●
「いいだろう、相手をしてやる」
フィオナ・ボールドウィン(
ja2611)が腕を組んだまま御厨の前に立つ。
「天使の人形に過ぎぬ貴様の相手をしてやろうというのだ、光栄に思え」
「こりゃ随分な言い草ですワ」
「安心しろ。我はむしろ貴様のツラを見るのを楽しみにしていた。あとは、貴様のその余裕ぶったツラが苦悶や屈辱に染まれば完璧だな」
「ほーぉ。
同感ですかい?」
顔を向けられ、狗月 暁良(
ja8545)は「ン〜」と帽子を抑える。
「ただ遊ぶってのもつまんねーシ、ゲームしようゼ。尻餅ついたラ相手の質問に答エる、トか」
「あっしの旨味が少ないですなぁ……」
こうしやしょう、と御厨。
「俺の質問はひとつだけだ。これに答えたら乗ってやる。
横浜攻略の時期は決まったか?」
暁良が目配せをする。
フィオナは肯く代わりに口を動かした。
「明確な時期は決まっておらん」
「そうですかい。
んじゃ約束どおり乗りますワ。ダウンなんざ千年早えから、ヒットさせることができたら、でいいですぜ。
これだけ譲歩したんでさぁ、銃なんか使わないで、始めっから飛ばしてこいよ」
既に愛刀を手にしているフィオナは動じない。
対して、暁良は肩幅分だけ足を引いた。
「あの『豚野郎』は知り合いか?」
「言いだしっぺがルール忘れたんですかい? やっぱ感度悪いんですなぁ」
「またソレ言いヤがったナ……なら、感ジさせてくれよ?」
「ご指名とあらば、是非もねぇですワ」
御厨が笑みを深め、腰を落とした。
●
五所川原合歓が叫びながら猛然と駆けてくる。
標的に定められた三ツ矢つづりは正面から迎え撃とうとしていた。
「何突っ立ってやがる!」
「馬鹿が、退がれ!!」
小田切ルビィ(
ja0841)が肩を引き、前に出る。勢い、倒れそうになるつづりを久我 常久(
ja7273)が受け止めた。
鋭く息を吐き臨戦態勢を整えるルビィ。愛用の大剣を携えた時には、既に合歓は腕を振り抜いていた。
節足のように生え伸びた黒光がルビィの影に突き刺さる。その直後から、ルビィの靴底は床と同化してしまったかのように、動かなくなった。
舌を打つ音が怒号に掻き消される。
明確に喉元を狙ってきた赤い鋼糸を大剣で防ぐ。更に間髪入れず、大剣を回り込むようにして、突き上げるようなフックが頬に打ち込まれた。
「っ!」
揺らぐ視界に目を見開いて、ルビィは合歓の手首を掴む。
「アンタが何でそんなにキレてるのか、俺には判らねぇよ。判るのは、こんなことで何も解決しねぇってことだけだ」
加えてもうひとつ挙げるなら、合歓を止められなければつづりが倒れてしまう事。――救うことのできなかった村人、そして夜草(やぐさ)と同じ道を辿ってしまうであろう事。
時は還らず、死者は戻らない。
だからこそ、同じ轍を踏むわけには、ゆかないのだ。
「現実から目を逸らすなよ。どんなに辛くても、苦しくても!
立ち止まらずに未来へ進み続ける事。それが生き延びた者の義務だろうが……!」
黒に浮かぶ対の赤を見据えて叫ぶ。それだけが彼女を救う手立てだと信じて。
低く唸り続ける合歓。激しく振り払おうとする手を掴んだまま、ルビィの執念が、今、靴底の呪縛を打ち払った。
●
サーバントの真下に潜り込むなり、月詠 神削(
ja5265)はアウルで伸ばした髪を解き放った。
しゅるりと闇を流れたそれはサーバントの白い四肢にあっさりと絡みつく。しかし頭部、首回りだけは束縛を逃れており、また四肢、胴体もゼリーのように柔らかく、恐らく足止めできるのは一瞬であると予期された。
ナナシ(
jb3008)にはそれで充分であった。
「撃つわ」
告げた時には成していた。掲げた巨砲から放たれたのは魔を凝縮した光。危機を感じたサーバントが忙しなく首を動かすが、ナナシが放った光はその稼働区域に直撃し、一撃でサーバントの頭を吹き飛ばした。
頼りを失ったサーバントの体、とりわけぷっくりと膨らんだ腹部が暖炉に傾けたチーズのように垂れてくる。
「任せるわね」
ナナシに頷いた神削がサーバントの下で腕を広げる。垂れ、伸びた白い肉の奥には、確かに何かが含まれていた。
●
「……すいません」
「無茶し過ぎだ。
……しっかし、凄ぇカッコだな、合歓は」
「それ、言わないでやってください」
「ん?」
「伍、あの光纏、大っ嫌いなんです」
「……あのな、そういうことはもっと早く言え」
すいません、とつづりは俯いてしまう。
大っ嫌いな光纏を現したということは、冷静な判断ができていないと捉えることもできる。何かしらの要因がある裏付けにもなる。もっとも、その何かしらについては、今はまだ見当もついていないが。
「いいか。ワシより前に出るな」
「私よりも、よ」
口でピンを抜いたナナシが発煙手榴弾を放り投げた。
●
御厨を中心に『力』が働く。宙が波打ち、床が凹み、破片が浮き上がった。その只中にありながら、御厨は尚も笑みを湛える。
虚空に浮かんだ幾つもの赤い球が、フィオナの命に応じて鋭利な光を打ち出した。
雨霰のように降り注ぐそれを、しかし御厨は全て躱した。身を反り、屈み、或いは跳んで。
そしてその挙動から一足跳びで前に出た。
目を見開き、口角を吊り上げる暁良。
御厨はその顔面を鷲掴みにすると、そのまま暁良の頭部を地面へ押し付けた。
「一本、てなトコですワ」
手を引き、拳に直して振り下ろす。やはり顔面を狙って放たれたそれを、暁良は寸でのところで飛び跳ねて回避。
舌なめずりして前進した御厨が迫る。
放たれたのは胸部を狙った超速の足刀。
交錯するのは暁良渾身の中段突き。
「ハッハァ!」
「シィッ」
――――――!!!
「ふむ」
直撃。
片や大きく突き飛ばされ、靴底で轍を作りながら後方へ。
片やその場で鼻を鳴らし、伸ばした腕で『立て』のサイン。
暁良が口の中の赤を吐き捨てる。
「乾いたゼ」
「あっしは『半起き』ですワ」
床に突いた膝、直撃を受けた腹を払い、御厨が立ち上がる。
「さぁて。あのヴァニタスを知っていた経緯、でよござんすかい」
「余計な引き伸ばしはナシだゼ?」
「下手な言葉遊びもだ」
「もちっと優しくしてくださいや」
「「言え」」
「へいへい」
御厨は腕を組んだ。
「久遠ヶ原の報告書を読まされたんですワ」
「ふざけるな」
フィオナが食い気味に反論する。
「久遠ヶ原で報告書を探し出し、目を通したと言うつもりか?」
「そんなことできたら、とっくに殴り込んでますワ」
フィオナの目線が横に流れる。島外に報告書を持ち出すことが場合によってはあるとしても、敵方であるシュトラッサーの目に晒すなど万が一にもあってはならない。加えて御厨は『読まされた』と言った。言葉を真に受けるなら、誰かが御厨へ向けて報告書を送ったという意味になる。
学園内の誰かが。
「ま、余計に悩ませるつもりもありやせん。実を言えばお教えするつもりでしたし、今夜、この場を設けた時点で契約は終わってるんですワ。今頃はとっくにお縄かもしれませんぜ。なんせあっしみたいなのと共犯だったんですからね」
「誰だ」
「蔦邑(つたむら)って女ですワ」
暁良が舌を打つ。
それを聞いて、御厨は嗤った。
「さ、続きやりましょうや。ちょいとギア上げますぜ、もう話したいこともありませんのでね」
御厨の構えが変わった。ボクシングを彷彿とさせる雑なものから、大陸の格闘技を思わせるしなやかなものへ。
●
(「間に合っていてくれ……!」)
皮のほつれに指を入れ、『奥』を傷つけぬように腕を入れていく。山間の沢水に触れるような心地だった。
やがて指先が『それ』に触れる。手を押し込み、おおよその位置を把握して、もう片腕を突っ込んで『それ』を取り出した。
名前を呼ぶ。
「九葉(このは)さん……!」
呼びながら周囲を確認した。北側はナナシの焚いた煙幕で溢れている。南側からは、赤を展開させたフィオナが肩越しに、大業に構えた御厨がすえた目つきでこちらを一瞥してきた。
九葉は懸命に呼吸をしていた。膝を抱えるような姿勢で懸命に喉を動かしている。視線を向けてきた。口を動かし、何かを言おうとしている。
生きようとしている。
(「よかった……」)
間に合った。
助けられた。
(「助けられたんだ、伍……!!」)
●
ナナシの煙幕は、合歓にそれほど効果は無かった。視界は奪われたものの、まだ耳も肌も鼻もある。得られる情報を処理すればどうとでもなる。だからこそ合歓は一度止まった。情報を得、処理する為に。そしてその一瞬こそナナシの狙いであり、ルビィにとってまたとない機会だった。
「合歓!!!」
黒と白の光が渦巻く大剣を合歓の右脚目掛けて振り下ろす。不意、とまではいかずとも、損傷の軽減を許さない、鋭く、そして重い一撃だった。
合歓は弾き飛ばされながらも、悲鳴すら上げず、反撃に転じた。両の二の腕を同時に深く切り裂かれ、噴き出る鮮血にルビィは眉を歪める。
鋼糸の乱舞は止まらない。次いで狙いを定めたのは煙幕の中に浮かぶ巨大なふたつの影だった。振り上げられた赤糸を常久はジャケットを身代りに退ける。合歓が手首を返して引き戻した鋼糸は、過程でもうひとつの影――常久が現した分身を袈裟懸けに両断した。
その裂け目を肩で割ってナナシが突進する。
討伐ではない。これは喧嘩だ。重体までならお互い様。遠慮も躊躇も無い。
半身の姿勢から、闇を纏ったハンマーを振り下ろす。が、合歓はこれを同じく半身で躱してのけた。『がてら』に放たれた首を狙った蹴りはジャケットに任せる。プログラムされたかのような淀みも無駄も無い動きだった。
「伍!!!」
倉庫全体に神削の声は響き渡った。合歓の動きが止まると同時、ルビィ、常久、ナナシも一旦挙動を止める。
「判るか、九葉さんだ」
小さな体は粘度の高い液に塗れている。小さな手は神削の服を千切りそうなほど強く掴んでいた。
「孤児院の他の子供達も無事だったわよ。頑張ったわね、五所川原さん」
合歓は動かない。
「もう止めよう。これ以上、俺達が傷つけあう意味なんて無いはずだ」
動かない。
「頭撫でてやれ。お前さんしかやってやれねぇことだ、合歓」
動かない。
「保育士になることがアンタの夢だったんだろ。覚えてんだろ、ちゃんと。
全部投げ出して、なかったことにしちまうのかよ!!」
動かない。
「この子の前で、これ以上その手を血で汚すな!!」
しゃがみ込む。
ナナシの首筋がちりついた。
「…………せんせえ…………」
合歓が消えた。
否。
ナナシの髪を靡かせた突風が、合歓の挙動をありありと知らせていた。
軌跡に無骨なドッグタグが煌めく。
「っ……!!」
神削が九葉を隠すように背を向ける。
その前に
両腕を広げたつづりが飛び出して
彼女に
赤い糸が
届く
直前で
常久が
つづりを
突き飛ばし
その身で
鋼糸の束を
受けた。
――――――――ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ っ
「……っ゛!」
「久我さんっ!」
転倒する常久につづりが駆け寄る。
追い打ちを狙う合歓。その顔面をナナシがハンマーで打ち返し、直撃、合歓を北の壁まで弾き返した。
「久我さんっ!!」
「無茶すんなって……言っただろうが」
「……久我さんにだけは、言われたくないです」
「バッカ。こういうのは男の特権なんだよ。
なぁ?」
「……動かないで。今、回復を――」
「このくれぇ何ともねぇよ」
「でもっ!!」
「何ともねぇっつってんだろ。その子に使ってやってくれ」
言い切り、跳ねるように起き上がる。黒い装束が幸いし、溢れるものはひとまず、判りにくい。
「もう絶対に無茶すんじゃねぇぞ」
「俺の傍を離れるな。今、お前と九葉さんにアウルの塗料を塗る」
上と横から、殆ど同時に言葉を掛けられ、つづりは視線を床に落とし、拳を握り締めた。
溢れそうになる涙を、弱音を、根こそぎ奥まで呑み込んで、それからぐいと、あごを上げる。
●
フィオナの二手目は御厨のやや背後を目掛けて放たれた。翠色の瞳は、しかし押し出されるように飛び出した御厨ではなく、光が届いた先、入口と、これを塞ぐ緑色の棍へ注がれる。豪雨のように打ち付ける赤を受け、扉の取っ手は大きくずれた。が、肝心の棍は上下に震えただけで傷ひとつ付かない。
急接近した御厨に暁良が左の拳を打ち出す。御厨はこれを右手で外側へ受け流した。続いた暁良の右フックも再び右手で同じ側へ送る。勢い前のめりになる暁良の鳩尾に御厨の左掌底が突き刺さる。ぼき。体内で湿気た音が鳴る。
開いた距離をすぐさま御厨が詰める。停止した暁良は片足を軸に回転、拳に勢いを乗せて御厨の太腿目掛けて打ち下ろす。御厨は膝を上げて早めに受けることで威力を軽減。止まらず、強く踏み込み、右の膝と肘を同時に暁良へ打ち付けた。
後退する暁良。静止には先ほどよりも時間を要した。
「今のはヨかったゼ」
「やぁ、楽しいですなぁ」
御厨の笑みが深まる。
「さあ、もっといろいろヤらせてくださいや!!」
飛び出した御厨
を、
「図に乗るな」
無数の赤い光が迎撃した。光は弾丸であり、槍であり、剣であった。それらが幾重にも連なって御厨を強く包み込み、彼をその場に踏み止まらせる。
乗じて暁良が殴り込んだ。御厨のやや手前で踏み切り、赤に混ざるようにして飛び込む。
一撃が届いたのは激流の赤が途切れるのと同時だった。
拳が強かに叩く――交叉された腕を。
御厨は黄ばんだ歯を覗かせた。確かに、はっきりと、暁良の舌打ちを聴いたのだ。
腕を放ち、弾き飛ばす。遠く、背中から墜落した暁良目掛けて攻めに転じた。低く、長く跳ぶ。
暁良はようやく立ち上がった。
強く笑いながら片足を、踏み潰そうとするように衝き出す。
御厨の靴底は、暁良の顔面を捉える
直前で
横合いから割り込んできた厚い光に阻まれた。
「図に乗るな、と言った」
光の向こうから飛来した弾丸が御厨の額に直撃する。宙に居た御厨にこの衝撃を殺す手立ては無く、何度か回転しながら扉の際まで突き飛ばされていった。
炸裂した光が拳銃をしまう暁良へ舞い戻る。幾らか傷は癒えたものの呼吸は未だ忙しなく、しかし暁良はこれを長く一息吐くことで無理矢理落ち着けた。
「一発当たったゼ」
「今のはズルですワ」
「貴様が公平を語るか」
「へいへい」
フィオナが背後を一瞥する。神削が九葉を抱えていた。なんとか助けられたようだ。無事、かどうかはまだ判らないが、神削の表情からして悲惨な事態にはなっていまい。
ならば――。
「五所川原に何をした?」
御厨は失笑。
「それ訊きますかね」
「途中で降りるなヨ」
「あのですね。あっしが今夜の為にどれだけの――」
「「言え」ヨ」
御厨は肩を竦め、ネクタイを緩めた。
「流石にそいつは言えませんや」
「降りる、ということで良いのだな? ならば以後、口も手も出すな」
「意外と鈍いんですな。こんなにヒント出してるじゃありやせんか」
眉を寄せるフィオナと、帽子を持ち上げる暁良。
両者に、御厨が開いた首元を見せつける。
程よく引き締まった浅黒いそこには、細い銀色の鎖が垂れていた。
一瞬の間。
交錯する緑と青の眼差し。
同時に踵を返した両者。
その間に飛び込んだ御厨が、体の両側へ衝き出した両手でそれぞれを押し飛ばした。
「そんなん、よっぽど興醒めですワ」
損傷の激しさから受け身に手間取る暁良に対して、フィオナは事も無げに着地を決め、御厨もそちらを向いていた。
「さて、もうちっと評価していただけるように精進しますかね」
「図に乗るな、と言ったはずだが」
「聞き飽きましたワ!!」
●
背中から壁に激突した合歓にルビィが斬り込む。狙いは変わらず脚部。断ってしまわぬように、しかし万感の思いを満載して、床と水平に振る。
刃は壁を叩くに終わった。膝を上げた合歓は両手で壁を押し、大剣を跳び越えながら糸を操った。得物を戻して防ごうとするが、すり抜けた幾本が体に至り肉を裂く。
「いい加減にしやがれ!!」
演武のような派手さで奔る鋼糸を、巧みに踊る剣が防ぎ、打ち払う。煽りを受けた床が削れ、壁が爆ぜた。
やがて合歓が切り替え、ルビィが剣を大きく引く。
合歓の回し蹴りがルビィの脇腹に直撃し、大剣の切っ先が合歓の軸足に突き刺さった。
身を反り、悶える合歓。
軋む身体に顔を歪めながら、ルビィは合歓の脚を腕で抑え付けた。振りほどこうとするが、放さない。
「ああ、判った。俺の言葉は聞かなくてもいい。これ以上駄々捏ねるってんなら俺はもう知らねェ」
合歓が振りほどこうとするが、離さない。
「でもアイツは――三ツ矢は違うんだろ。長い付き合いらしいじゃねぇか、いろいろ溜まってるのだって当たり前だ。そのことだって、責めるつもりは無ェ」
逃がさない。
「だから、アイツの話は聞いてやれ。手前ェだけ言いたいこと言って、アイツの言葉は聞かねェなんて……そんなもん、あんまりだろうが!!」
許さない。
「合歓!!!」
今宵最大の声量で吼えた合歓がルビィの頬を殴り付けた。渾身で、我武者羅で、ありったけの一撃だった。
吹き飛ぶルビィに背を向け、合歓が走る。よたつき、持ち直して、目指すのは倉庫の中央、つづり。
その道程にナナシが立ちはだかる。
「私はその髪型も似合うと思うわよ」
黒い光が伸び、ナナシを狙った。素早く鋭い一手だったが、ナナシは難なく紙一重で躱す。ナナシはこの時極めて研ぎ澄まされていた。理由については後述する。
×字に鋼糸が振られる。僅かなラグを見落としたりはしない。ジャケットを惜しげもなく二着差し出し、切り裂かれる音を聞きながらハンマーを引いた。
怒鳴り、駆けてくる合歓に、ナナシが天辺からハンマーを衝き出す。
合歓は寸前で躱し、駆け抜けることを試みた。
故に、ハンマーの天辺、柄の延長線上に発生した黒い杭は全くの不意打ちとなり、合歓の額を捉えることとなる。
全速と全力の衝突。その衝撃は筆舌に尽くし難く、合歓は投げ出された脚からハンマーの下を潜り、回転してから墜落した。
ナナシが肩越しに振り返る。
合歓は起き上がった。起き上がりながら走っていた。左側へ大きく傾きながら、一直線につづりを目指していく。
嘆息し、追う。その手に得物は無い。
●
抉り上げるような跳び膝蹴りを、フィオナが光を満たした刀で受け止める。弾かれ、しかし軽やかに着地した御厨は間をおかずに刈り取るような回し蹴りを撃った。フィオナは必要最低限だけ膝を曲げてこれを受け切り、弾き返す。
再び浮かび上がった赤が得物を吐き出した。御厨は右の腕と脚でこれを防ぐ――が、赤の津波の中ほどで身を返すと、音も無く詰め寄っていた暁良の中段突きを掌で受け止めた。
「浮気しテんじゃネーよ」
「んじゃもう終わりにしましょうや」
弾いてから御厨が繰り出したハイキックを、彼の背後から舞い込んできた光が厚い壁となって阻む。
「またですかい」
答えは無く、振り返りもしない。
これを貫くように暁良がストレートを放つ。狙い勢い共に充分な一撃だったが、御厨はこれを僅かに屈んで回避、そこから膝を伸ばして肩で腕を担ぐと、暁良を持ち上げ、床に叩き付けた。
バウンドした暁良を横にずれたフィオナが両手で受け止める。
「立てるか」
「トーゼン」
暁良が前に出る。
フィオナが切っ先を向ける。
御厨は紙巻を銜えていた。
「ゲームセットですワ」
「ざけンな」
「見逃しますぜ」
火種が倉庫の中央を指差した。
●
足を前後に大きく開き、腰は深く下げ、臀部は床に付けてしまう。構える銃はひとつだけ。右手でグリップを握り、左手で底を支える。照準は正面、合歓へ定める。こうして魔具を握っているだけで立ちくらみがする。だが、折れるわけにはいかない。
「ふらっとどこかにいなくなるし」
横合いから飛び出した常久が短刀を突き出す。
「食費考えないでいっぱい食べるし」
踏み切った合歓が常久を跳び越える。
「なのに胸ばっかり大きくなるし」
痛む脚を庇った合歓を、地面から突出した畳が更に姿勢を崩させる。
「なんでもひとりでやろうとするし」
つづりの体が黒く輝く霧に包まれる。
「大事なことはなんにも言ってくれない!!!」
糸が振られる。
銃口が咆える。
赤い糸は、
橙の光は、
つづりの傍らへ。
合歓の腕へ。
「ぁ……っ!」
「参!!」
飛び込んできた合歓につづりが押し潰される。
つづりは押し退けず、逃げず、四肢で合歓にしがみついた。
滑り込んだナナシが合歓の首に手を掛ける。未だに徒手であるのは都合が良いから。
引き上げた細い鎖を引っ張る。お構いなしに引く。が、外れず、千切れない。
「お願い」
片手だけ離し、ナナシが体を開く。
「動くなよ――!!」
ルビィが大剣を振り抜く。
描かれた剣閃が、銀色の細い鎖を断ち切った。
●
御厨の口から煙草が落ちる。
紫煙は長く、永く、吐き出された。
●
黒が解れ、砕けていく。
鮮烈に輝いていた赤い瞳は、もうない。
角のような突起は砂糖菓子のように崩れていった。
四肢を覆っていた黒は細かく弾けてなくなった。
黒い怪物は、もういない。
代わりにいたのは、白い髪の女性。
それがゆっくりと、上体を上げた。
「――……参?」
呼びながら抱え、その様子に目と声の色を変えて、もう一度呼ぶ。
「――参!?」
「………………おはよ」
神削が駆け寄り、つづりの様子を確める。顔色が悪く、発汗が激しい。が、それだけ。何処にも怪我は無い。
「っ、九葉ちゃん!!!」
「大丈夫、今は気を失ってるだけだ」
神削が九葉を手渡す。
合歓は同じ温度でつづりと九葉の頭を撫で、
それから辺りを見渡した。
ひとつ息をついたナナシが口元だけの笑みを傾けてきた。
傷だらけのルビィが力強い頷きを返してきた。
屈み、背中を撫でてくれた常久から濃密な血の匂いが流れてくる。
「――……あ……」
霞がかかったような記憶。
それが鮮烈に、ありありと浮かびあがり、
言葉になってしまう
直前で――
「なんてことはねぇ」
――常久が肩に強く手を置いた。
「なんてことはねぇんだ、このくらいは。なぁ?」
「あぁ。こんなモン、食って寝れば治るぜ」
「私は無傷だしね」
「伍」
白い髪に、ぽん、と神削が手を置く。
「参が、話したいことがあるらしい。聞いてやってくれ」
「つづり」
常久が優しく頬を叩く。
「待たせて悪かったな。話せるか?」
潤んだ眼差しと、小さな頷きが返ってくる。
「言いたいことは全部言えよ。お互いに、何を言われても受け止めるんだ。いいな」
強く抱かせ、立ち上がる。
「諦めないで貫けよ。お互いの、これからの為に」
「必要な時間は、俺達が稼ぐ……!」
●
「つまんねぇですなぁ、こんなの」
落としていた肩を持ち直し、拗ねたような視線はナナシへ。
「ヒント出し過ぎましたかね?」
「私は貴方のヒントを見ても聞いてもいないわ」
「御冗談を」
「最後に見た五所川原さんの身なりと環境と現状を照らし合わせれば明白に不自然な点よ」
「そうですかい。ま、こっちを気にしてる余裕なんてあるはずが――」
「素手の格闘にも慣れているみたいだけど基本はやっぱり棍を用いた棒術なのね。両手は主に捌きと牽制でここ一番での攻撃は脚を使っていたもの。それだけ使い込んでいるということよね?」
御厨の顔から笑みが失せた。
「私ね、怒りが限界を超えると逆に冷静になるみたいなの」
無地のタグは手の中で、ぱきん、と折れて割れた。
「凄いわねー貴方、正直グレイリップを超えたわよ?」
「そいつは光栄ですが」御厨が棍を手にする。長さは戻って2メートル程。それで肩を叩きながら「今日のところはお暇しますワ。そろそろ門限だもんで」
「そう。
なら、手伝ってあげるわ」
巨砲を取り出したナナシが、砲口を御厨へ定めた。
「いやいや――」
御厨の言葉を遮って、
「避けないと危ないわよ?」
発砲。
御厨が身を屈める。が、砲弾は彼の頭があった位置よりも少し上を直進し、轟音を上げて扉を弾き飛ばした。
喉まで出かかった言葉を、背中に当たる、熱を帯びた夜風が引き留めた。
振り向く。
高速で回転した旋棍が御厨の横っ面を打ち抜いた。
吹き飛ぶ御厨の耳を呟きが通り過ぎる。だから言ったじゃない。
●
「さっき、言ってたの、ほんとう?」
……。
……うん。
時々ね。本当に、時々。
「そっか。そうだよね。そうだと思う。
ごめんね、伍。
ごめんなさい」
●
「御厨あああああああッッッ!!!」
咆えて進む小日向千陰を迎え撃つべく御厨が棍を構える。だが、無論一対一であるはずなどない。
背後から駆け込んだルビィが地面と水平に構えた大剣を突き出す。緑の棍はこれを弾き防いだが、続いた常久の刺突は脇腹に直撃を許した。舌を打ち、振り払いながら押し返す。
横合いから飛び掛かった神削の拳は屈み、潜り抜けるように躱す。円を描くように棍を振り回すが、黒い霧で目測を誤り、空を切るに終わった。
御厨は拘らない。すぐさま正面を向いた。
目の前には暁良。腰を落とし、両腕を引いている。
御厨が備えた。
歯を閉じたまま息を吐き、暁良が拳を放つ。
●
「あたしね、研修、失敗すればいいって思ってた」
うん。
「そうしたら、まだ一緒にいられるのにって」
うん。
「伍が頑張ってるの知ってるのに、伍がどんだけ目指してたか知ってるのに。
わかってるつもりだったの。応援してるつもりだったの。
でも違ったの。今やっと気付いたの」
うん。
「いなくなっちゃうのが寂しいの。
ずっと一緒にいてくれると思ってたの。
そういうのがまだ終わってないの。
ごめんなさい。
ごめん」
ううん。
●
余すところなく傷む全身、その感覚を甘受して、肚の奥底に残る一欠けらを爆発させる。
「はっは」
速度は御厨の範疇を僅かに上回った。
右拳が左頬に、
左拳が喉元に、
右拳が胸板に、
左拳が鳩尾に、
右拳が腹部に、
総て、
直撃する。
「……この……」
「見る目がネーな、мальчик」
御厨は跳躍。千陰の一打を左の腕と脚で防ぎ、ナナシの一射を両腕と棍で凌ぎ、出口を目指す。
月明かりの逆光に人影が浮かんでいた。
獰猛なため息を吐いた御厨が深緑の棍を振り下ろす。
白柄の両刃刀が真向から受け止めた。
澄んだ音が響き渡る。得物が拮抗し、繰り手同士の額が接近した。
「そんなにあっしがムカつきますかい」
「自惚れるな。貴様のような人形、しかも下衆の命なぞに何の価値もない。
だが」
フィオナの目蓋が降りる。
「貴様に殺された者達への、せめてもの手向けだ」
現れた瞳は竜のそれ。
続いた言葉は、地獄そのものが囁いたかのような、低く、重く、昏く、そして絶対的なものだった。
「……その首、置いていけ」
剣閃が奔る。
●
私ね、判ってたよ。
「うん」
判ってて、待ってて、でも、判ってないふりしてたの。
そういうのが、大人だと思ってたの。
「うん」
でも違った。逆だったね。
そんなの、全部参に任せてるだけだった。
「ううん」
ねえ、参。
また始められるかな。
何回も何回もみんなに支えてもらって。
今度こそ、ちゃんとできるかな。
「うん。
やる」
うん。
やろ。
参。
「うん」
大好き。
「うん。
あたしも」
●
倉庫の外へ転げ出た御厨は、細かく笑いながら立ち上がり、顧みた。左手で首元を抑えるが、溢れるものは止まらない。唾を飲むどころか呼吸で激痛が走る。
「ちぃっと腕っ節が足りませんでしたな」
「遺言を考える猶予ができたと思え」
元の眼に戻ったフィオナが御厨を見下ろす。
「どうした、行け」
「ほぉ、見逃していただけますかい」
「無様に敗走する姿を見せろ、と言ったのだ。『目当てのツラ』も見ることができたのでな」
「……」
「理解できたか。ならば行け」
「……」
「行け」
踏み切り、跳び去った御厨が川の向こうの夜に消える。
程なく、暁良がフィオナに並んだ。
「行っタ、か」
「門限とやらが確かであれば関東は離れまい。もっとも、下衆な上に臆病であるなら、最早目にする価値も無いがな」
「まぁナ」
「手当ては要るか?」
「……いや、ヘーキ。そのヘン歩いてるゼ」
それきりフィオナは何も言わず倉庫の中へ。
暁良は静けさを取り戻した夜の中、帽子を抑え、表情を月から隠し、独り、暫く歩いた。
●
「参は!?」
「――大丈夫。寝てるだけ」
「そう……あんたも大丈夫ね?」
「うん」
「そう」
へたり込む千陰の頭にナナシが頭を乗せる。
「はいはい、とりあえず帰るわよ。大通りまで車を回してもらえるみたいだから。
小日向さん、立てる?」
「腰抜けた……」
しょうがないわね。嘆息したナナシが千陰の襟を掴んでずるずると引き摺って行く。
常久と神削が合歓の前で屈んだ。
「ちゃんと話せたか?」
「――うん」
「そうか。良かったな」
「立てるか?」
「――あ、うん」
ごめん、と合歓ははにかむ。落し物をしたから、先に向かっていてほしいの。
神削は難色を示したものの、やがて九葉を抱え上げた。つづりは常久が抱き上げる。
「あ、俺が――」
「いいんだよ。最後までカッコつけさせろ」
●
足音が無くなってから、合歓は立ち上がり、元いた場所へ向かった。
壁に手を付き、顔は床へ。
落し物は見つからない。無いものを見つけられるはずもない。
あるのは、手に残る幾つもの喪失感と、友の身を刻んだ感覚。
「――……っ」
震える肩を、そっと掛けられた上着が包む。
「――先に、行って……」
「泣いてる女を、放っておけるかよ」
合歓の体が、ゆっくりと床に沈んでいく。
洟を啜る音はじきに無くなり、零れた嗚咽はすぐに慟哭へ昇華した。
背中を合わせるようにルビィが座り込む。
涙と叫びは暫く続いた。
ルビィは身じろぎひとつせず、硬く組んだ両手を見詰めながら、合歓が崩れてしまわぬよう、支え続けた。