○
詰所の炎は既に消え、辺りを静寂が包んでいた。
時折明滅する街路灯の光と衝突音が、未だ戦いが終わっていない事を告げていた。
アンナプルナは日下部 司(
jb5638)めがけ、上空からチャージで突進した。対する日下部はシールドでこれを受け、防ぐ。前衛である彼と弐号の背後からは、浪風 悠人(
ja3452)と浪風 威鈴(
ja8371)、壱号の3人が援護射撃を行っていたが、いずれも致命傷を与えるには至らない。
壱号は先程、悠人の要望を受け、陸号から借り受けた最後の鳥型斥候用ディアボロを北に放っていた。南下中との報せがあった、フィッツロイの動向を探るためだ。
○
一方その頃。
「おやおや、あの二人……親子ですか、そうですか」
アルゲウスが飛び去るのを見たエイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は、即座にアルジェ(
jb3603)に連絡を取った。
「アルゲウスが北西に行きました。僕は今から詰所へ向かいます。参号と肆号も北へ来るよう意思疎通を送って下さい」
「わかった。では、陸号はこちらに来てもらおう。しかし奴め、こうも早くアルバの場所を突き止めるとはな」
「母親の勘、という奴でしょうかね」
一瞬の沈黙のあと、アルジェが恐る恐るといった口調で尋ねた。
「何だと? いま何と言った」
「アルゲウスはアルバの母親です。彼女がそう口にしました、間違いないでしょう」
「それは本当なのか?」
その時、意識を取り戻した瑞樹が小声で言った。
「あのひとは女性です。わたし、抱きかかえられた時に分かりました」
「そうだったか。ならば急いで皆に伝えた方がいいな。……すまんが切るぞ。黒百合(
ja0422)から着信だ」
「分かりました。何やら込み入った事情がありそうですので、外野は外を守るとしましょうかね」
○
「もしもし、アルだ」
「戦況はどうかしらァ?」
「ふたりは救出した。だが、状況は良くない」
アルジェは今までに得た情報を黒百合に伝えた。
「なら私はァ……遊撃戦力で動くわァ。アルバ達の場所は分かるかしらァ」
「麓の真南にある林の中だ」
「あァ、そうみたいねェ。見えたわァ」
黒百合の足は速い。彼女はすぐさま、アルバを連れて逃げている神谷春樹(
jb7335)と川澄文歌(
jb7507)を捕捉した。
それを聞いたアルジェは、意思疎通で川澄と神谷にも情報を送った。
『アルゲウスはアルバの母親らしい。アルバに知らせるかどうかは、そちらの判断に任せる』
すると、アルジェの携帯に連絡が来た。川澄からだ。
「アルジェさん。もう一度だけ,アルゲウスさんを説得させてください。もうこれ以上,傷つくひとを見たくないんです」
「分かった。ただしアルバを向こうに渡すわけにはいかないぞ」
「はい。アルゲウスさんは,必ず私と神谷さんが……」
「アルバはァ……必ず守るから心配いらないわァ」
携帯の向こうから、黒百合の声も聞こえてきた。
「分かった。気をつけてな」
通信を終えて程なく、アルジェは陸号と合流した。
○
川澄らはD班と合流を果たすと、道路上でアルゲウスを迎え撃つことにした。
万一の時、いつでもアルバを逃がせるようにと、スレイプニルを召喚した黒百合が、アルバを手招きする。
「この子にィ……乗るといいわァ」
「はい。……あ、あわ」
だが、スレイプニルは乗ろうとしたアルバを振り落とした。クライムを持つ撃退士でなければ召喚獣には乗れないのだ。
それを見た堺が言った。
「江川、アルバちゃんを」
「はっ」
江川と呼ばれた堺の部下がアルバを抱えた。
「彼はバハムートテイマーよ。クライムも使えるわ」
「きゃはァ……感謝するわァ。振り落とされないでねェ……」
黒百合は二人をスレイプニルに乗せ、後ろに回らせる。
前衛が突破された時は、応援が到着まで逃げ続けるつもりだった。
程なくして、彼女達の前に翼を広げた影が降り立った。
――アルゲウスだ。
○
その頃、北の詰所前では。
「いいですか。僕達はあなたを討ちに来たのではありません」
日下部らと合流したエイルズレトラが、アンナプルナに停戦を呼びかけていた。
「いま仲間達が、アルゲウスと交渉を行っています。結果が出るまで待っていただけませんか?」
召喚したハートでアンナプルナを妨害しつつ、「その場しのぎの嘘」を駆使するエイルズレトラ。トランプ型のアウルが日下部に貼り付き、傷を癒してゆく。
だが、そんな事などお構いなしとばかりに、アンナプルナは体を屈めてエイルズレトラに突進した。
「聞き分けのないひとですねえ。ほら、これだけ一方的に攻められながらろくに反撃をしていません。こちらにあなた方を打倒する意思がないことを、信じていただけないでしょうか」
エイルズレトラは突進を回避しつつ、返す刃で「クラブのA」による束縛を試みた。
アンナプルナはまとわりつくトランプを無造作に剥ぎ取ると、剣を振り下ろす。
「戦いたいなら止めませんが……お分かりですよね? あなたでは僕を殺せませんよ」
難なく攻撃を回避しながら、エイルズレトラが苦笑を浮かべて言った。
「そのようだな」
意外にも、アンナプルナはエイルズレトラの言を素直に認めた。
それを聞いたエイルズレトラが、肩をすくめて言う。
「おやおや。それなのに、今ここで争う愚がお分かりにならない?」
「彼の言うとおりだ」
日下部が頷く。
「若しかしたら状況が変わるかもしれない、今は矛を収めないか!」
「アルゲウス様から、矛を収めよとの命令は届いてない。だから矛は収めない」
アンナプルナは撃退士達の言葉に耳を貸さなかった。
「矛を収めた私を、お前達が襲わない保障もない。私はアルゲウス様の犬だ。犬はただ命令に従うのみ」
アンナプルナはそう言うと、振り上げた剣を狙いを変えた日下部へと振り下ろした。
「ぐうっ!」
シールドで攻撃を受けた日下部の体が、地響きと共に地面へとめり込む。
アスファルトが陥没し、足下からは蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
(何て力だ)
アンナプルナの攻撃力に悠人が舌を巻いていると、壱号の意思疎通が飛んできた。
『リーダー、斥候のディアボロが落ちたわ。フィッツロイが来る』
「北に行きます!」
悠人は敵に聞こえるのも構わず即答し、威鈴と参号、肆号と共に北へ走った。どのみち動けば、嫌でも意図は伝わる。
「リーダー。気をつけて」
矢を放ちながら背中で見送る壱号の言葉に、悠人は頷いて応じた。
「ええ。絶対に全員で帰りましょう」
○
「アルゲウスさん。私,川澄文歌って言いますっ」
川澄はアルゲウスに名乗った。こちらに敵意がない事を伝えるためだ。続けて彼女は、核心を突く言葉を放った。
「アルゲウスさん。あなたはアルバちゃんの母親ですね?」
それを聞いた神谷の手に、冷や汗が滲んだ。
いま、アルゲウスは剣を抜いていない。素手のままだ。だが、それが和解を示すものでない事は、甲冑の隙間から漏れてくる、突き刺すような殺気からも明らかだった。よく見れば、彼女の魔具と思しき籠手も、鈍く冷たい輝きを放っている。
川澄は続けた。
「貴女は女性である事とかすべてを捨てて愛しい娘と一緒にいる事を選んだ。違います? 今のアルバちゃんは貴方と同じです。自分の心に従いすべてを捨てて瑞樹ちゃんと歩もうとして――」
次の瞬間、何かが弾けるような音と共に、川澄の視界が真っ白になった。次いで、アルバの悲鳴が聞こえてきた。
「アルゲウス!」
「あ。あれ?」
少し遅れて、川澄の体に激痛が走った。自分がアルゲウスの光る槍を食らったのだと、この時はじめて分かった。
「兜を――」
脱いでくれませんか、と言おうとして、再び川澄は槍を受けた。どうやらアルゲウスは、籠手状の魔具にアウルを収束させ、そこから形成した槍を撃っているようだ。凄まじい速度だった。神谷の回避射撃も、全く軌跡を捉えられない。
「立て」
アルゲウスが命じた。
「お前は決して口にしてはならない事を喋った。楽に死ねると思うな」
そう言って、アルゲウスが脱いだ兜を脇に抱えるのを見て、アルバは絶句した。
「そ……そんな。アルゲウス……」
兜の中から現れたのは、アルバとよく似た目鼻立ちの整った、美しい女性の顔だった。双眸が放つ光には、強い敵意と怒りがあった。
「娘を返してもらう」
撃退士達へと迫りくるアルゲウスを見て、川澄は叫んだ。
「皆さん、さがって下さい。さがりながら説得しますっ!」
○
「待て、フィッツロイ!」
詰所の北で、悠人がフィッツロイに呼びかけた。
「剣を収めるんだ! 俺達の仲間が――」
悠人が言い終える前に、フィッツロイは光弾で返答した。
「話すことはない」
短剣を構えたフィッツロイが言う。
「お前達はアルゲウス様の敵だ。理由はそれで十分だ」
「問答無用か!」
悠人の手から、星の鎖が放たれた。フィッツロイを地面へと墜落させ、足を止めようというのだ。
「行かせ……ない……」
「顔ぶれも戦法も同じとはな。なめられたものだ」
威鈴のスターショットと肆号の放電球が放たれるも、フィッツロイは回避。
お返しとばかり白い光弾を悠人めがけて撃った、その直後である。
「初めまして、親父の仇!」
「なに!?」
フィッツロイの背後から、黒い影が連撃を見舞った。悠人の指示で、肆号に化けて身を隠していた参号である。電気状のアウルを帯びた一撃がフィッツロイに命中し、その体に麻痺を与えた。
「ちっ……貴様ら!」
フィッツロイが威鈴が潜む林の中に白い光弾を放った。彼女はコンセントレートで狙撃ポイントを特定していたのだ。
「ぐ……っ!」
直撃を受けた威鈴は、背後の木に体を叩きつけられ意識を失った。
「威鈴!」
『心配いらない。私が救出に行く』
叫ぶ悠人に、参号と肆号の意思疎通が交互に飛んで来た。
『リーダー、この手勢で奴を止めるのは無理だ。私が殿をやる、ふたりは参号と一緒に――』
だが、肆号の言葉に悠人はかぶりを振った。
「俺が残ります」
『自棄を起こすな! お前はリーダーなんだ、最後まで生き残れ!』
「生き残りますよ。でも、あなた達も死なせません」
フィッツロイから目をそらさずに、悠人は言った。
「例え天魔の命でも、仲間の命なら守りたいんです」
「……ふん。甘いこと言いやがって」
肆号は言葉で悪態をついた。
「でも分かった、死ぬなよ」
「ええ。行って下さい、今のうちに!」
敵は麻痺が解けたばかりだ。動き出すには僅かに時間がある。
悠人は背中で仲間を見送ると、剣魂で体力を回復した。
(1秒でもいい。あがいて、足止めしてやる!)
○
「お願い。話を聞いて下さいっ」
アルゲウスの一撃を笛で受けながら、川澄は言った。
「アルバちゃん,『自分を偽ってはならない』と諭されたと言っていました……では今の貴方はどうです?」
その時、川澄の背後でアルバの声がした。
「放して! お姉さん!」
「き、君! 危険だ、動くんじゃない!」
川澄の身を案じたアルバが、スレイプニルに乗る江川の腕の中で暴れた。
「大丈夫,アルバちゃん。……アルゲウスさん,まだ話は終わっていませんっ」
川澄はアルバに向かって微笑むと、再びアルゲウスに向き直った。
アルゲウスは怒っている。自分を殺そうとするほどに。だが、それは言いかえれば、偽りない本心を川澄達に見せているという証拠でもあった。それならば、まだ負けは決まったわけではない。
(皆を笑顔にする。それがアイドルである私の矜持ですっ)
川澄の眼に強く温かい意思の光が宿り、アルゲウスの眼から放たれる氷の視線とぶつかった。
「アルゲウスさん,教えて下さい。どうしてあなたは,愛情を『毒』だなんて言うんですか?」
川澄の後ろで、神谷が頷いた。
「そうだ。君達の世界では、他者に愛情を抱くのは悪い事かもしれない。でも、本当にそれだけか? 僕には、どうしてもそうは思えない」
神谷の脳裏にアルバの顔が蘇った。アルゲウスを死なせたくないがため、自分自身を撃った時の顔が。
「愛情が苦しみしか与えなかったなんて嘘だ。嘘だって言ってくれ。アルバはあなたのために、自分が傷つく事も厭わなかった。それは貴女がアルバに愛情を注いだ結果だ。そんなアルバの想いが、笑顔が、愛情が貴女の喜びにならなかったなんて、お願いだからそんな悲しいことは言わないで下さい……」
涙交じりの声で、必死に訴える神谷。それは彼の偽らざる本心であり、言葉だった。だが――
「ぐ……っ!」
「愛情は弱さとなる。魔界では、弱者に存在価値はない」
アルゲウスは神谷の言葉に、光の槍で応じた。
「アルバを儲けて、あの子を愛しいと感じるようになって、私は弱くなった。御家の敵を斬る時、取るに足らない者共を踏み潰す時、いつもアルバの顔が脳裏をよぎるようになった。気がつけば私は、あの子を触れなくなっていた。目を見る事もできなくなった」
「だから……アルバちゃんには,同じ気持ちを味合わせないために……?」
アルゲウスは答えなかった。槍が飛んだ。
その光景を後列から見守りながら、黒百合は考えた。
(いざとなったら……ランカーで逃げるしかないかしらねェ……)
説得を続ける川澄の体には、確実にダメージが蓄積されている。堺と神谷の支援にも限界がある。
もう少しで、黒百合の召喚時間も切れる。その隙に、川澄を担いでアルゲウスにランカーを撃ち込み、後ろに下がった後で再度召喚獣を再び呼び出すか……彼女の脳裏に、そのような考えがよぎった。
(最初から説得の見込みがゼロならァ、さっさと行動できるんだけどォ……)
アルゲウスは少しずつだが、アルバと撃退士達の前で自分の心中を語り始めていた。川澄と神谷の言葉と態度に、知らず知らずのうちに触発されたのかもしれなかった。
あと少しで学園の応援も到着する。それまで瑞樹とアルバを抑えておけば、この任務は成功なのだ。アルゲウスを説得できるに越したことはないが、それを仲間の命と天秤にかける気は黒百合にはなかった。
(もう少し。もう少しだけ、見守りましょうかァ。何があっても、すぐ動けるようにしながらねェ……)
○
アルジェと陸号、そして瑞樹もまた、林の中から川澄の説得を見守っていた。
「あの悪魔、何がしたいんだ? 撃退士を殺したいのか、アルバを取り返したいのか、訳が分からない」
「恐らく、奴自身にも分からないのだろう」
陸号の呟きに、玉繭を纏ったアルジェが返した。
「アルバの心は、既に魔界にはない。自分の正体もばれてしまった。たとえここでアル達を皆殺しにしてアルバを取り戻しても、皿からこぼれたミルクは戻らない。奴は、その現実を受け入れられずにいるのだろうな」
その時、アルジェの腕の中で瑞樹が言った。
「天使さん……」
「何だ?」
林からは出られないぞ、とアルジェは釘を刺した。彼女の仕事は瑞樹を守りきり、両親に会わせる事なのだ。
「分かってます。でも……」
「今はだめだ。アル達はここで、3人を見守るぞ。……それと陸号、分かっているな」
そう言ってアルジェは、陸号に牽制の視線を送った。仇討ちには行かせないという意思表示だ。
瑞樹をそっと抱きしめながら、アルジェは再び視線を川澄らの方へ戻した。
○
アルゲウスは攻撃の手を緩めなかった。
しかし、その瞳の映す感情は、敵意をそのままに、怒りは悲しみへと取って代わられつつあった。
「私のような過ちを犯さないように。二の轍を踏まないように。情に動かされる事無く、全てにおいて完璧であるように。そうでなければ、あの世界では生きている資格すらないのだ。だがアルバは誤った。人間に愛情を抱いてしまった……」
「間違えることの,何がいけないんですかっ」
川澄がアルゲウスの目を見て言った。槍が飛んだ。
展開したシールドは、次々と襲い来る槍の前には殆ど無力だった。堺の支援によって回復した生命力はアルゲウスの一撃で瞬時に吹き飛ばされた。だが、それでも川澄は立ち上がって訴え続けた。
「私はアイドルです。歌って踊って,皆を笑顔にするのが仕事ですっ。アルゲウスさん,歌ったことはありますか? 踊ったことはありますか?」
起死回生で立ち上がった川澄が、アルゲウスに語りかけた。
「歌や踊りって,最初から上手に出来る訳じゃないんです。何度も失敗して,自分のどこが悪かったか考えて,直して上達したらまた間違えて,仲間の皆に助けられて,お客さんの声援に支えられて……それを何度も繰り返して,上手くなっていくんです」
アルゲウスは何も言わない。魔具が唸りをあげ、再びアウルが光の槍となって飛んだ。
「失敗しちゃいけない,間違えちゃいけない,ひとりで全部完璧に,なんて……そんなの,つまらない……」
ふらつく足取りの川澄に、更に槍が飛んだ。とうとう川澄は膝をついた。だが、それでもなお、彼女はアルゲウスに語りかける事をやめない。
「私は,アルバちゃんの歌を聞きたいんです。間違えても失敗しても,それでもアルバちゃんが歌う姿を見たいんです。瑞樹ちゃんや、私の仲間達と一緒に歌う姿を。アルゲウスさんとだって……」
川澄は息も絶え絶えに言葉を紡いだ。既にその体は満身創痍だ。もう一度槍が放たれれば、確実に川澄は死ぬだろう。だが、まだ倒れるわけにはいかない。この言葉だけは、何としてもアルゲウスに伝えなければいけなかった。
「お願いします,アルゲウスさん。どうかアルバちゃんには,アルバちゃんの歌を歌わせてあげて……」
全ての言葉を言い終えると、川澄はその場に崩れ落ちた。辛うじて意識は残っていたが、体は指一本動かなかった。
「……もういい」
川澄の耳に、砥石で包丁を研ぐような音が聞こえた。アルゲウスが剣を抜く音だった。
○
詰所の前は、混戦の様相を呈していた。
負傷して戻ってきた威鈴達の姿を見て、日下部は北の状況を即座に察した。
「皆! フィッツロイは?」
「止められ……なかった……もうすぐ……奴が……来る……」
「リーダーは殿に残った。私達を逃がすために……」
「一人で!? なんて無茶を」
そこへ、壱号の意思疎通が飛んだ。
『日下部さん、前!』
直後、アンナプルナが弐号の体を掴んで日下部に投げつけた。日下部が受け止める。
(倒れない。倒れてたまるか。俺の命は、仲間達のために……)
仲間達を守るため、自分がここで下がるわけにはいかないのだ。
そんな日下部の眼前に、剣を構えたアンナプルナが迫る。
弐号を脇へと逃がし、剣を構える日下部。
クロスカウンターの構えだ。狙うはアンナプルナの首筋、威鈴の一撃で負傷した箇所である。
命中。だが、日下部が紙一重で急所を外すのを見て、アンナプルナは激昂した。
「貴様……なめるな!!」
アンナプルナの咆哮がヴァニタス達と日下部の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶった。朦朧となり体勢を崩した一瞬をついて、アンナプルナが撃退士の包囲を突破する。
「やれやれ。魔界の犬は騒がしいんですねえ……おっと」
エイルズレトラは背後から撃たれた光弾を空蝉で回避した。フィッツロイの攻撃だ。
「待て、フィッツロイ!」
追いかけてきた悠人の封砲を振り返りもせずに回避すると、フィッツロイはアンナプルナに言った。
「何をしている。早くこいつらを片付けて、アルゲウス様と合流するぞ」
「ああ、分かった」
「やらせませんよ」
すかさずエイルズレトラがハートでアンナプルナの行く手を塞いだ。
さらにフィッツロイを「クラブのA」で束縛しようと試みるも、こちらは回避されてしまう。
意識を取り戻し、日下部とヴァニタス達が立ち上がった。だが、一度崩れた前線を立て直すことは困難だった。既に劣勢は覆せないものとなり、撃退士達は完全に防戦へと追い込まれた。
○
「私はお前達を許せない」
剣を手にしたアルゲウスが、ぽつりと呟いた。
「アルバは私の全てだった。アルバと離れることに、私は耐えられなかった。アルバの笑顔を見るたび、いつか来る別れの時が、少しでも遠くあって欲しいと願った。その前に一度でいい、あの子に『母さん』と呼ばれたかった。だが……」
自らの魂を搾り出すような声で、アルゲウスは言った。
「もうアルバは私の元には戻らない。お前達人間が、私の元からアルバの心を奪っていったからだ」
鎌を手に、跳躍の体勢に入った黒百合を、神谷がそっと制した。
神谷は川澄に駆け寄ると、その体を抱き起こし、応急手当を行いながら言った。
「それは違います。僕も川澄さんも瑞樹ちゃんも、アルバの心を奪ってなどいません」
神谷は続けた。
「なぜなら、アルバの心はあなたのものでも、僕達のものでもない。アルバ自身のものだからです。アルバは瑞樹を友として選び、彼女と共に生きることを自ら選んだ。だから僕達はふたりを守り、今こうしてあなたを説得しているんです」
それを聞いたアルゲウスはかぶりを振った。
「この世界に、あの子を受け入れる者も場所も、あるはずがない。あの子は生まれた時から、その出自を避けては生きられない。望むと望まざるとに関わらずな」
アルゲウスは続けた。
「あの子から魔界の情報を得ようとしても無駄な事だ。あの子は家の外にある世界など、何ひとつ知らない。人間の手に落ちたと知れた時点で、間違いなく御家は、あの男は、アルバを見捨てる。あの子を守れるのは、私だけなのだ」
「いい加減にしろ! 僕達はそんな下らない事のためにアルバを守ったんじゃない!」
神谷が声を荒げた。今まで彼が胸にしまいこんできた言葉が、堰をきったように溢れ出した。
「今までアルバがどんなに恐ろしく心細い思いでいたか、あなたには分からないのか。人間の世界にひとり迷い込み、武器を持った僕達撃退士に囲まれても、彼女は涙ひとつ流さずに瑞樹を助けてくれと言い、ヴァニタスに襲われた時にも武器を手に立ち向かい、あなたがアルバと瑞樹をさらっても、命をかけてアルバは自分の信念を貫いたんだ。彼女は強い。立派な大人だ。僕や川澄さんに八つ当たりしかできない、あなたなどよりずっと!」
それを聞いて、意識を取り戻した川澄が懇願する視線をアルゲウスに送った。
「アルゲウスさん。母として,娘の生き様を認めてあげて。貴方の娘はもう,立派な誇り高き悪魔なのですから」
神谷と川澄にアルゲウスは問うた。
「何故だ……お前達は何のために、そこまでする……?」
「それは……」
川澄は、アルゲウスの目を見て言った。
「あなたのため。そして,アルバちゃんのためです」
「私とアルバの……ため……」
アルゲウスの手から、剣が落ちた。
○
「南の仲間に伝えてくれ。もうここはもたない。早く退がるように――」
日下部が壱号にそう言いかけた時のことだった。
「……アンナプルナ、フィッツロイ。剣を下ろせ」
アルゲウスの声が、山中に響いた。戦いの終わりを告げる言葉だった。
○
アンナプルナとフィッツロイはすぐさま剣を収め、アルゲウスの元に向かった。
程なくして撃退士とヴァニタス達も、川澄達の傍へと集まってきた。
「お兄さん……お姉さん……」
「僕達なら大丈夫。アルバ、君のお母さんに声をかけてあげるといい」
神谷の言葉に頷いた川澄も、アルバの頭をそっと撫でて言った。
「アルゲウスさん。貴女の正直な思いを,伝えてあげて下さい」
「母さん……あげる。持って行って」
エイルズレトラから返してもらったブローチを、アルバは差し出した。
「アルバ……」
それを見たアルゲウスもまた、鎧の中からブローチを取り出し、アルバに差し出した。
ブローチを受け取ったアルゲウスは、ほんの一瞬、ふたりに向かって謝意の眼差しを向けると、娘の体を抱きしめ、ぽつりぽつりと語りかけ始めた。
「今まで……私はあなたを欺いてきました。私自身も」
「いいよ。許してあげる」
「ありがとう」
アルゲウスの目に、涙がにじんだ。
「母の事は心配いりません。あなたはまず、自分が生きる事を考えなさい。命を捨てるような真似は、絶対に駄目ですよ」
「うん」
「人間の中には、悪魔であるあなたを憎む者も多いはず。でも、忘れてはいけません。あなたは彼らの世界に生きる事を、あなたの意思で選んだのです。彼らの憎しみに、憎しみで応える事はしないように」
「うん」
「悔しい思いをしたら、強い悪魔となって見返しなさい。人間達から、畏怖と尊敬を得られるように。くれぐれも、陰で嘲笑や侮蔑を受けるような悪魔になってはいけませんよ」
「うん。わかった」
「よろしい。体には気をつけなさい」
そう言ってアルゲウスは今一度アルバを強く抱きしめると、川澄と神谷の元に歩いて来て膝をつき、頭を下げた。
「許してほしい。償える事なら何でもしよう」
川澄は言った。
「償いは,いりません。でもひとつだけ,約束して下さい」
「何だろうか」
「生きて下さい,必ず。あの子と一緒に歌う時が来るまでは」
「分かった。約束しよう」
アルゲウスはそう言うと、兜を被って悪魔の翼を広げた。別れの時が来たのだ。
部下達と共に空へ飛び上がったアルゲウスの名を呼びながら、川澄は言った。
「人間界へ来た合間には,アルバちゃんの所へ顔を出してあげて下さい。貴女はあの子の母親なんですから。きっとアルバちゃん喜びますよ」
足元を見下ろすアルゲウスと、堺に介抱される川澄の目が合った。
アルゲウスは静かに微笑むと、部下と共に山の向こうへ飛び去った。
そんな目の前の光景を、黙って見ていた者がいた。陸号である。
「……ちっ」
「どうした?」
舌打ちする陸号に、アルジェが尋ねた。
「仇討ち、しそびれちまった」
「心残りか?」
「いいや。あっちに行ったら、親父には頭下げて詫びることにするよ」
「うむ、ならばいい。……どうやらアル達にも、迎えが来たようだな」
留置所のある南の方角から、撃退署の車両と思しき無数の赤い回転灯が見えた。
○
それから数日後。
三国山の依頼に関わったメンバーの何人かが、学園の面談室に集められた。その中には、学園に保護されたアルバとヴァニタス達の顔ぶれもあった。
「忙しい所をすまない。先日の件で何点か連絡があってな。メンバーの数人には既に通達したが……まあ座ってくれ」
そう言って巳上もソファに座り、集まった面々に連絡事項を伝えていった。瑞樹が無事に両親と再会を果たしたこと。B班のメンバーが遺体で発見されたこと。堺から協力感謝の言葉が届いたこと……
連絡をひととおり伝え終えると、巳上は話を続けた。
「さて、次だ。本日をもって、アルバは久遠ヶ原の正式な生徒となった」
巳上の言葉に、アルバが頭を下げた。
「皆さん、よろしくお願いします。それと、神谷……先輩。これ」
そう言って、アルバは借りていた銃を神谷に手渡した。
「心配かけてごめんなさい」
「気にしないでいい。でも、あんな事は二度としちゃ駄目だ。僕の銃でアルバが死んだら立ち直れないところだった。これからアルバは僕の後輩だから、戦い方だけじゃなくて人間界の事とか色々教えるよ。まずは自分を撃たない事からね」
「うぅ……はい、先輩」
神谷に叱られたアルバが赤い顔で項垂れると、場に温かい空気が流れた。
巳上が咳払いをして続けた。
「次に陸号――星野 睦美だが。彼女は来月から、新たな主である三連沢 時雨(jz0285)教官と共に、種子島へ赴任する事が決まった」
「ま、そういうことだ。しばらく会えないけど、ちゃんと主と一緒に頑張ってくるよ」
少し寂しそうな顔で、睦美は笑った。
「次に参号――香川 弥生についてだ。彼女の切断された右腕は、手術で接着できたのだが……」
「後遺症は残るってさ。これ以上、指は曲がらない」
言葉を継いだ弥生が、右手の指先を鷹の爪のように曲げた。
「そうか……」
沈んだ表情の日下部の肩を、弥生が叩いた。
「そんな顔しないでくれ。元はと言えば私達から仕掛けたんだ、やられた私が悪いのさ。それに……」
「それに?」
「ペンは握れるからな。新しいご主人様に、人間の文字を教える分には何の問題もないよ」
弥生の言葉に、巳上が頷いた。
「聞いての通りだ。彼女は、アルバを新たな主に持った。他の4人も、これからは新たな主の庇護の下、学園の生徒として生活する」
「皆さん、どうぞよろしくお願いします」
頭を下げる詩音の隣で、蓬が言った。彼女達が壱号・弐号と呼ばれたのも、既に過去の話だ。
「日下部さん、三国山ではありがとうございました。あなたに守っていただかなければ、死んでいました」
肆号――五十鈴も悠人に向かって、多少ばつが悪そうに言った。
「私もそうだ。あんたが殿やって逃がしてくれなかったら、死んでたと思う。山で戦った時は、傷つけちゃってごめん」
「いいんですよ。俺は当然の事をしたまでです」
笑顔で応じる悠人に、日下部も頷いた。
「これからも、よろしく。同じ学園の仲間、同じ撃退士として頑張ろう」
そう言って日下部は5人にエールを送った。
彼女達の未来が幸せであるようにと願いながら。
「さて、最後に。君達宛てに手紙が届いている。佐藤瑞樹からだ」
そう言って巳上は、1通の封筒を差し出した。
手紙には瑞樹の字で、アルバの安否を気遣う言葉と、撃退士達への感謝の言葉が綴られていた。
「今度家族で学園に行く予定です。その時に、アドレスを交換しましょう……だってさ」
弥生がそれらをアルバに読み聞かせると、巳上が言った。
「アルバ、手紙は君が持って行くといい」
アルバは無言で頷くと、川澄と神谷を見て言った。
「お兄さん、お姉さん、弥生さん。後でお返事を書くの、手伝ってくれない?」
「もちろんさ」
「スマホも必要だね。後で一緒に選びに行こう,アルバちゃん」
それを見て、巳上が言った。
「用件は以上だ。……皆、ご苦労だった。本件は、これで解決とする!」
○
かくして、三国山の戦いは終わった。
そして今日も、久遠ヶ原学園の撃退士は、世界を脅かす天魔と戦っている。
新たに加わった仲間達と共に――
―了―