●
黒百合(
ja0422)が軽く振り返り、
「用が済んだのなら、巻き込まれる前に帰った方がいいんじゃないのォ?」
「邪魔する気なら……相手になるけど」
と、エルム(
ja6475)が続く。
「用はこれからだし、邪魔する気もねーよ」
ドクサは宙でふんぞり返った。傍らではペミシエが外装の隙間から空間全域を食い入るように見詰めている。
その様子を狗月 暁良(
ja8545)が横目で窺っていた。声に因る衝撃波、そしてあの奇怪な外装。他人の空似と片付けるには酷似している部分が多過ぎるが、それを確かめる術は無く、暇は今まさに無くなった。
三方から烈風のように杭が生え伸びる。撃退士が味わったそれに加えて、タリーウが呼び出した4本が襲った。目まぐるしく色を変える壁と天井から迫るそれを、黒百合はジャケットを身代わりに、一同は辛うじて、悉く回避する。
「何故避けるの? どうせ全て終わるのに」
「やってみたまえ。そうとも、やってみたまえよ」
鷺谷 明(
ja0776)が放った弾丸に続き、狗月 暁良(
ja8545)のそれ、天風 静流(
ja0373)、遠石 一千風(
jb3845)が射る矢がタリーウを狙う。が、これらは全て、覆い被さるように体を屈めた『鉄面』の広大な皮膚に直撃した。
「隠れてないで出てきなさいよォ、タリちゃんゥ♪」
黒百合の言葉は、『鉄面』に囲われた幻魔の耳に確りと入っていた。無論、乗ってやる理由など無い。半分ほど目蓋を降ろし、自身の色を消してゆく。
「お願いします!」
「任せておけ!」
エルムの鼓舞を受けたラグナ・グラウシード(
ja3538)が仲間の中央を目指して走る。彼が呪いじみた結界で仲間を包むのと、『鉄面』の巨躯が持ち上がるのはほぼ同時だった。
無骨な棍棒が振られる。黒百合は軌道にジャケットを残して事なきを得、眼底を突き刺すような色をばら撒く周囲を具に観察した。しかしタリーウの姿は、文字通り影も形も見当たらない。
「照れ屋さんなんだからァ♪」
「隋徳寺は遥か也、ってナ」
(「この世から完全に消えるはずがない……!」)
すぐさま各々が対応する。黒百合は封を切った小麦粉の復路を振り回し、暁良は高らかに放り投げ視線を送らず射撃した。エルムは床に紅茶を撒く。広く、浅くを心掛けた。
だが、ただでさえ斯様な視界、世界。八方360度から次々に照らされる粉は何かを伝えるには心許なく、更に『鉄面』の咆哮がそれらを矢鱈に吹き飛ばし、タリーウは『それからようやく宙を移動した』。
状態を整えた一千風は考察する。
幻術に長けると言われている悪魔。しかし今、この場での戦いでは、まだその片鱗を見せていない。それはそのまま彼女の殺意を表しているように感じられた。その丈は如何ばかりなのか。
「彼は誰だったの? 名前は?」
「訊いてどうするの」答えは何処かの虚空から。「訊いてどうなるの」
「まだ生きていた彼を殺したのはどうして? 私たちを殺すと決める程思っていたのでしょう?」
「『虫』を殺すのに理由がいるの? 『虫』に何が理解できるというの? させてやろうとも思わない」
「でも……」
「それよりも――」
一千風の真後ろから声が届く。
振り向こうとした彼女の、赤い長い髪に、獣じみた手が添えられた。
「――誰が質問を許したの?」
●
撃退士の攻撃は『鉄面』を着実に蝕んでいた。主に狙われているのは傷ついていた片足。引きずられていたそれは、やがて起立さえ不可能なほど光に喰らい尽くされていく。
巨大な膝がカラフルな床に突かれる。轟音が響き、その最中であってもタリーウの声は尚鮮明だった。
床に倒れた一千風の奥で、悪魔がこちらに手を向けている。
「見ーィつけたーァ♪」
「これはこれはご丁寧に」
黒百合と明が疾走する。阻むものはなかった。一息でそれぞれが射程に捉える。
「……はぁ……」
フェイントを織り交ぜた黒百合の毒霧が、
神速で放たれた明の刺突が、
「やらせない」
立ちはだかった一千風の、その体で止められた。
強い手応えが両名に返って来る。
ウイルスは全て吹き付けられた。口からは早くも胃液が零れつつある。
深い傷だ。貫通している。足元から水音が聞こえた。
それでも一千風は倒れず、離れなかった。
「タリーウには、指一本触れさせないわ」
思考は虚ろで、言葉は真だった。明の得物を掴んで離さない。瀕死であるにも関わらず、力は尚も、ますます強く込められていく。
「……はぁ……」
溜息を目指して黒百合が槍を振るう。が、彼女を迎えたのは束になった杭であった。咄嗟に盾を翳して身を庇うが勢いまでは殺せない。一息に壁まで押しやられ、後頭部を強かに痛打した。
●
「不感症が切れてヤがる」
暁良の望む『機』はまだ訪れない。
「おのれ、よくも……!」
憤るラグナを頭上から杭が押し潰そうとする。なんとか防御は間に合ったものの、身が軋む音は仲間たちの耳にまで届いていた。
「ラグナさん!」
声を投げるエルムを横合いから魔杭が捉えた。身を守るように縮めた腕が悲鳴を上げる。自身はなんとか食い縛ったものの、彼女はそのまま『鉄面』の足元まで吹き飛ばされてしまった。
すかさず『鉄面』が追撃に移る。その出鼻、傷ついていた足を静流と暁良が挟み込むように狙い撃った。バランスを崩し更に床へ近づく『鉄面』、その巨躯を未だに支えていた足首へ、強く踏み込んだエルムが刀を振り降ろした。
深々と切り裂く。今度こそ支えを失った『鉄面』が這いつくばった。苦し紛れに棍棒を振るうが、軌道が制限された攻撃をみすみす受ける静流ではない。最小限の動きで躱してみせる。
そして息を呑んだ。
動作の最中、視界の端に映ったのは光に染められた黝(あおぐろ)い髪。
踵を返す。
掌が見えた。
●
「クヒッ」
どうしようもなく笑みが零れた。
背中の痛みも、恐らく割れた後頭部の痛みも、笑いを止めるには足らない。何より止めるつもりもなかった。
あれの姿は見えている。
あの距離なら届く。
「クヒ……クヒヒヒヒッ」
尚も笑って黒百合は壁を蹴った。
●
一千風が状況を理解するには少々の時間が必要だった。
全身を覆う烈火の痛み、こちらを見下ろしてくる明、氷のような手で掴んだ布槍、彼方に揺れる青髪の悪魔。
「あ……」
思いは言葉にならず、言葉の代わりに赤が溢れた。ごぼ、と零れたそれが体の前面を一気に染め上げる。
明は目を細めて笑うと、一千風を僅かに気遣って寝かせ、目を見開いて笑い、床を蹴った。
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薙刀の漆黒の柄を握る手は、僅かな感慨でピリついていた。
掌はこちらに向けられている。しかし考えることができている。それは悪魔が放った幻術が、嘗て自分に仲間を襲わせたあの幻術が、この時静流の意識を包めなかったことを意味した。
ぎゆ、と掌の皮膚が鳴る。
届く。
討てる。
大きく薙刀を振り被った静流の横っ面を、背後から、朱色の刀が薙ぎ払った。
「――っ」
堪えられず、膝をつく。
ぐらつく意識が見たのは、微動だにしない悪魔の掌と表情。
聞いたのは
「行かせないっ……行かせないっ、行かせないっ! 行かせないっ!!」
腹から出されたエルムの声と、自らの背中が断たれる音。
頭と背の傷を『痛感』しながら、静流はタリーウを睨み付けた。
「……また、してやられたか……」
否である。
タリーウは決定的ではないにせよ、間違いなく追い詰められていた。
自分を守らせるつもりだった『鉄面』は床に這いつくばり、目ざとく距離を詰めてくる面倒な『虫』がいて、『あれら』に施すつもりだった幻術はひとつ空振りに終わっている。彼女の策も、技も、十全ではなかった。
だから肩を差し出した。
ずぷっ
追い求めた悪魔の肌は柔らかく、瑞々しく、血の香りは芳醇を極めていた。手応えも十二分、切っ先は貫通している。
呵々。明は笑った。呵々呵々。
「そんな貌をせんでも良いよ」
穴の開いた肩の向こう、鬱蒼とした蒼の隙間から覗く赤い瞳は、今までのそれと何ら変わらない。
「あるのだろう? あれにしか見せなかった他の貌が」
明は想いを巡らせた。
どうすれば見られる。
この腕を切り落としたら。
あの髪を茶化すように撫でてやったら。
残りの角を圧し折ってやったら。
「任せナ、Милая моя」
言葉より先に、勢いの乗った中段突きが明の頭部を捉えていた。位置を直した帽子の奥、蕩けた暗い双眸を、吹き飛ぶ明は見ることができない。
●
極限と呼べる状況下であることも、仲間の変貌も、火を見るより明らかであった。
『鉄面』も去ることながら、やはり厄介なのはあの幻術。共に死地を潜り抜けると肩を並べた仲間が、一切躊躇わずに仲間を遮り、斬り、打つ様は、単純に、純粋に怖気を覚えた。
仕組みは判っている。ではどうすればいい。
ラグナはやがてある結論に至る。至った時には、走り出していた。
「え」
「……」
「先に詫びておく――」
伸ばした手は、ペミシエの外装を掴んだ。そしてすぐさま、
「――すまない!!」
振り向きながら身を捻り、投げ飛ばそうとする。
が、ペミシエは微動だにしない。見た目に反した重量に加えて動かないという意志もあった。慕うタリーウの邪魔をしないという意地でもあった。
「おい」
振り返ったラグナを出迎えたのは、眼を焼くほど眩い光刃。その鋭利な刀身が、ラグナの胴体を横一文字に深々と切り裂いた。
放ったのはドクサ。表情はおどおどしたものから一転、敵意と殺意に満ちたそれになっている。
「邪魔する気なら相手になるよ」
ペミシエの外装、口を模していた部分もすぼんでいく。奥の瞳が湛える色は憤怒の銀。
「詫びるくらいならマジで来いよ。ドクサたちみたいに」
!!!!!!!!!!
ラグナにのみ届けられたそれは、超特大の声であり、質量さえ手に入れた音であり、その実、圧倒的な『力』だった。
「っっっ」
体幹を打ち抜かれたような衝撃に、ラグナはがくん、と膝を突いた。言葉が出せず、息が昇らず、視界が暴れ、色を失ってゆく。それでもなんとか繋ぎ止めようとした意識を、ドクサの光刃がその身諸共、切り刻んだ。
気絶の間際にラグナが見たのは、どうしても守りたかった仲間の姿。
そして、その只中に蹲るタリーウへ単身斬り掛かる、黒百合の背中だった。
●
タリーウを押し潰すかのような勢いで『鉄面』が転がるように割り込んできた。
寸でも寸でのところで。
こんなことになるなら、何より先に片付けておけば。
しかし落胆はない。ちょうど傷も負っていた。
槍を腰に当て、大きく仰け反ると、黒百合は『鉄面』の太い腕に異常に発達させた牙を突き立てた。
食い千切る。
一息で吸い取り、『絞りカス』を吐き捨てた。『鉄面』が使命を束の間忘れ、微かに身悶える。
巨躯が開けた僅かな隙間から、獣じみた手が音も無く伸びてきた。
指は限界まで開かれていて、黒百合を真っ直ぐ目指し、彼女の頭を真正面から鷲掴みにした。
ありったけの幻を送る。ありったけの術を施した。
そして、すぐに止めた。
「ああ、そう」
「ええ、そうよォ♪」
手応えが無かった。
または、有り過ぎた。
「貴女の幻術が効かない相手もいるのよォ♪」
判っている。
腕を引く。
黒百合の斬撃が先んじた。
ぱん、と小気味よい音が鳴る。
ぶじゅう、と跳ねた血液がぼたぼたと滴る。
頬が一瞬引きつった。
浅い。肉は裂けども、骨には至っているまい。
硬直した指先をそのままに、タリーウの腕が引っ込んでいく。
「ほらァ、もう1回本気の幻術を繰り出して来なさいよォ♪」
応えたのは『鉄面』。その名を表す頭部をぐりんと向け、大きな口を目一杯開いて威嚇する。
「どきなさいよォ、タリちゃんの■■■■を■■■■■にするんだからさァ……!!」
大きな音が2度鳴った。壁と天井から伸びた杭が、仲間を打つ音だった。
背中に明が凭れかかってくる――否、墜落してきた。暁良に頭部を打ち抜かれた明は、朦朧とした意識のまま宙を行き、杭に続けて打たれ、抵抗する間もなく、意識を手離して戻ってきたのだった。
顔を歪める黒百合の許へ暁良が駆け込んでくる。しかし腕を引いていた彼女は、それを突き出す瞬間に立ち止まり、
「……あ?」
顔を上げ、目を見開いた。瞳には光が戻っている。
時同じく、エルムも正気を取り戻した。やがて静流に駆け寄る。
『鉄面』に隠されて見ることができないが、事ここに至れば明確である。タリーウが手を閉じたのだ。幻術を解いたのだ。幻術を解かざるを得ない状況に陥ったのだ。
勝機であり、決して看過することのできない危機でもあった。
『鉄面』の口内に光が蓄えられる。一拍置いて放たれた紫は、しかし狙いが定まらず、誰も居ない床で爆ぜる。黙々と立ち上る煙に白いそれが入り混じり、すぐに空間を覆うように広がった。効果の程は判らない。目の無いあれにどれだけ通じるか。猶予などない。
それでも、言葉を掛けずにはいられなかった。
「こんな状況でも、貴女に会えて嬉しかったわよォ」
「(しーーーッ!!)」
い、い、か、ら、は、や、く、と口を動かし、ドクサは慌てた様子で何度も手を払う。
ラグナの右を静流が、左をエルムが支えた。彼の胴から流れる血は一目で危険と判る量だったが、エルムの視線は自然と、そして必然、静流が流す赤に注がれる。
「すみません……」
と呟いて、
「……ごめんなさい」
と絞り出した。
「私には責められないし、誰かに責められることでもない」
担ぎ直し、鋭く息を吐く。
「急ごう。まずは無事に脱出しなくては」
ちらりと覗き、見たのは膨大な煙の山。そして追撃は訪れない。
タリーウは指を全て蠢かせた。
添えた腕が不意に強く掴まれ、暁良は僅かに硬直した。
「……まだ……私は……!」
「喋んナ」
抱き上げる。
「溜めとケ。俺もそうスる」
周囲には杭が降り注いでいる。乱打と呼べる有り様だった。
しっかりと振り返る。2柱の悪魔は未だその場に留まっていた。下の『あれ』もそのままだ。
「Аминь」
壁から杭が向かってくる。暁良は敢えて背で受けた。
凄まじい負荷が掛かる。その最中でも暁良は一千風を守り抜き、壁の直前で脇への離脱を成す。出口付近には全員がそれぞれの形で集合していた。
目配せをして、駆ける。
壁が青味を取り戻し、白く染まり、出口が見えてくる。
とうとう追撃は訪れなかった。
●
魔界へ向かう路、その道中。
杭に『処理される』ディアボロの声が聞こえなくなった頃、ドクサがぽつりと呟いた。
「……どーすんだろ、これから」
ペミシエは無言のまま、自身の背で寝そべるタリーウを顧みた。
声は勿論、先程まで聞こえていた傷を舐める音も止んでいる。眠っているのだと、思った。
それきり前を向いて進んでいく。ドクサも倣った。
だから、青い髪の奥で、彼女が傷口を噛み締めながらどんな顔をしていたかは、もう誰にも知ることはできない。