●公園前
風があることだけが救いな真夏日だった。
小田切ルビィ(
ja0841)は公園の奥、陽炎の中にすっかり見慣れた人影を見つけて手を挙げる。人影、五所川原合歓は手を振りながら、てけてけと駆け寄ってきた。
「――今日出港するんだったよな」
「うん」
「色々と物入りなんだろ? 俺で良けりゃあ足になるぜ」
「ほんと? ありがとう」
「おぅ」
オンロードのそれに跨って、合歓にヘルメットを放り、自身も同じ型のそれを被る。
視線を交わして、出発。
小道を抜け、公道に出ると、ルビィはアクセルを強めに捻った。
全身を透き通った風が貫いていく。腰のすぐ下から力強いエンジンの音。背中には合歓の腹の虫。
「何か食いたいモンあるかー?」
「じゃあ、オススメ教えて?」
「あいよ、任せときな!」
●学園/中庭
「少し捜したわ。喫煙所にいないんだもの」
「あー、ごめんなさい。禁煙中なのよ」
「……冗談でしょう?」
「大マジよ。ちょっとした願掛けなんだけどね」
紙の束に手招きされて、ナナシ(
jb3008)は応えることとする。
「なんの書類?」
「面談用が少々で、あとは伍(ウー)関係の書類。ま、漏れがあっても届けさせればいいだけなんだけどね」
「ん〜〜〜」
「んー?」
「色々なものが吹っ切れた感じなのかしら」
「切れちゃった、と言うか、ね」
怒らないでね、と前置きしてから、小日向千陰は書類を傍らによけた。
「いつか蔦邑『さん』がいつか『出て』きて、なんかの縁でまた会った時に、あなたがいた時よりも私が諸々円滑に進めてますよー、って言ってやりたくなって。実は、ほんとそれだけ」
「ふーーーん」
「ヘン?」
「いいんじゃないかしら。私は応援するわ。
小日向さんだったらきっとできるわよ。まだ若いんだから」
「最後の要るかね、ナナシ君?」
「もちろん」
倒れてきたナナシが、帽子に包んだ頭を千陰の腿に任せた。目を閉じて一息をつくと優しい笑い声が聞こえて、頬に缶のペンケースが当てられた。やや冷たいそれは幾分心地よく、それでまたため息が出てしまう。
『3人』は次の将来に向けて歩き始めた。誰かが進んだから否応なく、ではなく、偶々――とも言い切れないが――一歩目を踏み出した時期が合致したのだ。それぞれが納得して、ステップを進めようとしている。
ナナシには目標がある。人と天使と悪魔が、それぞれの立場のまま、手を取り合える世界を実現させること。それは揺るがない。が、その先を決めていない。早急に用意しなくてはならない代物ではないが、歩みを進める者を目の当たりにした今、憧憬にも似た僅かな焦燥が生まれたことは否めない。
いや。
まずは成し遂げてからだ、と、自分を確める。
今はただ、戦って戦って、その先にあると信じる平和の為に、全国を飛び回って戦い抜くのだ。
「私もナナシさんを応援してるわ。何かあったらいつでもいらっしゃい」
「当然よ。まだまだ読んでない本もあるし、煙草吸ってるところ見たら急降下ヘッドバットしないと」
「意外と石頭なのよねー。何か入れてるの?(ぐいぐい)」
「やめなさーーーい!」
帽子を引っ張る千陰と、頑なに、本気で抵抗するナナシ。
微笑ましい――と言い表させていただく――遣り取りに放り込まれた声は、しかし対照的な温度だった。
「捜したぜ」
千陰が振り返り、帽子を整えたナナシが起き上がる。
植え込みの向こうには赤坂白秋(
ja7030)。その表情には平素の余裕が無かった。
「頼みがある」
「頼み?」
白秋が『計画』を打ち明ける。シンプルで真直ぐな『思い』であった。
眼差しを和らげるナナシの隣で、しかし千陰は目元を強張らせた。それを砕こうとするように、胸の内を吐露し終えた白秋が深く頭を下げる。
「頼む」
「今日はそこまでしなくても大丈夫よ」
「それでも、頼む」
白髪は上がらない。
千陰は口を曲げて息を吐くと、ちょっと待ってて、と携帯電話を操作した。
が、十数秒後、千陰は首を捻りながらコールを止める。
「っかしいわね、市川さん仕事中のはずなのに。
あ、なんとかしてみるから、他の準備済ませてきなさい」
感謝を告げ、白秋は走っていく。姿が見えなくなると同時、電話が繋がった。
さてそれじゃあ私も、と立ち上がったナナシは、次の瞬間千陰の口から飛び出した「はあ!?」という大声に躓いてしまう。
「有給使って帰ったんですか!?」
●学園/市川の個室
時間は少し遡る。
「立場上、言及せぬわけにもいかないのでね。
アウルを用いての一般人への威嚇行為、学園の備品破損について、厳重注意を言い渡させていただく」
「笑えぬ冗談だ」
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)は大袈裟に脚を組み直した。
「我は一般人を威嚇などしていない。己の立場を見失い、守るべき者を危険に晒し、喪失を体験させた『碌で無し』に然るべき体験を施したに過ぎぬ。あの程度は受けて然るべきであるし、付け加えるならば生温過ぎた程だ」
「床や壁への被害については?」
「必要経費だろうな」
「……まあ、いいだろう。初めに伝えたとおり、これは形式上のものだ。ペナルティは無いし、私もこれ以上君の行いを批難するつもりはないよ」
「話というのは、これで終わりなのだな?」
「そうだ」
「そうか」
フィオナが腕を組み、胸を張る。
「ではこちらの番だ。
今回の件で学園の不味い面が露呈したな。裏切りや利敵行為に対して些か以上に甘い。察知も、統制もだ。
いくら自由が校風とは言え、我等が戦闘集団であることに変わりはない。適切な統制や制御が出来ねばいずれ崩壊する」
「耳も胃も痛いが、ご忠告痛み入る」
「我自身が、学園の者に後ろから撃たれる事や学園の隠ぺいを経験している故、尚の事な。
まあ、独り言だ。聞き流すも上に挙げるも好きにするといい」
「全てを抑えることはできないかもしれないが、それでも肝に銘じ、再発防止に努めると約束しよう」
フィオナが立ちあがる。
「出港まではまだ時間があると思ったが」
「そこまでの間柄ではないのでな」
赤い上着を翻し、フィオナが退室していく。
その凛々しい背中が扉の向こうに消えるまで見送り、市川は腕を組んで深く息を吐いた。
扉がノックされる。力加減には覚えがあった。
「どうぞ」
無言で入室してきた久我 常久(
ja7273)は、その手に細長い紙袋を提げていた。
「暇か?」
「忙しくは無い」
常久は小さく笑うと、紙袋の中身を取り出してデスクに置いた。趣のあるグラスがふたつと、名のある清酒。
「一杯付き合えよ」
「此処でかね」
「今日くらいいいだろ」
暫し常久の顔を眺めていた市川は、やがて首を横に振った。
そして受話器に手を伸ばす。要件は簡潔明解に。急用ができたので早退させていただく。何かあれば小日向へ。
「なんだよ、急用って」
「君だよ」
市川は立ち上がり、腕に上着を抱える。
「いきつけの一件くらいあるだろう。こんな日だ、どうせならじっくり呑もうじゃないか」
●図書館
どうせ今日も閑古鳥、時間を潰すにはもってこいだろう、という狗月 暁良(
ja8545)の想定は、入館早々に飛び出してきた絶叫で粉々に砕かれてしまうこととなる。
「はあ!? なにそのカード強ッ!?」
「ゲームスタートの時に配られるコモンカードじゃない」
「めっちゃ厄介……あ、見て見て、コレうちのエース」
「プレミアついてるウルトラレアじゃないの!?」
「デッキにあと3枚入ってるー」
「……ふふっ、本気で行くしかないみたいね。出なさい、アンコモンデッキの神髄、774小隊!」
「スキルで薙ぎ払えー」
「774小隊ーーー!!」
頭を抑える暁良に恵が低い位置から間延びした言葉を投げる。
「熱中症?」
「……ここはいつかラ漫喫になったンだ?」
「漫喫でもこんなに賑やかじゃないと思うなっ」
「御尤も。で、恵は床に寝て何してンだ?」
「ここが一番涼しかったんだよーっ」
「実家かヨ」
暁良が手近な椅子に掛けると、恵がのそのそと近寄ってきた。ぐでーっとしたまま膝にあごを乗せて来たので、大型犬を撫でるように両手で揉んでやる。
「この間はお疲れ様っ!」
「おう、御疲レ」
「ツープラトン気持ちよかったよねっ!!」
「気持ち良くもあり、退屈でもあり、ってトコだったナ」
「えーっ、そうなのーっ」
不満そうに頬を膨らませる大型犬。暁良は彼女のサイドの髪を耳に見立ててもふもふした。
「哀れな役者が短い持ち時間を舞台の上で派手に動いて声を張り上げた……って感ジに、持ち時間過ぎたら今を投げ出シたヤツの相手をシても、俺だってこう燃えるモノが……な?」
「? ? ?」
助け舟はカウンターから。
「マクベスだよね」
「まくべす?」
「シェイクスピアのマクベスって著書の一節なのよ」
「おーーーっ!」
ぱっと表情を咲かせた恵が暁良をキラキラした目で見上げてくる。
「またひとつ賢くなれたねっ!」
「元々発シたのは俺だし、 今 の は ド ー ユ ー 意 味 だ ? (ぐりぐりー)」
「に゜ゃ゛ーーーっ!!」
思いの外大きな声が出たので場所を考えて力を加減しようかとも考えたが、カウンターは更に賑やかだったことを思い出して涙目の直前まで続けることにした。程よいところで手を離すと、恵はぐったりと垂れてきて、それを撫でながら暁良は思案する。
退屈な結末だったが、収穫はあった。
世の中にはまだまだ強い相手が居る。いつか自身が、最善を尽くしたとしても尚手も出ないような、死神と呼ぶしかないような『ヤバい』相手にいつか出会えるのでは――そう期待が持てたことは収穫だ。何よりもの。
天か魔か、或いは人か。思いを巡らせるだけで胸が躍る――否、本当に踊っていた。原動力はジト目の恵による反撃の猫パンチ。犬か猫かハッキリしろ。暁良の猛攻を、恵は笑顔で身を捩りながら耐える。
暁良が物思いに耽ったタイミングでカウンターは静寂さを取り戻していた。勝敗は2勝2敗の分け。
「流石にダレるね……」
「お互いデッキがひとつだけだとどうしても、ね」
ゲームが盛り上がらなかったのにはもうひとつ要因があった。例えばあとひとりかふたりいれば、交代で対戦、観戦してと楽しみ方は何倍にも広がっていく。だが、できない。『できたはずの場所なのに』。
理由は判り切っていて、だからこそ口に出すことは憚られた。
出航の時間は刻一刻と迫っている。
●街中
合歓の買い物はルビィの予想以上に時間を要した。衣類や食品、そのいずれを選別するにしても逐一商品の表記とメモを見比べている為である。それは何だ、とルビィが問い掛けると、夜草(やぐさ)さんに貰った子供らの好みや苦手なもののメモだという答えが返ってきた。なるほど、と肯き、以降ルビィは荷物持ちに専念する。
「ごめんね、たくさん」
「気にすんな。この倍あったって構わねェぜ。予算面で手伝えねェから、このくらいはな」
「……ご、ごめん」
「だから気にすんな。祝い事じゃねェか」
話は数十分前、食事のシーンに遡る。
ルビィ行きつけのラーメン屋に入ると、合歓の腹の虫は大合唱を始めた。これがどうにも愛くるしく、好きなだけ食え、と言ってしまったのが運の尽きである。
オススメは? と問われたので半チャーラーメン餃子メガ盛り(白米お代わり可能で自由)を提案した。合歓はごくん、と唾を呑み込むと、じゃあそれと、とメニューを広げた。二度見するルビィは何処吹く風、サイドメニューの欄を凡そ制覇して、おまけに白米を5度おかわりした。そんな量にも関わらず合歓はけろりとしており、デザートもいい? と訊いてくる始末。今日は門出だ、祝い事だと自分に言い聞かせながらルビィは頷いた。ツケが効いたのは馴染みの店ならではであり、店主のファインプレーと言える。
至る、現在。
「そうだ。門出の祝い事なんだからな、大丈夫だ、気にするな。俺もしねェ。
さて、後は何を買うんだ?」
「あ、っと……麺棒と絆創膏と……で、終わり」
「よし、ンじゃ行くか!」
「うん!」
既に山盛りのカートを押しながら、ルビィと合歓は医療品コーナーへ連れ立っていく。
●バー
落ち着いた色使いの店内には他の客がおらず、店員もひとりだけという有様だった。願っても無い、と常久はカウンターへ進み、市川が隣に掛ける。
カウンター越しにナッツが置かれた。
ご注文は。
「日本酒を冷で」
「同じものを」
かしこまりました。
微かなロー・テンポの音楽が流れ始める。
「誘っておいてなんだが、見送りには行かなくてよかったのかね」
「あぁ。ワシなんかよりももっと別れを惜しんでる奴はいる。そいつらに時間を取らせてやりてぇ」
「五所川原は君の顔を見れば喜ぶと思うよ」
「いいんだよ。ワシは大人だからな」
清酒の入った小瓶と背の低いグラスがふたつ、二人の間に置かれる。互いに注ぎ合い、蚊の鳴くような音で乾杯を交わしてから、それぞれ口に運んだ。
「そういえば、恵の訓練は今度から誰がつけるんだ?」
「さてね。変わらず小日向ではないのか? 課外活動なので私にはなんとも。
或いは五所川原でも良いかもしれないね、どうやら小日向よりは腕前があるようだし」
「悪い冗談はやめてやれ。そんな暇あるわけねぇだろ」
「まあ、確かに暫くは無理か」
語りも笑いも、飽く迄静かであるに対し、瓶の酒はどちらのペースよりも早く減っていく。
●図書館:2
「そろそろ行クか。恵、俺のバイクに乗ってくか?」
「うんっ!!」
「なら、私は予定どおり自転車で撃退士の限界に挑むわ」
「(そわそわそわそわ)」
「……好きな方でいいゼ」
「うーーん……でも今日はバイクに乗ってみたいんだよっ!」
「断腸の思い、って顔ね」
「気を付けてね」
つづりは腕を組んだまま椅子に凭れる。
「本当にいいのね?」
「うん」
「そう」
それきりナナシは何も言わず、暁良は軽く手を挙げて、恵はべーっと舌を出して、図書館を後にする。
独り残されたつづりは、体が窄んでしまうほどのため息を吐きながらカウンターに沈んでいく。
零れかけた洟を啜りそうになったその時、入口がゆっくりと開いた。
「っ、こんにち――」
と言いかけて、目に飛び込んできた光景に、つづりは絶句してしまう。
入口を閉じた白秋は礼儀服をかっちりと着込み、頬を引き締めていた。
「ど、どうしたの?」
「こうなったんだよ」
カウンターに書類を滑らせる。視線を落としたつづりは、そのまま動けなくなった。
書類の冒頭には、強調された字体で『非常勤司書任命証書』とあった。
下には捺印が添えられた千陰の名前、本日の日付、そして非常勤司書として白秋を任命する、という旨の文言が並ぶ。
「参(サン)は今日は休みだ。好きなとこ行ってこい」
目尻を尖らせたつづりが顔を上げる。
「どうしてこんなことするの」
「お前がそんな顔するって判ってたからだ」
白秋の親指がつづりの目元を拭った。
「言いたいことがあるなら行ってこい。
それでもいいってんなら、今日は俺がずっと一緒にいてやる。
判るか。お前は選んでいいんだ、参」
白秋の手の隣で、つづりは何かを言おうとして、結局言葉にできず、カウンターを飛び出していった。言葉は元より、視線も、合図もない。何より、時間がなかった。
●海辺〜港
買い物を終えたルビィは敢えて海岸沿いの道を選んだ。水面に冷やされた風が心地よい。海の香りの中を突き進む最中、背後の合歓は何度も深呼吸を繰り返した。
やがて港が見えてくる。
アクセルを少し緩めたものの、バイクは直に港に到着した。船の傍では荷物の積み下ろしが忙しなく行われている。
ありがとう、と言って降りた合歓は、切符を買わなくてはいけないと続けた。ルビィは歯を見せて頷く。荷物の積み込みは俺がやっておく。ありがとう。いいんだよ。
ルビィはバイクを押して船尾へ、合歓は船を見上げながら船首へ進む。券売所はすぐに見つかり、並んでもいなかったのですぐ応じてもらうことができた。
暫くお待ちください、とベンチを示される。従い、乗り込み口の前の長椅子に掛けた合歓に、聞き慣れた声が掛かった。
「これに乗るんだよな」
「うん」
「そうか……」
月詠 神削(
ja5265)は合歓の隣に腰を降ろすと、大きな紙袋を手渡した。
「マドレーヌだ。これなら、夏場でも日持ちすると思って。みんなで食べてくれ」
「ありがとう……!」
いいか、と神削が真顔で詰め寄る。
「九葉さんたちの分も入ってるからな。道中で食い尽くすなよ。というより、着くまで開けるな」
わかってます、と合歓は頬をふくらませて、おどけた。
喧騒を耳にしながら、並んで大きな船を見上げる。視界の端に映る時計が、音も無く時を刻んでいた。
柔らかな海風がふたりを包み込み、流れていく。
そういえば、と神削。
「結局、『次の機会』は無いままだったな」
「あ、お酒?」
「あぁ。すぐ研修が始まって、そのまま、今日まであっという間だった気がする」
でも、と神削は向き直る。
「伍たちも落ち着くまで時間が掛かるだろうし、それに――俺たちの方も、厄介ごとが色々ありそうだしな。
そういったものが全部片付いて――大言壮語的なことを言わせてもらえるなら……戦いを全て終わらせることができた後、その土産話を持って、会いに行くよ。その時にまた、酒でも呑んで、いろいろ話そう?」
「判った。私もいっぱいお話集めておく。楽しみにしてるし、会いに行くから」
「あぁ、待ってるよ」
窓口に呼ばれた合歓が席を立ち、残された神削は無言で船を見上げた。
これに乗って、友は巣立つという。引き止めることも、共に進むことも叶わない道を、歩き始めるという。
(「――伍が自分で決めて、そうあろうとするなら……きちんと見送ってやらないとな」)
熱くなる目頭を拭うことで和らげる。
巨大な汽笛が辺りに轟いた。
●丘の上
遥か離れたその場所からでも、港、そして船ははっきりと目視することができた。どうやら間に合ったようだ。口角を上げて一度小さく笑い、フィオナは丘を進んでいく。
装いは夏用のそれに替わっていた。ゆったりした白いTシャツ、膝下までのデニム地のレギンス、青と白を基調としたスニーカー。同系色のリストバンドを巻いた左手には、緑色の小瓶と、控えめな背のキャンティ。
海に向かった、真っ白なベンチに腰を降ろす。日除けなどは無かったが、それもまた夏の趣というもの。
船の煙突から煙が昇り始めた。遠目にも慌ただしくなってきたのが窺える。
時計を確認して瓶の封を開ける。ポン、と軽い音がして、芳醇な香りが漂い出した。
●バー:2
「お前さんの苦労の元になってたかもしれねぇけど、ワシは楽しかったぜ」
「そう言ってもらえると救われる。君は気苦労も多かっただろうに」
「まぁゼロとは言わねぇけどよ、そういうのも含めてな」
「有難う。彼女たちと関わったのが君で良かった」
グラスの中で氷を転がし、常久は赤らんだ息を吐いた。
「なぁ、ワシはうまくやれていたか」
市川は無言で常久の言葉に耳を傾ける。
「あいつらは自分たちの道を見つけて動き出してる。
それをワシはずっと同じ位置から見ている。
同じ位置だからこそ誰かが変わったと判るのかもしれねぇけど、なんつーか、毎度ながら寂しいもんだ」
「仕方のないことだ。
動いてくれるからこそ、私たちは同じ場所にいるのだと実感することができている。
それでようやく、私たちは大人であっていられる。
寂しいと感じるのは……言葉を借りれば、必要経費なのだろう。受け止めるしかない」
市川は意地の悪い笑みを浮かべると、
「なんなら本気で立ち止まってみないかね。例えば、教職を目指す、とか」
「冗談じゃねぇ、ワシがそんなタマに見えるか?」
「見えるね、実に見える」
「老眼進み過ぎだぜ」
ほら、呑めよ。君こそ空じゃないか。酒を注ぎ合った回数も、今の時刻も、どちらも確認しようとしなかった。
●港
船の中に人々が呑み込まれ始めて、そろそろ合歓の順番が、というところで、遠くが騒がしくなる。
まず、自転車を立ち乗りしたナナシが、左右に揺れながらとてつもないスピードで走ってきた。先行組が見守る中、ナナシは慣性の法則を全身全霊で圧殺してなんとか停止に成功する。程なく、大型のオンロードに跨った暁良と恵が到着した。
こめかみを抑えたルビィがぼやく。
「……何がどうしてこうなったんだ?」
「俺等はツーリングしてきただけだゼ」
「最っ高ーに気持ちよかったんだよっ!!」
「……ナナシさん、大丈夫か?」
「(ぜーーはーーぜーーはーー)」
「あー……うん、落ち着いてからで大丈夫」
「遅れてる人は、いない?」
「だナ」
「そっか。ありがとう」
汽笛が轟く。既に辺りに、仲間以外の姿は見当たらない。
暁良に背中を押された恵が前に出る。さっきまでの元気さを潜め、僅かの涙と、凛とした微笑みを携えて。
「向こうでも元気でねっ!」
「うん。勉強も頑張ってね」
ルビィが伸ばした右手を合歓が取る。握り返してからルビィが添えた左手には、自身の連絡先を書いたメモ。
「へこたれずに頑張れよ? まぁ、どうしても助けが必要、ってな時は飛んで行くけどな!」
――いつの日か戦いが一段落したら、またゆっくり逢おう」
「うん。楽しみにしてる」
呼吸を整えたナナシと、両手で硬く握手を交わす。
「まぁ、地方に転戦する事は多いしね。別に二度と会えなくなるわけじゃないわ。
近くに寄ったら遊びに行っても構わないでしょ?」
「うん、いつでも寄って。綺麗にして待ってる」
荷物を持ち、歩き出したその一歩目に、神削と強くハイタッチ。
「俺もここで頑張るから、お前も向こうで頑張れ」
「うん。本当に、今日まで色々ありがとう」
島を踏み出す直前で、暁良がポン、と頭に優しく手を置いた。
「До свидания」
「うん。再見」
合歓が乗り込むと、船はすぐに動き出した。初めゆっくりだったそれは、見る見るうちに速度を増し、見送る者と見送られる者の距離はどんどん開いていった。
互いを繋ぎとめていたのは熱い眼差し。
港を出る寸前まで向けられていた合歓のそれが――不意に後方へ飛んだ。
振り返る。
小柄な女性が跨るスクーターが爆走してきていた。
「参……!」
「伍ーーーーーーッ!!!」
フルブレーキで止まろうとするが、勢いが付き過ぎていて、つづりは投げ出されてしまう。
倒れそうになるスクーターは暁良が捕まえて、つづりを受け止めた神削は、彼女の背中を強く押した。
「行け!!」
つづりが奔る。名前を呼びながら、港の先端まで、全速力で。
合歓が名前を呼ぶ。沖合、船尾から身を乗り出して、両腕を力いっぱい振りながら。
「食べ過ぎんな! 体壊すな! 無理すんな! 考え過ぎんな!」
「うん!!」
「あたしは大丈夫だから!! 寂しいけど、悲しくなんかないから!!」
「うん!!!」
「簡単に諦めたらブッ飛ばすから!!!
いつでも……いつだって、帰ってきていいから!!!」
「うん!!!!!」
船が島を離れていく。
合歓の姿が見えなくなる。
そうなってから、つづりはぺたん、とその場にへたり込み、そうなってからもずっと、輝く海を眺め続けていた。
●バー:3
「……それ、マジか?」
「なんだ、意外そうな顔をして。五所川原から聞いていないのか?」
「聞いてねぇ、っつーか、集めた時にお前さんが言えばよかっただろうが」
「本人の口から、と思っていたのだが」
「……だーーー! まっすぐ祝えねぇな!!
河岸帰るぞ! 次はお前さんの行きつけに連れてけ! 奢りだからな!」
●茨城
他の乗客がいなくなってから、合歓はゆっくりと船を降りた。深く、大きく呼吸してから、まずは報告、と携帯電話を取り出して、操作する。
それから荷物を受け取りに向かった。自宅から持ち込んだもの、ルビィと買い込んだあれそれ、神削から受け取ったマドレーヌ。全てを確認し、手にして、しかし何か違和感が。
「ごしょがわらせんせー!」
ひとりでに浮かんだ笑顔を声のした方向へ向ける。小さな人影が6つ、こちらに向かって走って来ていた。
先頭、九葉が飛びついてくる。彼女を両腕で受け止めた合歓、その周りに僕も私もと5人の子供が集った。
「元気だった? ちゃんといい子にしてた?」
「うん!」
「そっか、偉いね。じゃあ、みんなでおうちに行こっか」
元気いっぱいの返事を聞いてから、合歓は持てるだけの小さな手を取って歩き始める。
笑みを交わしながら顔を上げて――その5歩目で気付いた。
「――……あ゛」
足を止めて振り返る。
遥か彼方の水平線に浮かぶ人工島は、波に揺れて、肩を竦めているように見えた。
●図書館:3
一同は図書館へ戻ってきた。おかえり、という声は中二階から。白秋は書架の整理を務めているらしかった。
それぞれが思い思いの場所に座る。言葉は無く、距離も開いていた。
程なくして、一同の携帯電話が一斉に震えた。送信者は合歓。「ついた」というタイトルで、茨城県の港の写真が添付されている。
「ちゃんと到着してからでいいのに」
苦笑いを浮かべるつづり。
そこへ、普段と変わらぬ様子の千陰が入館してくる。手には大きめの茶封筒。
「結局参も見送りに行ったの?」
「うん。行けた。ありがとう。豆腐先輩も」
「おう」
「うーん、参ったわね」
「どしたん?」
それがね、と封筒をヒラヒラさせる。
「やっぱりひとつ書類忘れてたみたいなのよ。参、悪いんだけど届けてあげてくれない?」
「あ、うん、別にいいけど――」
「また言ったわね」
唐突に落とされたナナシの言葉に、向かいのルビィ、神削が顔を向けてくる。
「何がだ?」
「小日向さんね、昼間も『送る』じゃなくて『届けさせる』って言い方をしたのよ。これ、不自然じゃない?」
「確かに、届ける、だと直接持っていくって感じになるよな……転移装置を使う、とか?」
「いや……実は、以前小日向先生は転移装置の無断使用で学園と揉めてるんだ。
『揉めてた相手』はもういないけど……考えにくいと思う」
「え、じゃあこれからあたしに茨城県に行けってこと!? 明日も朝からシフト入ってるのに!?」
「今日ならまだ間に合うんじゃない?」
「恵ほどあたしは体力ないの!!」
「えー、体力関係ないと思うけどなーっ」
「……なんつーか――」
「――噛み合ってない、のか?」
暁良は帽子を抑えて笑いを堪え始めた。
「一本取らレた、かもナ?」
まさか、と呟いたナナシが千陰に向き直る。
「五所川原さんが入る新しい施設って、どこにあるの?」
「茨城県でしょ?」
「ごめんなさい、聞き方が悪かったわ。
茨城県の、どこにあるの?」
極限まで眉間を絞った千陰は、この巣立ちに仕組まれた最後の計らいを答えた。
「今日の定期便が入航する港の敷地内でしょ?」
「「「「 は ? 」」」」
「定期便の運航次第だけど、仕事終わりに行っても夜には戻ってこられるところを用意していただけて、そこで漁協のお手伝いしながら子供たちの面倒見るのよね」
「「「「 いやいやいやいや 」」」」
「漁協の仕事は力仕事も多いみたいだから撃退士なら大歓迎、子供の世話も初めは大変かもしれないけど港には歴戦の奥様方も多いからひと安心よねーっていう話なんだけど、その感じだと初耳?」
「「「「 い や い や い や い や い や い や い や い や ! 」」」」
ルビィ、神削、ナナシ、つづりが首を振りながら立ち上がる。
「聴いてねェぞ!? 確かにドタバタしてたし、メシ食ってる時も夢中で無言だったが!」
「任務の帰りに寄れるじゃないか……いや、場所を訊かなかった俺たちにも非はある……のか?」
「私たちに非なんてあるわけないじゃない!
でも五所川原さんはいいわ! 準備も大変だっただろうし!
市川さんもまあいいわ! あの人なりの考えもあったんだろうし!
小日向さんも許すわ! 面談で忙しかっただろうし!
三ツ矢さんはどーーーしてあんな深刻そうな顔してたのよ!?」
「あたし聴いてないよ!? なのになんで恵が知ってるの!?」
「ボク聞いたもーん、お手紙とかクッキー贈るから住所教えてってっ!」
「参は夕べ伍と呑みながら散々この話をしてたじゃない。もしかして覚えてないの?」
「確かに意識があやふやだったところはあるけど――」
「ならつづりが悪ィナ。大方、自分を納得させるので手一杯だったンだろ?」
暁良のくぐもった笑いに、中二階からの短い笑いが乗る。
「まー良かったじゃねえか! ダチの勤め先見に行く口実ができたんだからな!」
「合わせる顔がないんだって! 千陰行ってきてよ!!」
「 駄 目 よ。 小日向さんはこれから私たちを 高 級 焼 肉 に連れて行くんだから」
「マジかよ!? クソ、持ち合わせがねェ……!」
「ココのは基本、センセーの奢りだゼ」
「……ごめん、先生。今日は俺も本気出す」
「決定してるし……まあ、いいわよ。赤坂君は参が戻るまで留守番お願いね」
「はっ、別に泣いてねえよ」
「あたしもそっち行く!」
だーめ、と、千陰が封筒でつづりをチョップする。
「あんたももう大人なんだから、自分の時間を誰かの為に費やすことを覚えなさい」
ほら船の時間迫ってるから、行ってこい、気をつけてな、合歓によろしく、と、つづりは図書館を押し出される。手には茶封筒と、恵に貰った時刻表、そしてスクーターのキー。
「〜〜〜ッ」
まあ、大事な書類なら。
ちゃんと覚えてなかったあたしも悪いし。
すぐに会えて嬉しい、等々。
到底呑み込めるものでなく。
「〜〜〜〜〜ッ!!
伍のバカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
●丘の上:2
フィオナは苦笑して携帯をしまった。出航から入航の寸前までを見届けて、やって来た内容とタイミングを鑑みればおおよその察しは付くというもの。なんとも締まらぬ連中だ、と胸中で呟きながらグラスにワインを注いでいく。恐らく大騒ぎであろう図書館の様子を思い浮かべると、思わず力が抜けて、瓶を握る手が僅かに震えた。
「そうだ。そういうものは、近しい者達で存分にやればいい」
次に定めた戦場が自分たちの目と鼻の先だったとしても、巣立ちには変わりない。友も仲間もいない場所での戦いを自ら選んだ合歓、その航路は、彼女の眼差しと志を反映したかのように、寸分も揺らぐことがなかった。
それを最後まで見届けることができたのは、風と波の音だけの特等席に掛けた、傍観者の特権といえた。
「だが、関わった以上は、門出に祝福くらいはするさ」
心配はしていない。だから声も掛けなかった。自分で選択しなければ興醒めであるし、選択をしたのなら手も口も出す必要はない。覚悟も決意も無ければ不幸な結末になるだろうが、あの様子の合歓に限ってそれはなかろうし、だからこそ今、こんなにも楽しい。
半ばほどまで注いだキャンティを青と蒼の狭間に掲げる。
「新しい道を選択した者達の道に、幸多からんことを」
数年という時に醸されたロゼが喉を降りていく。
息をつき、見上げた先には、どこまでも広がる雲一つない晴天。