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昼の心地よい風が河原を吹き抜ける。
「利峰から連絡が来た。錦が通った様だ、今から道の封鎖を開始するらしい」
携帯を仕舞いながら命図 泣留男(
jb4611)もといメンナクは仲間に声をかけた。
ネットに手紙を流すという強引な方法でAOIへと連絡を付けた青年・錦。
彼の行動から派生した今回の依頼は撃退署や警察と連携して道を封鎖することで一般人への被害を失くす方向性で動いている。念入りに警戒して過ぎることはない。
現場を確認をしていた他八名はその言葉を聞いて頷いた。
「じゃぁ、予定通りということでいいね」
確認を取る様に面々の顔を見回すジェンティアン・砂原(
jb7192)。
「ああ、ここは任せておけ」
頷く黒羽 拓海(
jb7256)。この河原でAOIを警戒しつつ待機するのは拓海に加え、ソーニャ(
jb2649)と九十九(
ja1149)。
「では、私も行かせてもらいますわ」
微笑を堪えながらヒラリ空に舞ったのはロジー・ビィ(
jb6232)。頭を下げて続いたのはアステリア・ヴェルトール(
jb3216)だ。約束の時刻が迫っている今、周囲の警戒は必要だ。AOIが空から飛来する可能性もないではない。
「錦様……」
錦の元へ向かうイリン・フーダット(
jb2959)・メンナク・ジェンティアンの後ろに続きながら織宮 歌乃(
jb5789)は口にした。
「納得していただけるとよいのですが……」
今回、行動するにあたって歌乃は錦とAOI――葵の関係を軽くだが聞き知った。
(魔歌の姫君、貴方は共に音を並べた殿方に何を思ったのですか――?)
病であれ、時であれ。失ったものはそう簡単に戻るものではない。それを、歌乃は知っている。
河原を背にする。
「過去は過去だよ。AOIと葵は別人なのに、なんで押し付けるかな……」
鉄橋の下、橋脚の影に隠れながらソーニャは呟いた。
ヴァニタスであるAOIに過去はない。
けれど手紙はAOIを葵という過去へと繋ぐ。そのことに、ヴァニタスとして生きるAOIが何を抱いたのか。
来てほしくない、来なければいいのに。
そうであれば、錦は葵という少女を胸に抱いたまま。ヴァニタスを知ることなく済む。そして、AOIもまた人であったことなど知らぬ方が――人外である彼女には幸せなように思う。
(責めないでよ)
まるで、記憶がないことが罪のようだ。
きつく握った拳を抱きしめながら、記憶のない天使――ソーニャはせせらぎを見つめ続ける。
「厄介さねぇ……」
感情移入しているソーニャの様子を見て、九十九は呟いた。その口調はまるで他人事だ。いや、AOIと錦の事情は心情的には理解できるが、だからといって他人事でしかない。
AOIが生前、葵だったとして。ヴァニタスになった時点で葵の肉体は死に、現在AOIにも生前の記憶はないだろう。ならばそれは同一人物ではない。ややこしいのは一般人である錦が入って来たからだ。
やれやれ、と息を吐くがそういう厄介さは撃退士の仕事にはつきものだ。けれど仕事だ、線引きして感情とは別に対処するのが正しい。
「AOIも、ねぇ出張らなくていいと思うんさね」
AOIは人間界にちょっかいを出さない、と言ったのだから引っ込んでいればいい。警戒は気負い過ぎただけ、笑い話になるだけだ。
もう一度溜息を吐き、九十九は手に持つ弓の握りを強くした。
翼をはためかせ、中空を巡回したアステリアはロジーの姿を見つけて声をかけた。
「ロジーさん、こちらは異常なしでした」
「私もよ」
振り返ったロジーがほらあそこ、と示す場所にアステリアは目を凝らした。
「錦さんたち、ですね」
歩く男性を引き留めるように、二人の男女が追っている。そんな三人から少し離れた場所で尾行している者が二人。どうやら説得は難航しているようだ。
「正直、」
口を開いたロジーにアステリアは目を向けた。
「錦の気持ち……判らなくはないですわ。けれど」
言わずとも知れた。今のAOIにその思いが通じるか否か。そして通じなければ――
「危険、でしょうね」
「……姿形は同じでも生前とヴァニタスは別物です。隔てるものはたった一つ、けれど他の総てが同じとて別であると思うのです」
「――錦自身が身を持って知るのでなければ、納得しないでしょう」
錦はAOIに会いに行こうとする。それは絶対だろう。しかしAOIはどうだろうか。
けれど、結局のところ
「私たちはわたくし達のできることをするだけですわね」
アステリアは頷き、またも散開した。
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ジェンティアンの説明に、ようやく錦は歩みを止めた。
ジェンティアンが口を開くたびに刻まれていった眉の溝は未だ深く、その表情も強張っている。
「どうにか、留まっては下さりませんか」
歌乃が訴えかけるも、錦から返る答えはなかった。諾と言う代わり、否もない。ジェンティアンは錦が答えを出すのを待った。
今、錦の心の中ではいろいろなものがせめぎ合っているのだろう。行方不明だった人物に会えるかもしれない、そう聞かされればジェンティアンだって会いたくなるだろう。ましてそれが恋人であったならば、居ても立っても居られない。
それでも、ヴァニタスと二人きりで会うなど無謀すぎる。
「慈さまにとっての御友人は錦様も同様――どうかご自愛ください」
「――慈……」
小さく友の名を口にすると、錦は何かを決意するかのように瞼を閉じた。そして、目を開いた時には強い意志が灯っていた。
「それでも。会わなきゃ、前に進めないんだ」
「……強情だねぇ」
「砂原さま……っ」
困ったように苦笑するジェンティアンに、歌乃が泣きそうな声で名を呼んだ。しかし、ジェンティアンは首を振る。止まらない、止められない。
力づくで抑えることはできる。待ち合わせ場所に行かないよう、意識を刈り取るでも一時的にでもどこかに隔離することもできる。だが、それでは問題が先送りにされるだけだ。
現実を知らなきゃいけない。たとえそれが残酷な本当だとしても。
「ただし、不用意にAOIへ近寄らないこと。僕らを護衛とし、僕らの言うことを聞くこと。――約束できるね?」
「ああ」
深く頷く錦に仕方がないな、と言葉を漏らしてジェンティアンは錦の横についた。歌乃は目を伏せ、これ以上言っても、と二人に続いた。
「く……っ! 錦、なんて奴だ!」
そんな三人の後ろ、サングラスの下で涙を流す者がいた。
「哀愁を背負った男に女は心を動かされるものだが……お前は少し、哀しすぎるぜ」
心優しき堕天使メンナクは錦に強く同情していた。今までは考えてもみなかった、AOIというヴァニタスの過去。人から逸脱した存在であり、天魔の配下。今は人類の敵として人を搾取する存在だとしても、人間であった時代が――生前が誰にでもあるものだ。
そして、人間であれば思い出が、関わった人が、絆がある。少なくとも、生前の葵の人生は――第三者の立場から見て、悲劇であったのだ。
親切心溢れるが故に人間界に降りてきた堕天使、メンナクにとってそれは強く心を打つ。
「メンナクさん、行きましょう。見失ってしまいます」
そんな感情的なメンナクとは対照的に、イリンは事務的に声をかけた。錦の護衛として忠実に尾行の再開を促す。既に錦含む前方の三人は角を曲がるところだった。
待ち合わせの河原について、錦は淀みなく歩くと不意に止まった。
「いない、か――」
周囲を見渡す錦が呟くのを二歩下がって護衛する歌乃が見守る。ジェンティアンは錦と同じく、周囲へと視線を巡らせている。
見晴らしの良い河原だ。水の流れる音が耳に心地よい。長閑そのものだ。
だが、近くでは他の仲間たちが光纏しながらAOIが来ることを警戒している。一見して光纏を知られてしまう歌乃は別として、ジェンティアンは眼鏡の下に青紫色の瞳を隠す。
待ち合わせの時間まで、あとどのくらいか。錦は手首を返し、時計を確認する。
「――下がってください!」
鋭い刃が空を切って飛来する。
渓谷に体を強張らせ、けれど動けなかった錦の見開かれた目の前には白い羽根が宙を舞っていた。
「な――」
全身が白く、大きな翼を持つ青年が何かを堪えるようにしながら錦を背後に庇っていた。
「天使……?」
「久遠ヶ原から全世界を支配する黒い呪文がFUGA!」
またしても割り込んだのは白い翼を持つ、
「天使、なのか……?」
全身が黒い男だった。
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遠方からの攻撃に、錦の前へと割り込んだイリンは自らの翼で受け止めた。そこに追撃が来ないよう、メンナクが前に出てシールゾーンを展開する。敵の攻撃が届くのだ、よほど広範囲の攻撃ではなければメンナクの攻撃も届くはず。
「大丈夫だ、俺様は人情を知る伊達ワル、お前の味方さ」
「伊達ワル……?」
「あれを防いだのは流石、というべきかしら。憎々しい位にね」
空から落ちた言葉に、河原に潜んでいた面々は武器を手に飛び出した。
「葵?」
スッと地面に足を付けると黒々とした翼を仕舞い込む少女――AOIはキッと錦を睨みつけた。ゾワッと錦の背に怖気が登る。
「あなたが錦?」
撃退士たちの警戒を意もせず、ただAOIは錦に問う。ただ、そこには程の凄まじい殺気が乗せられている。そして、そのオデコの瞳はぎょろり、と目を向いていた。
「はい……」
顔色を悪くさせながら、けれどなぜだか敬語で質問に答えを返す錦。AOIのオデコにある瞳に見つめられた瞬間、言葉がするりと出ていた。
暗示か何かか、と思い九十九は視線が届かないよう仲立ちした。もちろん、錦の両横にはメンナクとイリンがそれぞれ張り付いている。
その時、まったく別の方向からゴロゴロと音を立てて何かが転がって来た。しかも、左右から二つだ。透過したまま接近する予定だったディアボロ達だが、阻霊符の影響によって姿を現し、遠距離からの登場となったのだ。
「回避だっ」
近づくにつれ、その大きさが分かる。拓海は叫んだ。皆、それぞれに進路から外れる様に散開する。
回転速度によって強大な威力を身に着けただろう、茶色い丸玉は二つともメンナク達を追うこともなく真っ直ぐと転がり、通り過ぎて川に入り込んだ。そこでようやく止まる。そして、二つは合体した。
「達磨か?」
土の、いや今は濡れて泥となった丸玉は二つ上下に重なった。ほんの少しだけ大きさの違う二つの丸による二等身はまさに、雪だるまの茶色バージョン。
「あたしは悪魔の下僕、ヴァニタスのAOI。――あなたを殺す者よ!」
皆が土達磨の挙動に注目していた隙に、距離を詰めようと前に出るAOI。名乗り上げの言葉に気付くも、既にAOIは錦と、錦を回避していたイリンに向かっている。
「あら、物騒なことね」
黒い光の衝撃派がAOIの踏み出そうとしていた前方に落ちた。
直撃はしなかったものの、間近でその威力を受けたAOIは吹き飛ばされながら体勢を立て直す。その背に、剣が振り下ろされた。
「っぁぁあ!」
すぐさま身を翻したAOIは禍々しい色のアウルを纏った二振りの剣を振り抜いた体勢のままでいるアステリアに蹴りを放った。アステリアもそれをすんでで躱す。
「浅い、ですか……」
死角からの不意打ちによって確実に攻撃は入った。その証拠にAOIの背にある翼から剥ぎ取られた羽が舞っている。しかし、はぐれ悪魔たるアステリアの攻撃はあまり、効果のあるものではない。
「きさまら……っ!」
「まぁ。顔が怖いことになっていてよ」
怒気を表すAOIを挑発する詞を投げつけるのは土煙が晴れたそこから現れたロジーだった。
「あんたもわかっただろう。アレはあんたの恋人だった葵じゃない、悪魔に操られた人形だ!」
拓海はゴロゴロと突撃してきた達磨の半身を、小太刀を交差させることで受け止た。増加した土達磨のせいで既に状況は混戦状態。皆、それぞれに必死に戦っている。
AOIは錦を殺そうと、歌乃とジェンティアンはAOIを抑えようと。他の皆は八体もの土達磨に対峙している。河原は先ほどまでと様子を変え、草が押しつぶされ、土が露出され、クレーターが幾つもできている。
余裕などない、一般人にはさっさと退避してほしい。
「強制離脱します」
イリンが錦を抱えて、戦闘区域から離脱しようと空に飛ぶ。抵抗は、なかった。
「……葵は、もう――」
錦の口から、何かが呟かれる。
「行かせるかぁああ!!」
追いすがるよう、AOIが空へと立とうとし、歌乃が斬りかかった。緋色の剣から獅子が飛び出し、AOIへと噛み付かんとする。
「待っていろ、絶対、絶対にお前ぉおお――!!」
言葉が、遠のいた。
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錆血風を使用した達磨を蹴飛ばして進路を変更させると、九十九は次の相手に向けて蒼天風を向ける。
蹴飛ばされた達磨は拓海の刃に切り伏される。そんな拓海のモーションを狙う達磨がこんどはソーニャの援護によって弾き飛ばされ、低空で滑空したアステリアの双剣に斬られる。そうかと思えばロジーの封砲が河原を根こそぎ蹂躙した。
その間、AOIと相対していたのは歌乃とジェンティアンだった。
踏み込む歌乃に対して、AOIは避けた。切り結べばその瞬間、獅子が飛んでくるのはわかっている。
だが避ければその場所にジェンティアンの銃撃がやってくる。またも回避を取らされ、今度はそこに歌乃が待ち構えている。
「キミが好きだった曲だってさ」
口ずさむジェンティアン、心で訴えかける歌乃。しかし、AOIは微塵も心を動かすことがない。
「あたしはヴァニタス、ヴァニタスのAOI。葵など知らない、そんなもの……っ!」
人間であった頃。それは今この場にいるAOIそのものを否定する。ここにいるのはヴァニタスであり、ヴァニタスでしかない。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる」
呪詛のように呟くAOIに歌乃はグッと眉を寄せ、想いを強くする。
「私は貴女を認められない」
歌乃の突き出した剣を避け、距離を取るAOI。その視線の先、戦場を離脱しようとする二人の姿。一方は白い、翼を持つ者。もう一方は。
「っ――?」
殺意を滾らせて、何事かを言おうとしたAOIは完全に動きを止めた。隙あり、と歌乃が距離を詰める。しかし、
「ウェイブ!」
AOIから放たれた言葉は歌乃とジェンティアンの動きを止める。
「――チッ」
中距離から出てしまったイリンと錦に効果はなく、言葉を投げつけるもAOIは遠のいた背に舌打ちした。
(なぜだ?)
シールゾーンの効果は効いていたはずだ、と思うジェンティアンの目に、AOIの握るものが眼に入った。それは、マイク。
「増強効果でもあるのかな、それは……」
それならば今、シールゾーンの効果が発揮されない理由がわかる。以前は一瞬のみしかかからなかった動きを停止させる攻撃が、ジェンティアンたちを今なお身動きさせずにいることの説明にもなる。
「もう、めちゃくちゃよ……出直すことにするわ。アイツは、必ず殺す」
アッと気づいた時には、AOIは空へと飛んでいた。翼を切られ、あちこちに傷を作りながらヨロヨロと帰っていくのを、けれど黙って見ているしかなかった。