○
早朝。
地面に降りた霜柱を踏みしめながら、撃退士達は山頂へ向かった。
「……寒いですね」
肌を突き刺すような冷え込む空気の中、白い息を吐きながら鍋島 鼎(
jb0949)が言った。
「ええ、今年は特にね。この時期に雪が降るなんて事は、滅多にないのだけれど」
私達はむしろ、学園の暖かさに驚いたわ、と岐阜県撃退署の堺は言った。
「少し前までは緑だったのにな。11月を過ぎると、あっという間に寒くなる」
堺の隣を歩く、愛知県撃退署の小川が呟くように言う。
「……急いで探してあげないといけませんね 」
鍋島の言葉に、無言で頷く小川と堺。そこへ、A班の日下部 司(
jb5638)が後ろから歩いてきた。
「鼎ちゃん。さっき、きみが詰所で皆に話してた、例の件だけど……」
「『何か』のこと、ですね」
鍋島の言葉に、日下部は頷いた。討伐班に所属する彼としては、正体不明の存在「何か」の情報を少しでも知っておきたかった。「何か」が天魔という事であれば、敵との戦いの最中に乱入してくる可能性も想定せねばならないからだ。
「現時点の情報を総合すれば、戦力としては脅威にならないと判断していいでしょうね」
鍋島の言葉に、こげ茶色のローブを着たアルジェ(
jb3603)が頷く。
「今までの目撃者達が無事に戻っている事を考えると、そうだろうな。むしろ、私が懸念するのは……」
「瑞樹ちゃんが『何か』に捕まっている可能性……か」
「そうだ。だからもし『何か』と遭遇したら、私はまず話を聞いてみようと考えている」
「日が経つと……悪魔に捕まってる可能性が……高い……よね……森の奥なら……」
アルジェの隣を歩く、浪風 威鈴(
ja8371)が言った。彼女の口調は普段と変わらない穏やかなものだったが、その眦(まなじり)は僅かに釣りあがっていた。彼女の心の中に同居する、猟犬と狂犬がそうさせているのだ。
「道路上に、ディアボロとヴァニタスが2体ずつか。道路は足場が悪い。注意しないと」
威鈴の話を聞いた鈴木悠司(
ja0226)が目を細めて、ぼそりと呟く。既に彼の意識は、敵の討伐のみに向けられているようだった。
それぞれの思いを胸に、山頂への道を歩む撃退士達。
程なくして彼らは、神社への分かれ道にさしかかった。
「ここからは別行動ですね」
浪風 悠人(
ja3452)の言葉に、神谷春樹(
jb7335)が頷く。
「それじゃあ、失礼します」
神谷は手にした銃で、各班の代表者達にマーキング弾を撃ち込んでいった。
「捜索C班の光信機は俺が持つことにする。神社を捜索後は山小屋に行く予定だ。何かあったら連絡をくれ」
蒼月 夜刀(
jb9630)の言葉に、悠人と小川、堺が頷く。
「では、A班の光信機は俺が持ちます。戦闘に入る時は連絡します」
「B班は俺が、D班は堺が持つ。俺達はD班と一緒に分かれ道から北上し、北方面の索敵を行う。北は携帯の電波が通じないから注意してくれ」
「了解だ」
蒼月は各班の行き先を頭に叩き込むと、3人の仲間と共に神社へと向かった。
○
程なくしてC班のメンバーは神社に到着した。
小さな神社の境内は、時折人の手が入っているのか辛うじて荒廃を免れていたが、それでも人気の絶えた物寂しい空気は隠しようもなかった。
「すまない、少し捜索させてもらう」
アルジェが神体に挨拶を済ませると、4人は捜索に取りかかった。
捜索開始から数分後。
「皆見てくれ。こんな物を見つけたぞ」
神社内の事務所の方角から、アルジェが何かを持ってきた。片手に収まるほどの、小さな金属の箱である。
「これは? ……小型の金庫ですか」
「ああ。このメモと一緒に、所内の机の上に置いてあった」
そう言ってアルジェは、「南西の山小屋で発見」と書かれたメモを見せた。
「何か入っていますね」
鍋島が金庫を軽く振ると、中で何かがぶつかる手応えがあった。それを見た蒼月は、神谷の方を向いて言った。
「神谷。お前のスキルで開けられないか?」
神谷は受け取った金庫を眺めると、かぶりを振った。
「無理ですね。鍵穴がないと、開錠は使えません。この金庫はダイヤル式です」
ダイヤル式の鍵は、正解の番号に対応したダイヤル内部のプレートの切欠部分を桁の数だけ揃える事で、始めて開錠が可能となる。金庫の桁の数は4。とてもではないが、総当りで番号を試している時間はない。
(……待てよ)
だがその時、神谷の脳裏に、ひとつの方法が閃いた。
「アルジェさん。物質透過は使えますよね」
「ああ。使える」
「ひとつ、試してほしい方法があるんですが……」
神谷はそう言うと、自分の考えついた方法をアルジェに話し始めた。
程なくして。
「よし、鍵は開いたようだぞ」
「ありがとうございます。早速、開けてみましょう」
物質透過で触れる対象にプレートだけを選び、正解となる切欠部分を揃える。それが神谷の考えた方法であった。果たして開錠は成功し、軽い音と共に鍵が開いた。
「何だこれは?」
「悪魔のこころ……のようだな」
中に入っていたのは、魔界の石を使って作られた装飾品――撃退士達が「悪魔のこころ」と呼ぶ、小ぶりのブローチだった。学園のはぐれ悪魔ならば誰でも持っている、ごくありふれた物だ。あえて違う点を探すとすれば、普通のブローチに使われる紅い石と違い、このブローチの石は明るい紫色をしている事くらいだった。
「とりあえず、持って行きましょうか」
「そうだな、そうしよう」
神谷は蒼月からブローチを預かると、メンバーらと共に神社を後にした。
(もうすぐ、マーキング痕が消える時間だ)
神谷は各班の位置を確認した。D班は北東で捜索、B班は北から北西へと向かっていた。
A班は道路上の位置で停止している。恐らく、敵と接触したのだろう。
(気をつけて)
神谷は、仲間達の無事を祈った。
○
同時刻。
A班のメンバーが山頂へ歩を進めること数分、銃を手に先頭を歩く威鈴が、頭上の遥か前方を指差した。
「見えた。敵だぞ」
威鈴の隣を歩く悠人の視界にも、4つの影が映った。黒い鳥のディアボロが2体。鉤爪のヴァニタスと弓のヴァニタスが1体ずつだ。
4人のいる場所は、森の中を走る道路上である。人通りが絶えて久しく、アスファルトのあちこちが剥がれ陥没している道路の両脇を、葉の落ちた木々が挟んでいた。地面のあちこちには、石ころに交じってうっすらと雪だまりがある。
「前方の鳥はボクがやる。後ろを頼んだぞ」
狙撃銃を手に取った威鈴の言葉は、普段の彼女のそれとはうって変わって、鋭く攻撃的なものになっていた。そんな彼女の言葉を聞いて、同じく銃を手にした日下部が頷く。
威鈴は、銃を担いで道路脇の森に隠れた。木々の中に身を潜め、死角から敵を狙うつもりのようだ。
日下部も銃を構えた。だが、敵に狙いを定める彼の心に、ふいに一抹の疑念がよぎる。敵の動きからして、どうやら相手は山中の何かを探しているようだ。
(あれは……俺達を警戒しているのかな? それとも……)
日下部は心の中でかぶりを振った。向こうがどう動くかを見れば、すべて分かる事だ。
(まずは捜索班がスムーズに動けるように、敵を引き付けないとだね)
程なくして、威鈴の銃弾が前方の鳥を撃ち落した。
日下部も、後方の鳥に狙いを定め、銃のトリガを引いた。
『壱号。撃退士だ』
両手に鉤爪を装着し、髪を3色に染め分けた参号が、弓を手にした仲間の壱号に意思疎通を飛ばした。参号は偵察に放ったディアボロが撃墜される間際の映像で、撃退士の姿を捉えていたのだ。
『撃退士……やはり来たわね』
応答した壱号の意思からは、落ち着いた心が感じられた。
『標的発見の報告は、まだ来ていないわ。一旦下がって、この事を報告しなければ……』
『そうだな。お前は1人で先に行ってていいよ』
『参号。お父様の言葉を忘れたの? 撃退士と遭遇したら……』
参号の意図を察し、嗜める様に言う壱号に向かって、
『撃退士と遭遇したらゲートに戻って来い、だろ? 覚えてるよ。だけどさ』
参号は自分の考えを述べた。そこには傲慢や増長のニュアンスはない。
『だけどその前に、奴らの力を確かめておきたい。ここまで来たという事は、奴らは私達のゲートの場所も知ってるはずだ。もう戦いは避けられないだろう。だったら今のうちに、少しでも手の内を知っておいた方がいい』
『参号、お父様は戻れと言ったのよ。勝手な真似をしないで』
壱号の声が牽制の色を帯びた。だが参号は、なおも食い下がる。
『頼むよ、壱号。連中がゲートまで攻めて来たら、前に出て戦うのは私なんだ。弐号や肆号のためにも、少しでも情報が欲しい。それに……』
『それに?』
『どのみち私達は気づかれてるんだ。だったら少しでも損害を与えて帰った方が、きっと親父も喜ぶ』
『……仕方ないわね。ただし、深追いは禁物よ。不利と判断したら、私ひとりでも戻りますからね』
『ありがとう、壱号』
参号は壱号に礼を言うと、撃退士達の方へと飛んでいった。
壱号も空を飛んで森の中に隠れた。木々に紛れて撃退士を攻撃するためである。
「来るぞ」
鈴木の言葉通り、彼方の上空に見える参号の影が、あっという間に迫ってきた。
鈴木は剣を構え、闘気解放で身体能力を向上させる。いつでも敵の襲撃に対応できる体勢だ。程なくして4人の前に降り立った参号も、両腕の鉤爪を構えて戦闘体勢をとった。
(出来ることなら、穏便に済ませたかったけど……やるしかないか)
戦闘は不可避と判断した悠人が、光信機に向かって告げた。
「こちらA班、悠人。山頂への道路上にて、敵勢力との交戦に入ります」
悠人が言い終わると同時に、鈴木は足元に転がる小石を蹴り上げ、前方の参号へと蹴り飛ばした。目暗ましを行い、注意が逸れたところを狙って敵との距離を詰める狙いだ。
凄まじい速度で眉間目がけて飛んでくる石礫を、参号は身を屈めて回避した。そこをすかさず、鈴木が曲刀を構えて襲いかかる。先手を取り、一気に決着をつけようというのだ。だが、そんな鈴木の動きを待っていたかのように、彼の頭上から3本の黒い矢が降ってきた。狙いは無論、鈴木である。
「樹の上、右斜め前方だ!」
鈴木は視覚と聴覚を総動員し、瞬時に敵の位置を仲間達に告げた。闘気解放によって強化された肉体で鈴木は回避を試みるも、1本が右肩に突き刺さる。
好機とばかりに、前列に立つ鈴木の間合いへと飛び込み、鉤爪の連撃で猛攻を加える参号。そこへ、
「やらせないぞ」
威鈴の回避射撃が命中し、参号の右手の攻撃の軌道が逸れた。機を逃さず、鈴木がガードの空いた参号の胴体めがけて、刀によるカウンターの一閃を放つ。すかさず参号は身を捻り、左手の鉤爪でそれを弾いた。
斜め前方からは、阻霊符を展開した日下部が、大剣を構えて切りかかってきた。鍔迫り合いに持ち込むべく、叩きつけるように剣を振り下ろす日下部。回避する参号。
「この矢……毒矢か」
悠人のヒールによって傷口が塞がったにも関わらず、鈴木は自分の体からじわじわと体力が奪われてゆくのを感じた。
○
「う……」
瞼越しに強い光を感じて、瑞樹は目を開けた。眼前には、あの悪魔がいた。
「気がついたかい?」
悪魔は傍にあったテーブルの上に、熟れた柿を置いた。実の上にはまだ、雪が僅かに被っていた。
「こんな物しか見つからなかったけど、食べておくといい。さっき試しに1個食べたけど、渋くないから大丈夫のはずだ」
だが、瑞樹は手をつけなかった。視線を床の上に落としたまま、口をつぐんでいる。
悪魔も無理に勧める事をせず、代わりに瑞樹の顔を覗き込んで言った。
「君にひとつ、やって欲しい事がある」
「……何をしろって言うの?」
「簡単だ。これを見てくれ」
そう言って、悪魔は一枚の紙切れを瑞樹に見せた。
「ここに書いてある場所がどこなのか、それを教えてほしい。教えてくれれば、家に帰してあげるよ」
○
(私に3人。壱号に1人か。3対1じゃちょっとキツいな)
参号は、戦いの場所を変える事にした。
『右手の森に入る。壱号は道路上の敵を頼む』
一瞬の合間を縫ってジェスチャーで壱号にそう伝えると、参号は森に飛び込んだ。参号は、道路の両脇に生える木々を障害物に利用しようと考えたのだ。
『分かってるわね、参号。あの技はここで使っては駄目よ』
『ああ、分かってるよ』
意思疎通で会話を交わす壱号と参号。逃がさぬとばかり、参号に追撃をかける日下部と鈴木。
(どうやら撃退士の中に、空を飛べる奴はいないようだな)
先ほどから空を飛ぶ壱号に攻撃しているのは、悠人1人だけだった。悠人の手にした天波から放たれる矢が放物線を描いて上空の壱号に次々と飛んで行くも、壱号の体にかすり傷を負わせるに留まっている。
だが、壱号も悠人の攻撃を回避するのに精一杯で、十分な反撃は出来ていなかった。壱号の放つ矢は威鈴の回避射撃に全て撃ち落され、悠人に傷を負わせるには至っていない。
(よし。先にあの女を仕留めよう)
参号は鉤爪を使って木の間を飛び交うと、木の幹を台にして跳躍の体勢を整えた。
(素人め。誘い込まれたんだよ、お前達は)
内心で敵を嘲笑いながら、狙いを定める参号。標的は威鈴である。
だが、次の瞬間。
参号の視界は進路上の木々の間に、無数の鈍く細い光線を捉えていた。
光の正体は、糸より細く、刀よりも鋭い鋼糸――ニグレドだった。撃退士の意図を察する参号。だが、もう跳躍を止める事は出来ない。
「気づくのが……少し……遅かった……ね」
参号の視線の先にいる威鈴が言った。既に彼女は襲撃に備え、レガースを装着している。
「誘い込まれたんだよ、君は」
ニグレドを手にした鈴木が言った。その背後では、装着を終えた威鈴と大剣を構えた日下部が、飛んでくる参号を待ち構えていた。
参号はとっさに力の向きをずらして跳躍。鋼糸の網を飛び越し、道路上へと飛び出た。すかさずそこへ日下部が全力跳躍と共に襲い掛かる。その後から、威鈴も続いた。
参号が体勢を整えた時には既に2人は間合いに入っていた。どちらか一方の被弾は不可避と判断した参号は、瞬時に日下部の攻撃を回避。ここで鍔迫り合いに応じれば、完全に機動力を殺される。3方を敵に囲まれたこの状況で機動力を失う事は、死を意味していた。
回避して息を付く間もなく、威鈴の精密殺撃が襲い掛かってきた。参号は両腕の鉤爪で防御を試みるも、威鈴の蹴りは参号のガードを突き破り、参号を後方へと吹き飛ばす。
道路上のアスファルトに叩きつけられ、地面を転がる参号。そこへ、
「一体たりとも、逃がさない……。敵は、斬る」
曲刀を手にし、時雨の構えを取った鈴木が殺到する。狙うは参号と、その背後を飛ぶ壱号だ。
壱号は、突進してくる鈴木の刀が放つ殺気が、自分にも向けられている事を悟った。
そして鈴木の遥か後方では、弓を構えた悠人もこちらに狙いを定めている。
『……潮時ね、参号』
『ああ、そうだね壱号』
意思疎通で参号との会話を終えると、壱号は弓を構え、鈴木に狙いを定めた。
鈴木の意識は自分と参号を攻撃することに集中している。攻撃を回避する余裕はないだろう。今まで自分の矢を打ち落とした狙撃手も、今は銃を手にしていない。
壱号は弓に矢を番えた。今までの黒い矢ではない――白い矢である。
壱号が弓を構える姿を見ても、鈴木の意思は揺らがなかった。被弾など元より覚悟の上だ。矢の1本や2本くらったところで、敵の「死」に変わりはない。
鈴木の肩に、白い矢が命中。だが、鈴木の勢いは止まらない。だがこの時、鈴木は白い矢が自分に呪いをかけた事を理解した。
(封印か……それなら参号だけでも!)
よろめいて立ち上がった参号めがけて、鈴木は袈裟懸けの一閃を放った。
参号はとっさに回避を試みるが、間に合わない。参号の右腕が切断され、宙を舞った。
「ぐ……」
参号は追撃で放たれる鈴木の一撃を左の鉤爪で打ち払い、最後の気力を振り絞って後方へ跳躍すると、壱号と共に空へと飛び上がった。
2体のヴァニタスは、悠人の射撃を何発かその身に受けつつ、ほうほうの体で壱号と共に山頂へと飛び去っていった。
○
一方その頃C班は、山道南側の山小屋の捜索を終えたところだった。
「とりあえず、今までに分かった情報を整理してみるか」
蒼月の言葉に、3人は頷いた。
「まず、北側・南側のどちらの山小屋にも瑞樹はいなかった。代わりに、登山者のノートが一冊ずつ見つかった」
そう言って、蒼月は北の小屋で見つかったノートをめくった。
中に書かれていた文章の殆どは登山者の寄せ書きだったが、その中にひとつだけ、蒼月達が神社で見つけたブローチに関する記述があった。
―
落し物の連絡
南西の山小屋で、紫色の石がはまったブローチを見つけました。
麓の神社で保管していますので、心当たりのある方は神社までお越し下さい。
神社に人がいなかった場合は、麓の詰所に連絡をお願いします。
―
「これの事……だよな」
ブローチを見つめて言う蒼月に、鍋島が頷く。
「間違いないでしょうね。丁寧にイラスト付きで書いてあります。そしてこれが、この小屋で見つかったノートですが……」
蒼月の言葉を継いで、神谷が2冊目のノートをめくる。
「ページが1箇所だけ、不自然な箇所で破られています」
「うむ。だが、1冊目のノートと付き合わせると、興味深い事が分かる」
そう言って、アルジェが破られた次のページの冒頭を指差した。
「『神社に人がいなかった場合は、詰所に連絡をお願いします』。1冊目に書かれている、ブローチを拾った者が書いた文の末尾と一緒だ。筆跡や前後の書き込みの日付から見ても、破られたページにブローチの話が書かれていたのは間違いないだろう」
「『何か』の目撃情報が書かれ出したのは、このブローチの記述の後ですね。破られるより前のページには、ひとつも書かれていません。目撃が集中しているのは、現在は使われていない南西の山小屋付近です」
2人の話を聞いていた蒼月が言った。
「つまり、こうか。この山には、天魔『何か』がいる。今は使われていない南西の山小屋で、悪魔しか持っていないブローチが見つかった。その後、『何か』の報告が相次ぐようになった」
それらの情報から分かる事は、と鍋島が前置きして言った。
「『何か』は悪魔で、南西の山小屋を住処にしている。そして何かのトラブルに巻き込まれてブローチを落としてしまい、今もそれを探している……という事でしょうね。何のためにノートを破ったのか、その理由までは分かりませんが」
「となると、やはり行くべきは南西か。敵と遭遇しなければ、ギリギリ日没までに戻れるとは思うが……」
「行ってみる価値はあると思います。これまでの情報からして、『何か』の狙いはこのブローチと考えていいでしょう。それを取り返すために、人間から何かの情報を引き出そうと考えている。となれば……」
「もし『何か』が山中で瑞樹を見つけていたら、保護している可能性はあるだろうな。そうでなくとも、瑞樹に関する何らかの情報を持っているかも知れない」
3人の話に、神谷も同意した。
「行ってみましょう。僕達はまだ、瑞樹の手がかりを何も掴めていません。現状で有力な情報が得られそうな場所と言えば、そこしかない」
「……そうですね。行きましょうか」
鍋島の言葉に、3人は頷いた。
○
悪魔が瑞樹に見せたのは1枚の紙切れ――東の山小屋で悪魔が破りとったものだった。
『麓の神社で保管していますので、心当たりのある方は神社までお越し下さい』
そこに書かれた『麓の神社』という一節を指差して、悪魔は言った。
「これを何と読むのか、どこの場所を指すのか教えてくれ。そうすれば君を解放する」
瑞樹は訝しげな目で悪魔を見た。だが、悪魔の顔は冗談を言っているような顔ではない。
「どうした。早く答えるんだ」
「嫌よ」
瑞樹は悪魔の申し出を拒絶した。
「い……家に帰りたくないのかい? お父さんやお母さんに会いたくないのかい?」
「帰りたいわ。会いたいわ」
「だったらどうして言わないんだ!」
「あなたのこと、信用できないから」
「言えよ! 言わないと、ひ……酷い目に遭わせるぞ!」
「もうとっくに遭ってるわ」
瑞樹はそう言って、ただ悪魔の目を睨みつけている。
「うるさい! 言えったら言えよ!」
「嫌よ。殺すなら勝手にすれば」
その後も悪魔はしばらく脅迫の言葉を並べ立てたが、目の前の少女には効果がないと悟ると、ふいに力なく崩れ落ちた。
「言えよ……言ってくれよ、頼むよ。そうしないと、僕は……」
少し間をおいて瑞樹が問いかけた。
「ねえ。どうしてあなた、こんな事するの?」
悪魔はしばらく黙っていたが、やがて観念したような表情で、紙に描かれたブローチの絵を指差した。
「……このブローチ。これがないと、僕は家に帰れないんだ」
「これが、そんなに大事な物なの?」
悪魔は頷いた。
「僕は元々、魔界に住んでいた。僕の家は……凄く広いんだ。僕の部屋だけでも、この山より広いと思う」
悪魔はぽつりぽつりと、自分の身の上を語り始めた。
「暇 潰しに家をこっそり抜け出して人間の世界を見に来たとき、僕は山でこのブローチを落としたんだ。山の中を、どんなに探しても見つからなかった。気がついた時にはゲートも破壊されてて、僕は魔界に戻れなくなった。ブローチがないと、僕がどこにいるか、父さんや母さんは分からない。だから絶対に無くすなって言われてたんだ」
瑞樹は悪魔の話を黙って聞いていた。悪魔の目からは涙がこぼれていた。
「しばらくして、人間が僕のブローチを持っている事までは分かった。でも、人間の文字の読書きはあんまり出来なかったから、どこの場所にあるかまでは分からなかった。だから、この山のことを知っている人間に聞けば分かると思って君を……」
「そういう事だったのね……」
「ずっと心細かったんだ。もう二度と、父さんにも母さんにも、生きて会えないかもしれない。そう思うと、心細くておかしくなりそうだった」
悪魔は泣きながら言った。それは今まで、悪魔がずっと胸の中にしまいこんでいた、偽りのない言葉だった。
「もう耐えられないんだ。寝る時も、目が覚めても、傍に誰もいない。物音がする度に撃退士が僕を狙って来たのかと怯える。そんな毎日はもう嫌だ。嫌なんだよ……」
少しの沈黙の後、瑞樹は言った。
「『ふもとのじんじゃ』よ」
「えっ?」
「『ふもとのじんじゃ』。山の東の麓、赤い門がある建物だわ」
「あ……ありがとう」
悪魔は瑞樹をまっすぐ見つめて言った。
「ありがとう。約束は守る。必ず君をご両親のもとに帰すからね」
「うん……分かった」
瑞樹は微笑んで言った。
「あなた、名前は? 私は瑞樹」
「アルバだ」
「そう……アルバ」
「何だい?」
「辛かったわね」
そう言って瑞樹はソファから身を起こし、アルバをそっと抱きしめた。
アルバは声を押し殺して泣いた。
○
「こちらC班、蒼月。現在、南西の山小屋へ向かっている」
「A班悠人、了解です。こちらも先ほど、敵との戦闘を終えました。負傷者の回復は完了、重傷者はいません。ヴァニタス2体は撤退。参号は右腕を失い、重傷です」
「了解。残り3体の報告はあったか?」
「いえ、まだです。気をつけて下さい」
「分かった。そちらも気をつけろ」
通信を終えた蒼月の前では、鍋島と神谷が周囲を警戒しながら道を進んでいた。雪の積もっている場所を避け、木の影を選んで進むのは思ったより遥かに骨が折れたが、たとえ時間がかかっても、敵に発見される事だけは避けねばならない。
その時、低空飛行で周囲を捜索しているアルジェの意思疎通が届いた。
『全員、気をつけろ。前方に誰かいる』
○
アルバは1人で山の中を歩いていた。
(僕は自分が味わい続けた苦しみを、瑞樹にも味わわせていたんだ。……でも彼女は泣き言ひとつ言わず、僕の事を案じてくれた)
探し続けた物の在り処が分かったというのに、今のアルバの心は空しさと、そして羞恥心に満たされていた。
(ブローチは後でいい、撃退士に瑞樹の事を知らせに行こう。捕まったら……その時はブローチを返してもらえるように、お願いしてみよう)
自分の心には嘘をつくな。アルバの父が常々口にしている言葉だった。
今までアルバは、何としても家に帰りたかった。だからこそ、その心に嘘をつく事なく行動してきた。だが、今のアルバにとっては、ブローチよりも瑞樹の方が大事だった。
ここで彼女を見殺しにして家に帰ったら、自分は一生後悔を抱えたまま生きる事になる。そうなったら、自分はこれから、二度と胸を張って生きていけなくなるだろう。
(ヴァニタスやディアボロに見つかる前に、撃退士を見つけないと)
そう思って山の中を歩いていると、ふいに背後から銃を構える音がした。
アルバが反射的に振り返ると、そこには武装した4人の撃退士が立っていた。
『グロッソの仲間か? 敵対するのでなければ両手を挙げろ』
アルジェの誰何の言葉に、アルバは素直に従った。
「我々は、遭難した少女を探している。何か知ってる事は?」
「それは、瑞樹の事だね?」
「……そうだ」
肯定するアルジェの言葉を聞いた悪魔の顔に、安堵と懇願の色が混じった。
「頼む。彼女を助けてくれ」
悪魔の言った予想外の言葉に、撃退士達は顔を見合わせる。
「彼女はこの先の山小屋にいる。命に別状はない。でも弱りきっていて、僕では彼女を助けられない」
「名前は何と言うのだ」
「アルバ」
銃を構えた神谷が言った。銃口の狙いは、アルバへと向いたままだ。
「まずは俺達を瑞樹のいる所に案内してもらおう。お前をどうするかは、その後に決める。鍋島さん、ボディチェックをお願いします」
「分かりました。……動かないでください、アルバ」
鍋島は阻霊符を使用すると、アルバの体をチェックし始めた。
「……大丈夫です。特におかしい物は持っていません」
程なくしてチェックを終えた鍋島は、ほんの少し気まずそうな顔をして言った。
「分かりました。さあアルバ、案内してもらおう」
神谷の言葉に頷くと、アルバは山小屋に向かって歩き始めた。
「神谷さん」
「何ですか?」
神谷がデジカメで撮影したアルバの写真を学園に送信していると、背後から鍋島が背中を突いてきた。
「アルバの事なのですが」
「ええ。彼が何か?」
神谷の返事に、鍋島は黙ってかぶりを振った。
「『彼』ではありません。『彼女』です」
「……え?」
「アルバは女性です。間違いありません」
神谷は飛び上がった。
「おい、何話してるんだ2人とも。小屋が見えてきたぞ」
そんな2人に向かって、前を歩く蒼月が訝しげな顔で振り返った。
「神谷、悪いが先に行ってくれ。アルバの話だと、入り口は施錠されてるらしい」
「分かりました」
蒼月の言葉に頷くと、神谷は山小屋へと走った。
程なくしてC班の撃退士達は、瑞樹の救出に成功した。
蒼月は、A班の悠人に、瑞樹救出の報告を入れた。
○
「はい、悠人です。……瑞樹ちゃんの救出に成功? 良かった。お疲れ様です」
光信機で通話をしながら悠人が背後の3人に親指を立てると、撃退士達の顔に安堵の色が浮かんだ。
「良かった……ね……」
「ああ。これで残るは、悪魔だけだね」
威鈴と鈴木は、安堵の息を漏らした。日下部も、顔に笑顔を浮かべる。
「本当に良かった。思ったよりも早く見つかって何よりだ」
「そうですね。この分なら、今日中に瑞樹ちゃんはご両親に会えそうだ」
日下部の言葉に頷き、悠人は光信機を操作し始めた。北に行ったB班とD班にも、瑞樹発見の報告をせねばならない。悠人はまず、D班の堺に連絡を入れた。
「A班の悠人です。先ほどC班から、瑞樹ちゃんを無事に救出したとの連絡が……」
しかし、堺からもたらされた情報を聞いて、ふいに彼の顔からは笑顔が消えた。
「B班との連絡が……途絶えた?」
○
その頃、南西の山小屋では、C班のメンバーが瑞樹を介抱していた。
応急手当てを受けながら、神谷の差し出されたスポーツドリンクとカロリーブロックを摂取する瑞樹。その顔には、次第に赤い血の色が戻り始めていた。
「これも使って下さい」
鍋島はカイロを暖めて瑞樹のかじかんだ手に持たせてやると、上からそっと防寒着をかけてやった。
「ありがとうございます。あ、あの……」
「何かな?」
恐る恐る話しかける瑞樹に、神谷は笑顔で応じた。
「あの子に、アルバに酷い事をしないで下さい。あの子、悪い子じゃないんです。私、酷い事なんかされてませんから」
「分かった。約束するよ」
「そうだぜ、安心して俺達に任せろ。そうだ、アルバ」
笑顔で応じる神谷の横で、蒼月がブローチを掲げて見せた。
「このブローチ、お前の大事な物なんだろ? 心配するな。調べ終わったらちゃんと返してやるよ」
それを聞いたアルバは俯き、小声で「ありがとう」と言った。
「よし、長居は無用だ、戻ろうぜ。アルバ、お前も一緒に詰所に来てもらう。安全は保障するから心配するな」
蒼月の言葉に無言で頷くアルバ。下山の支度を整えた撃退士達は、速足で山を降り始めた。
(……思ったより、あっけなく終わりましたね)
さしたる障害もなく目標を達成したことで、鍋島は幾分、拍子抜けした気分を味わっていた。まだアルバには色々と聞きたい事があったが、それらは詰所に戻って確認すればいい事だ。それが終われば、残るはグロッソの討伐だけ……
『皆。急いで……いや、大急ぎで山を降りよう』
だがその時、アルジェが緊張した様子で意思疎通を送って来た。
『さっき小屋を出た時、一瞬だけ上空に鳥のディアボロが見えた。恐らく、我々の姿を見られた』
○
同時刻。
山頂付近のゲート内のグロッソの下へ、ディアボロを介して、ひとつの報せがもたらされた。
「山の南で標的を発見した」
報せの送り主は――陸号であった。