●その翼を撃ち落とす
少女は風の靡く崖の窪みの上で今も尚孤立していた。
暖かさが微塵も感じられないこの場所で、更に孤独という状況を加算して牧原美里の精神は限界へと近づいていた。
体操座りをした膝に顔を埋め、項垂れた茶髪が耳を撫でる。
その髪の隙間から聞こえて来るのは窪みに勢い良く入る風の音、そして遠くから響く鳴き声だ。
鳴き声とは、間違いない。彼女を攫ったあの大鴉の忌まわしき雄叫び。
(「……携帯も充電切れた……やっぱりもう誰も……」)
「撃退士だ! 今、助けに向かう!」
突然響き渡った男の声に、美里はハッと顔を上げた。
這う様に窪みから身を乗り出し、覗き見た眼下には七人の男女の姿。
先頭に立つ年配に見える男性が先程の声の人物だろうか。
その男、ファーフナー(
jb7826)は美里の姿を確認すると一度更に上を見上げ、周囲の仲間達と何やら二言三言会話をして再度美里へ声を張り上げる。
「護衛がそちらに向かう、動かずに隠れていてくれ!!」
ファーフナーへ返答をしようとした美里だが、僅かな気力に同じ声量を出す事が出来ず、代わりに素早く頷くとサッと元居た場所に姿を消した。
彼女が完全に窪みの中へ消えて行くのを見届けると、濃い紫地の武者袴を纏った少女、不知火あけび(
jc1857)が近寄り、彼に声を掛ける。
「牧原さん、無事みたいですね。良かった……」
彼女が居るのは崖の中腹辺り。高さにして大体20メートルといったところか。
また厄介な所に攫われたなぁ。
そう思うあけびにケイ・リヒャルト(
ja0004)は空を見上げながら言葉を返す。
「とは言っても、悠長にしている暇も無さそうね」
ケイ、そしてファーフナーが見上げた方向には黒い影が見える。
大きな二体の黒い影。一体は崖の頂上に威風堂々と腰を下ろし、もう一体はその上を旋回していた。
頂上に居座る大鴉が僅かに動く。小さな岩の欠片が転がり落ちた。
(「……その場で啄まれなかっただけマシ、か」)
向坂 玲治(
ja6214)の黒い瞳がジロリとその二体を睨む。
同時に、薄陽 月妃(
jc1996)が崖に向かって飛び出した。
「あの鴉達はお願いします!」
彼女に続き、玲治、あけびも崖へ駆け出す。
月妃の呼び掛けにエルネスタ・ミルドレッド(
jb6035)、フローライト・アルハザード(
jc1519)の二人がそれに答えるかのように、それぞれ天使と天魔の翼を顕現させ、飛翔した。
救助対象を無事に助ける為にも、鴉達は早々に片を付けるべきだ。
臨戦態勢に入った撃退士達を見下ろした鴉が大きく翼を広げ、天を仰ぎ一際大きく鳴く。
新しい獲物だ!
そう告げんばかりに。
●
二人のハーフが空へ飛び上がるのを視認してから、頂上に鎮座していた大鴉は羽ばたき、更に高度を上げる。
が、頂上部から数メートル離れたところでその高度がガクッと落ちた。
ファーフナーの投擲したアウルの鎖が大鴉に絡みつき、そのまま真下の地面まで引きずり落としたのだ。
崖下へ落下した大鴉、の傍をもう一羽の黒い影が掠めた。
直前、接近に気付いたファーフナーの肩口に大鴉の嘴が傷跡を付ける。
「ミルドレッド」
「えぇ」
フローライトが眉の一つも動かさずに傍らのハーフに呼びかけると、エルネスタは頷くより速く攻撃を仕掛けた大鴉へと飛んだ。
狙うはその大きく広げた翼。
天使の力を引き出し、エルネスタは自身のアウルを蠍の腕へと形成させ強襲する。
甲高い鳴き声で鴉が鳴いた、が身体を激しく動かしたせいでそのまま挟み込む事までは出来なかったようだ。
辛うじて痛手を免れた大鴉は再び空へと舞い上がる。
そうして中腹辺りに来た頃だろうか。
大鴉の瞳に、キラリと光る小さな『何か』が映り込んだ。
それを宝石とでも思ったか、鴉は飛翔を中断しその光り物へと導かれるように滑空する。
しかし、当然ながら意図的に映し出された宝石の位置から飛び出したのは研ぎ澄まされた銃弾。
今度は短く大きい鳴き声を上げると大鴉は翼を激しくはためかせながらも高度を落としていく。
「……上々、ね」
銃弾の元で絹の様なストレートの黒髪が揺れた。
日の光を反射させて儚げに光る手鏡を足元に、ケイはもう一体へ銃口を向ける。
出鼻を挫かれた形となった大鴉達。彼らと言うべきだろうか。サーバント達に取って注目すべき相手は多数に渡って存在した事だろう。
だが、それらを差し置いてサーバント達にはもっと目を引くべき存在に気が付いた。
それは言うなれば『オーラ』であろうか。
ともかくその鴉達にとっては光り物以上の魅惑であったか、もしくは蓋をしてでも閉じ込めたい害悪であったに違いない。
フローライトがもたらすそのオーラは、一瞬でも鴉共の注意を引くのには充分であった。
交戦の合間、土と岩肌を駆ける者達が居た。
まず崖下に辿り着いた玲治が用意した楔とハンマーを素早く取り出し、崖へと打ち込んでいく。
その楔を足掛かりに月妃が崖を飛び移り、その傍の岩壁をあけびが駆け登る。
術を使用して気配を薄める事も確かに出来たが、あれだけ敵を引きつけてくれているなら態々活性化する迄も無く、現在の状態で充分だろう。
逸早く救助者の元へ辿り着いたあけびが中の人物へと声を掛ける。
「牧原さん、助けにきましたよ!」
「あ、貴方達は……」
眼前で視た美里は、崖の下から見た時よりも痩せ細っているように感じた。
「先程言っていた護衛の撃退士です」
と、そこに楔を頼りに飛び移って来た月妃が、中腹へ着地と共に彼女へ告げた。
裾に付いた土を軽く払い、微笑して首を少し傾げる。
「もう大丈夫ですよ。私達がお守りしますからね」
月妃の言葉に、美里は安堵の息を漏らした。
本当に、心臓の奥から吐き出された深い、深い息。
それまで溜め込んでいた不安を一緒に吐き尽した時、新たに中腹に辿り着いた男から声が掛かった。
「おう、無事だな」
ぶっきらぼうにそう言い放ったその男、玲治はその場で半身を翻すと、もう一言付け加える。
「そのまま、そこに居ろよ」
言葉の直後、玲治の周囲に七人の騎士染みた幻影が展開し、結界を張り巡らせる。
状況を呆けて見つめる美里に月妃は優しく声を掛けた。
「怪我はしてないですか?」
手早く救急箱を広げる月妃に美里は肘を擦った。
「少し擦りむいたくらいです……」
「少しの怪我でも女の子は治療を怠ってはダメですよ? 痕になってしまいますから」
手慣れた手付きで処置を施す月妃が、フッと何かを思い出して自身の携帯品から防寒着を取り出した。
「さぁこれを。寒かったでしょう? 少しでも暖かくしましょう」
「あ……りがとう」
その窪みの前をフローライトとエルネスタが交差する姿が見え、玲治とあけびがそれを覆うように美里の視界の前に立った。
鴉の姿を見せないようにするだけでも精神的効果は有るだろう。
「今はこれしかありませんが、何か食べられそうですか?」
戦闘から気を逸らす為にも、何より美里自身の為にも月妃が取り出したのは軽食と飲み物。
「出来れば……暖かいものだと嬉しい……かな」
「なら、これはどうですか? あ、あとこれもどうぞ!」
あけびから手渡されたのは暖かなあんまんにはちみつゆず茶、それに携帯カイロ。
美里は礼を言いながらそれらを受け取ると、小さく胃に収め始めた。
やり取りを後ろに聞きながら、玲治は眼下の敵に弓矢を向ける。
「……一体こっちに来るぞ」
●
崖下ではやや一方的ながらも攻防が繰り広げられている。
攻勢なのは勿論大鴉達の機動力を削いだ撃退士達に有るが、サーバントも防衛より反撃に徹しているようだ。
落下はしたものの完全に動きを封じられていない事も反撃を許す展開に繋がったかもしれない。
上空からはフローライトが死角から放った黒色の鉄鎖に合わせ、エルネスタが側面から蠍の腕を仕掛ける。
その巨体で跳んだ大鴉に蠍の腕は躱されてしまったが、フローライトに合わせた攻撃はそれだけでは無い。
大きく踏み込んだファーフナーの掌底、そして遠距離からはケイによる銃弾が大鴉を襲う。
もう一体の大鴉はファーフナーのアウルの鎖によって未だ地を離れる事は出来ない。
が、こちらもそれで大人しくなる訳も無く、その場で翼を羽ばたかせるとフローライトへ向けて烈風を巻き起こす。
「む……」
微かな切り傷。しかしその間にもう一体の、星の鎖に捉われなかった大鴉が自身の傷を顧みず、上空へと羽ばたく。
状況が不利だと直感したか。それとも獲物を奪われまいと躍起になったか。
フローライトのオーラよりも優先して大鴉が飛び立った先は、護衛と美里の居る中腹の窪みだ。
ケイが咄嗟に銃をそちらに構える。
その先には既に巨大な和弓を構える玲治の姿。振り向く事無く奥に何やら声を掛けていた。
翼の音で、窪みの中に居たあけび、月妃、美里は一斉に外に目をやった。
「必ず貴方を助けます。もう少しだけ頑張って下さい」
目線を合わせ、ゆっくりと声を掛けて立ち上がったあけびが月妃と頷き合うと、玲治の方向へと駆け出した。
「ただじっとここで過ごすのも辛いでしょう? こんなのはいかがでしょう」
月妃がその後ろ姿を隠すように座り直すと、なるべく美里の気を逸らせるよう、アウルのインクで地面に絵を描き始める。
「わ、凄い……ね!」
チラリと背後に目をやった月妃は、次に音楽プレーヤーのイヤホンを片方差し出す。
「大きな声は出さないで下さいね? この曲知ってます?」
曲に合わせ、月妃は子守歌のように歌を謡う。
完全に不安が取り除かれるとまではいかなかったかもしれない。
だが、隣で穏やかに謡ってくれるこの撃退士を、血生臭い光景から背けてくれるこの撃退士を、美里は柔らかな花のように感じていた。
大鴉は手負いとは思えぬ動きで素早く窪みへ姿を現した。
あまりに近い距離。
だが、逆にこの距離ならば狙って外したりしない限り命中は確実だ。
あとは、どちらの手が速いか……。
被弾に怯まない自信が玲治には有る。例え先手を打たれたとしても、この影と矢をぶち込むだけだ。
邪魔者達を一掃すべく、大鴉は烈風の予備動作、すなわち翼を大きく震わせる。
対象は玲治……だが、数秒、数秒だ。
大鴉が風を巻き起こす瞬間、玲治の影が膨らんだ瞬間、その中から紫色の影が飛び出して来た。
「狙うなら目が良いかな? ……それともその足を貰おうか」
刀身と鞘が擦れる音と共に、その影、あけびが足元から空中へ舞い上がる。
鋭い風が大鴉の顔面を横に薙いだ。
直後、紅い剣閃が鴉の瞳を奪う。
予期せぬ攻撃を受け怯んだ大鴉に、玲治が召喚した影の腕が足元から伸び絡みつく。
動きを止めた窪みの大鴉に、上空のフローライトから放たれた光の衝撃波が直撃した。
「無事か? 人間」
素っ気無くフローライトに問われた玲治は、同じ様な口調で返す。
「……あぁ、問題無い」
完全にバランスを崩した大鴉がそのまま崖下へと落下していく。
地面に堕ちる直前、その無防備な隙を見逃さず、ケイが腐敗の弾丸を撃ち込んだ。
最初に撃ち落とされた時の速度、対応、それに加え効率化されたアウルの弾丸が大鴉の身体を貫く。
空に悲鳴が響き渡った。
「どう? 弾丸で腐っていく気分は?」
艶やかに微笑するケイが微かに緑の瞳を細める。
透明感の有る声は冷ややかに鴉へと。
それは人間で言うところの五感の一つを奪われた鴉にとっても恐怖を覚えるには充分だっただろう。
もっとも。
「あら……残念。案外脆かったわね」
これから消え行く事を考えれば、それは余りにも遅過ぎた感情だったが。
片方が消滅していくその後ろで、星の鎖に落とされていた大鴉が翼を広げる。
だが、その大鴉の周囲を突如として深い闇が包み込んだ。
状況を冷静に把握していたファーフナーの援護だ。
反撃、回避、その隙を与えずに一筋の赤色が大鴉の頭上から突き刺さった。
余韻を残し、エルネスタの長髪が風に浮く。
「Dum spiro spero」
形成された蠍の腕は見事に大鴉の胴体を潰し、そのまま断末魔の先をもたらした。
「……Facta non verba」
それは誰に言った言葉だったか。
動かなくなった大鴉を背に、エルネスタはひっそりとそう呟いた。
●
牧原美里は無事に救助された。
とは言っても、訓練等していない一般人の生身の身体で崖を降りられる訳も無く、玲治と月妃が見守る中、崖下まではファーフナーが翼を顕現させ抱えて降ろす事になる。
意外と言うか、美里は恐がる様子も無く、むしろ貴重な体験だったと嬉しそうであった。
また、翼を顕現する際にファーフナーが増して渋い顔をしたように見えたが、気のせいだろうか。
「ミルドレッド、居たか?」
「いえ……どうやら攫われたのは彼女一人だけのようね」
ケイとファーフナーの案で上部、下部とそれぞれ窪みを調べた二人が地に降りて互いに報告し合う。
鴉なだけに光り物は幾つか見つかったが、どれも価値がある代物でも無かった。
そこへファーフナーに応急手当を施していたケイが近づき、二人もそれに気が付く。
どうやら用が有るのはフローリアのようだ。
「怪我を負ったでしょう? 看させて貰っても良いかしら」
「不要だ」
ピシャリ、とフローライトは断った。
代わりにケイの後ろを指して言う。
「あの人間にでも施してやったらどうだ?」
その先にはあけびの姿。
「え? いや私は別に……」
「お前じゃ無い」
あけびが背後を振り返る。
更にその奥で、ケイから渡されたゼリー飲料を片手に半ばぼう然とこちらを見る美里の姿が在った。
(「紛らわしい!」)
そんな心情も口に出す事無く、あけびは咳払いで取り繕った。
結局フローリアの負った傷はファーフナーが無言で回復し、結果的に負傷者は出なかったと言って良いだろう。
精神的な負傷と言う意味では月妃の対応が和らげてくれたし、玲治の万全を期した防御態勢も無事に終わった一つだ。
ファーフナーが炎を灯したりと暖を取った後、予めケイの手配した救急車で美里は病院へ行く事となった。
とは言え、軽傷なので簡単な検査後、すぐに実家へ送り届けられる事になるだろう。
この恐怖がすぐに消える事は無いだろうが、時が立てばそれを笑い話に変えられるかもしれない。
その時までは家族と穏やかに過ごすのも良いだろう。
この笑顔が、無事であるならば。