●
瑞樹は混乱していた。
瑞樹が最初にアルゲウスを見た時、彼女はその悪魔を男だと思った。何故なら……
「アルバ様。残念ですが、そのご命令には従えません」
鎧の中から聞こえてきたのが男の声だったからだ。
次いで聞こえたのは、動揺したアルバの声だった。
「やめろ、アンナプルナ! 瑞樹に手を出すな!」
気づいた時には、瑞樹はアルゲウスの横にいた悪魔に体を押さえられていた。
「ご安心を、アルバ様。私もアンナプルナも、その少女に手は出しません」
「それなら、早く彼女を――」
だが、次に瑞樹が目にしたのは、アルゲウスがアルバを取り押さえる光景だった。
「な……何をする! 放せ、アルゲウス!」
「その少女をこちらに」
襟首を掴まれ、引き渡される瑞樹。
そしてアルゲウスの体に触れた時、瑞樹は気付いた。
(この悪魔は、女性だ)
闇の翼を広げ、ふたりを抱えて南へと飛ぶアルゲウス。
爆発する詰所が、瑞樹の視界から遠ざかっていった。
●
浪風 悠人(
ja3452)と浪風 威鈴(
ja8371)、日下部 司(
jb5638)が詰所に辿り着いた時、彼らに近付いてくる影があった。
(赤い髪……アンナプルナか!)
大きい。撃退士の中で最も背の高い悠人よりも、さらに頭ひとつ大きかった。
「呑気な到着だな、撃退士」
敵の出現にも驚いた様子を見せずにアンナプルナが言った。爆発の熱風で、肩で揃えた悪魔の赤い髪がなびく。
両目から発せられる威圧の眼光が、撃退士達に注がれた。
「フィッツロイに傷を負わせたのはお前達か」
「ああ、そうだ」
悠人が獄炎珠を手に取り、言った。
「俺の大事な人を傷つけたお前達を、俺は絶対に許さない」
「甘いことだ」
アンナプルナの目が笑う。前に進み出た日下部が大剣ディープフリーズを手に取り、戦闘体勢を整えた。
それに応じるように、仲間達も武器を構える。
威鈴は既に闇に紛れ、敵に狙いを定めていた。
「空から援護するわ。弐号、日下部さんをお願いね」
「分かりました」
撃退士達の上で、翼を広げて空を舞うふたつの陰があった。壱号と弐号である。
-
数刻前。
詰所襲撃の一報を受けたとき、撃退士達は交換条件つきでヴァニタスの拘束を解いてほしいと堺に申し出た。
事態は一刻を争う。少しでも人手が必要だった。
「瑞樹ちゃん,アルバちゃんの安全を第一にしてもらえるなら仇討ちは止めません。でも,もし悪魔の皆さんが説得に応じた時は,仇討ちは諦めて下さい」
川澄文歌(
jb7507)の言葉に、鍋島 鼎(
jb0949)が首肯する。
「それと、留置場にいる参号を説得して、協力を呼びかけてもらうこと……ですかね」
もし陸号が現われたなら彼女の説得もお願いしますと、鍋島は付け加えた。
「一緒に戦って……くれるなら協力……してほしい……」
威鈴もまたヴァニタス達に頭を下げると、
「情けなくて……良い……そう言ってられないもの」
そう言ってD班のメンバーを見つめた。
「条件を呑んでくれるなら、あなた達の拘束を解いて、戦力として迎えようと思います」
悠人も力強く頷き、ヴァニタス達を見た。仇討ちに理解を示し共闘を望んでいるようだ。
ほんの少しの沈黙の後、壱号は首を縦に振った。
「……分かったわ。条件を呑んで、あなた達に協力します。ふたりとも、いいわね」
壱号の言葉に、弐号と肆号が頷いた。
-
「この戦い……必ず勝つ!」
手にした大剣の放つ冷気が、日下部の頬に伝わった。
僅かな明かりの灯る闇の中で、視線と牽制、決意と殺意が濃縮されはじめる。
戦いの火蓋が切られるのは、間もなくだ。
●
その頃、南行きのメンバーも移動を始めていた。
アルジェ(
jb3603)は森の中を飛行で移動しつつ、携帯で堺と話していた。
「すまないが、北の敵を頼まれてくれると嬉しい」
「フィッツロイね」
「ああ。戦闘中に奴が南下してくると厄介だ。動きがあったら伝えてくれ。危ない時は無理せず退くんだぞ」
「了解よ」
「では、行きましょうか」
「さてさて。何やら事情が込み入ってるようでさっぱりわかりませんが、助っ人として来た以上は、それなりの働きはしなければ、ねえ」
神谷春樹(
jb7335)とエイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は南の方角へと向かった。その後から鍋島と肆号、サードアイを着けた川澄が続く。
「……よし。運がいい」
肆号の呟きを聞いた鍋島が振り返る。
「どうしました?」
「参号と連絡がついた。陸号も一緒だ。ふたりとも協力すると言っている」
「それは何よりです。ところで肆号、それは何ですか?」
鍋島は、肆号の背負う白い包みを指差して言った。
「届け物さ。参号にね」
そこへ、アルジェの意思疎通が届いた。
『神谷と川澄から連絡だ。向こうは準備完了だそうだ』
道路上の3人が頷く。
「おふたりが説得を試みたいと言っていました。その間に、私達は準備をしましょう」
「そうですね」
鍋島がロセウスを拳に巻きつけ、エイルズレトラがヒリュウの「ハート」を召喚する。アルジェは森の南で配置についていた。アルゲウスがふたりを抱えて南に逃げないようにするためだ。
「ところで、アルジェさん。アルバの事なのですが」
携帯で話す鍋島に、森の中からアルジェの意思疎通が返ってきた。
『分かっている。魔界に帰るかどうか、意思を確かめろと言うのだろう? アルも同じ考えだ。彼女自身の口から、はっきりとした答えを聞いた方がいいと考える』
「ええ。私もそう思います」
頷く鍋島。
(肯定が返るなら、アルバとの縁はここまで。けれど、否定が返るならば……)
そう思った矢先、撃退士達の耳に川澄の声が聞こえてきた。忍法「霞声」によるものだ。
「皆さん,少しだけ時間を下さい。争わずに済むなら,それが一番だと思います」
●
道路に降り立ったアルゲウスがふたりを降ろすと、アルバは瑞樹を庇うようにしてアルゲウスに詰め寄った。
「どういうことだ、アルゲウス。説明しろ」
「私共はアルバ様をお迎えにあがったのです」
「迎え? 僕は口封じにでも来たのかと思ったぞ」
アルゲウスはかぶりを振った。
「滅相もございません。閣下――アルバ様のお父上は、毎日のように、アルバ様を案じておいでです」
それを聞いたアルバは苦笑した。
「それで? 僕と瑞樹をさらったのも、その優しい父さんの命令なのかな?」
「いえ。私の判断です」
「君の?」
「アルバ様の救出にあたり、閣下はひとつの命を下されました。『万一、あれが人間に情を抱いているならば、それを断ち切るまでは戻ることを許すな。始末は必ず、あれの手でつけさせよ』と」
アルゲウスの言わんとする事を理解し、アルバの顔から血の気が引いた。
「アルゲウス……!」
「これをお使い下さい。あなたの意思を示していただきます」
アルゲウスは小ぶりの剣を鞘から抜くと、地面に突き立てた。
●
詰所の火が備え付けのガスに引火し、派手に爆発した。
それが合図だった。
壱号の矢が、空からアンナプルナに襲い掛かった。
アンナプルナは左腕で攻撃をガード。腕の装甲に壱号の矢が突き刺さる。無造作に腕を一振りすると、矢が次々と地面に落ちた。頑強な鎧で身を覆う彼女にとって、この程度の攻撃は物の数ではないようだ。
「弱い……から……必死になるんだ」
威鈴がクイックショットを放つ。狙いは鎧から僅かに露出した上腕部だ。
威鈴の矢と弐号の盾が同時に命中。アンナプルナは微動だにしない。
その時、ふいにアンナプルナが体を屈めた。
(まずい!)
思考と同時に、神速で弐号の前に割って入る日下部。既に敵は目の前だ。日下部の一撃がアンナプルナの胴に入るも、突進の勢いは微塵も衰えない。
「ぐっ……」
日下部と弐号は、後方へと吹き飛ばされた。
「……申し訳ありません。お怪我は?」
「大丈夫」
日下部がアンナプルナのいた方向へと視線を戻す。だが、そこに敵の姿はない。
(上か!)
果たして上空では、飛び上がったアンナプルナに悠人の星の鎖が絡まるところだった。だが、アンナプルナは巻きついた鎖を何の造作もなく引きちぎり、再び空中で体当たりの体勢を取った。狙いは悠人である。
日下部は内心で舌打ちした。この距離とタイミングでは神速は間に合わない。悠人が耐えてくれる事を祈りつつ、弐号に声をかけた。
「君は確か、守りを固めるスキルを使えたよね」
「……はい」
「あいつをこのまま自由にするわけにはいかない。俺と君が壁になって、奴を食い止める。出来そうか?」
「もちろんです、日下部さん」
不動の盾で守りを固めた弐号が頷く。
ちょうどその時、アンナプルナが悠人に体当たりを繰り出した。威鈴が回避射撃で悠人を援護するも、敵の軌道は全く反れる気配がない。
「潰れろ、撃退士!」
ロセウスで防御する悠人をアンナプルナが押し潰す。轟音と共に、周囲に土煙が舞った。
(急がなければ)
日下部はそう思い、弐号の方を向いて言った。
「行こう。俺が敵の体勢を崩す」
アンナプルナへ駆け寄る日下部の脳裏に、ふと出発前の光景が蘇った。
-
それは、日下部がヴァニタス達と共に詰所へと走り出した時のことだった。
「協力ありがとう。でも、ここを君達の死に場所にしないでくれよ……約束してくれ」
「分かったわ、約束する。あの、それと……」
「どうしたんだ?」
「あなたの名前は、日下部でいいのね?」
「ああ。日下部 司だ」
壱号は一瞬だけ間を置いて、決心したように口を開いた。
「朝比奈 詩音。……私の、本当の名前よ」
壱号の言葉に、日下部は面食らった。
「俺の言葉、覚えていてくれたのか」
その時、彼の背後からも、そっと呟くような弐号の声が聞こえた。
「北沢 蓬です。それから……」
少し間を置いて、肆号が意思疎通で語りかけた。
『歌川 五十鈴だ』
「……そういうこと。よろしく、日下部さん」
「ああ。こっちこそ」
-
(もう誰も死なせない。絶対に生きて帰るんだ。全員で!)
大剣を手にした日下部が、弐号と共にアンナプルナに襲いかかった。
●
「迎えに来た悪魔さん? 瑞樹ちゃんはこちらに渡してもらった上で,アルバちゃんを連れてこのまま魔界へ帰ってもらうことは出来ませんか?」
アルゲウスからの返事はない。
明鏡止水で身を隠しながら、川澄は霞声で説得を続ける。隣には、阻霊符を展開した神谷も一緒だ。
「アルバちゃんにとって,瑞樹ちゃんはお友達です。最初に私の仲間に出会った時も,最初に瑞樹ちゃんを助けてって言ったくらい,大切なお友達なんです」
川澄はその場に居合わせなかったが、神谷の言った事だ。間違いなく事実だろう。
「ひとつだけ,教えて下さい。アルバちゃんを大事に想ってるはずの貴方がなぜこんな事を?」
だが、その時。
ふいに、アルゲウスは空いた右手を宙にかざした。
「……! 川澄さん、伏せて!」
川澄さん、と神谷が言った時には、川澄の体は神谷に引き倒されていた。川澄が頭を上げると、1秒前まで川澄のいた場所の背後の木が、アウルの槍に貫かれていた。
「そこの悪魔、よく聞け!」
神谷はアルゲウスに向かって叫んだ。
「お前はアルバの迎えじゃないのか? お前が瑞樹ちゃんを浚わなければ、俺達は何も言わずに見送るつもりだった。それが俺達とアルバとの約束だったからだ!」
アルゲウスを問い詰める神谷の言葉が、闇の中に響く。
「だけど、今はアルバを帰すべきなのか疑わしい。彼女は本当に家で愛されてるのか? どうして彼女の友達を傷つけて悲しませるようなことをする!」
だが、アルゲウスからの応答はない。
「……あの者達の言葉は、本当ですか」
アルゲウスはアルバに向き直り、問うた。
「うん……本当だよ」
「ならば尚更、あなたはこの少女を殺さなければなりません」
アルバは俯いた。それと同時に、アルバの心に押し込まれていた言葉が、堰を切ったようにあふれ出した。
「アルゲウス。どうしてこんな事をするんだ」
アルゲウスは答えなかった。
「君はいつも言ってたじゃないか。心から信ずるに足ると思えた者は、決して手放すなって。そんな相手ができたのなら、自分も嬉しいって」
「仰せの通りです」
「アルゲウス。君は僕にとってそういう存在だ」
「……光栄です」
「でも、瑞樹も僕にとって、そういう存在なんだ」
「……」
「なのに君は、その瑞樹を殺せと言う。なぜなんだ……」
「アルバ様。それは、あなたが人間の心に毒されておいでだからです」
アルゲウスは言った。
「私達悪魔の世界には、赦しも共存も存在しないのです。あなたのように他者を想い慈しむ心をお持ちのまま魔界にお戻りになれば、あなたは必ずやそこに付け込まれ、深く傷つき、苦しむことになります。そしていつかは、その身を滅ぼす事になるでしょう。愛情という名の毒によって」
「愛情と言う名の、毒……」
「そうです。私はかつて、その毒に蝕まれ、苦しみました。いえ、今も苦しんでいます。あなたには、私と同じ苦しみを味わって欲しくありません」
「……僕は、瑞樹を必ず家に返すって約束した。だから、僕には殺せない」
「……」
「僕は魔界が恋しいわけじゃない。でも、僕が戻らないと、君が悲しむと思って……」
とりとめのない言葉を並べるアルバ。ふいにアルゲウスが、口を開いたアルバの言葉を遮った。
「もう結構。アルバ様、あなたは嘘をついておいでです」
「ぼ……僕は嘘なんかついてない!」
「いいえ、あなたは嘘をついておいでです。私にではない、あなた自身にです」
アルバは口を閉じ、黙り込んでしまった。
「私は教えたはずです。他人を偽るのは良い、だが自分を偽ってはならないと」
アルゲウスは鎧に取り付けたブローチを外し、剣の柄にかけて言った。
「私は賊を追い払って参ります。その間にご決断下さい。もしも、その時までに答えが出なければ……閣下からはお咎めを受けるでしょうが、やむを得ません」
アルゲウスはアルバと瑞樹に背を向け、剣を抜いた。
「私がその少女を斬り、あなたを力ずくで連れて帰ります」
●
「やれやれ。交渉決裂ですか」
剣を手に向かってくるアルゲウスを見て、エイルズレトラが溜息をついた。
「そのようですね。……肆号、お願いします」
「分かった」
肆号が頷くと同時に、留置場から現れた参号と陸号がアルゲウスの右側を塞いだ。
それに合わせて、撃退士達もアルゲウスを取り囲むように動く。隙あらば、アルバと瑞樹を奪還するためだ。
しかし、アルバ達と距離を置きながらも、アルゲウスはアルバと瑞樹をしっかりと剣の間合いの中に収めていた。撃退士達が救出に動けば、すぐさまアルゲウスはその者を斬り捨てるだろう。
「どうしました? 背中ががら空きですよ」
挑発とともにアルゲウスの背後から放たれるハートの攻撃にも、アルゲウスは全く動じない。命中こそしているものの、大したダメージが入っていないのは明白だった。
「アルバ。一つだけ聞かせて下さい。あの悪魔達はあなたを迎えに来ています……あなたは一緒に、帰りたいのですか?」
じりじりとお互いの間合いを詰めながら、鍋島がアルバに声をかける。
「僕……僕は……」
「考える時間が要るなら少しだけ作ります。でも、早めにお願いしますね」
言い終わると同時に、ヴァニタス達と呼吸を合わせた鍋島がアルゲウスの懐に飛び込んだ。狙うは顎である。
命中。だが、アルゲウスの体は微動だにしない。
背後からヴァニタス達も兜めがけての一撃をくり出す。だが、こちらも鈍い金属音と共に攻撃が弾かれた。
「ぐふっ!」
アルゲウスの爪先が、鍋島の鳩尾にめり込む。
鍋島の体が放物線を描いて宙を舞った。
アルゲウスは前方のエイルズレトラを凝視したまま、右手をかざしてアウルの槍を形成。瞬時に体を捻り、背後からアルバと瑞樹の救出を試みるアルジェ目がけて放つ。
「ぐっ!」
アウルの槍に射抜かれ、道路脇に墜落するアルジェ。
その光景を、瑞樹とアルバは成す術なく見つめるしかなかった。
「アルバ……」
「み、瑞樹……」
「私、もうすぐ死んじゃうんだね」
「そんなこと!」
「ううん……いいの。聞いて、アルバ」
一瞬だけ躊躇ったのち、瑞樹は決意したように口を開いた。
「私ね……本当はもっとあなたと一緒にいたかったの」
「え……」
「撃退士の人に聞いたの。私達がヴァニタスに襲われたとき、あなたが体を張って止めたって」
瑞樹に言われてはじめて、アルバはその時の事を思い出した。
「それを聞いた時、私は嬉しかったの。勇敢で優しいアルバと一緒に、これからも一緒に生きていければいいって思った」
「じゃあ、どうしてあんなことを言ったんだ!」
アルバは声を荒げた。少し前に瑞樹が何気なく言った一言が、アルバの心には棘となって刺さっていたのだ。
――友達って言うには、まだ早いかもと思うけど。
「あの言葉を聞いた時、僕がどんなに悲しかったか。あの時君が、友達だからって、行かないでくれって言えば、僕は何も迷わなかったのに!」
「それはね、アルバ。……あなたの気持ちが分からなかったからなの」
「え……」
「友達ってね、片方だけがそう思ってるだけじゃ駄目なの。私があなたを友達と思うだけじゃ、友達じゃないの」
「ばか……」
アルバの目から涙がこぼれた。
「瑞樹。君は僕の友達だ。僕の最初で最高で、誰一人代わりのいない友達だ……」
「ごめんねアルバ……うん、私達は友達だよ……」
魔界に戻るか、人間界に残るか。もはやアルバの心に迷いはなかった。
(僕が……僕が何とかしなくちゃ)
アルバは涙を拭って考えた。泣いているだけでは、事態は何も変わらない。
(どうすればいい。僕には何が出来る。何が……)
そう考えた矢先、アルバの目に、アルゲウスの剣の柄にかかったブローチが映った。
(あれは確か、父さんが部下に持たせる監視用のブローチ……そうだ、待てよ)
アルバは立ち上がると、すぐに行動を起こした。
『瑞樹。少しだけ、僕を信じて付き合って』
呆気にとられた顔をした瑞樹の口を、アルバはそっと塞いだ。
それと同時に、アルジェに意思疎通を送る。
『お姉さん。怪我はない?』
『大丈夫だ、心配はいらない。……どうした?』
『聞いて。僕は魔界へは戻らない』
『分かった。ならば、アル達は瑞樹と一緒にお前も救出する』
『待って。僕は瑞樹にも、お姉さん達にも死んで欲しくない。でも……でも、アルゲウス達にも死んで欲しくないんだ。そのために、僕にはやる事がある。僕はそれで傷つくと思うけど、きっとチャンスができると思う……虫のいい頼みかもしれない。でも、僕はそうしたいんだ。協力……してくれる?』
『……本気なのだな?』
『うん。大丈夫、死ぬ気はないから』
『了解した……タイミングは任せる。仲間にもそう伝えよう』
『ありがとう。合図はね――』
●
『アンナプルナ、こちらに合流しろ。事が済み次第、包囲を突破して離脱する』
『了解しました』
アルゲウスの意思疎通を受け、空へと飛び上がろうとするアンナプルナ。
そこへ――
「させるか!」
悠人の封砲が命中。アンナプルナは防御の時間を僅かに取られた。
すかさず日下部と弐号が殺到するのを見て、アンナプルナは飛行を諦めて迎撃の態勢を取る。
「残念だが、空へは行かせない」
日下部のウェポンバッシュが発動。狙いは露出した上腕部、大剣を持つ右腕である。
攻撃が命中するも、敵は微動だにしない。当たった箇所も、うっすらと赤い筋が走っただけだ。
すかさず弐号の盾が命中。こちらの攻撃にも動じた様子はない。
地形把握で遠方の森に潜んだ威鈴が、手にした天波から次々とアンナプルナに矢を放つ。
(敵の露出……した部分は……頭と上腕、それに腿……なら、狙うべき……は頭……)
アンナプルナは左腕で頭をガード。だが、カオスレートの乗った威鈴のスターショットによって、放物線を描いて飛ぶ何本かの矢が、アンナプルナの首の付け根に刺さった。
左手で矢を引き抜くアンナプルナ。鏃の先には血が付着している。
「がら空きだ!」
獄炎珠を手にした悠人が、射線を確保して再び封砲を発射すると同時に――
「オオオオオォォォォ!!!!!」
アンナプルナの咆哮が山中に轟いた。
「ぐ……」
耳を押さえてうずくまる日下部と弐号。アンナプルナが右手に持った大剣で日下部に斬りかかる。日下部は盾によるシールドでこれを防御するも、後方へと吹き飛ばされた。
(なんて攻撃力だ)
剣魂で傷を癒しながら、日下部は舌を巻いた。
●
「アルゲウス、戻って来て。僕が悪かった。言われたとおりにするから、早く魔界に帰ろう」
アルバが大声で言うと、程なくしてアルゲウスが戻ってきた。
「……アルバ様。よろしいのですね」
「うん。さっきは少し迷ったけどさ。人間の考えることなんて、やっぱり僕には分からないや。ついてけないよ、まったく」
アルバはそう言うと、剣の柄にかかったブローチを手に取った。
「それと、これ。鎧に着けておいて。地面に置いたら、父さんに怒られちゃうよ」
アルバはアルゲウスの鎧にブローチを取り付けながら、その造りを確認した。やはり間違いない。父の部下達が任務に赴く際、部隊の長に渡される通信用のブローチだ。恐らく今も、父はこのやり取りを魔界で聞いているはずだ。
「あのね、アルゲウス」
「どうしました?」
「僕、剣よりこっちの方がいいな」
アルバが見せたのは、山小屋を離れる時に神谷から預かった銃――ショットガンFS4だった。
「いいでしょ? 服を汚したくないんだ」
それを聞いたアルゲウスは、鎧のブローチに一瞬だけ視線を送る。
「……閣下」
「好きにさせろ」
明滅するブローチから、壮年の男の声が聞こえた。
「……久しぶりだね。ありがとう、父さん」
アルバは銃を手に、瑞樹に向き直った。
「さよなら。お別れだ」
「アルバ……! 駄目、やめて!」
瑞樹が絶望の悲鳴をあげた。
瑞樹の悲鳴には理由があった。アルバは銃口を、瑞樹ではなく――
自分に向けたからである。
山間の道路に、一発の銃声が鳴り響いた。
――銃声が合図だ。皆には、そう伝えて。
撃退士達が、動いた。
●
「アルバちゃん!」
「おやおや……とんだ無茶をしましたね」
川澄とエイルズレトラはアルバに駆け寄り、容態を確かめた。
銃を脇に挟むようにして撃ったためか、アルバの左脇は血で赤く染まっていた。
「傷は?」
「臓器に損傷はありませんが、出血が酷いですね。早いうちに手当てをしなければ」
エイルズレトラの言葉に、川澄が頷く。
川澄は一刻の猶予もないと考え、マホウ☆ノコトバを歌った。ここで治療を行うのは危険すぎる。
「行って下さい。私達が食い止めます」
鍋島と鳳凰、参号と肆号、陸号が同時にアルゲウスに襲いかかった。
陸号の火球と肆号の放電球、鍋島の炸裂陣がアルゲウスの背中で爆ぜる。
「アルバ。あなたの意思は、よく分かりました」
傷つき倒れたアルバに向かって、鍋島は声をかけた。
「私はあなたを救うために走り続けます。何時でも、何時までもです」
鍋島の言葉に笑顔で頷くアルバ。その顔色は、出血で蒼白だ。
「アルゲウス。父さんには、僕は死んだと伝えてくれ。それと……」
エイルズレトラに背負われながら、アルバはアルゲウスに言った。
「君はひとつ間違っている。僕は染まったんじゃない。変わったんだ。瑞樹が僕の心に触れた、その時から……」
アルゲウスからの答えはない。銃撃を受けたブローチは、粉々に砕け散っていた。
「僕は君と瑞樹が手を取り合える世界が欲しい。魔界にいては、その夢は叶わない。だけど彼らと共に歩んでいけば……その夢が叶いそうな気がするんだ……」
「お願いアルバちゃん,もう喋らないで。体力が……」
森へと走りながら、治癒膏でアルバを癒す川澄。それと同時に、
「瑞樹は返してもらう」
アルジェが瑞樹を抱きかかえ、空へと舞い上がった。
相変わらず、アルゲウスからの返事はない。先程から、まるで死んでしまったかのようだ。
(動かないならば好都合。この隙に下がるぞ)
震える手でしがみつく瑞樹の背中を、アルジェは優しくさすった。
「怖かったか? もう安心だ」
「アルバは……?」
「生きている。心配いらない」
それを聞いた瑞樹は、アルジェの腕の中で意識を失った。
(無理もない。この数日、瑞樹はあまりに多くの事に巻き込まれた。だが、それもじきに終わる)
本業であるSPの意地にかけて、何としても応援部隊の到着まで持ちこたえようとアルジェは思った。
(もう少しだ。夜が明ける頃には帰れるぞ、瑞樹)
「アルバちゃん。どうして,あんな無茶を?」
「これで……いいんだ。僕が自分で死んだ事にしないと、父さんはアルゲウス達を生かしておかない」
「アルバちゃん……」
川澄の目から涙がこぼれた。
すでに治癒膏で傷は塞がりつつあったが、出血が激しかったのか、アルバの顔色は蒼白のままだ。
「アルバちゃん。必ず,生きて瑞樹ちゃんに会おうね」
「うん……そうだね……」
その言葉を最後に、アルバは意識を失った。
「アルバ様……何故です……」
「あなたの相手は私です」
鍋島の召喚した鳳凰の一撃を受け、アルゲウスの兜が吹き飛ぶ。鳳凰の爪が、その頬に一筋の傷をつけた。
兜の中から覗いたのは、女性の顔だ。
「あなたは幼過ぎる。そんなあなたが私の手を離れて、どうやって生きていくというのです……」
アルゲウスの震える声が、女のそれに変わった。
「……!」
その顔を見て、鍋島はひとつの事実に気づいた。
透き通るようなブロンドの髪。血を連想させるワインレッドの瞳。
アルバと同じ色の……
「いま助けます。すぐに……」
アルゲウスは剣を抜き放つと、落ちた兜を手に、森へと入っていった。
(あの悪魔、まさか……!)
相手の注意を引くため、鳳凰に周囲を旋回させる鍋島。しかし、その足取りに迷いは全く見られない。
(向こうには、アルバと仲間達が……!)
鍋島は追撃で吸魂符を放つ。だが、アルゲウスは振り返りもしない。
背後から放たれるヴァニタス達の攻撃も、足を止める事は出来ない。
鍋島は大声で、仲間達に危機を告げた。
「敵が森に行きました、気をつけて!」
鍋島は大声で、仲間達に危機を告げた。
●
『リーダー、大丈夫?』
「ええ、何とか!」
壱号の意思疎通に、首肯して応じる悠人。
『今、肆号から連絡があったわ。ふたりの救出に成功したそうよ』
それを聞いた悠人の心に、俄かに希望がわいた。何としても敵を食い止めようと、獄炎珠を握り締める。
その前方では、日下部と弐号がアンナプルナを必死に食い止めていた。
『気をつけて。向こうもなりふり構わずに――』
壱号が言い終える前に、アンナプルナの体当たりが日下部の体を吹き飛ばす。
「行かせ……ない……」
威鈴のスターショットと弐号の盾の殴打による被弾も構わず、アンナプルナはその巨体を宙へと舞い上がらせた。
●
「アルバの容態は!?」
「生きてます。気を失ってるだけです」
神谷の問いに、川澄が答えた。
「そうか……」
「う……」
神谷の応急手当を受け、アルバがふいに意識を取り戻した。
「失礼。感動の再開、といきたいところですが……どうやらそうもいかないようです」
エイルズレトラが見やった背後から、アルバの名を呼ぶアルゲウスの声が聞こえてきた。
「この上着、借り受けます。こんな穴の開いた服では寒いでしょう」
エイルズレトラがひょいとアルバに握った手を差し出した。
「こちらの方が暖かいですよ」
エイルズレトラが手を下に開くと、掌からアルバのものと全く同じ上着が現われた。
「大事なブローチも血だらけだ。お拭きしましょう」
そう言ってアルバのブローチを借り受けると、エイルズレトラは奇麗に磨いたブローチを返した。精巧なイミテーションだ。
「では、僕はこれで」
神谷が服とブローチにマーキングを撃つのを確認すると、アルバに化けたエイルズレトラは闇の中に消えた。
すぐ後ろには、アルゲウスが迫っている。
「さて、行きますか」
森の中に消えた3人を見送り、アルゲウスの視界に入りこむエイルズレトラ。
わざと貧血気味な挙動を織り交ぜながら、ふらついた足取りで注意を誘う。
「ああ……アルバ様、今助けます……」
エイルズレトラはアルゲウスの言葉を無視するように、無言で東の方角へと向かった。川澄達を、アルゲウスから少しでも引き離すためだ。エイルズレトラに誘われるように、東へと歩を進めるアルゲウス。だが、エイルズレトラの体が街路灯の明かりに照らされた時、その足が止まった。それと同時に、その体から殺気が迸った。
「……やれやれ。ばれては仕方がない」
エイルズレトラは服を脱ぎ捨て元の姿に戻ると、傍に潜んでいたハートと共にアルゲウスの足止めにかかった。
正面を取りながら、背後からハートによって攻撃を加えるエイルズレトラ。彼はすぐさま、敵の守りが先程よりも堅くなっている事に気づいた。
それだけではない。先ほど鍋島の鳳凰に食らった顔の傷も、既に治癒している。
(鉄壁と再生……といったところですか。厄介極まりないですね)
その時、ふいにアルゲウスの動きが止まった。数秒の後、エイルズレトラに背を向ける。視線が向いているのは、川澄達の逃げた方角だ。
「其方にいらしたのですね、アルバ様……今行きます」
好機とばかりにエイルズレトラの放つバックアタックを弾きながら、アルゲウスは翼を広げて飛行の体勢をとった。
「撃退士ども、よくもアルバを……許さん……」
(おやおや。空に逃げられては、追う手立てがありませんね)
まあそれなりに時間は稼げたはず……そうエイルズレトラが考えた、その時。
アルゲウスの口から、ある言葉が漏れた。
「私のアルバを……娘を返せ……」
●
一方その頃。
アルバを担いだ川澄と共に、森の中を進む神谷の携帯が着信を告げた。
「はい、神谷」
「堺よ。フィッツロイが南に向かったわ。……気をつけて」
神谷の額に汗が伝った。