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店長が出かけてしまい、小倉舞はプチ・ブランジェに一人残された。
昼のピークは過ぎ、現在店内に客の姿はない。いつもならば日暮れまで営業しているこのパン屋、今日という日は店主不在のために本日の営業を終了している。
つまり、舞はクッキー作りに集中できるというわけだ。
だが、頼れる者は今この場にいない。助っ人が来るとのことだが、それが誰なのかも分からない。
第一、本当に来るのだろうか?
「うーん、まずは必要ないものだけ片づけておかないと」
これからクッキーを作るにしても、不要なものを片付けなければやりにくい。それに、クッキーが焼きあがれば、すぐにそれを持って出かけるのだ。一秒でも早く、ほんの少しでもクッキーが温かい内に届けたい。ならば、先に片付けるべきであろう。
「これは使うから……、あ、これは使わない。えっと……よしっ! お片付け終わったー」
流石に慣れたもの。洗い物から片付けを済ませるのに十五分で完了した。アルバイトを始めた当初、一人でやったらこの三倍は時間がかかっていた。掃除や片付けは元々得意だったとはいえ、同じ片付けを毎日繰り返していれば、作業も捗るようになるのだろう。
材料も取りそろえ、いざ、レッツクッキン!
そう意気込んだ時だった。
店の入り口が開かれ、数人の影が入ってくる。
お客さんだ。
「あ、ごめんなさい、今日はもうへいて――」
「助っ人到着です。要救助者はこちらでいいのかな?」
慌ててエプロンの裾を糺し、売り場へと顔を出す舞。
だが、そこに立っていた人物を目にした舞は絶句したのである。
凪澤 小紅(
ja0266)を筆頭とする、久遠ヶ原学園の生徒達。
この間、実地訓練としてこの町を訪れた面々に加え、懐かしい顔も。
「久しぶりだな。息災なようで何よりだ」
「キャロラインさん! え、どうしてここに……?」
金色の髪に、ややツンとした顔立ちのキャロライン・ベルナール(
jb3415)。彼女もまた、かつて舞の事件に関連した者であり、舞の友人でもある。
何故彼女までここにいるのか、舞にはさっぱり分からない。まさか、店長の言っていた助っ人が、久遠ヶ原学園の学生、ということはあるまい。
「依頼だよ、依頼。ここに来て、クッキー作りを手伝えっつー、妙な仕事さ」
そのまさかだった。
店長は、わざわざ撃退庁なり久遠ヶ原学園なりに掛け合って、彼女らを呼んでくれたのだ。
ラファル A ユーティライネン(
jb4620)はボヤくように言って、勝手に調理場の方へ入っていってしまった。
「もう、どうしてわたくしの影に……っ」
「仕方ないじゃない、どんな顔したらいいか、まだ……心の準備が」
そんな時、長谷川アレクサンドラみずほ(
jb4139)の声がした。
彼女の背後に、誰かが隠れているらしい。そして、隠れている誰かの声に、舞は聞き覚えがあった。
「今の声……もしかして」
舞の予測には、小紅の静かな笑みが肯定していた。
ほんの少しだけ覗いている、クセの強い黒髪。それから、先ほどの声。
間違いない。彼女だ。
「沙希さん、でしょ?」
「う……」
とうとう観念したか。みずほの背に隠れていた霧原 沙希(
ja3448)が姿を現した。
「お、小倉さ……」
「そうじゃないだろう?」
舞の名を呼ぼうとした沙希だが、それを小紅に制された。また少し言葉に詰まって、視線を逸らす。
そして、一つ息を呑むと、今度はまた引き締まった顔つきで、舞の目を見つめる。
「舞……、久しぶり。……元気だった?」
もう、他人行儀な呼び方はやめた。
今や、沙希にとっての舞とは、友人などではない。妹のような存在でありながら、もっと別次元の、そう、まるでもう一人の自分のような、自分と他人とを区切るラインを超越した存在なのだ。
とはいえ、沙希は長いこと、舞のことを「小倉さん」と呼んでいた。これまでの呼び方に親しんだ意識と、舞を近しく、そして親しく思う意識と。どちらを表に出して良いものか、自分では決めることができなかった。
それを手助けしたのが、小紅だったのだ。
「聞くまでもないことですわよ。さ、人目などお気になさらずに、いってらっしゃいまし」
そして、みずほが沙希の背を押す。
よろりと押し出された沙希は、思わず舞の肩を抱いた。
頭に手を置き、撫でるようにして、ずっと会えずにいたこの一年半を埋めるかのように、その存在を確かめる。
「……少し、背が伸びたかしら。体も、しっかりしてきたわね」
一度踏み越えてしまえば、なんてことはない。互いの距離が近くなれば、言葉も自然と出てくるし、素直な気持ちになれる。穏やかな、安らいだ表情で、自然な笑みでいることができる。
舞の方は照れ臭そうに笑って、そのまま沙希に体を預けていた。
(これは……お邪魔かな? 挨拶は後にしよーっと)
それを見ていた九鬼 龍磨(
jb8028)は、少々居心地が悪い。なんだか、見てはいけないものを見ているような気分になるのだ。
すっと肩を竦めて、龍磨もまた厨房へと消えてゆく。
これからクッキーを作るのだから、設備を下見しておきたい。
一方でラファルを除いた女性陣はというと、十分ばかし、思い出話に花を咲かせていた。
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「クッキーの、クッキークッキングコーナー!」
パンパカパーン、と自ら口で発音して、謎の企画を立ち上げる龍磨。
色んなものが、様々な形で、あちらこちらと引っかかっているが、わざわざ説明するまでもないだろう。
「あぁ、任せるぞ」
「よろしくお願いしますわ」
「……頼りにさせてもらうわ」
お菓子作りの経験がない、あるいは乏しい三人。キャロライン、みずほ、沙希は、クッキー作りの手順を龍磨に任せることにした。素人が横から口出ししても、かえって混乱してしまうだろうから。
決して投げ出したわけではない。別の方面から、アプローチすることに決めたのだ。
「そういえば……どうして急にクッキーをお作りになりたいと?」
そこが、撃退士側の感じた疑問だった。みずほが代表して、それを口にする。
依頼の上では、「プチ・ブランジェでのクッキー作りを手伝ってほしい」としか伝えられていない。何故クッキーを作るのか、作ってどうするのか。店に並べるのか、誰かにあげるのか、そういったところは一切分からないのだ。
まして、店主不在でアルバイトの少女だけが店にいる状態なのだから。
「え、えーっと、それは、その。なんて言ったらいいのかなぁ、作って、食べて欲しい人が……、あっ、友達がね、誕生日だから、そのお祝いに作ってあげたいの!」
不意打ちを食らったかのように口ごもる舞。何事か取り繕おうとしている間に言葉がまとまったようで、しどろもどろな口調が一変、後半は言い切るかのような勢いがあった。
この時点で、小紅と沙希は鋭く舞の内心を見抜いていたが、それを口にすることはない。
「まぁ、それはそれは! その方は学園に来られる前からの友人かしら? それともこちらに戻った後で友人になったのかしら?」
パッと笑みを咲かせて、みずほはどんどん話を掘り下げていく。
実はみずほも、それとなく「友達」という言葉が何を意味するのか察していた。だから、敢えて聞くのだ。
「えっと、幼馴染、かなぁ。小学校に入る前から一緒に遊んだりしてて……あ、でも、その人は高校に進学したから、最近会えてないんだけどね」
「なるほど……。では、その友達の好きなものを、クッキーに反映させてはどうだ? 味だけでなく、形もだ。動物が好きなら、動物の型を取るのもいいと思うが」
幼馴染ならば、相手の好みも我がことのように分かるだろうと踏んだキャロラインが提案する。
せっかくプレゼントするのだから、相手が喜びそうなものを最大限に取り入れた方が良いだろう。それ以上の意図は、特になかった。
だが、意外にも、小紅らが見抜いた舞の内心を、確信する情報が引き出される結果となる。
「えっと、甘いものは……そんなに好きってわけじゃなかったかも。それから、中学生の時からサッカーやってて、今も、たぶ、ん……」
語気が落ちてゆく舞の言葉。
口にする内に、それが何を意味するのか、段々と気づいてきたのだ。今言った、幼馴染の好きなものは、相手の性別を判断するには十分な情報である。
甘いものが苦手で、サッカーが好き。いずれも、どちらかといえば男性の特徴だ。
(なるほど、やはりか)
(舞が……。そう、こうやって、幸せになっていくのね)
胸の内で静かに頷く小紅と沙希。
学園にいた頃には程遠かった、青春。ようやく、舞にもそれが訪れたのかもしれない。
以前から彼女のことを知る面々にとって、純粋にそれが嬉しかった。
「ねぇ、クッキーのクッキークッキン――」
「それはもういいから、さっさと作ろうぜ。日が暮れちまうよ」
待ちくたびれた龍磨とラファルが、ボウルと泡だて器を叩き合わせるようにして音を鳴らし、急かす。
この日の夕方には完成させなければ、誕生会に間に合わなくなってしまうのだ。時間は、あまり残されていない。
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「ふむ、甘いものが苦手なら、チョコやココアは適さないな……。抹茶ならどうだろうか」
「いいかもしれませんわね! 甘さを抑えたものでしたら、ジンジャークッキーというものもありますわよ」
ようやくクッキー作りに着手した一行。甘さ控えめのクッキーといえば、味付けをどうするべきか、キャロラインとみずほが談義する。
その間、舞は生地を練っていた。味については、後からでも構わない。まずはベースを作らないことには始まらないのだ。
「うんうん、やっぱり分量は大事だね。多すぎず、少なすぎず、寸分たがわない最高のバランス、お菓子作りは分量が命なのだ」
計量カップを振りかざすように、声高くアドバイスを送る龍磨。何だか妙に気合いが入っているのは、純粋にお菓子作りが好きだからなのだろう。
実はもう一つ、これには目的があるのだが……龍磨がそれを口にすることはないだろう。
一方で、ラファルは調理器具や材料を取り出して調理台に乗せたり、オーブンの温度を管理する、いわば裏方に徹していた。会話に加わることすらせず、ただ黙々と。
(普通に笑うんだな……。一度心が折れたとしても、立ち直ればこんなものか)
何故ラファルがそこへ介入しないか。それは、観察のためである。彼女は、肉体的な強さは手に入れた。個人としての戦闘能力ならば一級の撃退士と言っても良いだろう。だが精神的な攻撃手段に関する知識は、未熟である。戦いは肉体同士のぶつかり合いのみならず、相手の精神をいかにして崩すか、という点も非常に重要となってくる。
かつて、心がズタズタに引き裂かれ、爆発とも、発狂とも言える段階まで進んでしまった小倉舞。この少女はその後立ち直り、こうしてそこらの女の子と変わらぬ表情で過ごしている。
だからこそ、もう一度この少女が、どうしようもないほどの困難にぶち当たった時にはどうなるのだろう。それが、ラファルの研究課題であった。
「えっと、じゃあ、抹茶クッキーと、ジンジャークッキーで決まりだね! 抹茶はパウダーがあったけど、じ、ジンジャーって……」
「生姜のことですわ」
「は、生姜ぁ? んなもん、冷蔵庫にゃねーぞ」
英語に詳しくない舞には、「ジンジャー」が何を意味しているのか、分からなかった。
提案者のみずほがその意味を教えると、ラファルが顔をしかめる。
いつの間にか冷蔵庫の中身を把握していたラファルは、わざわざ中を覗かずとも、生姜がないことくらい承知済みだったのだ。
「それなら、私が買ってこよう。せっかくだ、一緒に行かないか?」
「……私が? ええ、いいけれど……」
すると小紅が、沙希を伴って生姜を仕入れに出かけていった。
その間、手元にあるものだけで作れる抹茶クッキーの方に着手。後は時折龍磨のアドバイスが入ることで作業はトントン拍子に進み、買い出し班が帰ってくる頃には、抹茶クッキーはオーブンへと入っていた。
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店内には夕陽が差し込んでいた。
サッカーボールを模った二種類のクッキーが焼き上がり、龍磨チョイスのプレゼント袋に丁寧に詰めて、リボンを飾れば出来上がり。見てくれは小さいながらも、形は綺麗に仕上がった。
「結局、舞が一人で作ったわけだな」
キャロラインがそんなことを口にする。
それに舞は、キョトンと首を傾げた。
「でも、龍磨さんやラファルさんが手伝ってくれたよ?」
「いやー、それが、違うんだよね。口は出したけど、手は出してないし」
「必要なもん取り出しただけだしな」
龍磨は、舞が困った時、間違えそうになった時、そっとそれを糺してやったに過ぎない。ラファルも、器具や材料を並べただけで、極端な話ではあるが舞が自分でやっても構わないことだった。
実際にクッキーを作ったのは、舞一人だったのである。
「もっと自信を持て、舞。自分がやりたいと思ったこと、自分が正しいと思ったことは、他の誰でもない、舞が自分を信じることだ」
一つ頷いて、キャロラインが舞の肩に手を置く。
そうは言われても、急に自信が湧くわけでもなく、舞は困惑した。
「舞が自主的になにかをしたいというのは、正直嬉しかったぞ。これを機に、舞はこれから少しずつでもいいから自分の気持ちを表に出すべきだ。やりたいことは、やりたい。嫌なことは嫌、とな」
小紅もまた、同様のことを口にした。
今まで、状況に流されるように生きてきた舞。それを変えることができるのは、周囲の人間でも環境でもない。
舞自身なのだ、と。
「……もう、こんな時間ね」
「あっ、いけない! 急がないと、もう誕生会始まってるかなぁ」
時計を確認した沙希の一言で我に返った舞は、慌てて身支度を始める。
厨房は散らかったままだが、片づけている時間はない。
「後のことは任せろ。片づけはやっておく」
「それから、舞さん。わたくし、またボクシングの試合をすることになりましたの。良かったら、また見に来てくださいませ」
「あ、ありがとっ! じゃあ、いってきます!」
キャロライン、みずほの言葉を背に、舞はプチ・ブランジェを飛び出していった。
その後ろ姿が見えなくなった頃。龍磨が自らの襟を糺した。
「さ、行こうか」
「行く、というのは、どういうことだろうか」
疑問を漏らしたキャロライン。
龍磨の表情は、少々厳しく、引き締まっていた。
「考えてもみなよ。あの口ぶりだと、例の彼にはここしばらく会っていないんだ。相手が今どうしているのか、どんな人になっているのか、舞ちゃんは全く考えていない。それに、君達の言葉が、ちゃんと届いているか」
「……それで、見届けよう、というのか。いいだろう」
納得したように小紅が頷く。店の片づけこそ、後回しだ。
店の電気を消し、急いで戸締りして、撃退士経ちは舞の消えた方へと走り出した。
(後編へ続く)