥底にわだかまる。
私はなぜ生まれてきたのかな?
本当に、この世界に生まれてきてよかったのかな……?
パタリと倒れる文歌を見やって、夕姫はゾワリとその背を粟立たせた。
ただの視線の一振りによって問答無用で無力化されてしまうとなれば、足止めも何もあったものではない。対抗手段を見つけないと、このままでは『悪魔の行進』を押し留めることもできない。
「……アルくん。さっき悪魔にあの精神攻撃を受けた時、アルくんはどんな風だった?」
アルは一瞬、目を見開いて…… 口ごもった後、渋々語りだした。
「リーア姉が死んだのはファサエルの所為だ、って、もう一人の自分が言ってきたんだ。……確かにそれは俺がファサエルに対して使った言葉だ。でも、本気でそう信じていたわけじゃない。……けど、言葉を交わしている内に感情が憎悪に塗り潰されて……」
苦渋の表情を浮かべるアルの背中をポンと叩き、紫遠は雫と顔を見合わせた。
「……相手の心に眠っている嫌な何かを無理やり呼び覚ます、ってところかな?」
「心の古傷を抉るような真似を…… やはり気に食わない悪魔ですね」
そう話す紫遠と雫の後ろで、小梅は箒を握る手にギュッと力を込めた。彼女にも思い出したくない── だが、決して忘れてはならない過去がある。
──あれは堕天する前の事。天界の尖兵として潜入した人間界で、小梅は現地の子供たちと仲良くなり、その内の幾人かとは特に親しい友達となった。
当時の小梅はまだ子供で、天使としてやって良いこと、悪い事の区別もついていなかった。ただ、天界は『絶対』の『正義』であり、天使の大人は逆らうことなど考えも及ばぬ存在であると『教育』されていた。
やがて、小梅の情報を元に、その地方に天使がやって来た。得意げに友達を紹介する小梅を天使は否定した。そして、『エラー』の原因となった子供たちを『処理』しようとした。
何か良くない気配を感じ、小梅は天使の手を払った。偶然、爪が手を引っ掻き、流れた血がポトリと落ちた。
天使が睨む。ハッと自分のしでかした事に恐怖して、小梅はその場から逃げ出した。公園の遊具に隠れて震え…… ふと友人たちのことを思い出して、恐る恐る外に出た。
現場に戻った時、そこには誰もいなかった。天使も、そして、友人たちも。
街は燃えていた。そして、その場の至る所に、友人だったものたちが物言わぬ躯となってそこかしこに転がっていた──
ガタガタと震え出す小梅とその横で俯くアルの背を。夕姫は励ます様にドンと叩いた。
「アルくん、そして、小梅ちゃん。こう言ってはなんだけど…… トラウマなんて、結局、最後は自分で乗り越えるしかないと思う」
突き放した様な夕姫の言葉に、アルと小梅は「えーっ!?」と表情を歪ませた。慌てない、と2人の額を両手でチョップする夕姫。赤くなった額を両手で押さえながら、2人が上目遣いで夕姫を見る。
「……でも、2人とも、今は一人きりじゃないでしょう? 悠奈ちゃんたちもいれば私たちもいる。自分を、仲間を信じて。自分の決めた信念を貫いて」
憑き物の落ちた様な表情で、2人は夕姫を見返した。
もう二度と友達を見捨てない── それが堕天した小梅の誓い。たとえ死ぬほど怖くても。今度は逃げないと心に決めている。
悠奈と共に生きていく── それが堕天したアルの決意。その為にはこんな所で負けているわけにはいかない。
「とは言え、ここは一旦引いて戦力を立て直した方がよさそうです。が……」
オークと切り結びながら、その腹を蹴り飛ばし。迫る悪魔をチラと確認しながら雫が告げる。
とは言え、ゲートに突入した仲間たちが出て来ぬ内は、撤退もままならない。マズイ状況ね、と夕姫は呟いた。なんとか脱出するチャンスが来るまで持ち堪えないと……
「あの悪魔の思惑通りに事が運んでいるとしたら、尚更ここだけはあいつの思い通りにはさせられないよ」
紫遠は呟いた。突入班が帰って来るまでの辛抱だ。それまで悪魔の足を止める。あの精神攻撃が単体しか相手に出来ない感じなら、複数でタイミングを合わせて攻撃すれば誰かの攻撃は届くはず……
●
そんな本隊の北側。倒れた安原青葉と徳寺明美を救出すべく分派し、敵中に孤立した元救出班──
ラファル A ユーティライネン(
jb4620)は『物干し竿』でオークを撫で斬りにしながら、中央の本隊の方を見やって呟いた。
「けっ。どいつもこいつも、逃げる事ばかり考えてやがる」
確かに俺ら撃退士たちは追い詰められてはいるが、この戦場には天使と悪魔の首魁がその雁首を揃えている。そして、外には俺たち以外の撃退士たちの、決戦部隊も集まっている。今この時、この場所で戦わずして、いったいどこで戦うっていうのか。
「……剛毅ですね、ラファルさんは」
円陣の反対側、オークの攻撃を槍で受け凌ぎながら黒井 明斗(
jb0525)が苦笑する。
波状攻撃の中央とは異なり、敵はこの北側では絶え間のなく攻勢を続けていた。悪魔はまず少数のこちらを一気に揉み潰し、然る後、大多数で中央に止めを刺すつもりなのだろう。
「死中に活。人間、負けている時こそ面白いんだぜ、委員長?」
「委員長ではないです。……まぁ、どちらにせよ、逃げるのはゲート突入組が戻ってきてからの話でしょうけど」
「逃げるにしても、どうやってこの数を突破するんだ、眼鏡? さっき、俺らもセンコー(=安原青葉)どころか白狼にも辿り着けなかったってーのに」
「いや、確かに眼鏡ですけど……」
ラファルの問いに答える様に、明斗の視線が明美に──サーバント『骸骨狼騎兵』の生き残りを率いるシュトラッサーの方を向いた。
ラファルも気づいた。ハン、と一つ笑みを浮かべ、明美に身体を向けた明斗の、その背中をラファルが預かる。
「気張れよ、おめーら。この戦い、もう一度大きな山場が来るぜ!」
周囲の後輩たちにそう呼びかけながら、偽装解除によるアウルの機械化──『地上戦艦モード』へと移行するラファル。
明斗は明美の前に膝をつくと、両膝を揃えて正座した。狼騎兵たちの遊撃指揮を取っていた明美が驚いたような顔で明斗のことを見返す。
「……何?」
「この敵の包囲を崩すには…… 僕らがここから逃げるには、明美さんと狼騎兵たちの力が必要です。不本意とは思いますが、ぜひ協力してください」
お願いします、と真摯に頭を下げる明斗。──自分ら撃退士たちで中央の包囲網に穴を開ける。だから、そこに狼騎兵を突入させ、ファサエルと、そして自分たちの戦闘不能者をその場から運び出して欲しい……
「あなたが僕たちの為に何かを為す義理も必要性も、何もないことは承知しています。承知した上で、敢えてお願いします」
「……運び出して、どうするの?」
「この場から離れます」
「その後のファサエルの身柄は?」
「……『我々は』関知しないということで」
明美はその条件で手を打った。どちらにせよ、撃退士たちの力を借りねば、自分だけで主は救えない。
アウルの音響兵器をオークたちに叩きつけながら、ラファルが物干し竿を大きく横へと薙ぎ払う。
「……余裕たっぷりだな、あの悪魔野郎。これだけの戦力差とあのチート技がありゃ無理ねぇが」
だからこそ、その鼻っ柱の折り甲斐ががある。あの悪魔、ここで思いがけず大きな獲物を逃がしたとあっちゃあ…… その悔しがる顔を想像するだけでも痛快だ。
●
同刻、ゲート内──
悪魔によるものと思しき幻覚により、大きく行動を遅滞させられた突入班の面々は。その場で可能な限りの応急処置を終え、ゲート出入り口の前に移動すると、飛び出す態勢を整えた。
「……まんまとしてやられたが、いつまでも凹んでられないな」
「うん。外がいったいどうなってるのか、それだけがちょっと不安だけど……」
隊列の先頭に立つ千葉 真一(
ja0070)と。葛城 縁(
jb1826)が心配そうに後ろの皆を振り返る。
悪魔の罠に掛かって気絶した悠奈ら中等部の4人組は、回復の甲斐もなくその意識を取り戻すことはなかった。今は他の戦えなくなった仲間たちと隊列の後方に寝かせている。が、外の状況次第では、すぐに運び出さなくてはならなくなるかもしれない。
そして、縁にはもう一つ心配の種が──親友の彩咲・陽花(
jb1871)の事があった。
先程から陽花は一言も口を利いていなかった。外の勇斗たちの事が心配でたまらないのだろう。出撃を待つその表情には凄みすら感じられる。
「陽花さん……」
呟く縁。だが、その小声が終わるより早く、その声よりも大きなお腹の音が、ク〜、とその場に響き渡った。
場の空気を読まぬ腹の虫にボッと赤面する縁。撃退士たちは笑った。陽花もプッと噴き出した。
「……いくらお腹が減っていても、オークの肉はダメだよ、縁?」
「食べないよ!?」
陽花の軽口に縁はホッとした。張り詰めすぎた緊張感は、きっとよい結果を生まない。
ひとしきり笑いが収まると、真一は真剣な表情に戻って皆に告げた。
「……出た瞬間から勝負所だ。……行くぞ!」
マスクを被り直し、手信号でタイミングを計り、ゲートから飛び出す真一。散弾銃の銃口を下に構えた縁が、薙刀を手に提げた陽花が、狼竜らと共に後へと続く。
ゲート入り口を抜けた瞬間、剣戟と銃撃の音が静寂に慣れた鼓膜を乱打した。
そこにゲートに入る前の、見知った光景は既になかった。霜に覆われた常春の庭園── そこには空も大地も悪魔勢力が満ち満ちており。なぜか仲間たちは倒れたファサエルを彼らから守り切る構え。しかもその戦況は、どう見ても芳しくはない。
「え。えぇぇっっと、これはいったい…… ど、ど、どういうことなのかなっ!?」
どうしてこうなった。慌てふためく縁。落ち着け、と真一に言われて急ぎ深呼吸。そのまま真一と共に視線を振り、周囲の状況の把握に努める。
陽花も同様に視線を振ったが、彼女が捜し求めるものはただ一つ。その勇斗は、だが、生きているのか死んでいるのか分からない体勢で地面へ倒れ伏し…… その眼前に立つ黒髪長髪の男がふとこちらを振り返る。
「……悪魔っ!」
瞬間、陽花は狼竜に命じ、『ボルケーノ』を撃ち放たせた。悪魔を中心に爆炎が巻き起こり。その爆風に煽られた勇斗が身じろぎ、呻き声を上げるのを見て、生きてる! とホッとする。
「いきなりっ!? いきなりブチかましたの、陽花さんっ!?」
「何だか知らないけど、勇斗くんを苦しませてたから悪人決定」
「ええっ!?」
驚く縁に構わず、陽花はギュッと巫女服を襷がけにすると、地面に突き立てていた薙刀を引き抜いた。
●
突撃する。突撃する。チルルは今日も突撃する。闇の中、敵の真正面に真っ向から。誰よりも勇敢に。
怯まない。怯まない。痛いと思う暇があったら一歩でも前に出る。それが仲間の勝利に繋がる。
だって、考えるのは苦手だから。テストだっていつも丸暗記。ヤマが外れたらお慰み。
考えるのは面倒臭い。身体を動かしていると楽しい。だからチルルは今日も前進する。前進し、前進し…… 誰にも追いつけない速度で進み、やがて、一人きりなのに気づいてふとその足を止める。
ぴちゃりと足に纏わりつく汚泥──そこから漂う血と肉の腐臭── 進まなきゃ、とチルルはぼんやり前を向き、足を取られて汚泥に崩れる。
進まなきゃ、進まなきゃ…… 汚泥に沈みながら、それでもチルルは前に出る。
だって、前に進まなきゃ。そんな自分にいったいどんな価値がある?
ゲートから突入班が飛び出して来る少し前──
悪魔に刺突大剣を突き出す姿勢で、精神攻撃を受けたチルルが地面へと倒れ伏した。
その横を歩み過ぎつつ、悪魔の視線が小梅に向く。ゴォッというプレッシャーと共にトラウマに囚われた小梅がふにゃっと膝から落ちる……
「起きて。起きてください。悪魔の押し付ける嘆きに呑まれないで」
その時、雫は先に精神攻撃を受けた文歌の回復に努め、その頬をペチペチと叩いていた。
「……顔はやめてェ……アイドルだからァ……むにゃ」
「……む」
その寝言(?)に雫は暫し考え込み…… やがて、文歌の頭をギュッと抱きしめた。
「落ち着いてください…… 貴方は一人じゃない。仲間がいるから、何も恐れないで大丈夫ですよ……」
「本当に?」
悪魔の囁きを耳元に受け。雫の意識が暗転する。
──それがいかに光と優しさに満ち溢れた世界だったのか、今の雫には理解できない。
それを理解する術を、情動の一欠けらを、あの日、天魔に奪われた。
奪われたのはほんの一欠けら。だが、そのたった一欠けらが雫から全てを奪っていた。
感情をなくした自分に浴びせられる悪意と憎しみ── だが、雫にはその感情が理解できなかった。彼らが大事と思うものを、大事と理解できなかった故。
故に、雫は理解した。……自分は既に『人』とは決定的に違うものに成り果てたのだと。人の輪の中から外れ、ただ一人きりのものになってしまったのだと──
「わあぁぁぁっ!」
叫びと、ゴッ、という堅い音と共に。雫はハッと目を醒ました。
それらの音の出元は小梅。意識を失い倒れる瞬間、その額を思いっきり地面の石畳に叩きつけたのだ。
「……もう二度と友達は見捨てない! たとえ死んでも。絶対に!」
額から流れる血も拭わずに、小梅が悪魔を睨みつける。
その覚醒に驚いた悪魔は更に、雫に抱えられた状態から「遅刻っ!?」とばかりにガバッと身を起こした文歌にも気づいて目を見開く。
──鼓動。心臓の鼓動。同じ様に抱き締めてくれた義母の。或いは生んでくれた母のお腹の中で、かつて聞いた懐かしき音── 決して埋められぬ渇望は、だが、周囲の愛情で満たされることを今の文歌は知っている。君は一人じゃない。ここにいてもいいんだよ、と。今現在の人との繋がりが、文歌と、そして雫とに高らかに知らせてくれる。
「私たちを…… 人間を舐めましたわね」
その一言に、悪魔の驚愕は最高潮を迎えた。その視線の先には、ふらふらになりながらも立ち上がる瑞穂の姿。
「馬鹿な。自力で戻って来たっていうのか……!?」
「……嗤いたければ嗤いなさい。嘲りたければ存分に嘲りなさいな。下品で下劣な塵芥……その程度で汚れて堕ちるほど、この心、安くはなくてよ!」
身体の震えを止め、背筋を伸ばして、高らかに笑い上げる瑞穂。実はドMだなんだのと……そんなものは瑞穂を構成するほんの一部分に過ぎない。だって、この桜井・L・瑞穂、ドSも大好物なんですもの!
「おーほっほっほっ! 如何しましたの。まだまだですわ! この心、もっと深く、奥の奥まで覗き込んで御覧なさいな!」
笑いながら、瑞穂は精神攻撃を受けて倒れた紫遠に、舞い散る花弁と芳香と共に『クリアランス』の光を飛ばした。
のそりと身を起こしながら、ポリポリと頭を掻く紫遠。困った様な、どうにも微妙な表情で立ち上がる。
──紫遠は小さい頃、男の子になりたかった。仲の良かった双子の兄妹── 生まれる前からずっと一緒にある無二の存在。ちっちゃい頃はそんな兄と『同じ』ではないことが許せなかった。小学校に上がり、『違う』ことを理由に友人も異なり、共に遊べないことが嫌だった。
幼さ故の感傷。双子に対する同一視── 時を重ね、成長し、今では兄と自分が違うものであることは紫遠は自然と理解していた。女であってよかったと思う。今では男になりたいなんて思ってもいない。
闇の中── 生まれたままの姿の兄と紫遠が対峙する。
「そうか。紫遠が男にならないのなら、僕が女になろう」
目の前で兄が紫遠とまったく同じ姿になった。その瞬間、紫遠の中で兄との境界が再び曖昧なものになった。あれ? 兄? 私……? 目の前にいるのが兄であって私であるなら、今、ここにいる私はいったい、何者であるというのか……?
「……皆の前で乙女に恥を掻かせようとは、良い度胸じゃないか」
懊悩から解放され、複雑な表情で鉄塊剣を構える紫遠。雫もまた「……殺す」と呟きながら悪魔への距離を詰める。
陽花が背後から悪魔を不意打ちしたのは、そんなタイミングの事だった。
ほら、来た、と笑みを浮かべる紫遠。直後に巻き起こる爆炎。その焔を抜けて走り込む真一──ゲートの中から現れた撃退士たちに、悪魔はこの日、一番の驚愕を示した。
「ゲートからだとっ!? バカな! 『あいつ』はいったい何をして……っ!?」
最後まで言い切ることはできなかった。体勢低く突っ込んできた真一が、悪魔の懐へと飛び込んできたからだ。
「『BLUST OFF!』」
響くアウルのアナウンス。直後、その場に残像を残し、真一が肘から悪魔に突っ込んでいた。
吹き飛び、無様に地面へ転がる黒髪長髪の悪魔。その姿、狼狽すること甚だしい。存外、事前に想定していなかった突発事には弱いタイプだろうか。
「もらった!」
「ひぃぃぃぃっ!?」
追撃を掛ける真一に、悪魔の精神攻撃が間に合った。
──闇の中。中央にポツリとブラウン管のテレビが置かれた空間。画面に映し出された映像が唯一の光源となって、テレビの前に体育座りした真一少年を照らしている。
映っているのは、幼き頃に見た特撮ヒーロー。その内容に真一の心臓がドクンと音を立てる。……その話を覚えていた。初見の時に泣き叫び、何日も何日も落ち込んだ日々を過ごしたから……
それはヒーローが怪人に負けた回だった。絶対無敵と信じていたヒーローが奮戦空しく、怪人の圧倒的なパワーに蹂躪されたのだ。結局、翌週には更なる力を身につけたヒーローが怪人を木っ端微塵にし、真一少年は溜飲を下げると同時にヒーローの絶対性を再認識するに至ったわけだが……
テレビが消える。闇の中の少年が、今現在の姿に変わる。
学園の撃退士として戦い続けた真一は知っている。戦いに負けるということが、実際にはどんな意味を持っているのかを……
意識を失い、倒れる真一。それを見てニヤリと笑った悪魔の笑みは、だが、真一の手の平から発煙手榴弾が転がり落ちるのを見た瞬間、硬直した。
バシュゥーッ! と煙が湧き起こり、悪魔の周囲を煙幕に包み込む。
それを視認した瞬間、明斗は背後の明美を振り返った。
「今です! 明美さん、お願いします!」
「了解!」
短く答え、明美が配下の骸骨狼騎兵たちに『中央』への突撃を指示する。何かを察したのか更に攻勢を強めるオークたち。明斗は最後の『癒しの風』を使って皆を回復すると、蛮刀による一撃を黒き盾にて受け止める。
二列縦隊へと隊列を変更した骸骨狼騎兵が、中央を包囲するオークたちの後背へ突撃を開始する。それに呼応し、小梅は突撃先のオークたちに向かって大地から無数の槍を生じせしめた。足元からの突然の攻撃に混乱するオークたち。そこへ背後から突っ込んできた骸骨狼騎兵たちが槍の穂先でその背を突き崩し、中央北側のオークたちはたまらず逃亡。包囲は脆くも崩れ去る。
「オジサンをお願い! 絶対に……絶対に助け出して!」
駆け抜ける狼騎兵たちにそう声を掛ける小梅。言葉が通じないとかそんな事は彼女にとって瑣末事。共闘する仲間に対する、小梅の気持ちの問題だから。
撃退士たちの円陣の中に入り込んできた狼騎兵から骸骨たちが次々飛び降り、明美の指示に従ってファサエルや気絶した撃退士たちを狼の背に上げ始める。
その間、文歌は雫と紫遠に声を掛け、中央南側のオークたちに攻勢を仕掛けた。鋼糸を大きく横に振るってオークたちを下がらせる文歌。そのままそちらへ押し出すと見せかけ、相手が備えて身構えた瞬間、北へ向かって走り出す。
「陽花、縁。撤収よ。集中して一気に突破して!」
一斉に『北』へと走り出した味方の移動を銃撃で支援しながら、夕姫はゲート入り口方面の友人たちに声を掛け。自らも銃撃を継続しながら後方へと退き始めた。
乗るべき狼を失った骸骨たちは、明美の指示によりその場で死兵と化した。悲しそうにそれを見つめて、それでも小梅は北に向かう。
「あー、もう! 何が何だか分からないけど…… 兎に角、全部『アレ』(悪魔)が悪いんだよね?!」
目まぐるしく変わる状況に目を回しながらも──縁は『索敵』を使って包囲の薄い場所を探した。
「陽花さん、あそこを狙おう!」
縁が指差した先は、明斗やラファルのいる『北』側だった。中央からの突き上げがある上、こちら側からなら『北』を包囲する敵の背後を突ける。
陽花は頷くと、後方の味方を確認した。そして、『オークたちと戦う悠奈たちの姿を見やって』安心し、ついて来るよう声を掛ける。
「陽花さん、ボルケーノ! もういい加減、帰ってご飯を食べたいんだよぉーっ!」
「……まさか、オークの丸焼きを……?」
「食べないよっ!? 豚肉なら鹿児島の黒豚かイベリコ豚がいいんだよ!」
「山形なら帰りに三元豚もあるわね」
「(じゅるり)」
ボルケーノによる爆炎── それに応じて、縁がアウルの貫通弾で、『北』包囲の為に並んだ敵を横から一直線に刺し貫く。
同時に、陽花は狼竜に、精神攻撃により意識を失った真一の救出を命じた。真一の襟首を咥えてずりずりと引き下がる狼竜。ゴホゴホと煙の中から転び出た悪魔が北へと逃げていく撃退士たちに気づき、先ほどまでの余裕もなく慌ててオークたちに「逃がすな!」と命じる。
直後、その悪魔の周囲に落ちる影── 頭上を振り仰いだ悪魔は、驚愕に目を見開いた。ラファルが高射砲で狙い撃ちにした大型クラゲがその直上に落ちて来たのだ。
ズシーン……ッ! とその落下に押し潰される悪魔。ざまぁみろ! とラファルの罵声が響く。
一方、中央の追撃に入った南側のオークたちへは、明斗が『星の鎖』で引き摺り落としたクラゲを彼我の間に落着させて追撃路を封鎖した。
それを見届けたラファルはその身を北へと向け直し、両手のアウル十連装フィンガーキャノンを撃ち捲りながら、アウルの背部ミサイルポッドからアウルの多弾頭式誘導弾を一斉に垂直発射した。
全撃退士が合流し、一気に北への突破を図る。その戦力差に慌てて逃げ出す『北』北側のオークたち。
落ちて暴れるクラゲを左右に迂回し、南より追い縋って来た敵の先頭へ、明斗は最後となる長射程光弾を撃ち放った。倒れるオーク。一瞬、たたらを踏みながらもそれでも前に出る敵雑兵。陽花は一旦、足を止めると、狼竜に『ライトニング』を放たせた。雷撃に打ち据えられ悶絶するオークたち。その傍らを抜け、迫る敵の蛮刀を薙刀でいなし、再び北へと走る陽花。それを追うオークたちの脚部が夕姫の狙撃によって立て続けに撃ち抜かれ…… 陽花と入れ替わる様に殿に立った縁が『バレットストーム』による弾幕乱射。巻き起こる砂塵に紛れて身を隠した縁が、そっと北上する味方に後続する……
「見えた!」
中庭の北側出口を間近に捉え、歓声を上げる撃退士たち。付近に倒れた青葉には、松岡が先頭に立って居残る敵を蹴散らし、突破。飛び起きた真一と共にその場を制圧し、倒れた青葉を壊れ物でも扱うようにそっと抱え上げる。
「舐めるなよ…… 逃がすかよ、人間ドモォ!」
クラゲの下から這い出してきた悪魔が叫ぶ。
直後、上空から振り落ちて来た大型クラゲが、中庭の北側で入り口に落着。その巨体で出入り口を諸共に押し潰した。
「……!」
足を止める撃退士たち。よくやった、と悪魔が褒めた。
その言葉は、だが、身を挺して出口を塞いだクラゲに対するものではなかった。
悪魔がゲートを振り返る。その視線の先に、『気絶した悠奈たちを抱え持った』黒髪長髪の悪魔の姿が……
「悪魔が…… 2人……?」
アルが呻いた。
狼の背の上で、勇斗が意識を取り戻した。