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「髪切ってからなんとなく、なんとなくなんだけどさ」
ポツンと呟きが落ちてきて、幽樂 來鬼(
ja7445)は振り返った。
「恋や愛って気持ちを食い物にされるのは、ウェルちゃんにとって存外腹立つことみたいだ」
ウェル・ウィアードテイル(
jb7094)の表情を見て、來鬼は一つ頷くに留めた。
「さぁて、気合入れて頑張ろうか!」
明るく意気込むウェルはもう、いつも通り飄々とした笑みを浮かべている。行こう、と差し出されたウェルの手を來鬼はぎゅっと握った。
「ちょ、痛っ」
批難の声が上がってくるのを気にせず、來鬼はもう一人の友人に向かって走り出す。
「おー、ちょうどいいところに。二人とも、今良い情報は入った」
岸田夫人の夜中の足取りから、周辺の人に聞き込みを行っていた由野宮 雅(
ja4909)が向かってくる二人に気付いて軽く手を振る。
岸田家でも聞き取りは行われていた。
既に午前の間に真紀からの聞き込みは終わっているが、監視は必要だ。今、真紀の相手をしているのはクロエ・キャラハン(
jb1839)だ。
「いか……いかな……きゃ……」
代わり映えのない発言に、百目鬼 揺籠(
jb8361)は誘導するよう言葉を掛けた。
「行かなきゃならねェのはなんででしょう? 貴女は今、幸せなんですよねェ?」
「……しあわせ……?」
先ほどから見ている限り、真紀はごく素直な言動を繰り返している。思ったように動き、思ったように発言する。まるで子供のようだ。
真紀はオウム返しのように繰り返すと、言葉を繫げる。
「そう……しあわせ、だから……しあわせに、なる……ため……」
「妻は、どうなんでしょうか……」
情緒不安定な妻の様子に岸田が不安を口にした。
「――戻りますよ、天魔が関わっているならね」
軽い口調で揺籠は告げた。
天魔事件ならば確実に解決してみせる、という覚悟が裏に潜んでいたが、表情を隠すがごとく揺籠は煙管を吸う。真剣味を見せるのはあまり得意ではない。
「だから旦那さんはしっかりしててください。帰る場所がねェのは、辛いです」
煙を吐き出すと共に吐き出した言葉に少々の感傷が混じっていることに気付き、苦笑した揺籠はその場を辞した。
傍で彼らのやり取りを見ていた九鬼 龍磨(
jb8028)は壁から背を離し、部屋を一度出た。
外にはSerge・V・Dinoire(
jb6356)が戻ってきていた。午前中は図書館で新聞を漁っていたようだが、真新しい情報がなかったようだ。
「真紀さんが言っていることには一貫性がない」
幸せだから行く。幸せになるために行く。
暗示による弊害か、その矛盾にも気づいていないようだ。情報の制限を受けていないことはこちらにとって都合がいいが、それはつまり、それだけ彼女自身の思考力が落ちていることともとれる。
敵は、一体何をしたいのか。
「恨み、か……」
一人虚空に呟く。
龍磨にはどうもこの一連の事件、「幸せになどしてやるものか」という強い怒りと妬みの感情が根本にあるように思えるのだ。
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「調査で判明したのは、棗御木が黒ということよ」
作った書類を見ることもなく、暮居 凪(
ja0503)は言った。
彼女が実際に目と耳でかき集めた情報だ。昨日一日で調べたとは思えないほど、事細かに記載されている。おかげで、資料作りだけで半日も潰してしまったが、必要なだけの材料は揃っている。
「――友って言うのは何なんだろうな……」
そう吐き出した龍磨の眉は深い皺が刻まれている。
平然と天魔の餌とするならば、少なくとも棗は友と思っていなかったはずだ。だが橋本は棗のことを真実、友と思っていたのか。
棗御木というのは高校の頃、教師の覚えもめでたい優秀な生徒であったという。一方で、妬みから発した苛めを受けていたらしいというのが橋本の同級生から聞き込んだ結果だった。そして、橋本は棗と友人関係にありながら、苛めに対して静観を保っていたというのが晒された真実だ。
たったそれだけの事、と言ってしまっていいのだろうか。少なくとも、棗にとっては命を奪うには十分な理由だったはずだ。
「心地よいですからねぇ……絶望に叩き落とされる顔は」
いつも通りの丁寧な口調で、セルジュは口にした。
彼に注目が集まったが、そのことを何とも思っていないようにセルジュはその一言を吐いたきり、口を閉ざした。
「だけどこれではっきりと分かったわ。棗御木は望んで天界側にいる者――使徒」
棗を主軸に事件が起きていることから、天界ではなく彼女自身が事件を起こしているのだ。凪が断定するのに、皆が首肯した。
「ってぇなると、気になるのは今回の件との接点ですね」
この事件は一見すれば「御守事件」とはまるで趣が異なっているように見えるが、ターゲットを招くという手法は同じだ。
「一つは、みんなもわかっている通り――あの指輪」
凪が一つ、指を立てた。
昨日、深夜になっても眠る様子のない真紀を來鬼がマインドケアを使いながらそっと指に填まった指輪を抜いた。その途端、真紀は倒れ込む様に眠りについた。
真紀の可笑しくなった理由が指輪にあることは確実だった。
そもそも、それがサーバントであることに彼らは岸田夫婦に会いに家に来た時点からわかっていた。ただし、早々に襲い掛かってくる気配がなかったので、警戒しながら現状を把握することを先にしたのだ。
分かったのは、サーバントが結婚指輪二つであり、症状こそ薄いが岸田自身も暗示の影響を受けているということだ。
「あのサーバント、どうにも接触型のようね。それに、個人差も大きい」
御守事件の時も、被害者が御守を購入してから失踪するまでにかかった時間はバラついていた。そのことがより事件の連関性を薄く見せたのだが、今はどうでもいい。
岸田が暗示の影響が薄いのは、多分直接指に填めていたからではなく、ネックレスに通して首から下げていたためだと思われる。
「しかし、厄介だな……。俺たちにはまるで反応しない」
雅が昨夜のことを思い出しながら零した。
二人から取った指輪を填めてみたが、彼らに暗示は囁かなかった。
指輪型のサーバントを倒すことは容易いが、それをすれば敵に到る道は閉ざされる。真紀がどこへ呼び出されるのか、場所もわからないままでは今見える敵を倒したところで、真紀が再び狙われる可能性もあった。根本を断たなければやはり、話にならない。
「もう一つには、被害者が――つまり岸田真紀が橋本と同じく棗に恨まれる要素があるのではないか、ということね」
その午後、揺籠が岸田を前にしていた。凪は傷を負った状態では、と遠慮し龍磨と雅の警備に加わったので、代わりにセルジュとクロエが脇で聞いていた。來鬼とウェルの二人は別の部屋で真紀の相手をしている。
「この人に見覚えありませんかぃ?」
揺籠が以前にも使った写真を岸田に見せる。
横顔だけでピンともずれてはいるが、恨まれるほど近い関係性を持っていたならこれだけでも十分なはずだ。
「御木……? 一体、彼女がどうしたんですか?」
岸田は知り合いのような口振りだ。線が繋がったことに心の中でしめた、と思うも焦らない様に会話を続ける。
「どうやら、心当たりがあるようですね」
「俺たちの友人ですけども……」
なぜ今彼女の話が出るのかわからない、といった風に岸田は言葉を途切れさせた。不安と疑心が相まった表情が素直に出ている。
「恨まれるような覚えは?」
その問いかけに岸田はハッとしたように息を飲み、彼らの顔色を伺った。正直な反応だ。
「はて、口を噤むのは一体どういった理由か?」
疚しいことがあるのだろう。当然だ、恨まれるようなことと言われてすぐに思い当たるならば、口にするのも憚られるだろう。
「棗は――俺の恋人だった……」
暫くして口を開いた岸田の言葉はそんな言葉から始まった。
岸田夫妻は元々幼馴染で、二人して大学入学の際にこの街に引っ越してきた。
ここまで聞けばなんとなくその先も予想できそうなものだが、――つまり棗は当て馬にされたのだ。
そこにかなり岸田夫妻の意図があったかどうかは別として、互いに意識していなかった岸田夫妻は棗が岸田の恋人になるということを経て自覚をし、くっついた。
実際のところ、棗の方から別れを切り出したとかその後に岸田たちが自覚したとか色々前後があるがつまりそう言うことだ。
そして何とも呆れることに、彼ら、そんな関係である棗と「良い友人関係」というものを現在まで継続していたらしい。普通は泥沼になるはずなのだが、棗が上手く気持ちを隠していたのだろう。
昨日も一緒にいたからわかるが、この岸田夫妻というのはかなり天然な性格――いや、善人らしい。
「それで、言われるがままに指輪を?」
セルジュの促しに、岸田は素直に頷いた。
「――くっ」
思わず出た声に口元を押さえると、セルジュは失礼と短く言って部屋を後にした。
(まさか)
歩きながら、セルジュは口元に浮かぶ笑みを止めることができなかった。
(悪意に気付かない人間、か)
どこまでなのだろう。どこまでが気づいていなかったのだろう。
意識はしていなくとも、思考は止めていたはずだ。疚しいと思う事象が横たわっているのに、どうしてそのままの関係で射られるというのだろう。それは表面上の関係を望んでいたからこそ、裏側をあえて見なかったに過ぎない。
鈍感であれ、と悪意をわざと見ないふりをしたのだ。
「自業自得という奴ですか」
人間もたまにはいい言葉を作るものだ。
セルジュは薄い笑みを張り付けたまま、外で警戒する龍磨に交代を申し出た。
「ちなみにですが、橋本千種という人物の名に覚えは?」
龍磨が尋ねた。
岸田夫妻が棗に会ったのは大学時代だから、棗の高校時代の友人である橋本とは接点がないだろう。とはいえ、聞いておく分にはと思ってのことだった。
やはりというべきか、岸田は暫く考え込んだ後に首を振った。
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「宗教団体の方も聞いてみたけど、聞いたことないみたいだったよ」
「そっちは名だけ使った、っていうのが事実でしょうね」
クロエの言葉に凪が頷く。
「棗御木への連絡は取れなくなったというのは僕たちが動いているのがバレたからかな?」
「どうだろ。もう仕掛けは終わっているから連絡する必要が無くなったのかもしれない」
龍磨の問いかけに、來鬼が返す。
どっちもあり得る話だ。だが、こちらの動きが分かっているのならば、一度向こうに宣誓するぐらいしといてもいいかもしれない。
「次、敵に会ったら喧嘩吹っかけてやる」
天魔というのは己を作った物と感覚をある程度共有するらしいから、もしかしたら伝言を受け付けるかもしれない。とはいえ、わざと敵を逃がすつもりはない。
夜中、三時も過ぎた頃だ。真紀が動き始めた。
心配げな岸田を押さえ、彼らもまた追跡を始めた。
そこは交差点だった。
ふらり、ふらりと歩み遅くも真紀はその場所に漸く辿り着いた。
今までの徘徊は岸田によって途中阻止されていたため、彼女はその達成感からか笑みを浮かべたのが遠目でも雅からはわかった。
夜の暗さを意とも介さない雅の視線の先、それは現れた。故に、宣言する。
「銀狼の名において標的を噛み殺す」
真紀を誘拐しようと現れた敵は兎の型をしていた。――兎とは狼に食べられる存在だ。
闇の中、気配を紛れさせていたクロエはひっそり、動いた。
間もなく、兎の鳴き声が夜の静寂を揺らした。
「兎っていうんだから脚自慢なんだろうけど、これで逃げられないよね」
敵に気取られることもなく近づいたクロエの攻撃は的確に、兎の脚を潰していた。
敵の片割れが、一足で真紀に近づく。
しかし、その足が着地するよりも前に薙ぎ払われた。
「恋や愛をベットに人を賭けたんだ、賭博師兎の取り立てはキツイよ……!」
小さな体が空を吹っ飛び、それでも宙で体勢を整える。一度は払ったものの、すぐさま飛び跳ね戻ってくのに敵は根性だけは一人前か、と思いながらウェルはすぐさま二打目に備える。だが、
(空振り……っ)
兎はウェルの射程範囲ギリギリ外に着地した。そして、真紀に向かうのではなくウェルに歯を向けてきた。
咄嗟に、ウェルは攻撃が当たらないよう退く。つまり、真紀から離れた。
それを敵が見過ごすわけがない。早々、真紀に兎は向かった。
その時、月明かりだけの戦場に眩い光が降った。
「だりゃぁああ!」
星の輝きに目が眩んだ兎を、來鬼がインパクトで叩く。
ハッとして、ウェルも敵との距離を稼ぐよう掌底を撃ち込んだ。兎はまたも、吹っ飛ぶ。
接敵の連絡を受けた凪たちはそれぞれに配置についた。
凪は傷の為に後方支援。だが、その分だけ狙撃に専念するつもりだ。今の自分で最善を尽くす。――ナイトヴィジョンで見える視界に目を細め、構えたライフルの引き金を絞った。
セルジュの作り出した妖蝶が傷ある兎の前を覆うのと同時、龍磨は真紀に駆け寄った。
「真紀さん!」
この場を離れようとしない真紀の指から、指輪を引き抜くとその体は力を失った。倒れかけた身体を支える。呼吸はあるが意識はない。
「その陰険なやり口、まさしく、お前の主の心そのままだね!」
龍磨は真紀を翼で庇いながら、兎に向かって言葉を放った。
だが、安い挑発に乗ってくれそうにはなかった。兎は元来臆病な生物である。その性質を受けているのか、天魔である兎二体も早々、勝ち目がないと見切りをつけたらしい。
逃げようと背を見せた。その瞬間、遠方からの銃弾が足を負傷した兎を貫いた。
「……さすが」
ピクリとも動かなくなった兎を前に、龍磨は小さく呟いた。
未だ戦闘中なので振り返ることはしないが、近くのビルの隙間から銃口が覗いているのだろう。真紀の徘徊パターンから、ここが最終目的地であることは事前に割り出し済みで、学園にも各所の立ち入り許可は貰っている。
もう一匹を後ろから揺籠が薙ぎ払った。兎の体は吹っ飛ぶ、がその勢いまでも利用して兎は逃げ出した。まだ体力が残っていたらしい。
「お前の主に伝えな。これ以上、恋だとか愛だとかを食い物にするなら……代価は高くつく、ってね」
逃げる兎の背にウェルは言葉を投げた。
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「真紀さん、あなたは狙われている。それは認めなければならない事実だと思う」
正気に戻った真紀は当然のごとく、棗の所業について否定した。
友人であるのならば当然のことかもしれない。だが、友人だと思っているのは真紀だけだろう。
確たる証拠まで、まだクロエ達は掴んでいない。けれど、それは事実だ。
「身を守るためにも、――棗にあなたを傷つけさせないためにも、行こう?」
真紀の手を取り、クロエは訴えた。
今もなお友人であるというのなら、いや友人だからこそ真紀は傷つくわけにはいかないのだと思う。
「……保護を、受けます」
それが真紀の、棗の友人としての答えだった、