●
撃退士らがディメンション・サークルに入る直前。
声を掛けられた若里美咲は、変わらず努めて平静を装ったままCamille(
jb3612)の元へと向かった。
「死なせたくないって、我儘を言ってもいいんだよ」
唐突に、けれどはっきりと諭すように告げたカミーユに、美咲は目を丸くした。
カミーユが前回話していて気付いたこと。気が動転することもなく、我儘を口にするでもなく冷静で、人の意見を聞き入れることの出来る、『デキタ大人』、美咲。
撃退士としては非常に優秀。けれど、子どもから見れば完璧過ぎて、遠く、高い。
まだ十三、大人の半分にも満たない少女には、彼女が苦労して纏った分厚い想いの鎧には気付けない。
「もっと隠してる弱い面をさらけ出してさ。鈴と判り合えなくて悩んでいる本心を打ち明けてみたらどうかな」
「……ですが」
「今回は死者が出てしまって、取り返しはつかないけれど」
鈴の手によって、多くの死者が出た。背負った罪は計り知れない。
けれど、鈴は居場所を求めて叫んでいる。まるで赤子のように。
美咲は顔を上げた。
「それでも……どんなことがあっても、あの子が求めるのであれば、私はあの子の居場所になります。味方であり続けます」
彼女の決意は本物だった。凛として、背筋を伸ばして、見据えているのは――二人で支え合って生きる、未来。
「それなら尚更だ。自棄になって被害を増やすより、一緒に償い方を考えようって……戦闘中に呼び掛けてみて」
カミーユの促しに、美咲は顔を伏せた。
それから小さく「はい」と頷き、目許に浮いた滴を拭う。
――転移が始まる。
これから起こる出来事が、どのような形で終幕を迎えるかは、未だ判らない。
委ねられた舵は、撃退士たちの手に。
●
荒れ果てた街並み。連なる瓦礫、転がる死体。戦場と呼ぶには相応しくない。何故ならばここは、この街は、ひとりの少女率いるディアボロたちによって蹂躙されたのだから。
生存者は表通りには見えないが、恐らく隠れ潜んでいるのだろう。
撃退士たちの姿に気付くと、ディアボロ――白い天使は弓を手に宙に散開し、白い妖精は剣を構えて待ち構える。その奥で両腕を広げ、讃美歌のようなものを囀るのは白い聖母。そして、その傍らで獅子に跨る少女がいた。
手当たり次第に大通りを荒らす――若里鈴。
前回邂逅した時と較べ、幾段も士気が向上している。眼光は血走り、煤けた肌や服は野宿でもしていたのだろうか、目に見えて疲弊が窺えた。
「若里美咲はどこ」
鋭く尖った語調。きつい目線は、ねめつけるように撃退士の顔を見た。
その言葉に答えたのは、殿で身を潜める若里美咲では無かった。軽い足取りで敵陣に身を躍らせ――ディアボロの合間から鈴を捉えて見詰める男。法水 写楽(
ja0581)。
「ま、援護や搦め手の七面倒なコトは他のヤツに任せての最前線、戦場に剣戟で大輪の華を咲かせましょう、ってな」
目前で行き過ぎる矢を寸での所で躱しながら、写楽は口角を上げて笑う。
前回は恰好悪い所を見せてしまった。そうであるなら顔の一つや二つ覚えられているか――そんな些細な賭けは果たして。
「よ」
「な、あんた……あの時のっ……」
矢次に放たれる攻撃をハルバードで受け流し、写楽は悠々とした態度を見せる。その顔に、表情に覚えがあった少女は、目を見開いてあからさまに動揺した。その表情に安堵が混ざったように見えたのは、気の所為ではないだろう。
「あの時、白獅子を止めてくれた優しさがあるンなら……まだ、戻って来れると俺は思う――って、似合わないコト言うね、俺も」
「……っ、うるさい!」
優しさ。その言葉にたじろいだ鈴は魔法書を固く握り締め、写楽に向かって光の球をぶつける。当たった瞬間弾ける光には咄嗟のことで然程力が篭っていなかったらしい、痛みはそう来ない。
けれど、これで改めて判った。鈴は今回、”人間”を攻撃することに躊躇いがない。前回と変わらぬ態度で接していれば、大火傷を負うだろう。
写楽が鈴の気を引いている間に、やるべきことがあった。
「生きているのならまだ間に合う筈。……後悔を重ねさせぬ様にしなければいけませんね」
周囲に盾を浮遊させ、敵位置の確認と共に攻撃を警戒している安瀬地 治翠(
jb5992)は気を引き締めるべく呟いた。
課されたオーダーには、首謀者の捕獲のみでなく、一般人の救助も含まれている。治翠は救助班として、ディアボロを警戒しながら要救助者の姿を捜していた。
(あの娘――あのときだったらまだ引き返せたが、これはもうダメか)
対してチョコーレ・イトゥ(
jb2736)は思案する。
がむしゃらに喚き散らしながら破壊を尽くす少女。
多数のディアボロの力があれば壊すことなど簡単だ。
既に多くの罪のない命が奪われ、街が潰されている。
(いや、あの娘が自分でディアボロを用意できるわけがない。何者かが裏にいる事は明らか。であれば、悪魔に操られていた、または唆されていたという事で責任能力を問われない可能性もある)
何より鈴は未成年だ。人間社会ではやり直しが幾らでも効くだろう。
(そもそも、あの時俺たちが娘を止めていればこんな事態にはならなかった。俺にもまったく責任がないとは言えないか)
「……やれやれ」
チョコーレは阻霊符を発動すると、改めて周囲を見渡す。物陰には怪我を負った一般人の姿もちらほらと見える。鈴は鈴で、手負いの者を追って叩き潰す程腐れてはいないらしい。
闇の翼を広げ宙に舞えば、破壊の爪痕の影に潜む生存者が疎らに映る。散乱する死体を避けたルートを案内してやらねば、恐らく恐慌を生むだろうともチョコーレは考えた。
仲間へ伝達、そして鳴らすホイッスル。音と共に治翠とカミーユは救助者の元へと向かい、動揺する怪我人たちを宥めかす。
「俺たちは学園の撃退士だよ。皆味方だから安心して」
落ち着いた声で示し、安心させるように努めるのは救助班の務めだ。
チョコーレが逃げ遅れた一般人を空中から探しては、地上にいる治翠とカミーユ、そして現地で救助に当たっている撃退士らに伝える。
戦闘区域を離れ、ある一定の区間まで向かえば保護の準備が整っている。その旨を救助者に伝え、誘導し、落ち着かせる。
「私たちの仲間が足止めを行っています。ですから焦らず、落ち着いて避難してください」
三人の的確な指示、そして味方の足止めもあり、事はスムーズに進んだ。
結局の所、鈴は癇癪を起こした子どもでしかない。そうであるなら、話し相手――否、遊び相手が居れば操作は容易い。二班に分けての救助活動は大成功と言えよう。
一般人を見付ければ、即座に保護を心掛ける。磁場形成で脚にアウルを纏い、移動速度を上げた治翠には何の隙もない。
護るように周囲に浮く盾に安心したのだろう、保護された救助者は徐々に落ち着きを取り戻して行った。
歩ける者は落ち着かせ、歩けない者は抱え、それぞれの形で保護区域へと向かわせる。救助が必要な者が他にいないか、時にはホイッスルを鳴らして見回り、戦場に一般人が残ってしまうことがないよう捜索した。
十数人の生存者を送り届け、その後で。
「撃退士のおにーちゃんたち、ありがとう!」
膝小僧には擦りむいた後がある。泣き腫らして赤くなった目。けれど今は爛々と瞳を輝かせ、笑顔を浮かべている少年。差し出されたその手には、三つの飴玉。
「青いおにーちゃん、羽根かっけー!」
「……ふむ」
少年の羨望の眼差しは、見た目で恐れられることを懸念していたチョコーレに。三人が飴玉を受け取ると、少年は涙も忘れてはしゃいで喜んだ。
ころんと掌に転がり落ちた飴玉をポケットに収め、「悪くない」とチョコーレはぽつり呟いた。
生存者と現地撃退士が合流したことを見届けると、三人は急いて戦場へと向かう。街に日常を取り戻す為。少女に現実を思い出させる為。
●
若里美咲は苦悩していた。目の当たりにした娘の蛮行。酷い有様だった。人は死に、街は破壊され、それがすべて我が義娘の行ったことだという事実。
『どうしていいか分からない鈴に、帰る場所があることを教えてあげて』
カミーユの言った言葉が頭の中でリフレインする。
鈴は人としてしてはいけないことをしてしまった。殺されることも已む無し。改めて事の重大さが美咲を責めようとしたとき、強羅 龍仁(
ja8161)がそっと彼女の肩に手を置いた。
「生きていれば、過ちは償える……」
それは正論であり、詭弁であった。けれど、その言葉はひどく美咲の胸を打った。
「生きていなければ償えるものも償えない。死んでしまえば、逃げるだけ」
天宮 佳槻(
jb1989)は霊符を手に、光纏すると真っ直ぐ前を見据えて言った。
結局の所、死して償うなんて行為は自己満足でしかなく、現実を一切見ない臆病者のすることだ。死して逃げれば同情を買うことも出来るだろう。生きて償えば反感を買うことも多いだろう。後者の現実は、何よりも重い。
「自分の妄想世界だけ見てる感じだな」
帰る場所がもう無い――そう喚きながら街を闊歩し、世界の不幸の全て引き受けたとばかりに悲劇ぶる少女。
彼女を見て浮かぶ感想を率直に述べながら、佳槻は言う。
少女らと対峙して直ぐに張り巡らされるのは、四神の加護を受けて成る結界。
加護により防御が底上げされた現状、並大抵の攻撃では切り崩されないだろう。
そこで、鈴が美咲に気付く。かち合う視線に、鈴が唇を噛み締める。美咲は、以前の落ち着きぶりとは反し感情を露わにして――泣き出しそうな表情で、鈴を見詰めていた。
「鈴、帰って来なさい」
「……何よ今更! 無理に決まってるでしょ!」
「まだ無理じゃない。罪は消せなくても、やり直すことは出来るの」
義理とは言えど矢張り絆は深い。慈愛に満ちた母と我を振り翳す娘の口論の間、ディアボロたちは動かない。鈴の指示がないからだ。だが、警戒はしているのか、出し抜くことは出来なさそうだ。
鈴はちらと辺りを見回して――転がる死体を見、歯を再度食い縛る。
「――っ、あんたは黙って見てなさいよ! これが私の力なんだから!」
「鈴!」
現状での説得は難しそうだ。けれど、鈴は美咲に直ぐ攻撃する気は無さそうだった。勿論、逆上すればどう動くかは予測出来ないが。
「一先ず、ディアボロの頭数を削るしかないだろう。必ず連れ戻したいところだが……」
ハイドアンドシーク。気配を紛らせ息を殺していたアルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は、棒立ちのディアボロたちの群れに自ら入り込み、隙を縫って氷の渦を巻き起こす。凍てつく氷の刃は前衛として立っていた妖精二匹を切り刻み、容易く眠りの海へと沈ませる。
意識を沈めた妖精の直線状に、聖母はいた。
佳槻の張った結界の端、位置を定めたアルベルト・レベッカ・ベッカー(
jb9518)が狙うは、讃美歌を謳い続けるその白い聖母。
神経を研ぎ澄まし、精度を極限まで高めたスターショットは一直線に聖母へと伸びる。その白い弾丸が刺さった――と思った瞬間、それは爆ぜた。
ぱあん。
乾いた銃声。硝子の割れた音。誰もがその音に目を遣った瞬間、聖母に伸びた銃弾は一直線にレベッカへ向かい、彼の肢体を貫く。
「……ッ、やるわね」
鈍い痛み。返って来た銃弾の威力は、本来であれば自身が撃ち込んだそのまま。四神結界の効果が無ければ相当な痛打であったに違いない。佳槻に礼を述べつつ、レベッカはライフルを再度構え直す。
潜行の効果が効いていようと、攻撃そのままの『反射』であれば無意味ということか。何にせよ、遣り難い相手であるのは違いない。
「学生らしく嬢ちゃんの確保って理想を追っ駆けて、若さと勢いで成功させてェ所だが」
写楽が眠りこけた妖精の後ろ頭にハルバードの振り下ろしでの一撃を与えると、それに合わせて下がったアルドラが霊符の力を宿したブレスレットから影の獣を解き放つ。妖精の喉元に喰らい付いた獣はアウルの残滓を残して掻き消え、砕かれたディアボロはほろほろと灰になって崩れる。――先ずは一体。
「私の邪魔ばっかりして! あんたたち、死にたいの!?」
ディアボロを――駒をひとつ奪われた鈴の声は怒りに震えていた。
(誰かに煽られでもしたのか? 様子がおかしい)
アルドラから見て、鈴が前回と大きく違う点。怒り以上に、焦りが大きく見えた。
目的を見失って、自分を見失って、逃げ惑っているようだった。それ故に道を誤った。
そうであるなら早急に保護して、道を示してやらなければならない。
鈴と獅子の動向に気を配っていた佳槻も、鳳凰を繰り出すと宙を舞う天使へと意識を遣った。
朱色の鱗、淡い色に染まる羽毛、煌びやかな飾り羽根。見た目と反して可愛らしい声で鳴いた鳳凰は、宙を旋回して矢を番える天使を威嚇する。
「帰る場所がどうとかは、現実を見てから考えて貰いたいね」
現実を見ようとしない、頑なな鈴へ向けて。
佳槻は天使と同様翼を広げ宙へ舞うと、符を払ってその姿を狙った。生み出された様々な色を宿す風の刃は一直線に標的へ向かい、見事白い肌を斬り裂く。傷口からは血の一つも溢れることなく、ぱっくりと裂傷が口を開けるだけ。
地上へ向けて矢を向けていた天使二体は、佳槻へと見事惹きつけられる。
「鈴! お願い、ディアボロを止めさせて!」
美咲の悲痛な叫びを聞かないよう、鈴は顔を伏せたままでいた。
顔を上げれば見えてしまう。母親の涙で歪んだ顔が。聴こえてしまう、子を心配し、憂い、泣き叫ぶ母親の声が。
美咲は涙に濁る視界を振り払い、眼を覚ました妖精に向けて、激しくうねる風の渦を放つ。たとえどんな時であれ、指示には的確に応じるのが美咲だった。
「要救助者の保護、完了しました」
再度足取りが覚束無くなった妖精を、急ぎ足で戻って来た救助班の一人――治翠が盾で薙ぎ払う。よろめき怯んだ隙を狙って、チョコーレが背面から捕縛の術を掛けた。縫い止められる妖精の影、身動きが奪われかっこうの的と化したディアボロ。
「いまだ!」
「逃がさないよ、――ってね」
チョコーレの呼び掛けに答えたカミーユが振り被った大太刀が、ばっさりと妖精を両断する。回避が高いと言えど、示し合わされ同時に狙われてしまえば対処出来るわけもない。装甲が脆ければなおのことだ。
さらさらと灰になり宙に流れる残骸を目の当たりにした鈴は、唇を戦慄かせて怯む。――次は私の番だ。その小さな呟きが、読心術を使用していたチョコーレにははっきりと読み取れた。
「これ以上遣っても何も良いこと無いわよ。あなたも周りも傷付くだけ、それに悪魔にだって利用されてるだけかも知れない」
「……やめてよ」
レベッカの尤もな訴えに鈴は首を振り、獅子に縋りついて顔を埋める。獅子は翼を広げ、鈴を護るように一声鳴いた。
聞く耳を持たないというのなら、こちらも考えがある。彼女の駒を削れるだけ削って、逃れられないようにするだけだ。戦いも放棄、現実からも逃避、それでは話にならない。
聖母に銃口を据えたレベッカは冷静に、そして的確なポイントを狙い、再度聖なるアウルを篭めた一撃を放つ。
反射が来る可能性も有れど、それを恐れていては逃げてばかりの少女と変わらない。撃たねば何も始まらないのだ。
「――”Check”!」
レベッカが発砲する。そして、光の着弾。今度は反射は訪れなかった、一歩前進。
ダメージを与えるのみでなく、ディアボロの周囲が淡く輝く治癒の唄の詠唱を止めた。佳槻の符に斬り裂かれ、飛行速度を落とし始めている天使の一体が聖母の周りを浮遊する。
獅子の翼に護られている鈴は、何も言葉を発さない。美咲の声にも返事を返さない。
そこに、佳槻が声を掛けた。
「自分の不満を現実でちゃんと伝えたのか?」
「……うるさい」
「いつまでも子ども扱いするな、自分を認めて欲しい。……思い通りにならないのを恐れて黙ってたんじゃないか?」
「……うるさ、い」
佳槻の言葉に、返す鈴の声は次第に大きくなった。
全て図星だった。全て事実だった。全て現実だった。
脆い少女の殻の内。やわい心。
「頭の中で繰り返したって誰にも判る訳が無い。判って欲しければ言わなければ駄目。僕は『家族』にそう言われたよ」
「……」
「それは『今』だって同じ。自分の夢だけ見ていても目の前の場所すら判らない」
目を瞑って、耳を塞いで、口を噤んで、それでは何も手に入らない、前には進めない。
鈴がのろのろと顔を上げると、真っ直ぐ見据えて来る佳槻と目が合った。
翼が生えている。けれど、人間。ハーフだろうか。天使だろうか。疎い鈴には判らなかったが、佳槻の言う『家族』の重みは深く感じられた。
ディアボロの攻撃を果敢に凌ぎ、迎え撃ち、符を振るう姿。
強くて、凛々しくて、きっとそんな彼は家族にも認められるだろう。
――鈴が在りたいと願っていた姿がそこに在ったのだ。
鈴は自分では成り得ないことへの悔しさと、重ねてしまった罪への虚しさに涙を浮かべる。
「君に帰る場所を見失うように仕向けたのは誰だ?」
「……弱いのは私だよ。悪いのも私。誰かの所為には出来ない。私が全部仕出かしたことなんだ」
最後まで戦い続けることも出来ない意気地の無さに、鈴は小さく笑う。
それから獅子の頭を撫で、その耳元で囁く。
――『やろう』。
その言葉に呼応するよう吼えた獅子は、鈴を乗せたまま大きく跳んで前線に出る。その背で魔法書を握る鈴の目に、迷いはない。
美咲に送った視線は――縋るような、けれど拒絶するような、遠い眼差し。
●
獅子が前線に出てからは、ひどい有様だった。
あちらこちらへと跳ねては、焔のブレスを撒き散らす。その動きを止めようと獅子に構ってばかりいると、後方から聖母が獅子を支援する。聖母の射程範囲に出れば、脚を縫い止められ逆に動きを封じられてしまう。
前線に出、獅子を牽制していた写楽の脚は聖母の束縛で動かない。
「なァ嬢ちゃん、――そろそろ追い掛けっこは終いにしようや、」
既に先の攻撃で満身創痍だった写楽は、唇の端に付着した血を拭って笑う。
鈴は躊躇わず、獅子に攻撃の命令を下す。振り翳される腕、袈裟斬りに迫る剛爪――。
けれど次の瞬間響くのは悲鳴でなく、鋼と牙のかみ合う音。
「間に合いましたね」
写楽と獅子の間に滑り込んだのは、治翠の予測防御によるフローティングシールド。
進んで敵に仕掛けるのではなく、敵の挙動を読むことで味方を護る。それが、彼の選んだ道。
盾越しとはいえ、獅子の重い一撃は腕にびりびりと響く。これがブレスであれば共倒れだっただろうと予測すると、運が良かった、とも思う。
レベッカのスターショットは、三発目を反射された所で弾切れ。白い聖母は僅かに罅こそ刻まれているものの、まだ動作に支障はなさそうだ。
天使は墜落し、残り一体。獅子、聖母、そして、鈴。
まだ油断の出来ない状況ではあるが、ディアボロの半数は片付いたことになる。
「君に帰る場所は在る。それに、君はまだ君自身の可能性を捨てるべきではない。ディアボロに頼るな」
「強い人は皆そう言うんでしょ」
アルドラの上げた声に、鈴は諦めたような表情で言った。
「過ちは過ちだが、それを償うだけの力量もある」
「嘘ばかり言わないで。何も知らない癖に」
鈴の気が膨れ上がる。沸き出した怒りからか、唇が白く染まる。
アルドラはその様子に気付きながらも、窘めるような調子で続けた。
「君も含めて我々の仲間だ。出来れば今すぐこちらへ……」
「綺麗事ばかり。まるであのひとみたい」
鈴ははあと大袈裟にためいきを吐いて、アルドラを指差した。
それと同時に振り来る石礫。天使が生み出した魔法の瓦礫だ。それだけであれば避けるのも容易かっただろうが、聖母の唄による石化、次いで獅子が広範囲、濃密な焔のブレスを噴いた。
直撃すれば、大怪我は免れない。
今度は、間に合わなかった。護るべく踏み込もうと治翠が身を進めた瞬間にはもう、焔の波が彼女を呑み込んでいた。
声も無く膝を折るアルドラの元へ治癒を施しに走る龍仁を尻目に、レベッカは声を上げ、他の面子も合わせて魔具を構えて狙いを定める。攻撃の直後と言えばチャンス。火力を集中させれば落とせる可能性が高い。
「行くわよ!」
レベッカが狙うは、白い聖母。銃弾、カミーユの放つ矢、それらが撃ち込まれた瞬間を見計らい、写楽、チョコーレ、治翠の攻撃が次々とめり込んでいく。
そうして、聖母は割れる。ひび割れた箇所から音を起てて崩れ、痕も残さず崩壊した。白い粉雪のように宙へ舞い、あとには何も残らない。
「うそ!」
まさかの聖母の陥落に、上がる鈴の悲鳴。
佳槻が狙ったのは――ブレスを吐いてがら空きの、獅子。アウルによって舞い上がる砂塵が獅子を取り巻き、細かな傷をつけていく。そうして、チェック・メイト。
石化だ。つま先から頭、頭から胴、胴から脚、脚から尾、すべてを石に包み、その身体を地に落とす。
重い音を起てて獅子が地に横たわった時、鈴は茫然とその場に立ち尽くしていた。
●
戦況は圧倒的優勢。
残るは石化した獅子。宙で惑い舞う手負いの天使。そして、戦意を喪失した、鈴。
此処に来て、当初頭に過ぎっていた不安が再度龍仁の中で渦巻き始めていた。
悪魔が無償で二度も手を貸すとは思えなかった。これまでの経験、そして見聞からだ。
――鈴と傷を共有しているのでは?
ノー。
――途中で鈴とディアボロの主従関係が無効になるのでは?
ノー。
――けれど胸騒ぎは収まらない。
イエス。
天使がレベッカの発砲で地に転がる。茫然とその様を見ていた鈴が、小さく呟く。
「負けちゃった」
「もう良いだろう。こちらへ来るんだ」
チョコーレが窘めるように告げると、鈴は眸を揺らす。
動かない獅子。それを見下ろして、黙り込んだ少女。
小さな小さな呟き。それは誰の耳にも届いた。
「私、逃げなきゃ……」
逃げる気はきっと無いのだろう。ただ漠然と、茫然と呟いた鈴。
けれど。
「だぁめ。約束したよね?」
不意に響いた柔らかで――けれど凛とした声に、撃退士らの視線が集まる。
長い銀髪に、黒いドレスを纏う女が鈴の背後に立っていた。うすい笑みを浮かべ、小首を傾げて鈴を背後から抱き締めている。突然のことに目を丸くしていた鈴だったが、我に返ると女を押しのけようともがく。
「何、何の話っ……?」
「約束したじゃない。負けちゃったら”責任”取ってくれるって」
治翠は、その女が悪魔――ルクワートであるということが判っていた。そっと味方に通信でその事実を告げ、動向を注視する。皆が皆それなりに傷を負った今、悪魔を相手取るには些か不安が残る。迂闊に動いて刺激しては厄介だ。
けれど、悪魔は撃退士に敵意を欠片も抱いていないらしい。鈴に向けて慈愛に満ちた眼差しを向け、優しげな声音で囁く。
「”責任”の取り方、知ってる?」
「――――……」
鈴は絶句した。言葉に含まれる鋭い毒に気付いてしまったのだ。
「約束したもの。だから、ね?」
茫然としていた鈴だったが、念押しするようなルクワートの言葉に次第に感情を取り戻す。
年相応の、幼い泣き顔。ルクワートはくすくすと花が綻ぶような笑みを浮かべながら、鈴に頬擦りをした。悪意も無ければ敵意も無い。何にもない、虚無を抱いた女悪魔の甘い囁き。
「や、だ、やだ、死にたくない、助けて、」
「三度目はないよぉ」
冷えた掌が鈴の頬に触れる。瞬時に篭められた魔力の圧が髪をうねらせ、鈴は顔を歪めた。
「うそ! いやだ! ねぇ、どうして――……助けて、お母さん!」
「ふふ、童話みたいにマリアさまが助けてくれると思った? ……我儘な子はきらいなの。アベルを困らせちゃだめだよ」
鈴が声を失くして悲鳴を上げる。収束して光を増す輝き。美咲が悲鳴を上げて、脚を縺れさせながら駆け出す。平静さを失くした彼女では間に合わない。誰もが息を呑んだ瞬間。
――龍仁が疾風の速さで駆け出し、鈴とルクワートの間に割って入っていた。
ルクワートの手から魔力は放たれない。全力で飛び行った龍仁を見て、咄嗟に力を留めたらしい。
「どうして?」
極々短く、けれど少しばかり残念そうにルクワートは鈴を固く抱き締める龍仁に問うた。
「生きていれば過ちは償える。その芽を摘むことは、誰にも許されることではない」
睨み据える龍仁の強い眼差しにルクワートは戸惑い、それから視線を伏せる。どうやら深追いして殺す気はないらしい。
「……」
返す答えは沈黙。拗ねたようにも見える眼差しを一度撃退士らへと向け、ルクワートは哀しげに顔を歪めた。
「わたしのディアボロが怪我させて、ごめんね」
述べられた謝罪に、龍仁は面食らった。まさか真正面から、真っ直ぐに悪魔から謝罪を告げられるとは思っても見なかったからだ。
治翠を除いた一同は、驚きを隠せずにいた。不思議な悪魔。彼女が『わたしのディアボロ』と呼んだことから、今回の一連の事件の首謀者であるということは窺えるが、疑問が幾つも浮かぶ。
この場に立っている人間の中で唯一知己であった治翠は、彼女の行動の意図が読めず、考え込んでいた。
「……それじゃあ」
翻すスカートの裾から墨が水に融けるように宙に消え、ルクワートは静かにその場を去った。後を追おうとする者は、誰もいない。
残されたのは動きを止めたディアボロと、ひとりの少女と母親と、撃退士たち。
「あのっ、娘はっ」
「大丈夫だ。気を失っているが」
顔を青くして龍仁の元に駆け寄って来た美咲は、鈴の顔を改めて間近で見て安堵したらしい。ぼろぼろと涙を流しながら、鈴の手を握っている。
「目を覚ましたら――」
美咲が顔を上げると、治翠が薄く笑っていた。
「沢山叱ってあげて下さい。その資格は親である貴女に。そして叱られる権利はこの子に。それからその後、思い切り抱きしめてあげて下さい」
はい、はい、と頷く美咲を見て、治翠は安堵の色を濃くする。
このひとであれば、きっと大丈夫。このひとであれば、きっと巧くいく。
(それは過去の私は貰えず、貰いたかったものなのですから)
治翠は続く言葉を呑み込んで、美咲にそっとハンカチを差し出した。
●
鈴は久遠ヶ原学園のある一室に、一時的に隔離されることとなった。
母である美咲はそれに付き添い、彼女の目覚めを待っている。
彼女の眠りの理由は、軽度の栄養失調と極度の疲労。
適切な治療を受け睡眠と栄養を摂れば、回復するだろうとのことだった。
少女が目覚めた後。進むべき道を照らす、道標になるのはおそらく――彼女の命を握り潰すことなく、生かした上で『更生』の道を選んだ彼ら、撃退士だろう。
●
廃ビル。白い息。
まともな人間なんて存在しない、イカれた情報屋たちの集う場所。人間なのか、悪魔なのか、天使なのか、そんな根底さえ不確かな腐れた廃墟。
風の噂、笑い声。
ディアボロと人間が組んだらしい。無様にも失敗、正義の味方、久遠ヶ原の手に処遇は委ねられた――とか何とか。
「残念。折角良い駒が手に入るかと思ったのによ」
はは、と笑った男の眸は澄んだブルー。いつの間にか点されたにぶい明かりに照らされた髪は金。
イカれた情報をくれたお礼にイカれた情報料を真新しい札で支払えば、イカれた男は声を上げて言う。勿論アクセントに、飛び切りのスマイルは忘れずに!
「ッたく詰まんねえ!」
違いねえや、違いないわ。口汚いブーイング、乱れたシュプヒレコール。口々に上がる野次、起こる喧騒、それらに背を向けた男は昏いビルの底で笑った。