●彼岸と悲願、意図と糸
消してしまったもの、消えてしまったもの。
失くしてしまったもの、亡くしてしまったもの。
受け継いだもの、引き受けたもの、背負ったもの。
ひとも、悪魔も、天使も、皆それぞれが数え切れない程の何かを抱いて生きている。
命の煌めき、命の重み、命に貴賤はない。
だからこそ、美しい。だからこそ、凛々しい。
――綻び開き誇る大輪の花のように、いのちは、鮮やかに咲く。
●彼岸への便り
一組の男女が訪れたのは、とある墓地。
男――藤井 雪彦(
jb4731)の、母親が眠る場所。
「紗雪ちゃん、ここだよ〜。母さんがここで……眠ってるんだ」
雪彦の手招きに応じて後からついて来た駿河 紗雪(
ja7147)は、墓石を前にすると同時、目を細める。
その手には自身の管理する温室から持って来た花を束ねた包み。
白百合にカスミソウ、白を基調とした、まるで雪のように美しい花々。
「此処が、そうなんですね」
紗雪は道中、彼が許す範囲で、彼の母親の昔話を聴いていた。
だからこそ判る。どれ程雪彦が母を愛し、母を尊び、母を慈しんでいたか。
紗雪を元気付け、笑顔にさせてくれた雪彦。彼が時折見せる酷薄な表情が気になり、少しでも理解したいと思い、紗雪はこの場、母親への墓参りに付き添った。
「ごめんね〜お墓参りに付き合わせちゃって……中々来れないからさ……うんと綺麗にしたくって♪」
普段の軽い調子で告げる雪彦が抱く感情の機微を敏感に悟った紗雪は、ええ、と笑って応える。
彼の過去は凄惨なものだ。近親者は健在、特に大きなトラウマを抱えているわけでもない紗雪とは大きく異なり、母親を救えなかった――という余りに大き過ぎる心的外傷を負っている、雪彦。
雪彦には目標が在った。母を棄てた家族、一族への復讐を胸に家を飛び出した。大切な母を喪った悲哀によりアウル覚醒を経て、学園に転入。そうした彼が飄々としつつもいつも胸に抱いていたのは復讐心。
――そうだった。紗雪と出逢い、優しさに触れ、抱いていた憎しみや復讐心が霞む程、彼女がかけがえのない存在であるということに気付くまでは。
手分けして丁寧に掃除し花を手向け、墓前で手を合わせる二人。
胸中はそれぞれだったが、想いはある種ひとつであった。
(初めまして、紗雪です。本日少しだけ知ることが出来ました。――雪君は心の何処かで救えなかったと嘆いているのかもだけど、私は、貴女が救い守ったものを護りますね)
貴女――母親が救いたかったもの。隣で手を合わせ目を瞑る、雪彦。
護られるだけではない、彼を外的にも、精神的にも護り、共に居る。
そうすることで、彼の傷を癒すよう、紗雪は努めたいと願うのだ。
(憎しみの先を知りそれでも尚それが悲願なら、その時は、私も一緒に行きます。彼自身がこれ以上ひとりで傷付かないように……)
決して雪彦をひとりにさせないという使命感と、誓い。
墓石に眠る母親を前に心に定めた道標は、きっとこの先も違えることは無いだろう。
そうして、雪彦は薄目で隣で手を合わせ、今日一日真摯に彼に接してくれていた紗雪を見た。
(母さんに逢わせたい人……そう、ボクの大事な人。紹介したくて連れて来たよ……)
告げるは母親への報せ。大切なひと。復讐のみに滾り上辺ばかりで生きて来た雪彦の心を大きく動かし、変えてくれた少女、紗雪。
彼女と出逢ったことで、世界が変わった。こうして、新たな道を拓くことが出来た。
「ありがとう、紗雪ちゃん。母さんも凄い喜んでたと思う☆」
「私も……凄く喜んでいます。来て良かった。雪君ありがとーです」
墓前に供えられた、白い花々。それらを見詰めながら、二人は目配せをし合い薄く笑う。
(ね? 母さん、良い娘でしょ? ――今度こそ護ってみせる……母さんも見守っててね☆)
秘める誓いは、今度こそ、と願いを篭めて。
復讐心で彩られた目標を棄て、いとしいひとを護るという希望を手に入れた雪彦。
彼と、それに寄り添う彼女の進む道は、きっと明るい。
●彼岸の親友≪とも≫へ
恙祓 篝(
jb7851)は実家に向かうと、先ず花屋を訪ねた。
直感で適当に、作法なんてものはこの際関係無い。
供える相手に相応しい色をした、華やかな紅色の花を基調とした花束を店員に頼んだ。
篝が向かうはあの場所――卒業した中学と実家の中間にある河川敷。
そこに残る不自然なクレーターを前に、篝は普段より少しばかりはにかんだ、そうして憂いを僅か滲ませる表情で笑う。
”親友”……彼女が死んだ場所で、彼がアウルに目覚めた場所。
「来てやったぞ、っと」
花の良し悪しなんて判らない。だから、彼女の好きそうな色ばかりを選んで作られた花束。
クレーターの中心に置いて膝をつくと、静かに両手の平を合わせた。
(お前がここに居たら、「シリアスなんて似合わないなぁ」って笑うんだろうな)
今は亡き彼女。
天使の襲撃を受け致命傷を負い、その際に篝にアウルを継承して消えていった少女。
こうしているのがらしくないのは一番篝自身が判っている。けれど、彼岸と聴いていてもたってもいられなくなったのだ。
親友。実の所は恋人以上家族未満、隣に居るのが当然だと思っていた彼女。はぐれ悪魔でありながら、篝はそれを気にせず、彼女もまたそんな篝にとても懐いた。だからこそ、喪失の痛みは大きい。
(あの時、俺の腕の中で灰になっていくお前を見て、無力だなって思った)
悔しくて堪らなくて、苦しくて辛かった。血を吐く思いで抱き締めた体躯は消えてゆき、何も残らなかった、あの時。
未だ未だ篝は弱くて、もしかしたら何も護れないかも知れない。
けれど、篝は彼自身が出来ることをやる、――そう、決めた。
(なあ、お前もそっちの方が俺らしいって思うだろう?)
花束の供えられたクレーターの許。
「護ってやるさ。――あの時のお前の笑顔が、曇らないように」
最期の最後に少女が見せた華やかな笑みを脳裏に焼き付けて、篝は前へ進んでいく。
●彼岸の夜空へ
部屋の窓から覘く夜空は、暗くとも星々の耀きが美しい。
漆黒の天鵞絨に散りばめられた金銀の瞬きと、それを邪魔しない程度に和えかに煌めく月。
そんな夜空を見上げながら、深森 木葉(
jb1711)は呟く。
「お父さん、お母さん……。お元気ですか?そちらは安らかな場所でしょうか?」
撃退士と天魔との戦いに巻き込まれ、家族を喪った木葉。
目の前で喪われた両親を見て、彼女はアウルを覚醒させ、制御出来ない感情に依って暴走した。
幼い彼女にとっては壊れてしまってもおかしくないような事件。
それを切欠に木葉は学園に引き取られ、暫しの時を過ごした。
最初の頃は天魔及び撃退士へさえも憎しみを抱いていたが、学園で彼ら乃至彼女らと触れ合ってゆく内、少しずつ打ち解けてゆけるようになった。それは彼女自身の成果でもあり、彼女の友人との交流の御蔭でもある。
勿論、傷痕は容易く消えるものではない。――だが。
彼女は目を瞑り、祈るように手を合わせ、続ける。
「お父さん、お母さん……。あたしは大丈夫です。いっぱい泣いて、いっぱい恨んで、いっぱい絶望したけれど……、今は、いっぱい笑えています」
未来を望もうと思った。幼いなりに考えに考え、友と共に歩み悩み、そうして出した結論はそこだ。
天魔と人間が共に歩んでいける世界を目指せば、自身と同じような境遇を持つ者がこれ以上増えない、そう期待した先。
学園に来て、大切な人も出来た。木葉のことを妹だと、家族だと言ってくれる人も出来た。
「本当にあたしは、もう大丈夫です。だから、お空の綺麗な場所で眠っていてください。いつの日かあたしがそちらに逝ったとき、いっぱいお話しするね」
瞬く星々の一つ一つが、まるで木葉に呼応するよう耀く。
「――その時まで、どうか安らかに……。おやすみなさい。お父さん、お母さん……」
夜明けの前に、幼い少女が願う、尊い彼岸。
●彼岸へ発った同志へ
風荒ぶ地。そろそろ春一番到来か、揺れる草木が目に映ると、どことなく安堵した気分になった。人と天魔が戦った大地とて、生きている。それが事実、真実。
「……思ったよりも短い間隔で来る羽目になったな」
場所は四国連結陣、ブランチェスゲート跡地。今は亡き――雷霆の大天使に報せを告げるべく、黒羽 拓海(
jb7256)はこの地に訪れた。
コアの在ったらしい場所、かの大天使の亡くなった場所に、ベロニカの花を弔花として供える。
――ベロニカの花言葉は堅固、忠実、名誉。
らしい意味だ、と拓海は目を細める。色鮮やかな花弁が荒ぶ風に揺れるさまを見詰めながら、立ち尽くすまま独り言のように呟く。けれどそれはあくまで言伝て。誓いを掬んだ彼に伝える言の葉だ。
「四国の戦いは一先ず終わった。アンタの大切な人も無事らしい。が、アンタ達が願った争いの無い未来にはまだ遠い」
大切な存在を護る為身を捧げると告げた大天使。拓海と同じ目的で、同じ意志で。
願わくば争いの無い世界を、願わくば、大切な存在が傷付かない世界を。
喪うことはとても恐ろしい。それを知っているのは人間だけではないと、教えてくれた。
「……一度は掬っておきながら、みすみす零してしまってすまない。老将の決意は動かせなかった」
拓海は思案しながら、目を細める。告げる報せは、果たして届くのか否か。
届かないとしても、告げることが叶うだけでも良い。
彼は見た目の割には恐らく心配性で、心優しいのだから。
「まったく、アンタら古株の騎士というのは、これと決めたら梃子でも動かんな、……今回は守れなかった。――だが俺は諦めない。以前来た時に誓った通りだ」
誓いは、弛まない。
それは拓海の振るった刀に篭められたアウルが物語っていた。
蒼閃――かの大天使の技を模した、雷を纏う一太刀。
彼の願いの為、何より互いに交わした剣を執る理由を違えぬ為、譲り受けた蒼雷だ。
「あの世で再び会うまでこれは借りておく」
振り抜いた刀から迸る蒼は、雲ひとつない今の蒼空と、ひどく似ていた。
●悲願の果てに
亡くした者は戻らない。
それは必然であり、当然である。
喪失は現実であり、夢想ではない。
――鈴木悠司(
ja0226)は、自室の寝具の上に腰を下ろし、考え込んでいた。
表情はない。悲哀も、悲愴も、怒りも、何もない。
唯無表情、けれど無感情、ではない。
「……俺に力が有れば」
悠司の呟きは、薄暗い室内に小さく響く。
「……俺に力さえあれば、助けられたかも知れない」
それが傲りだとしても、たらればの空想からは逃れられない。
もしもこうだったら。もしもこうであれば。
過去のことだと理解していながら、悠司は自身を赦せずにいた。
助けられなかった命が在る、それはどう足掻いても揺らがない。
「あの時俺は如何すれば良かったんだろう」
結局何も出来なかったのだろうか。
力が無い悠司にとっては当然。喪ってしまったことだけが事実。
実の所もし力が有ったとしても、助けられたかどうかも判らない。
(俺は俺を赦さない。俺が無くなる時まで)
天魔が憎い。けれど、自身が一番憎い。
全てが――否、悠司自身が無くなれば、全てが終わる。
あの日喪った命が決して戻らないのであれば、いつの日か自身を喪うしかない。
そうして八つ当たりめいた感傷で、悠司は願う。
「すべてが。天魔も人も、無くなれば良い」
彼岸の先に悲願する。
いつまでも、この生がある限り、憎悪と共に、彼は生きる。
願いが成就する日が来るとは彼自身思ってはいない。
――棄て切れない希望。
それさえも厭って、悔やんで、唯々力を欲し続ける、それが彼の生き様。
●彼岸に贈る
春の彼岸。
その話を斡旋所の二人から聴くよりも先に、神社の巫女である鍔崎 美薙(
ja0028)は、自宅である神社で、神道式の彼岸、みたま祀りを行っていた。
学園で神学を学んで以来、毎年行っている行事。
先祖及び有縁の者の御霊を祀ること。非常に凄惨なる状態に置かれている多数の御霊をどうしても救済したいと熱望する人々がいた、それゆえに始まった祭事だ。
美薙にとっての始まりは喪った故郷の肉親たちを迎える為、けれど今は、依頼を通じて関わった、全ての魂の安寧の為に。
(あれから、あたしは少しは成長出来たじゃろうか――のう?)
死者を悼み、死者から学ぶ。
それは同情ではない、憐憫でも無い。
”救済”を謳うアベルに関わる依頼では、親族の縁が薄い者も多い。そういった者を祀るのもまた神職の務め――否、彼女自身がしたかった、こと。
そう言った美薙を見詰めて目を細めて僅かに笑うのは、誘われて訪れたキョウコ(jz0239)。
作法も知らない、祭事の方法も知らない、けれど、向き合いたい。そう言って誘いに乗ったキョウコを美薙は歓迎し、二人で魂の安寧を願い、そうしてその御霊の救済を祈った。
「人が人を救うのは、難しいのぅ」
しみじみと呟いた美薙の脳裏に浮かぶのは、いつかのラプンツェル、――ある種家族を喪い、生を終え、ディアボロとなった少女。
「人を超えて、死を超えて尚難しいものじゃな」
ヴァニタスは少女を救おうとした。彼なりの手段で、彼なりの祈りで。
(今ならば、キリカの事をアベルがどうしたかったのかも理解る気がする、)
様々な依頼を越え、成長を遂げた美薙。
その彼女の心に根強く残る、悲惨な”生”に幕を下ろした人間たち。
彼らの御霊がせめて彼岸の先では救われるよう、美薙とキョウコは心から祈り、そうしてかの冥魔の『救済』を、心から願った。
●ひとつの彼岸とふたつの悲願
姉である幽樂 來鬼(
ja7445)に連れられ、幽樂 駿鬼(
ja8060)が赴くことになったのは、実家だった場所。そこは家ではなく――燃え尽きた更地。
夾鬼が起こした、正しく凶行。アウルに覚醒すると同時に暴走し起こった事件、正常な状態では無かったとは言え、それは姉弟の間に深い溝を生んだ。
更地。彼女が、もう二度と訪れることが無いと思っていた場所だ。行く資格が無いと思っているゆえに彼女は墓参りに行くことが出来ないし、それに弟、駿鬼は自身のことを恨んでいるのだろうとも思っていた。
事実、駿鬼は姉と再会出来たことに対し、喜びと同時に恨みが強くあった。
両親の死については互いに暗黙の了解のように口にはせず、避けていた。
だからこそ、こうして二人で肩を並べて元家だった場所に花束を携えているという事実が、奇跡めいたことのように思えて来る。
家族であり実姉。そんな夾鬼が両親を殺し家を燃やした、その事実は駿鬼の心に深く根差していたし、その反面でどこに気持ちをぶつけて良いのかと言う悩みや戸惑いも強くあった。
けれど、人間の記憶というものは曖昧だ。時間が経てば嫌でもその記憶が薄れてゆくものだと駿鬼は痛感していたが、それは無理なのだとも、実感した。
――それは今だ。
隣で立ち尽くす夾鬼は今にも泣きそうな顔で、更地を見据えている。
彼女がその手で下した結果。それなのに、それゆえに、彼女は涙を堪え、必死に唇を噛み締め言葉もなく立ち尽くす。
謝罪など無意味だ。そうして何もかもが元に戻るのであれば、夾鬼は何度だってそうしている。けれど、戻らない。だから、彼女は謝罪をしないし、後悔を口にはしない。数多の感傷と感情が渦巻いていようと表には出さず、唯只管に懺悔を胸中で繰り返す。
「――……」
駿鬼は声をかけようと逡巡したが、結局、やめた。
更地に膝をついて花束を添えて、無言で佇む夾鬼。
その姿はまるで懺悔しているように見えて、学園の友人らには決して見せてはいけないものだと駿鬼に思わせる。
(親不孝で、ごめんなさい)
心の中だけで告げる夾鬼の謝罪は、今は亡き親に向けて。
そうして、もうひとつ。
(姉なのに――らしいこと出来なくて、ごめん)
弟、駿鬼に謝るなんてこと、出来るわけも無かった。
プライドだとか、そう言った問題じゃあない。
彼が大切でないわけが無い。負い目、引け目がないわけが無い。
ただ、謝ってしまうと、彼を傷付ける――そんな、気がして。
夾鬼は静かに立ち上がると、「行こう」と駿鬼に声を掛ける。
それに何を返すでもなく駿鬼は頷き、彼女の眦に浮かぶ涙には、気付かないふりをした。
●彼岸に誓う
彼、エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)が物思いに耽り遠目に見詰めるのは、とある街の中学校。
――かつて、自身が居合せながらも天魔の襲撃を許し、五十人弱もの犠牲者を出した舞台。
犠牲者一人一人は全くの他人であり、顔も名前もはっきりとは知らない人々だ。
けれど、彼らの断末魔と血の臭い、憾み辛みの声は今も脳裏にこびりついている。
依頼の結果としては、成功。何せ過半数以上の生徒を救ったのだ。
あの頃の弱い自身、エイルズレトラとしては、十分に頑張った。
だが、力不足だった。あの舞台を築いた冥魔のように言えば――役者となり得る器ではなかった、それだけ。
あれから三年が経ち、あの頃とは比較出来ない程彼は強くなった。
三年かけてエイルズレトラが得た力は、三年前のあの瞬間に渇望したもの。
そして、持っていなかったが為に『自身の役割』を全う出来なかった力だ。
彼の目的。――撃退士という役割を全うすること。
戦闘という舞台に上がるのであれば、役者は役を演じ切らなければならない。
それが出来なかったことによって喪われた命に対する、後悔。
そして、自戒であり、自責であり、強迫観念でもある。
「……もっと。もっと強くならなければいけませんね」
自分は強くならなければならない。
強く、誰よりも強く、そうしなければ『撃退士』の配役を演じ切ることが出来ないのだから。
学園を去るまでに、学園の誰よりも強くなる。
それが、エイルズレトラの目標。
暫し物思いに耽った後、彼は踵を返し、未だ天魔襲来の傷痕の残るだろう学校のある街を後にした。
いつかの未来に、目指す先を叶える為に。
●悲願の先に掬ぶもの
彼女――雫(
ja1894)は、撃退士となった者の中にも良くいる、『天魔に襲撃された過去を持つ者』である。
撃退士によって救われることは出来たが、襲われた際に感情の一部を奪われた。
「私の記憶は戻るのでしょうか……」
苗字すら覚えていなかった、当時の雫。
未だに思い出すことの叶わないそれは、彼女の心に浅くは無い傷を遺してしまっている。
彼女の心を奪った天魔は討伐された。けれど、既に彼女は大切なものを喪ってしまっていたのだ。
訪れたのは荒廃とした更地。少しずつながら木々の芽生えは認識出来たが、簡単には元に戻らないのは人も大地も一緒だ。
「わたしは此処で死んで、私が生まれた……」
彼女が喪った、”わたし”。
”わたし”が”私”として生き、長い年月が経った。
様々なものを喪い、様々なものを得て来た。
それ程の月日を経た彼女は、過去を知らずとも十分な記憶を得て、友を得て、日々を過ごしている。
「記憶が戻った時、私は死んでわたしが甦るのでしょうか」
”わたし”と”私”。
記憶を喪った今の雫。
記憶を喪う前の過去の雫。
どちらも雫で、どちらも完全な意味ではそうではない。
理解しているからこそ、戸惑う。
「昔を知りたい反面で、記憶が戻るのが怖い……」
過去を得れば何かが変わるのか。何が変わるのか。
それとも何も変わらず、永久に過去の雫は喪われたままなのか。
結果など神のみぞ知る話で、動かずに居れば何も進展しないということは痛い程理解している。
それは撃退士として長い時間を過ごし、雫が得た答えだ。
だからきっと、いつか動く刻がやって来る。
「――また此処に来ます。私がわたしを弔うのか、わたしが私を弔うのかは判りませんが」
今はまだ、”私”のままで、雫は生きる。
それが正しいのか、誤っているのかは判らない。
いつか訪れるだろうその時に怯えることなく、唯ほんの少し躊躇いを覚えながら、雫は進む。
そう。
今は未だ、――ありのままの”雫”として。
●彼の彼岸と過去の悲願
斡旋所に張り出されたチラシ。
――春の彼岸に、想いを届けに行こう。
そんなキャッチフレーズを思い出しながら、星杜 藤花(
ja0292)はベランダから島を見渡す夫、星杜 焔(
ja5378)の背中を見詰めた。
(彼岸、ですか。もう逢えない誰かを想って祈る日、ですね)
眼前の夫、焔。彼は沢山の人を喪った過去を背負い、前を向いて歩き続ける、ひと。
「久遠ヶ原の春も四度目か……」
耳に嵌めたイヤーカフに触れ、同じ施設にいた妹のようだった娘に想いを馳せる焔。
別のもの――反対側は、彼女の亡骸と共に在る。
焔にとってそれは、その娘を、妹を幸せに出来なかった戒めだった。
アウルに目覚め、髪と眸が妹の好きだった花のように染まったのも、きっと戒めだと思っていた。
それがたとえ後から知ったのだとしても――父と母だったものが殺されていくさまを見て、心を躍らせたことは事実で。その罰として、母と同じ色を奪われたのだと思っていたのだ。
焔にとっての自戒、そうしてある種の自罰。
現実が辛くていつだって笑顔の仮面に逃避して、薄気味悪いと言われ施設を転々とした過去。
――そしてその過去を背負う焔を支えるのは、藤花。
彼女が幼い頃に一度だけ逢った焔の両親は、僅か記憶に残る。
素敵な笑顔の持ち主だった二人。記憶の彼方で今も笑っている。
けれど、焔はその笑顔を喪った。とても言葉には出来ぬ形で喪って――そうして藤花はその事情を知っている。
彼女が久遠ヶ原に来て早四年以上。
「沢山のことがあったけれど、焔さんに出逢えて良かったと信じています」
淡く笑って、まるで焔の心を読んだかのように言った藤花に、彼は肩越しに振り向き、それから穏やかな笑みを浮かべた。
――それは嘘偽りのない、恐怖も無ければ不安もない、優しい笑み。
現実は辛く苦く、夢には遠い。
けれど、今は。
全てを受け入れてくれた娘がいて、守るべき家族がこの手の中に在り。
(そうだね。俺も、――心から笑えるようになったよ)
想う言葉は口には出さず、焔は藤花に近付くと、その耳につけられた絆のイヤーカフに触れた。
「……お墓参り行こうか」
唐突な言葉。けれど、何故だか藤花にはその理由、意図が判った。
絡み合う稀有な人生の糸の先、漸くと掬んだ二人と一人の絆。判らない訳があるまい。
――少しばかり遠出。ゆえに共に暮らす子を知人に一度預け、二人は焔の家族が眠る墓地へと向かう。
花立を綺麗に洗い、墓石を磨き上げ、花々を二人で丁寧に挿してゆく。寄り添い生きる二人が行う、共同作業。
線香を立て並んで手を合わせるまでには、少し時間がかかった。
「……」
藤花が手を合わせ祈るは、平和な世界。
(どうかみんなが笑顔になれるその日まで、わたしも頑張っていきたいと、そう思っています)
夫である焔と一緒に。
薄く白味がかった蒼い空を見上げ、藤花は切に願う。
(だから、見守っていてくださいね)
夫の家族。喪ってきたもの。
それらの魂がきっと、二人を見守っている、そう信じて。
(もう誰も悲しませないよ)
手を合わせ長い間目を伏せていた焔もまた、誓いの言葉を墓石に向かい篭める。
哀しみは連鎖する。憎しみも連鎖する。
そうであるならその負を断ち切る為に立ち向かい、この先未来の幸福を成就させる為、二人で共に歩んでゆく。
そう、改めて彼岸の先に往ってしまった人々に、誓った。
●彼岸を前に
顔も声も知らぬ父。玉置 雪子(
jb8344)の父親は、短命の天使だった。既に亡くなっている、そう知ったのはつい最近。
母親とは違った自身の髪色と目の色に物思うことは有れど、父が恋しい、父に逢いたいと思うことは殆ど無かった。実感が沸かないということもある。
(短命の天使。その血を引く私は、一体どれだけ生きられるだろう)
体力の衰えを感じたのは、学園に来る少し前から。
それまでは唯の運動音痴だと思っていたけれど、違った。
徐々に身体は重く、手許は狂いがちになり、頭がぼうっとすることも増え、それらの変化が重なる度に、自身の老いを感じていった。
――ああ、刻々と死期が迫って来ている。
そう気付かされることが、怖かった。そう自覚してしまうと、後は終わりを待つばかりだと思ってしまったから。
「……父さま。私は、生きた証を遺して見せる」
雪子は墓石の前で手を合わせながら、目を細めて緩い息を吐く。
誰のものでもない、自分自身の人生だ。
生きた証を遺したい。たとえ後数年しかない命であろうとも、確かに生きていたという証拠を世界に刻み付けたい。
それに、学園にいる内に出来た友。大切な人たち。彼女らを遺してゆくことに後悔や恐怖はあれど、彼女はそれを表には出したくない。
――学園生として戦っている間、アウルの光を纏う間だけは、その老いも忘れられる気がした。だから、恐怖や不安はおくびにも出さず、唯ひたすら前を向いて駈けてゆくのだ。
ふと顔を上げて振り返ると、そこには知己たる友人がいた。
声を掛けられるより先に、普段通り茶化した雰囲気で挨拶を向ける。
「チーッス先輩、こんな所で出逢ったのも何かの縁、ジュース一本ゴチになりやす!」
友人には本当の、ダウナーな姿は見せられない。
大嫌いな本当の自分。
それでも、雪子は生きた標を刻むべく、彼女なりの悲願を遂げるべく生を全うする。
●前を向いて、彼岸に笑って
時入 雪人(
jb5998)は珍しくも一人で実家の門戸をくぐり、敷地内にある墓地へと足を運んでいた。
馴染みの友とは別行動、普段は背中を押される側の雪人であるが、今回は違う。眉間に皺寄せ悩む友の背中を、物理的に押して来た。
広大な敷地だ。本家屋敷から墓地まではやや距離があるが、迷うことなく辿り着く。
時入家之墓。大きな墓石に刻まれた銘は、雪人の親族が眠る場所だということを示す。
歴代の当主とその傍らに居続けた伴侶、それぞれの名前。最も新しく彫られた名を指先で優しく撫でた。
「……父さん、母さん。ただいま戻りました」
携えて来たのは、いつか見た夢でぼんやりと覚えていた華に良く似た大輪の黄の花弁。
その花を取り巻くように翠や桃色、白や紅と、基調を乱さない程度に様々なものが束ねられている。
花立に飾ると、雪人は両手を合わせ目蓋を瞑る。
そうして、ゆっくりと、墓石の下に眠る両親へと語り掛ける。
(俺は元気だよ。もちろんハルも元気)
今回背中を押した友の名、母は分家の息子である彼にも変わらず優しく接していた。
(あ、でもハルが段々とスパルタになってきててね? ――俺もこう見えて大学生なんだけど、まだ子供扱いされてる気がする)
子ども扱いには不本意ながら慣れたものながら、そろそろ卒業したいと思う今日この頃。
(それから、花見にも久し振りに行ったんだ。それに、タンポポを子どもたちと見たりもした。何だか兄になった気分だったよ)
報告する話は尽きることなく、雪人は胸中で饒舌に語る。
口に出す必要は無かった、唯こうして、墓前で想いを馳せれば両親にはきっと伝わるだろう。
――こうして話すだけで、自然と雪人は笑顔になっていく。
芽吹き始めた春と希望に膨らむ期待を胸に抱き、彼は思う。
(二人も、笑顔になっているといいな)
彼岸の淵で、二人で寄り添い、笑っていてくれたら――なんて。
今日のことは勿論友に話そう、そうして友にも話を聴こう。
そうしたらきっと、お互い笑い合うことが出来るから。
●送る彼岸に手向けて
チラシに書かれた文言に、アルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は立ち止まる。
「彼岸、か……。死者への思いもまた、忘れてはならんな」
そうして、決めた。
彼女にとっての、彼岸の話。
――もし良ければ同行して欲しい。そう告げて来たアルドラに対し、キョウコは二つ返事で快諾した。
それは、ヴァニタスアベルの手によって”救済”を望まれた者に対する弔いの、小旅行。
勿論、向かえない場所もある。過去の事件への警戒から、閉鎖的になってしまった学校、地域、それぞれ理由はあれど多くは周れない。
(……思い返せば多くの者を手にかけてきたものだ)
勿論それは必要なこと。死してディアボロと化してしまった以上、機能停止させる為には殺す以外の方法がない。たとえそれが攻撃をひとつもして来ない希少的なディアボロであったとしても、だ。
「仕方のない事とはいえ、私のしたことは正しかったのだろうか」
「……善悪の判断なんて曖昧。だけど、私は皆が間違っているとは思わないよ」
キョウコの答え、それは遠回しの許容、肯定。
否定は必要ない。それは撃退士側も、かのヴァニタス側にしろ、同じ。
ただ、最善の遣り方を尽くす必要がある、それだけ。
――眼を蔽い隠してしまったシンデレラの居た学校の、校舎裏。
数月が経った今焼却炉は極普通に使用されており、ディアボロの痕跡はどこにもない。
「……私は、君たちを救ってやることが出来たのだろうか」
ぽつりと呟いたアルドラの言葉に、キョウコは答えを返さなかった。
彼女が救われたかと言えば、恐らく否。彼女が救われなかったかと言えば、恐らく否。
どちらとも言えない。どちらとも言える。
死による救済が正しいとは言えない、けれど、死による救済が間違っているとも言い切れない。
感情論だけで言えば、死を与える冥魔は絶対悪だ。けれど――。
(彼の救済をどう捉えるべきか、どう考えるべきか。私は少し、迷いがあるようだ)
唯の興味の対象から、好意を持ち得る存在へと変わっていった”人間”。
彼らをどう救うべきか、どう掬うべきか。
アルドラにとっての”救済”は、スタート地点に立ったばかり。
●数多の彼岸を見詰め
学園にある、依頼や大規模作戦の報告書の保管庫。
そこに、久遠 仁刀(
ja2464)はいる。彼は自分の関わった依頼、――特に保護・救助対象を護り切れなかったもの、同じ戦場にいた撃退士が亡くなってしまったものを、再確認していた。
犠牲。尊い犠牲、必要だった犠牲、そうきれいごとで塗り替えられていく人の、死。
それは偽善であり、欺瞞である。
死は死だ。どんな形であれ、人が死ぬことに違いはない。
いかなる場合でも、死は死でしかなく、逆に言えば死はそれ以上無いに等しい喪失だ。
だからこそ、仁刀はひとときとて忘れたつもりはない。
けれど、気を抜くとついつい、自身に好意を向けてくれる相手や、受け入れてくれる友人に甘えてしまいそうになる。自分は良くやっている、良く出来ていると、甘やかしてしまいそうになる。
(そうじゃないだろう、足りていないだろう。――俺はやれてなんかいなかっただろう)
苛まれるのは自責の念。
けれど、唯悲劇ぶって思い込んで、嘆き悲しむ為のものではない。
もう一度、否何度でも、刻み付ける為。強くなり、強くあり、戦い続ける為。
――そうでもしないと、顔向け出来ない。
誰にか? そんなもの、答えは決まっている。
護れなかった者。護れなかった者たち。
あの日あの場所で喪った、流した血。傍に居ながら届かなかった手。
身を粉にしてでも奔り、駆け抜け、戦いを終わらせる。
だが、それで赦されるかと言えば、答えはノー。
喪った者にではない、仁刀自身に、だ。
自責、自戒、それは一種の自傷にも似ている。
喪ってしまった彼らに対し、贖いを続けるひとりの男。
それが、久遠仁刀という、存在だった。
●偽生と真実、彼岸へ餞
神は信じない。死んだら終わり、彼岸の先など有り得ない。
――しかし、幽玄な桜が、隠した本心を見透かしているように、静かに揺れていた。
桜の木々が立つ並木道に、ファーフナー(
jb7826)は立っていた。
夜半、月光に照らされた桜はまるで夢現。
だからこそ、あの日見た夢を、あの日の過去を思い出した。思い出してしまった。
彼女――女との出逢いはいつだったか、はっきりとは覚えていない。
夜の街で出逢った。過去の詮索は互いにせず、女に身寄りがあったのかも判らない。
様々な思惑と意図がぶち撒けられた”あの日”、逃げるように去ったその後、女の弔いが為されたのかも知らない。
知らないことと判らないことだらけで、まるで全てが嘘のようだった。
(俺が覚えていなければ、彼女が生きた証が何も残らないのではないか)
そう思うと同時に、自分で殺しておきながら、と苦さが胸中を支配する。
――夜明けが近かった。
朝陽の訪れは遅い。ファーフナーは暗い街を歩き、電車に乗り、遠い海へ出かけた。
凪ぐ水面を眺めながら、世界に繋がる海を臨むと、何故だか胸が凍んだ。
手にしているのは白い百合。それを海へ弔花として投げ込むと、ファーフナーは胸中で長い空白を詫びる。思いを馳せるは、遠い祖国と過去。
愛しさと絶望を遺して去った女。最早出ない得られない答えを捜し、苦しみから解放される為に全てを否定し消し去ろうとして来たが、”見てしまった”夢が、その真意を暴き出す。
海に浮かび揺れる百合が抱く花言葉は、彼の心そのもの。
蘇る懐かしさは良いものばかりではない。愛おしさと苦しさと、忘れられない過去は途方もなく、容易く偽れるようなことでは無かった。
忘れられないのではない。きっと、忘れてはならない。そう気付いたファーフナーは、その先を択ぶか否かの選択を未来に委ね、ゆっくりと踵を返し波止場から姿を消した。
●剣たる矜持、少女の悲願
少女、矢野 胡桃(
ja2617)が訪れたのは、花咲く丘にある大きな樹の根元。
とある郊外、とある”墓地”とも呼べる場所。
春の兆し、花の匂いが漂う美しい花畑の見下ろせるそこで、胡桃は一人佇んでいた。
「お墓、と呼べるかは分からない、けれど」
いつかの依頼で出逢った童話の少年少女らを思い出す。
救済の真実とは? 救済の事実とは。
物思うのは、関わりを持ったディアボロ――否、童話の”主人公”たちに対して。
「何も知らない頃に出逢った赤ずきん。貴方は、還れた?」
迷子の赤ずきん。人知れず殺され、その命の火を一度灯され、そうして再度眠っていった少年。
「涙の止まらない親指姫。貴方は、笑えている?」
心無い痛みの雨に心を鎖そうと必死になり、そうしていても尚生き続けることを択べなかった彼女の叫び。
「目隠しのシンデレラ。貴方はもう、傷付けられて、いない?」
暴かれたやわい心を護る為に目を隠し生を厭った、弱く脆過ぎた彼女が築いた最期の城。
――気付けば胡桃は、涙を流していた。
ぼろぼろと眦からこぼれ落ちる滴は大粒、誰も居ないこの場所であるなら問題は無いだろう。
どんなに泣いても、どんなに涙が止まらずとも、もう思い出すことしか出来ない。
生きることが出来なかった彼。生きているだけでは救われなかった彼女。生きることを投げ棄てた彼女。
その魂の果てを想えど、どうなってしまったのかは、判らない。判るわけもない。
「ストーリーテラー、アベル。貴方はまるで……」
涙の滲む声音は嗚咽で途切れ、言葉にならなかった。
(――幸せの王子、ね)
小さく心の中で胡桃が呟いた言葉は、救済を謳う彼を想ってのもの。
彼女が幸せを願うのは、恐らくその性質所以。
迷子の子らを、その子らが望むよう、幸福を与えたのだろう彼を想い、涙する。
――ふと視線を落として見付けたのは、四つ葉のクローバー。
胡桃はかのヴァニタスの幸せを願い、目蓋を閉ざして泣いた。
●二人の姉妹の終いの彼岸
墓参り。行きたい場所は色々ある、兄や、京都で命を落とした使徒たち。
けれど、黒夜(
jb0668)が向かったのは――『自身』の墓参り。
一輪の沈丁花と、彼岸花。それぞれを携えて訪れたのは、とある墓地。
「ウチが来るとは思わなかったかな」
実質は、双子の姉の墓参り。
姉が亡くなってからもう直ぐ七年半、長い月日が経った。
両親から求められた、『姉』の役割。自分自身を塗り潰してまで形作った『姉』。
黒夜自身の居場所も無かったが、本当の『姉』の居場所も実際は無くなってしまっていた。
それゆえ、彼女への憎しみと、彼女の場所を奪ってしまった後ろめたさから墓参りをすることが出来ないでいた。
けれど、漸く――漸く、居場所を見付け、そうして、ある人を姉と呼ぶことが出来た為、墓参りをすることを決めた。
墓石を前にして、黒夜は目を伏せて呟く。
「お姉ちゃんのこと、まだ嫌い。……お姉ちゃんだけがお父さんたちに愛されてるってわかったから」
痛い事実だ。思い出したくも、考えたくもない。でも、事実。だから、黒夜は――彼女は言う。
「だからお父さんとお母さんから逃げるの。会ったら、また『お姉ちゃん』にされるから」
互いの居場所を失くす悪循環。互いに打ち消し合う相互作用。
本当は、彼女は彼女だけで、自身は自身だけ。
それなのに理解しようとしない頑なな両親、だから、逃げる。
否、逃げるのではない。それは決意だ。
「でももうお姉ちゃんの場所は盗らないよ」
黒夜は――『姉』ではない、『妹』である彼女は、薄く笑って告げた。
それは決別であり、受容であり、そうして誓いでもある。
もう二度と、レプリカになったりしない。
「黒夜には――ウチにはもうウチの場所があるから。今まで場所盗ってごめん」
普段の彼女、黒夜の顔に戻った少女は言った。
「また来る、姉さん」
そっと供えた沈丁花と彼岸花は、二人の少女の供養の為に。
彼岸の淵で、彼女”たち”が救われるよう、――祈る。
●子どもと大人、彼岸と悲願
「おはかまり、ですかぃ」
瞬きがひとつ、聴き慣れない単語。未だ身内を亡くしたことがなく、”死”に触れる経験のない秋野=桜蓮・紫苑(
jb8416)。
きょとんとして目を丸くした紫苑は隣を歩く百目鬼 揺籠(
jb8361)を見上げ小首を傾げ、それから彼が手にしている花束を見た。薄紫の小さな可愛い花を実らせた山野の花。束にするには珍しく、それには他にも様々な彩りを宿した花が包まれている――が、一際それが目を引いた。花言葉は追悼、ユリの香りと似た、それ。
「それ、だれにあげるんですかぃ?」
「大事な人ですよ」
揺籠は花束を引っ提げたまま軽く目を細め、どこか眩しそうに紫苑を見た。
懐かしむようで、痛むようで、悼むようで。
紫苑は「だいじな人」と反芻して、それから矢次に質問を投げ掛ける。性別、年の頃、その他エトセトラエトセトラ。
歩むのは墓地ではなく河川敷への道、春の色が点き始めた周囲からは花の香りがする。
「何百年も前の話ですけどね。墓も知らなきゃ死に際を見てもねぇから、頭ん中じゃ今も変わらねぇ気がするんですが」
揺籠にとっての初恋の相手。
思い出は今でも鮮やかで、その癖全てを覚えて置くには苦い。
それらを聴いて思案する紫苑は更に小首を傾げつつ、口には出さずとも浮かぶ疑問を躍らせる。
――死んだらどこにいくのだろうか。
――この川の向こう? どこの川のもと?
――それじゃあどうしておばけは川の向こうに行かずに待っているんだろうか。
揺籠の横顔を見ると、尽きない疑問を押し付けるには少々野暮なように思えた。
だから、紫苑は着いた河川に花束を流す揺籠を見詰め、手を合わせる様をなぞって合掌する。
「背ぇの高さも最初は紫苑サンと変わんねぇくらいで、――……ええ、喧嘩別れしたきりなんで、このくれぇが丁度いいでしょ」
「とどくといいですねぇ、お花」
一枚一枚千切れ流れてく花弁を見つつ、紫苑は普段より些か大人しく呟いた。
流れて往く川と、それに乗る花弁はひとの生き様に似ている。時の流れには人は逆らえない。川の流れには、可憐な花は逆らえまい。
――揺籠が抱いた感傷の理由のひとつ。
懐かしき慕情、恋しき”かのひと”。
揺籠は天使の血を濃く引くハーフであり、だからこそ、自分より後に生まれた人間が先に逝く姿を幾度も見て来た。
逐一見詰め直すのは余りに辛い。墓参りなど決してやろうとは思わなかったが、心が揺らいだ。
揺らいだ心と共に、連れ立って共に訪れたのは紫苑だ。幼い横顔、自身と同じ、ハーフ。
(いずれは誰も居なくなっちまうんですかねぇ)
勿論、自身が先に逝かないという保証はどこにも無いけれど。
それでも、苦かった。それでも、辛かった。
だから。
「……はい、おしまい。帰りますぜ」
揺籠は紫苑を抱き上げて笑って、目を伏せる。
――雨が降り出しそうだった。心の雨。勿論容易く降らせやしないが、既に心では滲んでいたかも知れない。
抱えられた紫苑は始めのように瞬きを落とすも近付いた距離を厭うことなく大人しく、そうして角を当てないよう緩く擦り寄り、子どもながらの温かな体温を伝える。
(――大人はこれだから)
いつだって強がり。いつだって隠したがり。
そんな顔で言われたって唯困るだけなのに、揺籠は今にも泣き出しそうな顔で笑って紫苑を抱いている。
(よくわかんねぇけど、おれはここにいますしだいじょーぶですよって。つたわればいいんですけど)
大人のことは、きっと子どもが一番知っている。
泣き出しそうな大人と、それを唯見詰めてぴったりと寄り添う子ども。
――二人の影は長く伸び、ひとつに交わりながらゆらゆらと小道を揺れていた。
●彼岸に託されたもの
二人は久遠ヶ原のある高台に設置された展望台を訪れていた。
――学園生である安瀬地 治翠(
jb5992)と、オペレーター兼学生のキョウコ。
見晴らしが良く、この場所からは海が見え、本土が薄らと窺える。この日は良く晴れた日で、島内でも名所と呼ばれる程の景観がはっきり見える。
そんな展望台の傍ら、一番見晴らしの良い場所に、花束を。
治翠が望んだことだ。遠い遠い、天の高い所からも、目に映るように。
「私はつい遺される方ばかりを優先してしまいます」
苦く笑みを浮かべた治翠に対し、キョウコは目を細める。
依頼に関わり死を遂げた者たち。特別、キョウコが担当する”救済”にまつわる事件については死者と、それを取り巻く生者が多い。そうして、数多の遺された者は何らかの経過を得て、何らかの結果に至る。
だから、治翠は迷わず生者の行く先を標すことを択ぶ。
「でもせめて今日だけは彼らの、終えてしまった魂の為に。……何となく、キョウコさんには見届けて貰いたかったのです」
春の彼岸。彼からの誘いには少しだけ迷いがあった、それは当主雪人と行動を共にするか否かについて。けれど、その背中を押したのは、雪人自身。
「うん」
キョウコはそっと置かれた花束を見て、目を細めて口を閉ざす。
遺す者、遺された者。
それぞれが何らかの意志を抱き、覚悟を決めた者は――遺る者に心残りを預け、往く。
遺されるそれを掬い、結び絡ようと治翠が手を伸ばすのはきっと。
「――きっと、過去に私が託されたからでしょう」
穏やかな表情には、嘆きや悲愴は無い。
彼にもまた覚悟がある。遺すものがある、だからこそ理解出来るのやも知れない。
それに無意識下で気付くキョウコは珍しく曖昧に笑って、治翠の口許に指先を寄せ、触れる間際で止める。
「私もさ、今を生きるひとが大事だよ」
向けられるは、淡い声。
学園生が無事帰還する、それがキョウコの切望。
それを十二分に知る治翠は言葉の意図を理解し僅かに笑って、それでいて真摯な表情で頷いた。
ふと薫る、花の香り。花束を供えた高台から二人で見下ろせば、山麓には桜の花が咲き誇る。
もうそんな季節であるのだと気付くと同時に、治翠は思い出す。
「そう言えば、先日依頼帰りに私位の背丈の木を見掛けまして。弱っていたので大地の恵みを使用してみたんです。そうしたら――――」
続けた治翠の言葉にキョウコが感嘆の声を上げる。
――――そうして。
●00
とある墓地の外れ、ひとけのない、けれど日当たりの良いその場所。
綻ぶつぼみと花弁を開き、ぽつんと佇む樹が在った。
ふらりと訪れたヴァニタス・アベル(jz0254)は無言でその、小さな樹の前で立ち尽くす。
鮮やかに笑うよう、華やかに彩りをつけたそれ。花咲み、正にその言葉が相応しい満開の桜花。
大雨の影響で、数日前には今にも枯れてしまいそうな程弱っていた筈だった。
それが、まさか――――。
「――……咲いた、のか」
唖然と呟いたアベルの声を聴く者はいない。
震えた音、滲む眼差し、それらは誰の目にも知られない、知れない、だから、彼は眼鏡を外すと目頭をそっと押さえた。
――先往く者を悼むよう、咲きゆく桜の花。
雨風に打たれ尚煌めくいのちの耀きに、ヴァニタス――アベルは、少しだけ泣いて、それから笑った。
『了』