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図書館を訪れた狗月 暁良(
ja8545)が見たものは、カウンターにそびえる本の塔と、その手前でノートパソコンを操作する小日向千陰の姿。僅かに目を見開いて入り口を開けると、司書が顔を向けてきた。
「あ、お久しぶりね」
「ドーモ……」
「どうかした?」
「……ちゃんとセンセーだったンだな」
暁良の言葉を受け、千陰がモニターに額をぶつけた。本の陰からクスクスと声が聞こえてくる。千陰が顔を赤くして腕を振ると、ナナシ(
jb3008)は本を持ったまま飛翔、宙で笑い転げた。
肩を竦めて話題を変える。
「本借りたいンだけど、ロシア語のヤツ何処?」
「ん、案内するわね」
言いながら千陰は中二階に向かった。ロシア語ロシア語と呟きながら本棚を指さし、やがて一冊を取り出す。はい、これ。振り返ると、暁良は小難しい顔をして首を捻っていた。
「?」
「いや、俺な……まだちゃんとアイサツしてネー気がするンだよ」
「あああああ私もだ!!」
また笑い声が聞こえてくる。暁良と千陰は似た笑みを浮かべ、差し出された互いの手を握った。
「狗月暁良だ。今後ともヨロシクな、センセー」
「小日向千陰よ。私の方こそ、よろしくね」
それじゃあまた夜に。暁良は図書館を後にする。
千陰がカウンターに戻ると、ナナシも静かに元居た席に戻ってきた。
パソコンを操作する音とページを捲る音が暫く続く。遠くで小鳥が鳴いていた。
「ねぇ、小日向さん」
「んー?」
「……後悔してる? スッキリした?」
どんなに辛く苦しい事だったとしても、終わった事に捕われていたら未来は無い。
忘れる事こそが、きっと次への始まりだと、ナナシは信じていた。
「それとも……」
「――実はね」
千陰が背凭れを軋ませる。
「……まだ整理がついてないのよ」
入院中もずっと思い返して、考え抜いて、だけど結論は出なかった。
出ないうちに戻って来て、そこで多くの人を巻き込んだことを再認識した。
考える暇は無くなってしまった。
だから。
「もうちょっと考えながら、のんびり決めようかなー、って」
「……ふふっ」
「だめ?」
「ううん、それでもいいと思うわ」
ナナシはそっと口元を緩め、並ぶ文字に視線を落とした。
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分厚いバインダーを抱える市川を久我 常久(
ja7273)が呼び止めた。訊けば、会議まではまだ時間があると言う。
2人はテラスへ進む。人はまばらだったが、敢えて最端の席を陣取った。
「悪かったな。結果的に泥を被ってもらっちまった」
「私の撒いた種でもあるからね」
「そっちは大丈夫なのか?」
「なんとかね。胃薬の減りは早くなったが」
「……早めちまうかもしれねぇんだけどよ」
「『彼女たち』のことかな?」
「生徒に戻せねぇか?」
「難しいね。『彼女たちが司書になる』というのは『作戦』の肝だし、何より彼女たちが望んだことだ」
「あいつらは、ちゃんと『学生として』卒業できるのか?」
「最良の形に収まるよう努めるさ。小日向にも言ったことだが、後は私がなんとかしてみせるよ。
……そろそろ時間だ」
「ワシも連れていけ」
「単独で、とのことだ」
「何か出来ることはねぇか?」
「……では」
市川が手を挙げ、招く。常久が顔を向けると、トレイに大盛り用の丼を2つ乗せた五所川原合歓がてけてけとやってきた。会釈する彼女に市川が席を譲る。去り際にポン、と常久の背を叩いて呟いた。頼んだ。
眉を曲げた常久が視線を戻す。合歓は大盛りのうどんを啜っていた。
「……ったく、旨そうに食いやがって。夜の分は開けとけよ?」
合歓はにっこりと頷いて大盛りの天丼に箸を運ぶ。
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「参(サン)が司書かー……」
他に客がいない喫茶店で、神喰 茜(
ja0200)と三ツ矢つづりはカウンターに並んで座っていた。
「……全然想像できないんだけど。大丈夫なの?」
「あたしが違和感あるもんね」
つづりはコーヒーをかき混ぜながら苦笑した。
茜がカフェオレを含む。
「ま、妥当なところに落ち着けてもらったってことでいいのかな」
「落ち着けてもらった、っていうか、落ち着けさせたっていうか……」
歯切れの悪い言葉に顔を覗き込む。笑わない? と訊かれたので、笑わない、と答えた。
「あたしさ、バイトいっぱい入ってたじゃん」
「うん」
「初めは、保護観察さっさと終わらせたくってさ。千陰を説得するつもりで頑張ってたんだ」
でも、いつの間にか目的が変わっていた。
認めて欲しかったのだとつづりは言う。
そして、どうして認めて欲しかったのか、あの夜、傷だらけの千陰を見て気付いてしまったのだと言った。
「千陰のこと、大好きみたいでさ」
「うん」
「認められても、いなくなってほしくないっていうか……」
「うん」
「もう勝手にどこか行かせないって――……やっぱナシ! はい、おしまい!」
「え、笑ってないよ?」
「声が笑ってる!!」
じゃれ合う2人の間に、店長がカットされたいちごを出した。どうも、とひとつ頬張る。春の甘味が口の中で弾けた。
「あ、そうだ。参の代わりに私がここでアルバイトしようかな?」
それがね、と店長は苦笑い。看板娘がいなくなってしまって、見ての通り閑古鳥なのだと頬を掻く。
「フェアやる時は呼んでくださいね。あたし絶対手伝いに来ますから」
「本職を疎かにしては駄目だよ。でも、その時は君もよろしくね」
茜が頷く。店長はにこりと微笑んで、前払い、とカフェオレのお代わりを注いだ。
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作業が終わる頃には、世界はほんのり赤くなっていた。出たゴミは袋3つ分。だがそれだけ掃除したこともあり、学園の道向こうにあるその喫煙所は見事に綺麗になっていた。
自販機で買ったお茶を手にして、月詠 神削(
ja5265)はベンチへ腰を降ろす。どこにでも座れたのにいつもの位置に座った。
覗けば誰か居たこの場所に、今は彼以外見当たらない。
語ったり、慰め合ったり、たまに討論したり、でも大概笑い合っていた場所は、閑散としてしまっていた。
誰かの声がした。
顔を上げる。道の向こうから、夕日を背負った常久と合歓が手を振っていた。
「そろそろ時間だぞー?」
「――い、一緒に、行こー?」
神削は手を挙げて応える。そして缶を真上に放り投げ、立ち上がりながらそれを掴んで、喫煙所を後にした。
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カウンターが直接ノックされて、それでようやく千陰は顔を上げた。マキナ(
ja7016)は歯を見せて笑う。
「主賓をお迎えにあがりましたよ」
「え、もうそんな時間!?」
千陰は慌てて立ち上がる。荷物を纏め、数分前に本を片付け終えていたナナシと合流、マキナと連れ添って表へ。
「他のみんなは?」
マキナが指を折りながら答える。神削、常久、合歓は先に行き、茜とつづり、暁良は直行した。
そうそう、とナナシが覗き込む。
「夕食は焼き肉って事になったから」
「おお、いいわね、肉!」
「奢ってくれるのよね?」
「ぉおう? 私の快気祝いじゃ――」
「ゴチになりまーす」
「……まあいいわ。バーンとおごったげるわよ!」
「よっ、太っ腹ー」
「まったく……。
ところで、なんてお店に行くの?」
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『肉処・わおんりい』。
厳選された和牛を提供することで知られる、市川の上司の上司が会食で利用することもある焼肉店。
全席個室、時間無制限食べ放題飲み放題コース完備と――価格以外は――良心的な経営方針である。
「……ねえ皆、ラーメン食べたくならない?」
「夕飯は焼き肉って事になったから」
「大丈夫だよ、食べ放題だから」
長いテーブルには網が2つ設置されていた。それぞれが席を取り、飲み物とメニューを頼んでいく。
やがてドリンクが運ばれ、各々の手に渡されていったが、千陰は部屋の隅で携帯を顔に当てていた。
「もしもし、お疲れ様です。領収書切っていいですか?」
「市川にこれ以上迷惑かけるんじゃねぇ!」
常久に引きずられ、ようやく千陰も着席、グラスを握る。
そして立ち上がり、目元を拭いて笑顔をこしらえた。
「えー、それでは、簡単にあいさ――」
「皆、お疲れ様ーー」
\かんぱーい/
畳の上にぶっ倒れた千陰の上を続々と肉が通っていく。
大皿に隙間なく並べられた色鮮やかな特上タン塩。
走る白が観る者の喉を唸らせる特選霜降り。
絡んだタレが輝かしい上カルビ、上ハラミ、特上ロース。
「凄……これが、和牛?」
当店は全て厳(中略)和牛となっております。
「アイルランド産はありません、よね……」
羊でよろしければご用意できます。
「本当ですか!? じゃあそれと、この黒毛和牛のフィレ肉を」
別料金になりますが。
「大丈夫でーす」
「ナナシさん……」
千陰が震える手を腿に置くが、戦闘服(お古のジャージ)に身を包んだナナシは流れるような手つきで網の上に肉を並べていく。じゅう、という音が部屋に踊り、薄い煙が立ち昇った。その奥では、肉を網の上に流し込もうとしていた合歓を常久が強い言葉で止めていた。
「待てまてぃ! まずは網を熱しろ!」
「――こ、これだけ……!」
「焼くならタンからだろう!? タレモノは後だ!」
言いながら常久が網に並べるのはカボチャやナス、ニンジン。肉の匂いは隣から遠慮なしに漂ってくる。茜とつづりが霜降りの溶け具合に腕を振って身悶えし、マキナとナナシはまるでノルマがあるように肉を平らげていく。
ようやく常久がタンを並べ、合歓の目に星が瞬いた。
「いいか。肉への敬意を忘れずにだな――」
合歓が箸を伸ばす。
「肉汁が出てきたころに――」
ひょい、とまだ赤みの残るタンをひっくり返し、
「一回だけひっくり返して――」
もう一度ひっくり返して、
「――ぇぇぁあああ……」
ぱくっと口に放り、にっこりと笑って両手足をじたばたさせた。そして硬直した常久の様子を窺ってから、網を敷き詰める勢いで肉を放り込んでいく。
がっくりと落ちた常久の肩に神削が手を置く。
「一枚だけ取っておいたから……」
「……もう、いいわ。
ナナシちゃん! この『特選A5等シャトーブリアン』全員分!」
「はーい。3枚ずつね」
「見て見て狗月さん。食べ放題メニューに今のお肉ないの」
「涙拭ケよ、センセー。ほい、おしぼり」
「優しさが沁みるわ……ナナシさんも見習っていいのよ?」
「静かに。今タン塩がいいところなの」
「……。みんな、アレよ、年頃の乙女らしく体重とか気にしなさいね?」
「あたし肉つかないし。ごめん茜、タレ取ってくれる?」
「はい。私も平気だよ。霜降り追加で」
「私も問題無いわ。シャトーまだかしら」
「成長期の男子高校生として負けられませんね。次、羊行かせてください」
「俺は体重増えるというか胸の方に来ルから」
「はい参、おしぼり」
「で、センセーは?」
「この歳になると背中が、ねえ」
「ふゥん……?」
1時間後。
「……五所川原さん、今ほとんどシャトーブリアン丸呑みにしてなかった?」
「――おいしい、よ?」
「羊もペロリと行きましたよね……噛めば噛むほどおいしいんですよ、歯ごたえもあるし」
「――あ……えと……」
「また注文すりゃいんじゃね?」
「それもそうね。すいませーん」
「――……予算……」
「財布が軽くなれば小日向さんの心も軽くなるわよ(小声)」
「そうそう。こういうときは遠慮する方が失礼なんですよ(小声)」
「――おかわり!(大声)」
「行ったヨ。スゲーな……」
「相変わらず意味不明な謎ボディーだよね、伍(ウー)。私はそろそろお腹いっぱい、かも」
「あたしも。箸休めにデザート端から順番にいっとく?」
「あー……」
「いいのよ月詠君。もう変わんないから。逆にどこまでいくか楽しみ、なんて」
「……俺のおしぼりも使う?」
「ありがと。
てか、その服の下……怪我?」
「ああ、うん……ちょっと、いろいろあって」
「任務? いいお肉だし、たくさん食べれば治るわよ。だから遠慮せず食べて食べて」
「……うん、わかった」
箸を手にする神削。彼のグラスが空なのを発見し、千陰がオレンジジュースを注ぐ。神削は慌ててグラスを手にした。
聴いたわよ、と囁く。
「昼間、あの場所を掃除してくれたんですって?」
「うん、まあ」
「ありがと。本当に。
増えた仕事片付けたらまた足繁く通うから、いっぱいお話しましょうね。みんなにただいまも言いたいし」
彼にとっての大切な場所は、彼女にとっても大切な場所で。
思いは似ていて、通じていて。
それでやっと安心できて、神削は微笑んだ。
「じゃあ、改めて」
いただきます。
神削は軽く頭を下げて、網へと腕を伸ばした。
更に2時間後。
「――ごちそうさま、でした!」
ノンストップで食べ続けた合歓が箸を置くと、とっくに満腹になっていた面々は間の伸びた拍手を鳴らした。
「で、なんでくびれがあるの」
「……マジで胸に行ってンのか?」
「謎だよね。ほんと謎」
「月詠さんもいい食べっぷりでしたね」
「な。やるじゃねぇか」
「まあ、一応は抑えたんだけどな」
「それより……」
一同の視線が畳の上にひっくり返るナナシに注がれる。彼女はぱんっぱんにまん丸く膨れたお腹をさすりながら、半ばうなされていた。
「ナナシさん、大丈夫?」
「へ……平気よ。でも動けないから飛んでいくわ……」
(「歩くより飛ぶ方が楽……なのか?」)
(「道理は通ってる……んですかね」)
(「あ、でも凄い、浮いた」)
(「――鮭の、赤ちゃんみたい……」)
そのまま、彼女を囲むようにして、一同は外へ。
殿を務めていた常久は一度、レジ前で紙幣を数えている千陰の後ろで足を止めた。
「高い代償(ペナルティ)になったな」
「……安いもんですよ」
どこか嬉しげに見上げてくる千陰の頭を、常久が鼻を鳴らしてチョップした。
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霞が掛かった春の夜は満天の星空。少し冷たい風が火照った体に優しい。
千陰が地面につきそうなレシートを丸めて外に出ると、ぽん、と肩を叩かれた。
「御馳走様、センセー」
言い残しながら去っていく。うん、またね、と投げかけ、貰った飴を残ったメンバーに配った。
「んー、スースーするね」
「ナナシさんは?」
「今は水一滴入らないわ……」
「で、合歓ちゃんは何モジモジしてんだ?」
「――締めに、ラーメン……」
「「「「「「いやいやいやいやいやいやいや」」」」」」
総ツッコミを受ける合歓に左目を細める千陰
を、
ぎゅっ
と、背後から誰かが抱き締めた。
千陰が目を丸くして顔を動かす。すぐ前には暁良の顔があった。
「別に肉付いてネーけどナ、背中」
「帰ったんじゃ……?」
「『置石』ってヤツだ」
満願ジョージュ。一層力を込めて揺らすと、千陰がくすぐったそうに抵抗した。
おっと、と笑いながら暁良は逃げ果せ、似た微笑みを浮かべた仲間の許で振り返る。
「っし、んじゃ帰るかー」
「だナ」
「本当、ご馳走様でした、小日向司書」
「伍、ラーメンの大盛りは止めておけよ?」
「お休み取れたら、また遊びに行こうね」
「はーい、はーい。私も呼んでねー」
それじゃあ、おやすみなさい。
本当にありがとう。
また明日、学園で。
誓いに似た約束を交わし、手を振りながら、それぞれの家路を歩いていく。
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自室に戻った千陰は、ある引き出しを開けた。
そこには小さな箱が座っていた。
中身は義眼。
視力も、なんの力もない、ただの右目。
箱に指を置いた瞬間、ドアがノックされる。返事をすると、つづりが顔を出した。
「伍の夜食とあたしの飴買いにコンビニ行くんだけど、なんか要る?」
「んー、や、私も一緒に行くー」
「え気味悪いんだけど。後遺症?」
彼女が凄むより早く、つづりは笑いながら逃げ出す。
「待っててやるから、早く来てよ!」
「今すぐ行くわよ!」
千陰はぱたん、と引き出しを閉めると、どうしようもなく緩んだ頬を揉みながら、上着を羽織って部屋を飛び出した。