●
外奪は言った。
『ご高潔な久遠ヶ原撃退士諸君が――』
耳障りな高笑いと共に、悪魔は言っていた。
蓮城 真緋呂(
jb6120)が抱く、ただ純然たる願いは、高潔でも何でもない。
チャンスがあるのなら助けたいだけ。
彼女は能力者であることを『選ばれた』だなんて思わない。
けれど、その能力で何かをなせるのならば、力を尽くしたい。
(勿論、今回のルールは守るけれど)
真緋呂は足早に木々の合間を駆け、まるで自らに言い聞かせるように呟く。
「全員無事に助けましょう」
それは傲慢かも知れない。高潔とは程遠い、理想論。
それを耳にしたテス=エイキャトルス(
jb4109)は、感嘆の息を洩らす。
「ああ、なんと人の素晴らしき事よ」
前へ進む『人』の凛々しさ、美しさ。未来を攫まんと伸ばす手が如何に華奢であろうとも、花はただの一輪ではない。此処には――自身を含めても、後七つの花が咲いている。
未来を攫み、手繰る為に集結した、八つの花。
テスは人を救う為、人に語る為、駆ける脚を早める。
本隊での話し合い時。
悪魔・外奪の催すゲームにおいて、全員無事に助けられるとは考えていない。だからこそ、一人でも多く助けられる方法が在れば、その方法を取りたい――。
そう告げた霧谷 温(
jb9158)の言葉を思い返すマルドナ ナイド(
jb7854)は、ちらりと彼を覗き見て目を細めた。
(誰かが犠牲になったとしてもでしょうか。何と、『私達らしい』考えでしょう)
胸中でふわりと広がる甘い空想。
私達。私達、とは、撃退士、ヒトのことでは無く。
(――誰かの大切な誰かが悲しもうとも仕方が無い、気にもしない、どうでもいい?)
これまでマルドナが屠殺場と称す人間界で学んだこと。誰かの不幸は誰かの不幸。誰かの幸福も誰かの不幸。世界は不幸と幸福で回っている。誰かが誰かの為に涙を流す裏で、誰かは誰かの為に血を流す。それが、この『世界』。
(誰かを助ける理由は?)
マルドナの問い掛けは、誰にも届くことはない。胸の内、ひとりきりでの自問自答。
「――私は罪を償う為に、ふふ」
何所かうっとりと目を細めた彼女は小さく笑って、小さく嘯いた。
誰かの幸福が潰えた場所。
誰かの不幸が生まれた場所。
どちらが白で、どちらが黒か。
どちらが正義で、どちらが悪か。
そんなのはいつだって決まってる。
『自分が白で、敵が黒。自分が正義で、敵は悪』
コインの裏表が定められているように、誰もの色がまた同じ。
『敵は敵。味方は味方。誰かの色なんて考える必要もない』
正論。しかし正論の通じない場所に、”敗者”は居る。
彼らの正義に叩き潰された彼らの正義。
その裏側に、彼らは往く。
●
小楽園を訪れた撃退士を待ち構えていたのは宙を浮遊する大小無数の監視鏡と、複数名の聖徒の姿だった。誰もが不満そうな顔をして、誰もが何かを腹に溜め込んだ顔をして、唇を噛み締め撃退士らを見詰めている。否、睨み付けている。
八人。聖徒が撃退士を数え終えるなり呻くように言い、それと同時に聖徒ら数名がボディチェックを始める。
腹、背中、手袋、スカートの中、ボトムの中、靴裏、一切の躊躇が無い、そして抜け道の無いチェック。既に小楽園の敷地内とはいえ、空が見える場所だ。余り気分の良いものではない。
――くすくすくす、監視鏡の向こう側から聴こえる笑い声。
撃退士らは見向きもしないといったていで我を制しているものの、一切合財堪えないと言えば嘘になる。
気分が悪いのは事実だ。見ず知らずの人間にくまなくボディチェックを行われ、その様子を嘗めるように観察されているという状況。
「……ああ、なんて気分なんでしょう」
無理矢理に与えられる屈辱。それに対し、マルドナは紅潮する頬を俯くことで隠しながら、うっとりとした吐息を洩らす。
その後ろで冷めたブルーの視線を鏡へと送るファーフナー(
jb7826)は取り立てて悔しがるでも、嫌がるでも無く、口を噤んでいた。
元より管理された人生、人にも世界にも、とうの昔に失望した男。
心を殺すことは慣れている。寧ろ、感情を発露する術を知らない、それが彼。
与えられた仕事を与えられたまま、黙々とこなすだけ。それがファーフナーという男だった。
元々所持品は解除し、伏兵に預けてきている為、特に武装チェックで手間取ることは無かった。
「きゃっ」
不意に、聖徒の一人がよろめいた素振りをして撃退士一人のつま先を思い切り体重を乗せ踏み付ける。
互いに素手の状態とは言え、撃退士同士。びりびりと走る痛み。今回は痛みのみで終わったが、もしも受けたのが一般人であれば、ただの骨折などでは済まなかったやも知れない。
「よろめいちゃったわねぇ」
「いや、構わないよ」
リチャード エドワーズ(
ja0951)は踏み付けて来た女に対し批難するでも無く、粛々と首を左右する。怒りが一切見えない様子に些か毒気を抜かれた女は髪を靡かせ、怯んだそのまま口を噤んだ。
リチャードの胸には誓いが有った。
『騎士たれ』を信条とし、騎士道へひた奔るべく日々邁進する彼。騎士であることを矜持としている彼には、人質を救わなければならないという使命が在ったのだ。その使命の前では、どんな隔たりさえもが無意味。
ルールは破らない、人質も全員助け出す。――それが、彼の誓い。
(私は……欲張らせて貰うよ。ここは欲張りどころだからね)
人を助けることに、助けたい以上の理由は無い。
義務ではなく、使命。それは我が身を挺してでも護るというリチャードの矜持だ。
「これは回収させて貰う」
聖徒に舌打ちと共に回収されるのは、結社員の証である腕輪。
――が。
『あぁ、肝試しで必要な重要アイテムですよ。お渡しなさいな』
不意に監視鏡から一方通行で入って来た声。聖徒は拍子抜けし、撃退士は身構える。――悪魔、外奪。
悪魔の言うがままに返却されていく腕輪を眺めながら、遠石 一千風(
jb3845)はふとその鏡越しの悪魔へと尋ねる。
「人質の人数分の腕輪は貸与されないのかしら?」
『そこが肝試しのキモというヤツですよ、お嬢ちゃん!』
くくと響く笑い声。鏡が揺れる、ゆぅらゆら、まるで嘲笑うかのように。
肝試し。そう銘打たれたゲーム開始まで、あと数十秒。
扉を潜ると、そこには異様な光景が広がっていた。
鏡、鏡、鏡――外で見たのはほんの一部であったのだと思わざるを得ない程の、監視鏡の数。小さなものが群れを成して宙を漂い、大きなものは撃退士を捉えるなり鏡面に明かりを灯した。光が当たってもいないのに照り返す鏡は、ホラー映画を彷彿とさせる。
その光景を遠巻きに眺める聖徒たちの目は、その倍以上。睨み付ける者。怯える者。怒りに震える者。様々だったが、一様に彼らが八人に対し抱いているのは、『敵意』。幾百もの目玉が注ぐ敵意の雨に打たれながら、撃退士八人は地図を片手に足早に、行く。
――これだけの数の鏡を掻い潜って敵の目を欺くことは、難しそうだった。一千風は形の良い眉を顰めて口許に手を当てる。それに、睨み付けている聖徒たちの数は大量。
(外奪は見世物にしようというの。許せない)
鏡の死角からの攻撃も考えよう、と一千風は思っていた。けれど、この分では無駄に終わるどころか、スキル攻撃のスの字でも一回出せばアウトだろう。ルールの目を潜ることは難しそうだ。
「我慢比べか。やってやろうじゃないか」
ミハイル・エッカート(
jb0544)は聖徒を刺激しないよう小さく洩らすと、地図と同じくして入手した鍵を握り締める。
彼には正義感なんてものは無かった。恐らく高潔とは程遠い。だから、いや、だが、彼は救えと依頼されたから救う。ただそれだけ。実にスマートな答え。
Q.何の為に戦うか? ――A.生きる世界を保つ為。
ミハイルが担って来た世界の中では殺しの依頼も在れば、護衛の依頼だって在った。だからこそ、憎まれるのは慣れっこだ。
また、ファーフナーは冷静に現状の分析を行っていた。
外奪は善意で人質を解放するわけではない。それは当然だ、外奪は悪魔なのだから。では、求めている代償は?
――『ルールは破るモノではなく、守るモノ』。
――『人には何が在るか判ったモンじゃありません』。
ファーフナーは理解する。聖徒側の不満を煽り、撃退士側の怒りを煽り、ルールを破らせ、人同士で争わせることが目的であるのだと。
人質は既に外奪にとって価値の無い存在。後は、猫が獲物を弄ぶように甚振り、絶望感を味わわせ、追い詰めるように、爪を立てるだけ――。
「こんな馬鹿げたゲームなんてとっとと終わらせて、一人でも多く連れ帰らないとね」
闊歩する巨大なディアボロの脇を通り抜けつつ、温は腕輪の効果が確りと発揮されていることに頷く。
聖徒たちの鋭く、それでいて粘着く視線は気になるが、敢えて思考の端に退けることにする。目指すハッピーエンドが違う者同士、話し合いになる筈も無い。
足早に急く道すがら、マルドナはディアボロ発見個所にチェックを入れ、移動パターンや位置の推測を行う。
「もしかしたら気休めかも知れませんけれど」
マルドナが見た所どうも、巨体のディアボロの数は多くないが、移動は不規則だ。しかも、不意に壁から頭を突き出して来る輩もいる。たった八人で人質全てを守るには心許無い。
元よりゲームと称される命だ。きっと殺すことを外奪は惜しいと思っていない。
小楽園内部は、急ごしらえで取り繕われたのだろうと思える箇所が幾つも在った。ひび割れた内装。破壊の痕跡。繕っても消えない傷痕、数え切れない程。
争いが在った証。此処が、侵入作戦の行われた敵の本拠地であるということを改めて知らしめる。
小楽園内は狭い通路も多い。列成して歩く撃退士の後をついて来る聖徒もいた。手に武器は無いようだったが、眼差しとぶつぶつと呟く怨嗟はただひたすらに殺意を訴えて来る。
廊下を何本か抜け、階段を降り、ディアボロが行き過ぎていく背を見送り、階段を登り、――そこに、閉ざされた部屋の扉は在った。一つ目。随分歩いたようだった。
「もう大丈夫よ、助けに来たわ」
真緋呂の明るい声と共に飛び込む、八人。そこは、扉こそ牢の形をしていたが、倉庫のような場所だった。人がすし詰めになっている、空気の淀んだ場所。水場も無ければ食事の痕跡も無い。これだけの数の人間が詰め込まれて、どうやって過ごしていたというのだろう。
「助……け?」
真緋呂の声に顔をのろのろと上げた一人が、鸚鵡返しに問い掛ける。ざわめきは波となって広がっていく。助けが来た。何所から。何の。誰を。もしかして、久遠ヶ原の。
「本当に助かるのか」
「ええ、そうよ。私達はあなた達を救う為にやって来たの」
悠々と頷いてみせる一千風の両肩を髭面の男が攫み、今にも泣き出しそうな顔で訴えかける。
「あんたらは悪魔のゲームに乗って、俺たちを助けに来てくれたんだな? 数も八人。あの悪魔の言っていた通りだ」
あの悪魔、と呻く舌に乗る名は『外奪』。どうやら人質にもある程度の状況説明はされているらしい。ここまで親切だと、逆に不安になるほどだ。
「信じるからな」
「安心して私の後ろにいて。必ず脱出させるから」
相手の手を取った一千風が力強く頷き返すと、男はひどく安堵したように肩から力を抜いた。
――手分けして数えた結果、部屋にいる人数はおおよそ五十人。数える最中に聴いた結果、他の部屋も同じような数だと言う。覚醒者と一般人の比率は判らない為、自己申告を受けながらの作業になり、時間がやや掛かった。
「避難訓練、『おかし』の原則。「押さない、駆けない、喋らない」と小学校で習っただろう。俺はガイジンだから習ってないけどな」
ミハイルは言いながら三本の指を立てる。押さない、駆けない、喋らない。一度は口を噤む人質たち。
「多少は喋ってもいいが聖徒を刺激しないこと、いいな?」
彼らは静々と頷き合い、けれど又、ざわめきは広がる。
ディアボロは? 悪魔は? 本当に出られるの?
巻き起こる疑心暗鬼の渦。それも当然だろう、同じ種族である人間から捉えられ、監禁され、逃れることが出来ない状況にまで押さえつけられ、鬱屈しない方がおかしい。
「安心しろ。俺たちは強い!」
堂々と言って退けるミハイルに、彼らは目を丸くして、――それから誰からともなく泣き出した。声をひそめて、嗚咽を堪えて、ぼろぼろと大粒の涙を流す人質たち。
緊張の糸が弛んだのだろう。今だけは涙を流して心についた泥をも流すべしとして、テスはその様子をどこか達観した様子で眺める。
「もう大丈夫。私達が必ず皆を救ってみせるよ」
リチャードもまた頷き、摩耗し切った顔で泣く少女の背を摩った。
彼らが落ち着いた頃。
ファーフナーは再び脱出に置いての説明を行う。
「――それから、外を徘徊する聖徒に関してだが、何をされるかわからん。だが、だからこそ、暴言や自棄になって攻撃をするといった行為は控えて貰いたい。争いで生まれるのは、更なる暴力と、悪魔の愉悦だけだ」
ファーフナーは強面だが、判り易く、的を得ている発言だった。
「また、精神的に不安定な者は出来る限り列の内側に居てくれ。余裕のある者がそれを助けるといった形のケアを行っていきたいと思う」
また、その言葉も大きかった。人質らは安堵した。本当に助かるかも知れない、生き伸びることが出来るかも知れない。極限状態まで追い込まれた人々の心を、撃退士それぞれの言葉が癒していく。
その様子を、監視鏡は楽しげにクルクルと回転しながら映す。
「さて、何を映しておるのかのう?」
案内を耳にしながらひとりごちるのはテス。同族が何を仕掛けてくるのかは判らないが、窺い返し見るのは性分か。覘き込んだ先には、未来でも何でも無く、ただの闇が広がっていた。
「さあ、そろそろ行かなきゃね。準備は良い? 大丈夫?」
温は声掛けと共に室内を見回し、確認する。どうやらこの部屋で――”もう駄目”な人間は居ないらしい。つまり、見捨てる必要が無いということだ。それは温にとっても喜ばしいことだった。
皆、一丸となってより多くの数の人質を解放したいと願っていた。
その為に訪れた。その為に身を挺してこのゲームに乗り込んだ。
それが、彼らの矜持。
横一列、みっちりと犇めき合って、三列。五十人が部屋から出ればぎゅうぎゅうだった。
外奪の提示したゲームだ、用意された部屋に至るまで、ひどく道が狭い――ということについては、考えられても良かったことなのかも知れない。
出来るだけ覚醒者を外側に配置し、一般人やメンタルに不安が在る者を優先して内側に。そう考慮した配置を考えるまでには、然して時間は掛からなかった。何故ならば覚醒者の数は非常に少ない。一番始めの部屋で、五人。間近に在った、同様の部屋からは六人。
――たった十一人と八人が、おおよそ百人を庇うようにしながら屋内を練り歩くのは到底無理な話だった。
聖徒でも、学園生でも無い『覚醒者の力』を巧く利用していた場合どうなったか。それも、今となっては神のみぞ知る話。
「――ギャアアアアア!」
「助け、」
「うわあああぁああぁッ!」
上がる上がる、悲鳴が響く。狭い通路に犇めき合う人質と撃退士。その波を掻き分けるように、壁から現れたディアボロの巨大な腕が横薙ぎにする。密接した壁からの攻撃、狭い道とくれば逃げられない。その上、庇いに行こうにも人の波が邪魔でうまく進めない。百人の列は至極長蛇になる、それも屋内であるのならば当然と言えよう。
「みんな、焦らず、急いで! 先頭について行って! ――っ」
急いて押し合う人の波をかき分けながら、必死に声を上げる真緋呂。
不意に、弾け飛んで転がって来た頭と目が合った。鮮血、血みどろ、目玉は踏み潰され、床にきれいな華を咲かせた。
「落ち着いて! 外奪の思うツボよ!」
「前方のディアボロが通過するまで待つんだ。でなければきみたちを護り果せることが出来ない!」
視界に入らなければもしかしたら素通りされるかも知れない。そう気付いた先頭の一千風とリチャードも声を上げるものの、所狭しと押し合いぶつかり合う人の波と叫び声に掻き消される。二人が身を挺して道を塞いでいる間はどうにかなるが、それも混乱により生じた罵声と暴力に、呑まれそうになる。
――そこで不意に、大きく響く鳴き声。背後から唐突に、喧噪を裂くよう朗、と渡る声に誰彼が振り向くと、そこには人の波に揉まれながらもにっこりと穏やかに笑うテスの姿。
「大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ、わしらの話を聴いとくれ」
まるで母のように、穏やかに、優しく語り掛ける姿はひとときだが人質らの心から不安を取り除き、落ち着かせた。パニックになっていた場が和らぎ、『フタ』を出来たと感じる。……彼らの後ろ、行き過ぎていったディアボロによって半壊してしまった人質らの存在に。
気付いてしまえば、きっと人質らは動けなくなる。もしくは、動き回ってゼロになる。それは得策で無い。転がり散らばる、多くの死体。死体でなかった者も、狭い通路で多くの足に踏み潰され、死んでしまった。まるでおもちゃのようにひしゃげ潰れた身体。
血なまぐさい空気が漂い、衣服に飛び散り、痕跡を残す。沢山の数の人が死んだという、証拠。
「……行こう。皆待ってる、早く助けなくちゃ」
既に死体と化してしまった者を救う術は、呟く温含む全ての者が持たない。
故に、撃退士らは進む他無い。
その姿を嘲笑い、くるくる回る監視鏡。
後に、ディアボロへの対策の甘さが表に出ることとなる。
ディアボロに遭遇した際、咄嗟に庇おうとしても無駄だった。ディアボロは透過を行う。その透過を防ぐ物も、透過出来ない魔具魔装も、今日は一切装備していないからだ。撃退士をも透過し、ディアボロは人質を殴り潰す。
結局不意打ちからは逃れられないが、場凌ぎの対策として、腕輪を付けた撃退士が一人ディアボロに付き従い、人質へ向かわぬよう進行方向にさり気無く立つことで、若干の被害は軽減された。
●
「殴るなら俺にしておけ。憎い相手が目の前にいるんだぞ」
背後からふらりと現れた一人の聖徒にミハイルは声を掛けた。まだ年若い少女だった。手には硝子の破片を握り締め、思い詰めた表情で唇を噛み、人質へと狙いを定めている。
少女はハッとしてミハイルを見る。手にしている硝子片を見る。そして、憎悪を篭めた眼差しが淀んだ。
「さて、ゲストの外奪様のルールを破るか?」
「……っ、うるさいっ!」
飛び掛かる少女は、冷静さを欠いていた。ミハイルの言葉に宥められるのではなく、煽られるように彼の懐に向けて硝子の破片を突き立てる。それと同時に粉々に砕ける欠片、服は容易に裂ける。
「この人殺し! 久遠ヶ原にあの子は殺された!」
手を硝子塗れにした少女は喚き散らしながら涙を溢れさせ、今度は拳を振るった。がむしゃらに振るわれる全力の拳は耐えられない程ではない。向けられる言葉も同じ、涼しい顔で受け流すことが出来る程度のもの。
その前方、横合いから出て来た少年。彼はナイフを持っていたが、その手は戦慄いていた。
「何でだよ! お前らが許されて、何で俺達がっ……」
ぶつぶつと呟きながら震える少年を見下ろすファーフナーの目は冷めていた。けれど、否定するでも、拒絶するでもない。ただ、甘んじて受け止める目。
「……んだよっ、てめぇ!」
「っ……」
ナイフを振り翳した少年が大きく宙を薙ぎ、ファーフナーの腹部を服ごと裂く。飛び散る血に、少年の顔は蒼白になる。ナイフを喰らった当人は双眸を眇め、響く痛みに僅か眉を歪めるのみだ。
列前方では、リチャードと一千風が足止めを喰らい、人質に少なくない被害が出てしまっていた。ディアボロを引き連れた聖徒の特攻だ。腕輪のお蔭で撃退士は狙われずとも、人質は大幅に削り取られてしまっている。
そこに、遠巻きから割り入る温。
「ねぇ、アレは戦闘行為に入らないんだよね? アレも、それからあっちのも!」
外奪の”ルール”を逆手に取った上での発言だった。
聖徒自体の戦闘行為も止められている為、それらを戦闘と認める訳にはいかない筈だと読んだのだ。
だが――。
『はい? 今少し目を離しておりました。誠に申し訳御座いませんが、もう一度その”行為”とやらを受けて頂いても宜しいでしょうか? 今度こそ確り判断致しますので。アッハッハ!』
合法ペテン師、ヘルディーラー。
――ルールの穴ってどんな所? ルールの目ってどんな所? ああそうそう、アウェーでのゲームって、どんなこと?
つまり、そういうこと。
◇
階段上、遠巻きに見下ろす男は笑って言った。
「人殺し集団久遠ヶ原、次はこいつらを殺すのか?」
「……っ」
人質を狙った投石を受け止め、腹に石がぶつかる。それでも、退く気はない。そして立ち止まり、真緋呂はゆっくりと男を見据えた。
「何とか言えよ、撃退士っ!」
真緋呂は挑発に言葉を返すのは敵意を煽るだけだと考え、言葉を口にするのを止めていた。
(私を傷つけたいならやればいい。覚悟は出来ている)
真緋呂の芯は強く、そして直向きだった。
(人殺し? そうかもしれない。――ディアボロだって元は人間だった)
自分に罪が無いとは思っていない。
罪を自覚してこその強さ。
人殺し人殺しと、喚く口に否定の意は向けない、返さない。
もしかしたら、真実であるのかも知れないのだから。
石を投げ続けられる真緋呂から離れた位置、人質を庇うようにして立ち、罵声を受ける女が居た。マルドナだ。
「人殺しども! どうせこいつらのことだってどうだって良いんでしょ、あんたらは結局誰かを救うって大義名分を振りかざして人殺しが出来たらそれで良いのよ! 最低の屑!」
聖徒の女は戦慄く拳を握り締め、マルドナを睨み付けたまま行き場の無い怒りをぶつけていた。
罵詈雑言をぶつける側もぶつける側だが、今度ばかりはぶつけられる側もややぶっ飛んでいる。
(家畜に罵倒されるだなんて無様)
マルドナは人を家畜と呼び、そして、その家畜と同じ身分に身を置くことで高揚を覚える性質だった。だが、今はそれすら下回る、家畜以下の立場に成り下がることを強要されている。
怒りに我を忘れ血走った目、身体中に注がれる不躾な視線、それらに胸が躍らないわけがない。
「……っふ」
「何? 泣きたいのは――!」
桃色に染めた顔を伏せ、恍惚に喘ぐ身体を抱き震えるマルドナ。
それを泣き真似か何かだろうと考えた聖徒は腕を振り被る。頬を張る――、その一歩手前の瞬間。髪を攫み引き上げると同時、桃色に染まった頬が見えた。蕩けるような甘い表情を浮かべ身を捩るマルドナに、思わず聖徒の手が止まる。寸での所で止められることで、彼女は焦れた。
「焦らしにならないで、早く、お願い、します」
表情を隠すように再度マルドナは顔を伏せるが、その嘆願も叶わず聖徒は気味悪がって手を引いてしまう。
「あ……」
振り翳された手が退いていく。名残惜しげにその様を見詰めながら、マルドナは唇を噤み潤む双眸を伏せる。
(段々駄目に成っていくのが分かる。これはいけない、これ以上はいけない――)
頭を左右し、熱を散らす。ゆっくりと吐息を洩らしながら、彼女はほほ笑む。
「ごめんなさい、罪を償う筈が罪を重ねてしまっている。永遠に贖い続けなければいけませんね」
――ふふ、と聖徒の背に向け笑うマルドナに対し、敵意を面と向かって抱く者は、もう誰も居なかった。
その様を眺めながら、テスは浅く息を吐く。マルドナとは知り合いだった。だからこそ、彼女の心も一つの在り方であると、共感は出来ないものの理解はしている。
始めに入った部屋とは真逆側の部屋――そこへ向かう道すがら、人を宥め、可愛がり、時にはディアボロの攻撃に潰える命を見て嘆き、辿り着いた部屋の前で、テスは一人の少年と向き合う。
「お前らは俺たちの敵だっ!」
「そうじゃ、敵でよい」
面食らった様子の聖徒に対し愛でるような視線を送りつつ、テスは続ける。
「愛、憎しみ、夢、嫉妬。その義憤、その矜持こそが『人間(未来を創る者)』の原動力!」
「……は、はぁ?」
言葉を失くした少年を愛おしむ目で見詰めながら、テスは朗らかに笑う。
遥かな時を生きた老悪魔である彼女にとって、敵味方の区別はなく子どものようなもの。
そして、テスの言う人間とは、荒野に進むべき道を切り開く者たちのこと。
その抱く心のままに動く生き方を、テスは愛し、礼賛する。
「ゆえ、心を以て前に進むがいい。進み戦い、何れ天魔を駆逐するといい。彼らが現れなければ主らが憎む撃退士も現れぬのじゃからな」
そうして未来を作れと言い切ったテスに、これ以上句を継げることの出来る者がいるだろうか。いや、いまい。
――握り締めた拳を下ろし、少年は彼女の前から消えた。
一千風が髪を引かれ振り向くと、そこには同じくらいの年頃だろうか、少女が彼女を睨み付けて立っていた。
「人殺し。あの人の仇、久遠ヶ原……!」
「っ!」
ぱぁん、乾いた音が宙を割く。聖徒の攻撃を一千風が頬で受けた音だ。
頬を張る痛みより何より、仇だと、同じ人間にぶつけられることの方が彼女にとっては辛かった。
人を助ける為に撃退士となったのに、――ああ、返す言葉が見当たらない。
聖徒たちは、それぞれが思い思いに撃退士にぶつかり、その衝動を受け止められ、戸惑いと高揚、哀しみと喜び、様々な感情に揺れていた。
◇
「仲間であるはずの人間にぼっこぼこにされる撃退士を見るのは楽しいか?」
『楽しいですねぇ。拍手拍手の大絶賛です』
不敵な笑みを浮かべるミハイルに対し、監視鏡の中の外奪は同様に笑みを返して手を打つ。
鏡の向こう側、誰が居るのか、誰が見ているのか、誰の目なのか――そういった疑問は、晴れることも無く、晴れろと願われることも無く。
笑いながら外奪は言った。
『貴方方のお蔭で良い時間が過ごせそうです』
「そいつは良かった」
ミハイルの皮肉にも、にっこり笑顔。
つくづく喰えない男である。
●
順繰りに回った四部屋目で最後の人質らを回収し、八人はそれぞれディアボロや聖徒に警戒しながら入口へと向かう。
列の長さで見るに百は生き残っただろうか。げっそりとした表情。もしかしたら、同じような顔をしているかも知れない。だから、安心させるよう毅然とした表情を作った。
「ゆっくり、順番に出て行きましょう。おさない、かけない、しゃべらない、よ」
先頭のリチャードと一千風が頷き合い扉を潜り、そして、それについて出た人質数名が外の光に呑み込まれて行く。が――その直後、外から響く悲鳴。
「外で何かあった、とか?」
温は嫌な予感がした。ルールを”見抜く”ことが出来る外奪なら、もしかしたら遣り得るかも知れないこと。
「もうゲームは終わりだ。出て行って貰おうか!」
そう言い凄む聖徒に追い立てられるように、残り撃退士六名と人質は外へと押し出される。列は長いが、聖徒らに囲まれる形で凄まれれば居残ることも出来ない。
そこで。
「――――逃げろォオオォオ!」
リチャードの嗄れんばかりの叫び声が、続々と出て来る人質らにも伝わった。
それは一目見て判った。ディアボロだ。
この数の人質を丸腰で護り切れる自信など誰にも無い。
小楽園内から押し出され、わらわらと千千になって乱れ、逃れる人の波。波にぶつかるディアボロによって、人が死ぬ。波が砕け、森間に咲く紅いしみになる。
「やってくれるぜ、外奪!」
ミハイルは言いながらディアボロの前に出ると、その身を滑らせ人質らを庇う。腹を穿つ痛烈な攻撃に喉奥からは血がこみ上げ眩暈がするが、踏み止まった。護るべき対象がいる。それだけは違わないこと。
腕輪を付けている撃退士らが攻撃を受けたのは、どうやら外奪があのディアボロを指揮しているからか。外奪の命令には腕輪以上の『権限』があるらしい。
それぞれが人質を庇うようディアボロを包囲する最中、ファーフナーはふと物陰で一塊になっているヒヒイロカネを見付けた。仲間に周知すると同時、ディアボロの攻撃を避けながら引き渡しに駆ける。
「自分の足で逃げるんだ!」
温も魔法弾から人質を庇い、何とか踏み止まっていた。
逃げるまでの時間稼ぎにはなるだろう。ヒヒイロカネが在れば尚更だ。
一人の青年がおろおろと逃げ惑っている傍、真緋呂が樹へと叩き付けられる。
肺が押し潰され咳込む彼女を心配して駆け寄ろうとする青年に彼女は小楽園とは逆方向を指差すと、「走って!」と短く叫んだ。慌てて駆けてゆく姿を見送りながら、真緋呂は切れた唇を拭う。
腹に喰らった痛打が響く。だが、声は未だ出る。大丈夫。
「皆さんあちらへ! 逃げてください! 足を止めずに、……っ」
魔具魔装を装備し直し、テスと共に避難誘導を行うマルドナの目先、人質が逃げる背に、リベンジ2号の放った大粒の魔法弾が飛ぶ。
咄嗟に庇う為に身を挺すと、――そこでマルドナの意識は飛んだ。
撃退士の受けた被害もまた甚大だった。
未だ避難誘導は完全には済んでいないが、そろそろ退かなければ撤退すら不可能になってしまうかも知れない。
人質で倒れた数も、数えたくない程の現状だ。
「これ以上は――持たない! すまない!」
「ごめんなさいっ……!」
手負いの仲間を背負ったリチャードと一千風の謝罪に、外奪とそっくりの人形は、外奪とそっくりの声で笑う。
「皆さん人質は置いてお帰りですかぁ? 撃退士ともあろう方々が逃げちゃうんですかぁ! あはははは――」
外奪の高笑いを背に受けながら、撃退士らは撤退する。
ふと振り向くと、誰かがディアボロに今にも踏み潰されそうになっている姿が見える。
(――GAME OVER!)
命辛々逃げ出した撃退士が本隊へ戻った時、空はすっかり暮れ落ち、場は夕闇に満ちていた。