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ユウ(
jb5639)は、団長の車を訪れていた。
「団長さん、あの‥‥ひとつ相談なのですけれど、あのことを皆さんに明かしてはいけないでしょうか?」
その言葉に、団長は難しい顔をした。
「‥‥孤児たちの耳には入れたくないのが、正直なところです。ユウさんは誰に打ち明けたいんですかね? 相手次第では、大丈夫かも知れませんが‥‥」
ひそひそと、密談は続く。
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誰もいない舞台を見上げ、カナリアは佇んでいた。
数日前から、結構長い期間、ここで公演をした。立ち見が出るくらいお客さんも来てくれて、自分は舞台に居た。そこで高らかに歌っていた。
――歌いたい。もっともっと、歌を、学びたい。でも‥‥でも。
「所詮この世は一つの舞台、万人皆役者に過ぎぬ」
鷺谷 明(
ja0776)が姿を現した。カナリアは振り返った。
「『お気に召すまま』第2幕7場、ジェイクイーズの台詞ですね」
「おやおやご名答。流石、団長が留学を薦めるくらいには優秀なようだね。さておき、万人皆役者とは言え、自分がやりたい役を演じる程度は許されるだろうさ」
明の声が反響する。
「どうして、そのことを?」
「新聞記者は耳ざとくないと勤まらぬものでね」
明はカナリアの問いをはぐらかし、常に浮かべている笑顔の中で、唯一笑っていないまなざしを、歌姫に向けた。
「さて、自分に正直になって答えて欲しい。お前は今、何がしたい? 弟の為に己の欲を押し殺すか、己の為に弟の欲を断つか」
カナリアが息を呑む。答えは‥‥無言。
「私は、お前が決めた道ならどちらでも構わない。心より祝福しよう。だが、時間に流されることだけはやってくれるな。選択できるということが、如何に幸福かを知りたまえ」
「‥‥」
「まあ、そんな前置きはさておいて。個人的に言うなら、誰であろうと、独り立ちはせねばならないと思うよ」
汝の行く先に幸運あれ。
俯いてしまったカナリアに背を向け、明は靴音だけを残して、その場を去った。
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(わたしのしたいことを押し通して、クロウの気持ちをないがしろにするか、その逆か‥‥なんて)
明が去った通路を見ながら、カナリアは、力なく客席に座り込んだ。
(‥‥わたしは、クロウが辛い思いをするくらいなら‥‥)
歌を捨てても‥‥そう思いかけて、カナリアは我に返った。
――あら? どうして‥‥視界が滲んでいるのかしら?
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「ここに居たのね」
月臣 朔羅(
ja0820)が、客席でうなだれているカナリアを見つけた。
朔羅の後ろから、Robin redbreast(
jb2203)が、小鳥のように顔を出す。
「留学の噂は聞いたわ。迷っているのね」
朔羅が聞くと、歌姫は潤んだ目を向け、そして、小さく頷いた。
「こわい、です‥‥知らない土地へ、しかも外国へひとりで行くなんて。わたし、諦めようかと思っています。クロウも反対しているみたいですし‥‥」
「怖いと感じるのは当然でしょう。未知の域に踏み込むのだから」
さらりと朔羅が答えた。
「だからこそ、その恐怖という壁の向こうにあるものを、確りと見据える必要があるわ。――そこにあるのは、壁を越えてでも手にしたいものかしら? それともあなたは、クロウのほうが大事?」
「‥‥」
黙ってしまったカナリアに、ロビンが話しかけた。
「外国に行く不安と、クロウのことは、別のことだよ? クロウのことを、言い訳に使っても、二人とも幸せになれないよ」
「えっ‥‥」
カナリアは、驚いた様子で、ロビンを見つめた。
「クロウのこれからは、クロウが決めることだよ。カナリアが、クロウを手放さないと、クロウも一人で歩くことができないよ」
それにね、と、ロビンは続けた。
「初めてのことは、自信がなくてドキドキするし、失敗すると怒られたりするけど、いちど失敗したら、次に間違えないように、注意深くできるし、どんどん上手にできるようになれるよ」
「そうね。思い切って飛び込んでしまえば、案外大した恐怖ではなかった、ってことになるかもしれないわね」
2人の言葉に、カナリアは迷った。心が揺れた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう‥‥。
●
♪君は一人じゃない。そこにはいつも大きな愛が見守っているから♪
シェリア・ロウ・ド・ロンド(
jb3671)の歌声が響いた。カナリアが振り向くと、シェリアと歌音 テンペスト(
jb5186)と、城里 千里(
jb6410)の姿があった。
「その歌は‥‥」
戸惑うカナリアの手を、シェリアがやさしく握る。
「人との絆は距離ではなくて、思う心の強さなんだと思います。どんなに遠く離れていても、カナリアさんを思う大切な家族がここにいる‥‥カナリアさんが愛する故郷がここにある」
シェリアは真っ直ぐに、カナリアの瞳を見つめた。
「自信を持って。貴女は独りじゃない。何処にいても、この空が繋がっている限り」
「友情や絆は、距離、生死、そんなものに負けず繋がってるハズ。だから寂しくないよ。離れても皆のこと思ってる、あいしてる、繋がってる、だからあたし、みんなと離れて一人になっても、頑張れるんだぴょん!」
歌音がシェリアの言葉を引き取る。
「だから安心して、お互いに頑張るぴょん! あたし応援するぴょん!」
「で、でも‥‥わたし‥‥」
カナリアは戸惑い、自らの不安を口にした。
「いいんじゃないですか? 変わらなくても、誰かのせいにしても」
千里は、自分が撃退士になった経緯を話した。
天魔の事故に巻き込まれて環境が激変したこと。誰かを殺せる力を知ってしまった恐怖。自分が変わってしまうんじゃないかという不安。
だが、彼は変わらなかった。
城里千里は、紛れもなく、城里千里だった。
長所も短所も全て抱えて生きている、ごく普通の人間のままだった。
「どうして、弟想いなのを、優柔不断って言葉に置き換えるんですか。どうして、人に気を遣える自分を、八方美人なんていうんです」
カナリアの言葉を非難するように、千里は畳み掛ける。
「必要な物なんて、もう持ってるじゃないですか。これ以上何を望むんです。自分を変えたいなんて言う前に、もっとありのままを曝け出してみたらいいでしょう。大丈夫だと思いますよ、たぶん。‥‥俺は嫌じゃなかったし」
カナリアは目をパチパチとさせ、そして、その白い頬に、初めて、涙の筋が伝った。
「わたし‥‥歌いたいです。もっと上手になりたいです。世界中の人に、わたしの歌を届けたいです」
ぽろぽろと、宝石のように、雫がこぼれ落ちていく。
「わたしの歌で皆さんが元気になれたら、楽しくなれたら、すごく幸せです。だから‥‥留学したい、です。もっと歌を磨きたい、です‥‥」
それは、カナリアの、心からの希望。
漸く言葉にした「わがまま」だった。
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「そんなのわかっているよ!」
朔羅の追及に、クロウは、だみ声で叫んだ。
「全部僕の我侭なんだ、僕の望みはどうせ、全部自分のためだよ!」
「待って、勘違いしないで。否定する訳ではないの」
朔羅は言葉を選びながら続けた。団内での唯一の肉親ゆえに、依存も、別離への不安も、自然な感情だ、と。自分の為に引きとめようとしてしまう事も、当たり前だと。
「自分の為、姉の為。その双方を納得させられる答えを出せるのは、当事者の貴方達だけ。私は、道標だけ示しておくわね。彼女は本気で歌を学びたがっているわ。でも貴方を心配するが故に、迷ってしまってもいるの。それを踏まえた上で――勇気をもって、答えを出しなさい。周りと道の先を見据えてから、ね? 頑張って。貴方なら出来るわ」
地面を睨みつけるクロウに声だけかけて、朔羅はそっと立ち去った。
様子を見ていたユウが、クロウに近づいて、声をかけた。
「クロウさん、貴方は、ヴァイオリンをどうやって学んだんですか? 歌劇団に入ってから、どうやって生活して来たんですか? 共に学び・努力し・生活してきた皆とは何の繋がりも持たなかったんですか? カナリアさんの事で大変なことは理解しているつもりです。でも、一度深呼吸して周りを見渡して下さい。貴方に何があるのか、貴方は誰と繋がっているのかを」
そう。
クロウは歌劇団の一員。大きな家族の仲間だ。
年下の孤児たちに親しまれ、団員には「難しい年頃ですけれど、いい子ですよ」と評判も悪くない。
(お願い、気づいてください。カナリアさんだけが家族ではないのですよ。貴方には、たくさんの家族が居るんです)
祈るような思いで、ユウはクロウを見つめた。
「クロウさんの演奏は、勢いの良い滝のようだと言う話ですね。まだ荒削りですが、決して評価は低くないですよ」
「そうだよ。クロウは、音楽が好き? カナリアの傍にいるためにヴァイオリンをしているの? それとも、歌は下手でもヴァイオリンは楽しい? 練習して上手く弾けると嬉しい?」
ロビンがひょこりと顔を出した。
「う、うん‥‥そりゃあ‥‥褒められたら、嬉しいけど‥‥」
そこへ、天宮 佳槻(
jb1989)が、姿を現す。
(彼の言動の底には、歌姫ばかりが注目され、演奏者に光が当たらないことで、自分にとっての音楽というものが、価値の低いものとなっていることもあるのかもしれない)
そう思って団員たちに話を聞いて回ったのだが、ソロパートを任されるだけあって、かなり音楽の評判は良いものだった。
「この先、お姉さんのように、音楽を学び続けて行く気はないのですか?」
「‥‥えっ?」
「お姉さんを引き留めるのではなく、共に歩むという選択肢は考えないのですか? 一人でもやっていけると思えるのなら、何故その道を行かないのです」
「‥‥」
「本当は、お姉さんを引き留めても何にもならないこと、理解しているのでしょう? 一緒に居たいという気持ちを否定はしません。ですが、ならばクロウさんは、そのために、どんな努力をしているのですか? クロウさんにとって、音楽とは何なんです?」
「‥‥」
「同じ、或いは先で交わる道を歩むという形で、共にあることも出来るのですよ。演奏や作曲の道を歩む、或いはマネジメントを学ぶ――方法は様々です」
淡々と連ねられる佳槻の言葉に、クロウは絶句していた。
ロビンが畳み掛ける。
「楽しそうに歌うカナリアを見て、クロウも嬉しそうだったよね。カナリアがやりたいことを、応援してあげたら、カナリアももっと喜ぶよ。歌姫としてのカナリアをお手伝いするために、ヴァイオリニストとして留学できるように頑張るとか、マネージャーとしての技能を身に付けるとか、ただ傍にいるだけじゃなくて、他の方法を探すの、すごくいいかも」
「‥‥」
クロウは、俯いていた。涙をこらえるようなしわがれ声で、必死に言葉を絞り出す。
「‥‥僕が追いつけるようになるまで、姉さん‥‥待っていてくれるかな」
「大丈夫、クロウくんなら、カナリアちゃんに追いつけるぴょん! カナリアちゃんを支えるためにも、楽器の力と、離れていても大丈夫な力を、鍛えなくちゃね」
歌音がクロウの背を押した。
「絆はね、時間を、距離を、生死をも超えるものなんだぴょん! クロウくんとカナリアちゃんの絆も、距離くらいで壊れてしまうものではないでしょう?」
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お別れ会が始まった。
「一緒に舞台させてもらってありがトン、これからもずっとお友達でいてね。団長さんも、ありがトン!」
歌音が全員にジュースをお酌してまわり、子供たちには手持ちのチョコ菓子をプレゼントした。
孤児たちが一斉に立ち上がり、歌音に「チョコありがとうー!」と口々にお礼を言う。
「皆と折角お友達になれたから、ずっと一緒にいたいな。でも、それぞれの目標があるから、それぞれの道を頑張って進まなきゃね。皆、もっともっと立派になって、また慰労公演とか、しに来てね!」
シェリア主催のビンゴゲームがスタート。
続いて歌とダンスと音楽の演奏。ユウも、素人ながら、頑張って合唱に混ざる。
あちらこちらを飛び回り、歌音のヒリュウが<和気藹々>で場を和ませる。
おだやかな空気が流れるその席上で、クロウは団長に向き合い、頭を下げていた。
「お願いします、僕に、作曲を教えてください! それと、ヴァイオリンも、もっともっと上手く弾けるように、ご指導ください!」
団長は、おや、というように片眉をあげ、そして言った。
「では、クロウにはその前に、勉強に身を入れてもらわないとな。今の成績では、留学は難しいぞ?」
「頑張ります!」
クロウの目は真剣だった。
その視線が、姉であるカナリアに向かう。
(絶対、姉さんを追ってみせる。いつか2人の道が交わるように、一緒に生きていけるように)
●
西の空に日が傾く頃には、ご馳走も出し物も、全て終わっていた。
「フェリーの時間があるから、そろそろ片付けをしないとな」
団長がお別れ会の終了を告げる。
皆で集まって、記念撮影。団長は、ビンゴで当てたフランスパン型抱き枕を持たされ、決まり悪そうな笑顔を浮かべていた。
シェリアは「ちょっと待っていてくださいね」と、すぐに写真を現像しに行った。
「カナリアは、りゅうがくするの? とおくのくににいっちゃうの?」
まだ言葉も拙い孤児が、カナリアにすり寄った。
「ええ、そうですよ。でも、わたしが遠くへ行っても、心はみんなと、ちゃんと繋がっていますからね」
カナリアは少し考えて、孤児に優しくそう答えた。
撤収作業で、会場が騒がしくなる。
その合間にカナリアとクロウは、撃退士たちを隅に呼び、感謝の言葉を伝えた。
「有難うございました」
カナリアが頭を下げる。
「‥‥すみませんでした」
クロウも頭を下げる。
2人は、改めて、本名を名乗った。
「カナ――美歌さん。わたくしたち、ずっとお友達ですからね」
シェリアが、スピード現像してきた写真を一枚手渡す。そして、しっかりと握手。
ちょっぴり目を潤ませて、歌音が微笑んだ。
「‥‥今まで黙っていて御免なさい。別れる前にどうしても知って欲しかった。どうか、これからも頑張って下さいね」
ユウが、こっそり、カナリアにだけ、自分が悪魔であることを打ち明ける。
団長から、クロウ――響には知らせないほうが良いと、助言をもらっていたのだ。
キャンピングカーが一台ずつ、駐車場を出て行く。
「あたし、離れてても皆と繋がってるから、何かあったらいつでも呼んで! きっと駆けつけるぽん!」
大きく手を振り、歌音が叫んだ。
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美歌のキャンピングカーがエンジンをかける。
団長の車が殿につく。
車内で美歌は、写真の裏に書かれたメッセージに気がついた。
急いで電子辞書の電源をつける。
『Du courge!』
(“頑張って”――フランス語?)
美歌は外を見ようと、窓に駆け寄った。
やっと見えたのは、滲んだ夕日と、空と、遠ざかっていく久遠ヶ原学園だけ。
見送りの影は既に遠い。
「‥‥有難う」
美歌は写真を胸に抱き、静かに微笑んだ。
<了>