11月25日更新分
「あら、あらまぁ‥‥ようこそおこしやす。こちらに来やはるのは、えらい久しぶりどすなぁ」
「――しばらく来ない間にまた『模様替え』かい、アナエル」
「かいらしいどすやろ♪ 地球は文化がぎょうさんあらはりますから、飽きなくてよろしゅおす」
そう言って、アナエルと呼ばれた華やかな着物を纏った女天使は笑顔で緑茶を淹れた。
ぴとん、と最後の一雫まで注ぎ終え、ゆっくりと目の前の男に差し出される茶碗。
「で、一体どうしはったんどす、アクラシエル先生?」
男は茶碗を傾けて一息つくと、静かに口をひらいた。
◇
水面下で闇をかき回すように、天界は漣だっていた。
夏に起きたギメルの反乱は、武闘派・穏健派と思想の差異はあれど、目的は一つだと考えられていた天界像を大きく揺るがした。
勿論、ギメルがどういう意図で『天界』――大多数の天使が当たり前に信じていた、その組織に刃を向けたのかは明らかにされていない。
それでも、規則と恭順が理とされていた世界に、ひとつの楔となるのは至極当然で。
表面上は誰もが口を噤むが、衆目から遠ざかれば一言目には『どうなっているんだ』と口角を歪める。
疑心暗鬼なのは、メタトロンとて同様だった。
これまで地球侵略に関してはメタトロンを旗頭とし、他の上位天使の介入はなされなかった。
メタトロンは地球における指揮の一切を任されているはずだった。なのに。ギメルはメタトロンの方針に反しただけでなく、メタトロンの名代たるザインエルを前にしても怖じる事はなかった。
それはつまりメタトロンより上の天使が動いており、その庇護下にあれば何の懸念もない、と。そう態度で示すかのようで。
どこから綻んでいるのか特定できるまでは、信に足る人員のみで裏取りしていくしかなかった。
◇
「それで、あのハ‥‥頭がようけ賑やかな天使はんの尋問や調査を、先生がしてはったんどすな」
「サンダルフォン様の無茶振りさ」
「うちのセンセは信用厚うてよろしおすなぁ」
「からかうんじゃない、アナエル。ただでさえ今回の件で天を離反した天使も少なくないのに――」
アクラシエルが指揮を執る『ネメシス』はメタトロン直属の特殊組織。
主たる任務は堕天使の追討。天界の体制のため同族殺しという汚い仕事を請け負っており、天界の体制に静かな不信が出ている今、その件数も日に日に増加している。
しかし、メタトロンがアクラシエルに命じたのは、追討の強化ではなく――関東の掌握。
南関東地域は先ごろまで、群馬にアバドンが、そして富士や伊豆にはサリエルらが陣を構えており、中距離から睨み合っていたため大きな波乱に巻き込まれる事はなかった。
だがアバドンやサリエルらは討たれ、空白となった均衡は、ギメルの動きによって崩される。
元より南関東は潤沢な『狩場』だ。
この混乱を冥魔が見逃す訳はなく。そして、天使とて安々と敵に塩をくれてやる道理もない。
「任務自体はあまり気は乗らないが、『あの女』が出て来るとあらば是非もない。あれは私の汚点だからね」
「あらぁ、奴さんが地球に来はるんです? それはようけもてなさんとあきまへんねぇ」
にこり。紅く縁取ったアナエルの目尻が下がる。朱を引いた唇を小指でつとなぞる。
その姿はまるで遠く離れた想い人へと情火を燃やすようで。
「一端立ってうちとこ来やはったんなら、なんぞ『おつとめ』あるんどっしゃやろ?」
アナエルは愛らしい笑みのまま、主たる彼に言葉を促した。
「我が副官アナエルに命じる――‥‥」
告げられたその命に、遊び相手を見つけた子供のように無邪気に瞳を輝かせるアナエル。
すっと立ち上がると踵を返し、壁に掛けられた――長らく使っていなかった愛刀をひと撫で、再びアクラシエルと目を合わす。
「よろしゅおす。聖裁官アナエル、センセの右腕としてあんじょう気張らしてもらいますえ♪」
神奈川県は鎌倉、既に設置から10年が過ぎたゲートの中。
終始平穏な吸収で共生してきたその支配領域の歯車が動き出そうとしていた。
(執筆:由貴 珪花)
2月25日更新分
「あっはっはっは! いやー傑作だねぇ!」
手近にあった瓶に口をつけ、ごっごっ、とエールを胃に流し込む。
しゅわ、と湧き上がる刺激。あたしはこの感覚がたまらなく好きだった。
大笑いで乾いた喉をひとしきり潤すと、唇は無意識に弧を描く。
「ボウヤはぜってー顔真っ赤にして怒ってたろうな、あーもー直接見てやりたかった!」
堪えきれず再びからからと笑い声を上げ、それから大きな鏡を覗き込み、言う。
「やっぱ、お前の作戦をあたしが実行するのが最強だよ。なぁメフィー?」
鏡に写った女は紫銀の髪を揺らして目を細めた。
●
この話はかれこれ半年ほど遡る。
ダーリンからのラブレターを受けたのは、あたし達ケッツァーの派遣先。
そう、砲弾飛び交う戦場まっただ中だった。
「んんーーー、『地球に来い』‥‥?」
普通に読んで、それから首をかしげてもう一度読んで、逆さまにしてみたけど書いてる事ぁ変わんなかった。
かいつまんで言えば、地球の――日本の要所を確実に押さえるために来てほしい、と。
光弾が飛んで来る。それを手刀でいなし、
「ったく、ただいまお手紙中だっつぅの。天使ってのは相変わらず野ッ暮だねぇ」
吶喊してきた天使を回し蹴りで吹き飛ばしながら、再び手紙に目を落とす。
‥‥ん。日本っていやぁダーリンと悪友メフィストが出張してるところじゃないか。
あたしは長らく兵站関係の任務に就いてないから詳しくは知らないが――あの2人が泣き言言うほど抵抗されてるってか?
いやいや、ないだろう? ちょっと想像つかないよねぇ。
「ま、詳しい話は後で聞きゃいっか。ダーリンの頼みとあっちゃ断る選択肢はないし――」
そこら辺に転がってた天使兵の外套を剥ぎ取って、『OK任せてダーリン、愛してる』と一言書き入れる。
そいつを使い魔に結んで飛ばし、あたしは周囲のあらくれ達に向かって声をあげた。
「よぉ、お前らァ! 愛しのダーリンから招待状だ! ちんたらやってねぇで、さっさとここは片付けちまいな!」
オオオオ、と声が戦場を包み込んだ。
◇
それから更に2ヶ月が過ぎて。
あたしはダーリンの前で正座していた。
「ったく、火急で声をかけた意味がなくなっちまった」
「あたしも、すぐにでもそっち行きたかったんだけどぉ‥‥。アイツら対空神器なんて持ってきやがってさぁ‥‥『うちの子』がさぁ‥‥」
若干怒気を孕んだ声と視線が頭上から突き刺さる。
ああん。でも怒ったところも好きっ。
「エンハンブレがなくてもおめー自身は動けるだろうが」
「そうなんだけどぉぉ‥‥。アレはあたしの魂だもん‥‥遅くなってごめんね、ダーリン?」
空挺・エンハンブレ。
あたしの魂であり、ねぐらであり、相棒。いわゆる『魔器』ってヤツ。
なんだが、先の戦闘で強行制圧してやろうとしたら、ドーン、ってされちまった。
くっそ、あたしん家に風穴あけやがって。撃ったやつ三代先まで根絶やしにしてやる。まじぶっころす。
‥‥とまぁそれの修復で、本来は三峯の衝突から間髪入れず行われるはずだった地球派遣が遅れたってわけだ。
「幸いっつーか、どうも天界がゴタゴタしてるみてぇで助かったがよ」
危うくアクラシエルに出し抜かれるところだった、とダーリンが呟いた。
ああヤバい。ダーリン激おこっぽい。
どうやって挽回しようか、と無い頭回していると、そこに。
『まぁそう責めるでないさ、宰相殿。むしろ遅うなったゆえの好機‥‥妾に妙案があるのじゃが――』
鏡の向こうで話を聞いていたメフィストが、葡萄酒を傾ける手を止め、にやりと笑った。
●
「まっさか隠れ蓑作戦がこんなにキマるとはねぇ! メフィーの頭脳に感謝感謝だ」
アイツらは横浜でゲートを開く狙いがバレないよう、ここ数ヶ月わざと埼玉で暴れていた。
(まぁあたしはどこで開くつもりかなんて、さっぱり見当つかなかったけど)
そんならあたしらは息をひそめて、アイツらの撹乱作戦に便乗しようってわけだ。
退屈っちゃぁ退屈だけど、まーあたしはゲート術とか苦手だし。‥‥だから兵站任務が滅多に来ないんだけど。
天使達が頑張ってブラフ張ってる間、のんびり術に集中出来たおかげで、あたしが出せるギリギリの規模までゲート広げられたし――。
「結果よけりゃオーライオーライ。あとはしっかり人間集めてくりゃぁダーリンも‥‥ほ、褒めてくれるよね」
『相変わらず、宰相殿の事となると恋する娘子のようじゃな』
「ははん、あったぼーよぉ♪ 何百年惚れてると思ってんの」
『いや、婚歴ウン百年のくせに未だそうに初心なのが摩訶不思議なんじゃがの? ――まぁ、よい。あとはそちらで』
あたしが大きく頷くと、鏡に映ったメフィストの姿はゆらりと歪み、やがて消えていった。
横浜は人口密集地らしいから300万以上は囲っただろう。
こっちはいいとこ100万人ってところか。まーでも、人間は外から補充もできる。
それに――あたしらケッツァーは空挺団。ゲートは空に守られてる。
どちらがより収穫できるか。
ここからは、ボウヤ‥‥アクラシエルとの『人狩り合戦』。
そして、多分必死に奪還して、それから補充の妨害をしてくるだろう撃退士との『争奪戦』。
――ああ、ワクワクするねぇ。
(執筆:由貴 珪花)
4月28日更新分
●
「失礼します」
空き教室の引き扉を開くと、埃っぽい空気が木村良大(jz0019)を迎えた。
ここで臨時バイトを初めて早2ヶ月。この乾いた空気にも随分慣れた。
部屋の中央に置かれた長机へ足を進めると、よいしょ、と少し背伸びをして資料を上に載せ、再び入り口に戻って引き戸を閉じる。
各地の被害状況、天魔の活動状況、内部から逃げ出した人たちで形成された避難地域の情報‥‥etc、etc。
書類束の厚さたるや、数十cm。本当にこれら全てに目を通しているのだろうかと――彼女の様子を見ていない人間は、思うのだろう。
「つくばと横浜にゲートができてから、随分経ちましたね」
「そうだな」
教室の奥、一人ひたすらキーボードを叩いていたのは月摘 紫蝶(jz0043)。情報処理科の教員だ。
長い黒髪を一つに結い上げ、栄養ドリンクの瓶をそこら中に転がし、半ば濁った紫の瞳の下には濃い隈が浮かんでいる。
作業机の傍らにあるソファーには毛布が綺麗に畳まれていて、暫く使った様子はなかった。
「‥・・また、ご飯食べてないんじゃないの?」
「そうだな」
「仕事は捗ってます?」
「そうだな」
「今はゲームやってる時間もないよね、ログインいつからしてないの?」
「そうだな」
「うーん、右から左に抜けてるなぁ。あ、そういや――こないだレアドロップ5倍の神イベが終わったけど」
「そうだ‥‥、なんだと!?」
ガタッ!
思わず前のめりに立ち上がろうとする芋ジャー教師を見て、ひとまず安堵。
「よし、まだ元気だね。大丈夫大じょ、げっほ」
「どーもー、おじゃましまーす」
言葉の途中、良大が咳き込むのと同時に教室の扉が再びガラリと開いた。
「ナターシャ戦の報告sy タバコくっさ!?」
「僕も千葉の報告書を‥‥うわ、噂には聞いてたけどこれはひどいね」
初めてこの教室に足を踏み入れる三ツ矢 つづり (jz0156)と狩野 淳也(jz0257)が、ほぼ同時に顔をしかめる。
「吸わんとやってられん」
この空き教室――いや、関東ゲート対策作戦室は煙たい。
学園長が、紫蝶をここに缶詰させる代わりにと喫煙の許可をしたせいで、ここはひどく濃い煙草の匂いに塗りつぶされていた。
先月半ばまではとある不良司書も入り浸ってたが、彼女は今出向中のようだ。
「報告の前に、窓あけて換気しよっか?」
言って窓の鍵に手を伸ばすつづりの肩に、淳也の手がそっと降りる。
淳也は琥珀の瞳を細めて首を振ったあと、浅く唇を開き――一度考えなおすように閉じてから、少し切なそうに呟いた。
『春の嵐が、滅茶苦茶にしてしまうから』、と。
●
神奈川県鎌倉市。
ネメシス所属の天使――『聖裁官』の指揮と援護を頼まれたアナエルは、
「今日もお天道様はお元気どすなぁ。濡れものも早う乾きはるし助かるわぁ」
ゲート内でのんびりと洗濯物を干していた。
ただの日課でありサボっているわけではないが、運悪く居合わせると誤解を与えることがしばしばある。
「‥‥アナエル様、一体何を」
「あらぁ、ギーちゃんやないの! おこしやすー♪」
そう、彼のようにね。
「ふぅん、じゃあギーちゃんはお勤め前に寄ってくらはったんやねぇ」
上司のアクラシエルにそうしたように、部下であるギーちゃん――もといギジー・シーイール(jz0353)にも茶を差し出す。
ギジーは一礼するも、茶に口をつける素振りもなく頷いた。
「ふふ。アクラシエル先生はよう働かはるええ部下をお持ちやわぁ。私よりギーちゃんのほうが副官に向いとるんちゃうやろか」
「主命に応えるのが私の使命ですから」
ずず、と焙茶をすするアナエル。
(‥‥あん人も、おんなじ事いうとったなぁ)
何十年前になるだろう。
アナエルは、副官就任の際に一度だけザインエルに会った事がある。
その時彼がそういったのだ。『主命に応えるのが私の使命だ』と。
アクラシエルの傍らで彼の言葉を聞いていただけであったが、それはもう誠実とか誠意とか、そういったものの見本のような人だった。
――それが。
(まさか、クーデターやなんて)
ザインエルが襲撃した京都は、一見落ち着いたように見えるけどもそのまま沈静化などということはあるまい。
再び蜂起の時を待っているとすれば、いつまたメタトロン率いる地球派遣軍のエネルギー問題が浮上するとも限らない。
やはりアクラシエルに命じられた関東の人狩りは、依然として命綱なのだろう。
「ギーちゃん。‥‥センセのちからになっておくれやすな」
「愚問です。――というか、主命に応えるのが使命だと言ったばかりです」
「ふふ。そうやった」
アナエルはぬるまった焙茶を再びすする。
人間から見れば我ら天使は忌むべき侵略者であり簒奪者だろう。
あまり吸収や支配に興味のないアナエルからすれば、人間が抵抗するのは至極当然のように思えるのだ。
でも。
(今の私たちは、生き残る事に精一杯やよ)
そう心の中で呟いて、春爛漫の青空を見上げた。
◇
一方、茨城県つくば市上空。
「――ダーリン成分が!足りない!!」
『あァ? いきなり何の通信かと思ったらくだんねぇ』
「さーーーみーーーしぃーーーー!!! あとひまーーー!」
じたばたぼすぼすじたばたぼすぼす。
女子高生のような声をあげ、体をばたつかせながら手元のクッションを小突き回すベリアル。
通りがかりの乗組員が何の叫びかと顔を覗かせるが、『いつもの症状』だと認めると、何事もなかったように通りすぎていった。
「ねーぇ、いつになったら会えるのぉ〜?」
『戦場にいる間はそんな可愛いセリフはでてこねぇのに、随分じゃねぇか』
「ダーリンったらあたしの愛を疑ってるのっ!? 天使を血だるまにしてる間もダーリンのことは片時も忘れてないもん!」
想い人を心に浮かべながら宿敵を殴り飛ばしているとしたら、それは愛なのか若干審議の余地があるが。
さておき。
なにせこれまで殆ど戦火渦巻く最前線にいた身だ。つくばの上空に漂う『ねぐら』で吸収を見守るだけの日々は退屈他ならない。
部下とじゃれて暇を紛らわせるのには限界があった。
『まーそうだな、じゃあ近いうち会いにやってもいい』
ふてくされていた顔が一転、ベリアルは喜色満面に通信鏡に飛びつく。
旦那がいればオールオッケー。脳筋女子チョロい。
「マジ!? いついつ? 5秒後くらい!?」
『俺はボウフラか』
「えーじゃあ10分待つ‥‥」
『変わんねぇ。ったく、焦んなって。そんな先の話じゃねぇから』
流石に数百年の付き合いとなれば扱いも慣れるもの。
ルシフェルはやれやれと溜息をつくと、声のトーンを一段下げて口の端を釣り上げた。
『いい子で待ってたら、あとで沢山可愛がってやるよ』
ルシフェルがいずれエンハンブレに訪れる――。
という話はケッツァー乗組員にも少しずつ知れていったわけだが、
幸せモードで悶える彼女を襲撃したロウワンが関節技を極められるのは、別の話。
●
「――ってことで、ナターシャにも重傷を負わせてるけどこっちもかなりやられてるから――」
「――港も痛み分けだ。‥‥船舶の破壊についての始末書も――」
「――あ、先生。シキちゃんからメールで報告書が。‥‥あー、あの子はここ入らないほうが良さそうだしな――」
つづりと淳也がそれぞれの所感を交わしつつ、各地の報告を打ち込む作業を手伝い始める。
それらを漫然と聞き、アリス シキ (jz0058)からの報告書をサブモニターに表示しながら、紫蝶はキーボードの上に指を走らせていた。
梅の盛りのころに突如現れたゲートと、関東のあちこちから人間を確保しようとする天魔の動きは、まさに嵐といえよう。
空高くから唸りをあげ、大きなうねりとなって、儚くほころぶ桜も、何もかも、持って行ってしまう。
「今回は僕も随分堪えた。半数以上を救ったとはいえ、目の前で多くの人を連れて行かれたからな」
眉間に深い皺を刻み、淳也はばつが悪そうに瞳を伏せる。
「でも」と言葉をつなげ、「情報は無駄にしないし、諦めもしない」。
ぐっと拳を握りこむ彼を見て、つづりや良大もまた頷き返した。
「ネメシスにケッツァー‥‥特に、活動が活発化しているケッツァーのほうは見えてきた情報も多そうね。すぐまとめるわ」
「じゃあ僕は地元撃退署からのゲート周辺調査が揃ったから、マッピングしようかな」
「おや、じゃあ君に任せよう。不透明だった人的被害について警察からも報告が来ているみたいだから、合わせて頼んだ」
「うええ、めっちゃ多いじゃないですか!? 狩野さんえげつない」
「じゃあ狩野は、レミエルを呼んで転移装置の座標を詰めてくれ。いつでも出られるように、ね」
「了解」
あれだけ広い領域を切り取ったのだから、監視の目が行き届いている事はないはず。
細く垂らされた蜘蛛の糸を手繰って、少しずつ反撃の準備をしなければならない。
(春の嵐、か‥‥でも)
桜と違って、人間は救う事ができる。立ち上がる事ができる。
一方的に奪われるだけではないのだから。
反撃の狼煙は、きっと、間もなく――。
(執筆:由貴 珪花)
6月17日更新分
「ん、雨か‥‥いつのまにか、もう梅雨時なんだな」
窓を叩く雨音の旋律に、月摘 紫蝶(jz0043)はモニターから視線を離した。
茨城県東の海上に位置する久遠ヶ原は、関東一円と共に梅雨空続きである。
凝り固まった体をぐいと伸ばし窓辺に寄ってみれば、眼下では雨粒に打たれて黄色を揺らす金糸梅。
見上げれば低く凝った黒雲が、まるで猫が喉をならすようにゴロゴロと唸りをあげていた。
(――まるで、)
人間のようだ。と。そう思った。
遥か高い空から、厄災は降ってくる。
その昔、天魔と人間は共存していたはずだった。静的吸収、と今は言われているそれだ。
天魔は時に益をもたらし、人はささやかながら――知らずのうちに、信仰として、或いは好奇心で以ってその対価を支払っていた。
だが。
激しすぎる雨が大地を削り押し流してしまうように。
豊穣の雨と禍殃の雨が表裏一体であるように。
猛る雷となった天魔は逃げ場のない災いとなり、人間という存在を削りとっていくのだ。
「美しく咲く花は、雨から逃げる事はできない‥‥か」
「やぁ、何の話かな「ひょあっ!?」
涼やかに囁く声に慌てて振り向くと、ルチルの髪がしゃらりと視界に飛び込んだ。
「れ‥‥、おま‥‥! 居るなら普通に呼んでくれないか!?」
「心外だな。俺は普通に声をかけただけだよ。‥‥時に紫蝶さん」
「な、なんだ」
「独りでシリアスに浸りたいときは背後に注意したほうがいい。これは最重要項目だ」
「うわあああああ黙れええぇぇ!!!」
閑話休題。
「それで? 何の用だ、レミエル」
そう呼ばれたレミエル・N・ヴァイサリス(jz0006)は、「ああ」と一言返事をして「北海道が少し落ち着いたからな」と息を吐いた。
ルシフェルの本拠が残っている以上、オールクリアとは言えないけれど。
先の作戦で、確かに脅威の1つは排除されたといえるだろう。
カップに注がれた深い黒に、くるくると円を描いて白を流すレミエル。
「祭器は――」
「あれは、暫く使えないだろう。そういつでも軽々に使えるようなものではないよ」
紫蝶の呟きに、先回りしてぴしゃりと一言。考える事はお見通しと言ったところか。
「戦力として計上できない、か。さて、関東の2大ゲートはどうしたものかな‥‥」
関東に居座る2つのゲート。
その内に囚われた市民は、幾度と無く救出を行った今でも、ゆうに300万人を超える。
急激な吸収は行っていない――とはいえ、もちろん看過できるものでもなく。
「散発的な救出とともに、通信拠点だけは作ってあるんだけどもね‥‥」
情報の連携はこれまで以上に行える。それは結構なことだ。が。
横浜を攻めるには、鎌倉から陥とさねばならない。
鎌倉から流入するサーバントが横浜南部の防衛を固めており、無視して横浜を叩くには多大な犠牲が――それこそ、いつぞやの京都で熟達の雄を喪ったような、大きな犠牲が出るだろう。
そして。
「つくばは、得体が知れない」
「それはまた、随分ざっくりした不安だな」
天翔る船――エンハンブレ、という名は、ケッツァー所属の悪魔が口にしていた。
ただ、その実体はようとして知れぬまま。
「流石に、ただ浮いてるだけの船ってこともないだろう」
紫蝶はずず、とかすかな音と共に苦味を飲み下す。
一方、レミエルはミルクとシュガーで苦味を薄めたそれを飲み干すと、
「そうだな、確かに得体が知れない。いや本当に、俺もどういう兵器なのか、気になるよ」
笑顔で言った。
「よし。つくばの空挺は、生徒を数名連れて俺が向かおう」
「入れるのか!? 敵の本拠地だぞ」
「当然隠密作戦だけどね。今からディメンジョンゲートの座標調整をして、転送で直接乗り込む事になるかな」
「隠密作戦とは」
大人数を飛ばす事はできない以上、リスクは高い。
万が一に離脱しようにも、高度は推定300m上空。しかも支配領域のド中心。
が、その船の仕組みを知れば有利に攻略できることは間違いないはずで。
「……」
意を決すると、紫蝶は急ぎキーボードを叩き始めた。
「こちらでは鎌倉へのアプローチを手配しよう。幸い鎌倉ゲートはかなり平穏に管理されているようだし、急襲すれば少人数でもゲート破壊の目はあるだろう」
だが鎌倉も少数精鋭に絞らざるを得ない。
危険は共に高く、良策とはいえないかもしれない。
「生徒達を、信じよう」
紫蝶とレミエル、ともに目をあわせると、小さく頷きあった。
「そういえば、さっきの花とか雨とかはなんだったんだい?」
「おい、それを蒸し返すな」
ははは、と軽い笑いを一つ。そして「事件と関係ある事かなと思ったのさ」と。
多少いたたまれない気持ちになりながら、紫蝶は口を開いた。
「別に‥‥雨から逃げられずに水浸しの金糸梅を見て、なんだか天魔の襲撃をうける人間のようだなと思ったのさ」
勿論人間には撃退士という刃がある。雨雲に切っ先を届かせることも、できるかもしれない。
されど、常に被害が出てから抗するしかない現状は、雨ざらしの花とそう大きな違いはないようにも感じた。
「ああ本当だ、金糸梅があるな」
一度口をつぐんで、一つ瞬きをしてから、レミエルは続ける。
「そういえば先日、高等部の女子から金糸梅の花を貰ったんだけどね。俺の髪のような色だって」
「なんだ、モテ男の日常話か?」
「ふふ、羨ましいかい? ――俺の日々が喜びにあふれますように、と言っていたんだ。で、何の事かと思ったら」
金糸梅の花言葉は、『悲しみを止める』と言うそうだ。
外はいまだ、晴れる気配はない。
花も雨だれの中で、変わらずゆらりゆらりと体を揺らしている。
しかし、艷やかな黄色の金糸梅は散ることもなく、いつか訪れる晴れ間を待ち望むかのように上をむいていた。
(執筆:由貴 珪花)
6月28日更新分
●
設えられた巨大な水晶から、ふわりと淡い光が船内を満たす。
光の内部に生まれた影はやがてヒトの形を成し、影はやがて色を帯び、髪先のひとつまでを描いたと同時、残光は音もなく粒となって弾けた。
エンハンブレ下層部、テレポーター。早い話、玄関口である。
閉じていたまぶたをふっと開くと、見慣れた仲間の姿がそこにあった。
「やあカーラ。僕のお出迎えかい?」
大宮駅からエンハンブレに帰還したアルファール・ジルガイア(
jz0383)は、テレポーターで待ち構えていた友人の姿を目にする。
「あいつは?」
埼玉での作戦がどうなったかなんて興味ない、と言わんばかり。
有無を言わせぬカーラ(
jz0386)の調子に、アルファールはやれやれといった様子で笑う。
「妹君なら、シコク?とやらに帰ったよ。途中までは一緒だったんだけどね」
「……どういうこと?」
「さあ。きみには急用ができたと伝えてくれって」
怪訝な表情を浮かべるカーラへ、そう言えばと手に持っていたものを渡す。
「僕からの土産。あと紫のヤツが言ってたよ。また戦いたいとか底がどうとか」
「きみの説明、全然わかんないんだけど」
カーラがどうでもよさそうに包みを開く間、アルファールは隣でぶつぶつと続けている。
「あいつら思ったより面白かったんだけどさあ。凄い速いヤツがいて、どうやったのか教えてよ」
「その伝達能力の低さ何とかしようよ。……というか、なにこれ」
パッケージに書かれているのは、"納豆キャンディ"の文字。アルファールはああといった様子で。
「何か親切に色々教えてくれるヤツが、カーラにってさ」
「さっき、きみからの土産って言ってなかった?」
「そうだっけ?」
まるで会話が噛み合っていないが、残念同士の会話なので察してほしい。
アルファールと別れたカーラは、怪しげな物体を眺めつつ船内へと戻った。そこを通りがかったロウワン(
jz0385)が背中をさすりつつ。
「痛てて……ジュエルっちほんと容赦ないっすね」
「ロウワン怒らせるからでしょー」
完全にこいつのせいなのだが、いちいちツッコんでいては身が持たない。
「あ、そうだ。これいる? スーツ貸してもらったし」
差し出された納豆キャンディを見て、ロウワンの顔がぱっと明るくなる。
「えっいいんすか? うっわ超美味そうっすね!」
「あーうん。きみならそう言うと思って」
キャンディを頬張るロウワンを見やりつつ、カーラは電車内でのことを思い返していた。
――俺が識るべきことは多い?
あの人間たちが何を言っているのか、まるで理解できなかった。
そもそも彼は、自分の生に興味が無い。
だからその時その瞬間に、やろうと思ったことをやるだけ。そこに大きな意味も主義も、存在しない。
アルファールと気が合うのは、まるで性格が違うように見えて、根の部分がどこか似ているからかもしれない。恐らく本人達に、その自覚はないだろうけれど。
「あいつらほんと頑張るっすよねー。結構ゲート内の人間も持って行かれたって聞いたっすけど」
「へー。そうなんだ」
ロウワンの話によれば、ゲート周辺では撃退士の手による人質奪還が至るところで起こっているらしい。
こちらが人間を結界内へ運ぶスピードよりも速いため、兵站作戦は予想よりも達成率が下がっているとのこと。
「奴らここまで乗り込んで来るつもりなんすかね?」
「さー。ここまで飛んでくるのってそう簡単じゃないし。ていうか俺達も『鍵』ないと帰れないし」
現在エンハンブレは上空300mで停留している。
自分たちでさえ、転移装置を使わなければ戻れないのだから。
その時、陽気な声が船内に響いた。
「よぉ、お前ら! 今日も愉快にやってっかい?」
「あー頭領」
現れたのは、ベリアル・エル・ヴォスターニャ。
カーラ達が所属する冥魔空挺軍『ケッツァー』の頭で、ルシフェルの妻でもある。
「お頭これ美味いっすよ! 食べるっすか?」
ロウワンが差し出した納豆キャンディを見て、ベリアルはぎょっとした表情になる。
「ちょ、何コレにおいやべぇ。お前あたしにこんなもん食わせて、ダーリンに嫌われたらどうしてくれんの?」
死ぬの? 跡形も無く消し去られたいの?
ロウワンにコブラツイストをかける彼女に、カーラがふと。
「そういや頭領さー。ちょっと気になってんだけど」
「あん? 何だよ」
「宰相って、こっち来るんじゃなかったっけ」
「そ……そうだけど」
ベリアルの夫ルシフェルは、鳥海山の戦い以降いまだ身動きがとれないままらしい。
いきなり声の調子が弱々しくなるベリアルへ、カーラは顔色ひとつ変えずに言う。
「忘れてんじゃないの?」
「ほ、ほらダーリンは今札幌落とされて忙しいから!」
イイ子にしてたら行ってやるよって言われて、四ヶ月経つけど! きっとそうに違いないから!
「てか、ダーリンがアタシのこと忘れるわけないだろ!」
「ふーんそうなんだ」
ぷわわと涙目になったベリアルは、ぎぶぎぶと叫ぶロウワンを更に締め上げて叫んだ。
「ダーリンいつになったら来てくれんのぉーーーー!!!」
●
横浜・中華街。
連日大勢の客で賑わっていたこの場所に人の気配がなくなって久しい。雨ざらしの看板やのぼりだけが取り残された道に、二組の足音が響く。
片方は革のブーツの重い音。もう片方は軽やかな下駄のものだ。
「センセ、ちょいと聞いておくれやす」
アナエルは前を行く背の高い影に声をかける。本日は鮮やかな青地に白で百合を描いた着物に、白い紗の帯を合わせた涼しげな姿。雨が降っても良いように手には赤い蛇の目傘を持っている。
「どうした?」
彼女の上司、アクラシエルは常にたがわぬ謹厳な軍服姿だ。蒸し暑さの中でも襟を緩めることさえしない。
アナエルは最近横浜ゲート内で人間の数が減っていることをゆっくりと報告した。
部下たちはそれぞれに資源確保作戦を遂行している。だがそこで得られるのと同等、もしくはそれ以上の数の人間が支配領域内から消えているのだ。
どうやら撃退士たちにより救助作戦が行われているらしいと聞いて、
「それは看過できないな」
アクラシエルは眉をひそめた。
「横浜の守備を増強しようか」
「ほな、鎌倉に待機させとるコたちを連れてきて、お散歩させてあげたらええやろか?」
横浜ゲート内のサーバントを増強する提案に、アクラシエルは少し考えてから首を横に振った。
「そうなると鎌倉が手薄になる。吸収目的のゲートでないとはいえ、拠点をがら空きにさせるのはよくない」
「せやねぇ」
厚く雲で覆われた灰色の空を見上げ、アナエルは考える。
「人間たちもちょっかいかけては来はるけど、まだ荒くたいなお痛はせんやろし……。鎌倉のコたちをこっち寄越して、かわりに私が掃除がてらにいったん戻ろかな」
アクラシエルは苦笑した。
「つまりアナエル、私はここで引きこもっていろってことかい?」
「いややわぁ、メタ様を影に影に支える忙しいセンセにのんびりしてほしいだけですよって」
中華料理店の看板がひしめく一角を出ると、道の先に海が見える。二人が目指すのは港を望む公園だった。
地下鉄の駅の傍にも、普段は車通りの多い海沿いの県道もがらんとしている。人が全くいないわけではないはずだが、どこかで息を潜めているのだろう。
「なんだ、僕は日向に出る機会はないのかい」
その言葉に、アナエルは彼の顔を見上げた。
色白の整った顔立ちには疲労の色が濃い。慣れない冗談に紛らした声には深く沈んだ苦さがあった。
横浜にゲートを開いて以降、メタトロンの元でエネルギーの管理や配分、その他所々諸々の雑務をサポートしているアクラシエル。
彼の性格ゆえに愚痴こそ漏らさないが、その疲労は推して知るべしといったところだろう。
「まぁいい、じゃあ暫くここで……そうだな、アナエルを見習ってこのあたりの『模様替え』でもしておくとしよう」
「ああ、よろしおすねぇ。センセはさぞセンスがええんやろなぁ」
「こら。ハードルを上げるんじゃない」
そう言って彼女は、開けた芝生の上から灰色の港と灰色の空を眺める。ずっと沖、支配領域の外側を船がのろのろと航行していく。
少し前まで、世界はとても分かりやすかった。秩序という柱に貫かれた平和で調和した天界。それを守ることが自分たちの使命であり、それだけを思ってまっすぐに戦って行けたのに。
どうしてこんなに世界は変わってしまって、信じていたものすべてが崩れ落ちていくのだろう。異郷に取り残された彼らは帰る港を失った船のようで。
最前線で戦う部下の前では見せることのできない思いを胸の底に沈めて、
「ほな、行ってきますぅ」
アナエルはただ微笑んだ。
(執筆:久生夕貴、宮沢椿)
7月14日更新分
●
「――だ。――――のか、おい――、レミエル!」
やや高い幼い声と頬の違和感で、レミエル(
jz0006)は現実に引き戻された。
書き物の途中で止まったペンはデスク上の紙に無造作な軌跡を残し、甘めにいれたカフェラテもすっかり泡を失ってしまっている。
「また意識がなくなるまで作業していたのか。その熱中するとすぐに前後不覚になる癖をなんとかしろ」
「‥‥たいはふはん(太珀さん)」
太珀(
jz0028)はふん、と鼻を鳴らし、「なんだ、お綺麗な顔が台無しだな」と笑った。
それもそのはず。レミエルの顔は、太珀の慎ましいサイズの指によってみゅいんと引っ張られ、台無しと形容するに値するほど歪んでいたのだから。
「ははは、そえはほまっはな(それは困ったな) ははひふほは――ん、飽きたのかい」
「何言ってるか全くわからん。あとお前が余裕すぎてつまらん」
再度太珀が鼻を鳴らすと、今度はレミエルがやや困ったように笑った。
◇
「珍しいな、ラボに人が来るのは」
ぱち、と乾いた音が部屋に響いた。
日が傾き、やや薄暗かった室内が蛍光灯によって白く塗りつぶされる。
この場所は無尽光研究委員会が管理するラボの一つ。主にレミエルの開発作業に使用されているものの、作業を始めると何十時間も――天使であるがゆえ、それこそ食事も睡眠もせずに延々と作業をしてしまうせいで、同室で研究をしたがる研究者は殆どいない。
事実上、レミエルの私室と言ってもいいその場所は、あまり人が立ち入る場所ではなかった。
「ああ、斡旋所に面白い拾得物が提出されていてな」
太珀はラボの中に雑多に置かれた玉や金属、呪符などを軽く見定めながら、『それ』を取り出した。
「六分儀? 随分とレトロなものを‥‥」
『それ』は山吹や黄金色の歯車がいくつも組み合わされた、手のひらサイズの古めかしい台座つき六分儀。
しかし覗くべき望遠鏡はなく、レンズの位置もおかしい。
六分儀を模したモノ、と言ったほうが正しいだろう。
「まるで玩具だね。それがどうか?」
「これは、メフィストフェレス配下のメイド、シェリルが落としていったものだ。先日、生徒が拾ってきた」
確か最近見た名前だ、とパソコンのマウスを走らせるレミエル。
悪魔シェリル。メフィストフェレス配下のメイド衆が一柱。
以前は撃退士を試すような『戦闘ゲーム』を繰り返していたが、この頃は関東圏内に出没し、一般市民の拉致などを行う――。
「そいつ自体はケッツァーではないが、恐らく協力関係だろう。僕が知る限りだと、メフィストとベリアルは年増同‥‥いや、懇意な間柄だからな」
言って、太珀は六分儀をレミエルの手に放る。
「土台の部分に炎翼のグリフォンを象った紋があるだろう。それは、ひとたび翔ければ戦場を焼き払う獣――冥魔空挺軍・ケッツァーの紋だ」
そしておもむろに「光纏してみろ」、と続ける。
ヒヒイロカネからV兵器を顕現するように――レミエルは手のひらに載せた『それ』にアウルを流しこんだ。
すると。
‥‥カシャン、キリ・キリ‥キリ‥‥、カチッ
六分儀が回転し、ゼンマイを巻くような音をたてて弧がのけぞっていく。
やがて、望遠鏡があるべき場所に誂えられた玉から、真っ直ぐに描かれる月白の光筋。
本来水平鏡であるべきレンズには、『16845』と数字が浮かんでいた。
●
数時間後。
「おや。引きこもりは終了、か? 正確に船に転移する方法は思いついたのかい」
煙草の匂いが染み付いた空き教室、もとい紫蝶(
jz0043)が詰めている作戦本部へと場所を移したレミエルと太珀。
手には勿論、六分儀が収められている。
「ああ、作戦の説明に来た」
「太珀どのも?」
「成り行きだ」
「なんだ、冷やかしか」
軽口を言いながら、紫蝶はディスプレイデスクに地図を表示し、説明するよう促す。
「――まずはこの六分儀について。仮称だが、とりあえず『ポラリス』と呼ぶことにする。
結論から言えば、これは恐らく敵空挺へのナビ、兼、搭乗チケットのようなものだ。
この光は母船の方角を、そして数字は距離を示している。‥‥距離表示がポールなんてマイナーな単位なのは謎だけどね。
ともかく。六分儀を持って学園内を歩くと数字は上下するし、支配領域の中心点までの距離と合致するから、間違いはない
で、ここまでがナビの役割。
搭乗チケットのほうだが、どうやら母船と『ポラリス』の間には魔法的な引力が働いているようなのさ。
いかに天魔といえど、流石に上空300mでホバリングしている船に自力で乗船するほどの飛行力はない。
そこで、テレポート系のスキルをこの『ポラリス』で補助して母船に吸いあげさせる、といった仕組みだろう」
説明を終えたレミエルが太珀を見やると、
「ケッツァーは元々戦争屋だ。地上で負傷者が出たからと本丸の船を頻繁に下ろすわけにもいかないからな。当然の帰結だ」
かの悪魔教師はまぶたを伏せたままに呟いた。
「ともあれ、こいつに母船の座標が組み込まれてるお陰でね、正確に転送できる。それに母船との引力も利用できるだろう。
確実に、船上に着地できるだけの材料は揃った」
空中基地への潜入はないという油断
人間は自力飛行ができない種族という認識
加えて、札幌攻略から間もないという時期――。
「‥‥なかなか手堅い博打になってきたね」
「ふん、博打には違いないがな」
「オッズは1.2倍ってところかな。悪くない」
各々の言葉を聞き、ふぅっと紫煙を吹くと、「まぁ、人生なんて博打の連続ってもんさ」と紫蝶は笑ってみせた。
◇
「鎌倉は、攻撃開始に先駆けて、横浜支配領域内に撃退士軍の拠点を作り始めた。
完全なブラフを目的とした活動というわけではないが、現時点ではブラフとしても作用するだろう。
天使たちはそっちの動きも警戒せざるを得ないだろうから、鎌倉急襲に緊急対応できる兵隊は多くない――と推測している」
とん、とん。ディスプレイデスクに表示された地図の幾つかの地点をタッチし、拠点の範囲を示す。
先の救助作戦に並行して設置を行った通信拠点。現在、それを中心に、支配領域の内部に撃退士が駐留できる安全地帯を作っている。
うまくすれば天使の動きを牽制できるかもしれない。
とはいえ、こちらも博打がないわけではない。
鎌倉から横浜へサーバントが流入しているらしき情報はあるが、確たるものでもなく。
更に、もし本当に横浜へ手勢を置くのであれば、その分鎌倉が手薄になるのはあちらも当然承知の上。
無策であるわけがない、という考えは常につきまとう。
しかし、2箇所を同時に攻められる可能性も0ではない以上、戦力の分散は少なからず起きるはず。
「考えても詮が無いさ。日本ではほら、案ずるより産むが易し、っていうだろう」
藍宝石の瞳を細め、レミエルは六分儀を指でなぞった。
レミエル自身、敵陣への潜入を行う以上は死ぬ可能性も0ではない。
しかし、笑う。
「それに、そろそろ俺達よりも強い生徒も居るかもしれない。なんとも心強いじゃないか」
生徒たちは本当に強くなった。
そして成長した人間達が、自分が精魂尽くして作った武器を振るうのだ。
これ以上に頼れるものなど、あるわけがない。
「Operation;Blitz。――行こう。お偉い天魔方へのご挨拶だ。念入りに剣《みやげ》を用意しないとね」
月白に輝く、標の先へ。
(執筆:由貴 珪花)
8月12日更新分
●
ぷかり、と灰紫色の煙が輪となって中空に浮かび上がった。
「‥‥‥‥‥‥」
たっぷりと視線を回す夫を見て、彼女はそわそわと言葉を待つ。
今回こそは気に入ってもらえたのだろうか、と。心が逸って仕方ない。
「あ゛〜〜〜‥‥」
どうかな。どうかな。期待に満ちた瞳を向けられ、ルシフェルはガシガシと頭を掻いて天井を仰いだ。
白と黒とショッキングピンク。ところにより赤地のタータンチェックにフリル。
いわゆるゴシックパンクなテイストで染め上げられた部屋は、正直居心地がいいともいえず。
さりとて妻が一生懸命に準備したであろうものを無碍にもできず。
ルシフェルは大きく一つ息を吐き出してから、ベリアルの後頭部に手をやってひと撫で。「ま、いいんじゃねえの」と呟いた。
つくばエンハンブレ内、客間。通称『愛の部屋』。
革張りの長椅子にルシフェルが体を預けると、ベリアルは喜色満面といった面持ちで傍らに腰を下ろした。
「なかなか洒落た歓迎式典だったぜ、ベリアル」
「本当はもっとちゃんと食事とか歌とか用意しようと思ってたのに、急に来るんだもん! でもダーリンが楽しんでくれたならいいわv」
んふふ♪ と緩んだ口元。何しろルシフェルに会うのは数年ぶりといった所だ。
肖像画だけはいつも並べているし、遠見の鏡で話もできる。しかしやはり生には温度がある。声も体も、視線一つまでも。
体が火照るのを感じながらルシフェルの流れるような金糸の髪に櫛を通していると、不意に「あいつらは」と声がした。
「面倒くせェが、なかなか楽しいだろ。想像を超えてきやがる」
くつくつと、くぐもった笑いが聞こえる。
ベリアルは無意識に――僅かに目を見開いた。彼のこんな顔を見たのは随分久しぶりだったからだ。
「そうねぇ、個人の力はまだまだって感じだけど‥‥得体の知れない感じ?」
船が浮上している時に侵入されたのは、ここウン百年記憶にない。
誰かが『ポラール』を渡してしまったのか。いやしかし、鍵を手にしたからといってあの人数を転移させることは不可能だ。
「ああ、得体が知れないっていえば、あいつらのリーダー格に『出来る天使』がいるみたいだったわ。あ、大人数の転移の都合をつけたのも、あの金髪の優男かしら」
「あ゛ぁ? 金髪の優男の天使――そいつぁもしかしたら、東北でも報告があった奴かもしれねェな」
妙な腕輪と、共鳴する旗。それを都合した奴と同一であるならば、余程頭が回る奴だろう。
「ま、なんでもいいけどよ。冥魔軍も札幌を陥とされて手駒も少ねェ。お前は俺の大事な『矛』だからな、手ェ抜いて死ぬんじゃねぇぞ」
「ん。わかってる。弱いほうの人間が死んだら困るかなーって思って使ってなかったけど‥‥あいつら予想以上に侮れなさそうだしね。ベリアルちゃんヒミツ装備その3を起動したところさ」
――どうせ全部エンハンブレの装備だろ、と野次る声。もう、ダーリンのいじわる!と頬を膨らませるベリアル様。
漏れ聞こえた声は、なんといじらしく可憐でいとけないのだろうか。気付いたら僕はあの方のいる部屋の外で、その声に聞き惚れていた。
いつもの闊達かつバイタリティ溢れるお姿も良いが、こんなあの方も良い。すごく良い。
今日、僕の愛はまた一段と深くて強固なものに進化した。
人間たちの伝説では、伝説の泉に物を投げ入れると二倍になって返ってくるとか。べリアル様にお入りいただいたら、いつものべリアル様と今日のべリアル様が同時に存在するようになったり……しないだろうか。
あの方なら何人いてくださっても大丈夫、ついでに僕だけのものになったりしないかなあ!
……じゃなくて、ええと僕の愛は高尚で崇高なモノであり見返りを求めるモノではないのであって、うん、とにかく。
何故か僕の大切な日記がゴミ箱に捨てられていたので、改めてここに僕の愛の誓いを綴り始めるものである。
ああべリアル様、僕はこれまで以上の愛を貴女に捧げる――。
――アルファール・ジルガイア の日記(新) 1ページ目より――
●
ぽかん、と小さな口が開いたまま、中空を眺めた。
「‥‥‥‥‥‥」
たっぷり視線を回し、何がどうなったのかと半月前の記憶を掘り起こす。
間違いない。ここは朱塗が美しい、商店街っぽい町並みだったはずなのだが。
「ふぇ〜〜〜‥‥」
どうだい。と少し自慢気な上司の顔を視界の端に入れると、とんでもない人を煽ってしまったのだろうかとアナエルは軽い自責の念を覚えた。
朱塗りと白壁、金の装飾が並んでいた街並みは一変し、高く積み上げられたコンクリートのような灰色の壁が寄り集まっている。
いわゆる、九龍城塞‥‥と呼ばれる雰囲気の、巨大建造物。
灰色のところどころには、かつての建物がそのまま合体しているところもあり、生活感があるのかないのか一見するとわからない。
さりとて、上司が気分転換にと『模様替え』したそれを無碍にもできず。
アナエルは大きく一つ息を吐き出してから、アクラシエルへ微笑みかけ「とってもよろしゅおすなぁ」と呟いた。
横浜中華街(跡地)、巨大複合城塞。通称、『九龍城塞』。
折り重なったような、無造作に括りつけたような複雑な道を歩きながら、アクラシエルは上を目指していた。
「鎌倉は――」
「っ、えらいオイタされてもうて」
「‥‥そっか」
こつん、こつんと革靴が硬い床を叩く。どこまでも続くような階段を、一歩。また一歩。
叱責か落胆か、そうでなければ焦燥か。
いずれにせよ報告は辛いものになると思っていたが、黙って前を進むアクラシエルの意図が読みきれず、アナエルは怪訝な顔をした。
「センセ」
「大丈夫」
アクラシエルがアルミの簡素な扉を開いた。途端、風に掴まれるようにビル群の屋上へと躍り出るアナエル。
そこは支配領域の中心点。もういくらか翼を動かせば、結界の外にでるのではと思うような中天。
電気が途絶えた横浜とその外の地域は、まるできっかり線を引いたように街の灯りで境界を作っていた。
「ここが陥ちなければ、メタトロン様は‥‥我々は、大丈夫だ。鎌倉のことは残念だけど、まだ横浜もある。鳥海山の神樹もある。‥‥まだ、大丈夫だ。」
震えている――わけではない。しかし心はどんなにか崩折れそうなのだろうか。
天界の政変により、横浜から拠出されるエネルギーは文字通りの命綱となってしまった。
(こんなときにご友人のザインエル様が傍らに居らはれば、心強かろうに)
だが唯一無二の友は、我々の首を締めている。
だからアナエルは、コアとともに死ぬことは選ばなかった。命を限界まで削ってコアを護ることはしなかった。
アクラシエルも薄々感じているのだろう。だから決して責めることもしなかった。
「アナエル」
ふと、アクラシエルは屋上の柵に身を委ねながら、空を仰いだ。
「結界のせいで地上の星はないけど‥‥天の星は一層に美しく輝いてるね」
切なげに呟いたその言葉の真意は推し量りがたく――。
何かを得れば、何かを失い。
何かを手放せば、何かを取り戻す。
我々天魔は、何をその手に抱くべきなのだろうか。
●
「それじゃあ――俺は引きこもる。すっごい引きこもるよ」
(あ、これまた倒れるまで研究するやつだ)
探索で手に入れた数々の写真や資料、鍵となった六分儀を始めとした物品の数々を両手に抱えるレミエル(
jz0006)は気もそぞろといった様子。
まぁ致し方あるまい。天魔の空挺など、なかなか目に触れる機会もない。
きっと空挺調査の間も、冷静なふりして内心は知的探究心を抑えるのに必死だったことだろう。
「そうそう、篭もる前に先に伝えておこう」
ガラガラと台車で資料を運ぶ手伝いをしながら、紫蝶は「なんだ」と短く答える。
「俺はあの船を手に入れようと思ってるよ」
敵の本拠地を乗っ取る――。
あまりに突飛な案に言葉を無くす紫蝶をよそに、レミエルは楽しげに研究室へ消えていくのだった。
(執筆:由貴 珪花)
9月28日更新分
●
澄んだ空に、月が浮かんでいた。
秋の長雨も一段落し、漸く訪れた星空。
草葉の影でじっと嵐を耐えていたであろう虫達も、これこの通りと言わんばかりに競って小夜曲を奏で合う。
木村良大、20歳。風流を気取るお年頃。
「やっぱ虫の声聞くと、秋だなーって思うなぁ。‥‥‥‥‥ん?」
鈴虫や松虫の合奏に耳をすませば、はて。遠くからカン、カンと鋭い金属音が響いていた。
◇
音の発信地は学園内のとある倉庫。
大量に用意された鉄板を2tコンテナの内側に固定し、さらに緩衝材兼冷却材となる壁材を貼り、中央に巨大な箱をどっかと積み込む。
その箱は金属のはずだが、灰青のような、紫紺のような、はたまた桜鼠のような、黄金のような――。
ともかく、単一の色として言い表せないような光をじんわりと放っていた。
(これくらいあれば衝撃に耐えるか)
ふぅ、と一息ついて、設計書に目を滑らせるレミエル。
星の鎖は――。
術者自身の中で編み込んだアウルの鎖を掌から撃ち出し、術者が認識する空中の対象を絡め取り、引くスキルだ。
これを兵器に置き換えると、アウルの源は蓄霊器であり、撃ち出すべき掌は砲。
対象を認識する指向性はエンハンブレの『鍵』から採取した宝石で補助する。
長い時間磁石に張り付いたクリップに磁力が宿るように、エンハンブレの座標を示す『鍵』の一部であった宝石にも、僅かながらに引き合う力が見られたのだ。
残るは、多数の術者が発したアウルを束ねる核。蓄霊器の膨大なアウルを鎖の形状に編み込む意志。
(‥‥さて)
レミエルは、その胸に掲げられた十字架の鎖を静かに切った。
彼が天界に居た頃に初めて――そして唯一、造ったもの。
特別強い力を持つわけでもなく、微々たる加護をもたらすだけのアーティファクトではあるが、核‥‥導雷針としては上々だろう。
鎖の一部を組み込んだ子機《レプリカ》にアウルを通せば、この親機《オリジナル》と導線がつながる。
あとは『星の鎖』を‥‥もしくは強く鎖をイメージして何某かのスキルを放てば。
◇
木に登り、倉庫の天窓からレミエルの作業を見ていた良大は、枝に座り込んで月を眺めた。
あのレミエルが無造作に髪をくくり、衣服の乱れも気に留めずに作業していた事そのものにも驚きはしたが――
(すごい量、だった)
順調に開発が進んでいるようにも見えたけど、レミエルの周囲にはニギアカガネの『鉄屑』が入ったダンボールがいくつもあった。
自分たちがV兵器を強化するのと同じように、開発にも相応の失敗がつきまとうのだろう。
数々のV兵器ですら、とりわけ量産される前の最初の1本は、ああしてレミエルの手によって作り出されてきたという話は、どこかで聞いた事がある。
研究者であり技術者。
さらりとした顔で、当たり前のように祭器をも生み出してきた彼は、一体どれほどの失敗を越えてきたのだろうか。
(俺だったら心折れそう)
レミエルは、一番最初に地球の撃退士‥‥いや、まだ撃退士ですらない人間達に手を貸した天使で。
自分たちの戦いの根本を支えてくれている1人で。
知識としては知っているけれど、そこには一体どんな思いがあったのかなんて、考えた事はなかった。
勝たなきゃ。
――ちがう。勝つ、負けるは争いに伴う概念だ。それじゃ敵を滅ぼさないと終わらない。
失敗しても、足を止めない。理想の形を目指して、進むしかない。
「生きて、‥‥先に進まなきゃ」
良大が呟いた言葉は、墨塗りのように濃い夜空に消えていった。
●
九州・阿蘇。
死と静寂の原と化した中心地で、天使達は顔を見合わせた。
「人間と協定――ですか」
若干動転した声色で、聞いた言葉を繰り返すアクラシエル。
遥か過去、人間と共に生きた時代はあれど、それは協定ではなく。
人間は天使達を認識していなかったし、天使はただエネルギーの見返りを授けていただけだった。
それが、はっきりと。
互いを認識し、刃を交えた上で――対等な存在として手を取ろうとしているという。
「にわかには、信じがたい話ですが」
メタトロンの顔色を伺いながら、アクラシエルは言葉を続けた。
「そうだな。私もまだ完全に信じてはいない」
「しかしっ‥‥実際、攻撃を仕掛ける前に横浜ゲート撤去の打診が――応じれば攻撃はしないと‥‥」
隣で膝を折るミカエルが反射的に何かを言おうとするが、メタトロンが視線で制すとぐっと唇をかんだ。
「そう結論を急くな、ミカエル。我らの置かれた状況を鑑みれば、貴様の言を愚策と排すべきでない事はわかっている。
だが今、不用意に――そして完全に手を取ったとて、我らに訪れるは飢餓と死だ。
エネルギー問題が完全に解決しない限り、横浜の領域を明け渡すことはできない」
理想、そして現実。
今の天使――こと、地球に残されたエルダー派は、理想を描くにはあまりにも余裕がない。
「エネルギー貯蔵庫たる神樹ごと離反したトビトの存在も大きい」
「‥‥元とはいえ上司の不始末、大変申し訳なく」
ぎり、とアクラシエルの拳が握り込まれる。
かつてトビトの元で働いた事もあった。そして思ったものだ、有能ではあるがこの狡猾さは天界に害を成すのではないかと。
「よい。あれはそういう性質の男だ。それを知った上で神樹の運用をさせていた私の不始末だろう」
ふ、と笑うメタトロン。
メタトロンにせよトビトにせよ、既に日本に根を張って十数年は経っている。
よもや今更事は起こすまいと腹をくくっていた部分もあったが、かの野心の前にはそれも甘い見込みであった。
「幸い人間がザインエルらの鼻を折ったせいか、それともトビトの離反により我々のエネルギー貯蔵の底を見たのか
彼奴らのゲート襲撃は鎮火しつつあるが、またいつ再開されるともわからん以上、蓄えが必要だ。
――例え、人間が抵抗しようと、な」
◇
「難しいものだ」
冷ややかな光を放つ硝子のような廊下を歩きながら、ミカエルはため息をついた。
「撃退士は信じるに足る存在だと思うんだけどな」
「私はまだ直接撃退士に会った事はないが――君は優しいけど見る目は厳しいからね。君がそういうなら、そうなのかもしれない」
はは、と笑うアクラシエル。
方法は違えど、ミカエルもメタトロンも地球軍天使の行く末を憂いている。
そして、必死に生きる道を探している。どちらも間違ってはいない。それはわかっている。
「けど、私もメタトロン様のご判断に賛成だよ。即時停戦したくとも、現実、遠からず行き止まりになる」
「――おまえだって、戦いたいわけではないだろうに」
「もちろん。私は破壊と殺戮に楽しみを見出だせるほど強くないからね」
「おや、うちの暴力妹の話かな?」
「おっと」
どちらからともなく靨笑すると、和やかな笑い声が高い天井に響き渡った。
ややあって、ミカエルは横浜へと戻ろうとする友の背に「アクラシエル」と呼びかける。
「約束してくれ、とは言わない。でも、覚えておいてくれ」
多くの血と悲しみを経て生まれた、協定の、その意味を。
(執筆:由貴 珪花)
10月12日更新分(クリックで開閉できます)
●
ぷつん、と何かが途切れるような痛みが胸を刺した。
「‥‥ナターシャ、そうか‥‥」
大きなうねりに飲み込まれ、それでも気丈に身命を天に捧げた娘。
生まれが違ったとしても、例え恩義や契約に依るものだったとしても。彼女の真摯な生き方は尊敬に値するものだった。
それは憐憫だったか。贖罪だったか。それとも使命から解放された彼女への祝福だったか。
横浜ゲートの最奥、コアの前でひとり佇む男がひとつ涙をこぼした。
「アクラシエル様」
アクラシエルの背後に音もなく現れ、そして跪いたギジー・シーイール(jz0353)は、上司の名前こそ呼んだものの顔をあげなかった。
顔をあげては頬に伝うものが、もしくは拭う姿が見えてしまうだろう。
そして――我が主は決してそうはおっしゃらないだろうが――この醜い顔を無用に晒すこともない。
黒いテンガロンをより目深にし、ギジーは低い声で言葉を続けた。
「表はアナエル様達が固めております。万が一に備え、ゲート内には私が」
ちゃり、と腰に挿した刀が誇らかに鳴る。
しかしその言葉を聞いたアクラシエルは弾かれるように振り返った。
「ギジー! 君はもう戦える体じゃないと言われたはずだ、無理はするな!」
「見くびってくださいますな。これしきの傷で太刀筋が鈍ることなど微塵もございません」
そのように語るギジーの声は澱みなく流れており、発言を裏付けるようでもある。
「だが‥‥」
「ましてこの戦いは我らが『ネメシス』の、ひいては天界の行く末を左右するものと心得ております。私も天使として、我が主とともにどこまでも戦い抜く所存です」
異形を蔑視する天界において、唯一自分を天使として、仲間として迎えてくれたアクラシエルとネメシスのために。何より、天使としての誇りのために。
深く呼吸を一つ。どくどくと脈打つ心音は紛うことなき天使のそれ。
「ですから、どうか我が主はこちらでコアの守りを」
「ギジー、‥‥‥っ‥、‥‥‥」
アクラシエルは何かを言おうとしたが、それらは言葉になることなく掻き消えていった。
もとよりネメシスは少数の組織。残る仲間は多くない。
そして今の戦況――ギジーを説得できるような材料もなく、アクラシエルは一言「わかった、頼む」と声を絞り出した。
一礼してアクラシエルに背をむけるギジー。
その後姿を見送ると、アクラシエルは再びコアを眺め、指先で触れた。
強い吸収ではないとはいえ、コアには相当量のエネルギーがあるだろう。
これは、自分たちが生きるために必要な糧だ。だから、守らねばならない。
‥‥しかし命の糧を守るため、ギジーが、そしてゲート外で撃退士を迎え撃つアナエル達の命を喪うかもしれないというパラドクス。
多を生かすため、少が犠牲となる。それは一つの正解ではある、が。
――覚えておいてくれ。多くの血と悲しみを経て生まれた、協定の、その意味を。
「我々は、狩猟で命をつなぐ時代から何一つ前に進んでいないのでしょうか、メタトロン様‥‥」
人間を信じた親友の言葉を噛み締め、アクラシエルは瞳を閉じた。
●
「は? 撃退士がこの船を‥‥?」
「そーーーなのよ、ベリアルねーさま! 遥か遠き世界線ほどに尊い存在であるベリアルねーさまの、崇高なる船を、害虫家畜の分際で、地泥で穢すに飽き足らず、更に簒奪しようだなんて、愚かにもほどがあるわ! 万死に値するわよ!!」
地上に引き下ろされた空挺・エンハンブレ内部、管制室。
その外の廊下にもはっきり聞こえるほどに、ジュエルの滑舌の良い大声が響き渡った。
聖獄の鎖によってエンハンブレが――口が憚られるほど悔しいことに、地に引き下ろしされたあと、撃退士の一人がつぶやいていたのだ。
『船は手中に収めたも同然』だと。
「なるほど、それで直接ぶっ壊しにくるんじゃなくてわざわざ無傷で下ろしたってことかい。‥‥ふぅん」
怒ったりオロオロしたり、ころころと表情をかえるジェルトリュードの頭を一撫で。
蜂蜜色の豊かな髪がするりと指を通り、名残惜しげに滑り落ちていった。
「サンキュ、ジュエル。ちょっとうちの『外部顧問』に相談してみるよ」
「‥‥がいぶこもん? うちにそんなもの存在(あった)かしら? 何だか解せないわ‥‥」
でもアルファールには今のこと自慢できるわよね、と撫でられた自慢の髪を嬉しそうに触りながら、ジュエルは管制室から去りゆくベリアルの後ろ姿を眺めていた。
◇
『――と、してみりゃれ』
「マジか‥‥それ、ダーリンも知ってるのかい?」
管制室から所かわって船長室。
映し鏡には、いつもどおりに妖艶な笑みをうかべた『外部顧問』のメフィストの姿があった。
現在の状況、敵の戦力、狙い、それらを伝えた上で妙案はないか、と問うたのだが――そのメフィストを見やるベリアルには、驚きの色が見えていた。
大将位冥魔として、色んな戦況を見、決断をしてきた。しかし。
『‥‥そうじゃ。宰相どのが想定した策のうちのひとつよ。妾のメイドらの調査の結果を考慮しても、悪しようにはならぬはずじゃ』
「わかった。頭には入れておく――が、判断は戦ってからだ」
『それで構わぬ。じゃが、魔界大公爵たるメフィスト・フェレスが戒飭しよう。軍の頭領として‥‥そして宰相殿の妻として、未来の益となる働きを忘れぬようにの』
ふつりと虚像が掻き消える。
ベリアルはベッドの端に腰掛けると、大きく息を吐いた。
――未来の益となる働きを忘れぬように。
これは昔から‥‥まだベリアルも、そしてルシフェルも低い地位にあった頃から、メフィストに繰り返し言われている言葉だ。
そしてこの言葉を聞くときは、ベリアルが必ず難しい選択を迫られる時でもあった。
「もう、こんな時にいなくなるなんてダーリンのばかっ!」
ぼすっと音を立ててクッションに拳がのめり込む。
ルシフェルは、魔界からの緊急招集令で先月のうちにこの船を離れている。
決断は、自らしなければならない。
「信じていいよね。ダーリン‥‥」
ベリアルは紫眼を揺らめかせたのち、窓の向こうで傾く昼の月を睥睨した。
●
「どちらもいよいよ選択の時、か」
紫蝶は独り、煙草に火をつけながら呟いた。
――2つの地域は、それぞれに問題をもつ。
つくばの大将はベリアル。
‥‥ルシフェルの妻であると同時に魔界でも指折りの力をもつと、あの太珀が語るに顔を強張らせたほどの将だ。
真っ当に戦闘しては、恐らく損害が出るばかり。
それどころか、本気にさせたら街が一つ消し飛んでも不思議ではない。
なるべくコアだけを落とし、そのうえで本気で戦わせず、なんとか場を収めなければならない。
(空挺は確かに学園にとって魅力だ。電力に左右されない空挺は支配領域内の空輸手段となる。しかし‥‥)
被害が広がってからでは全てが遅い。
最悪、コアの破壊のみを行った上で即離脱――空挺を諦める必要もあるだろう。
一方、横浜の大将はアクラシエル。
ここの問題は、戦闘そのものというより‥‥コアを破壊するか否か、という問題。
学園としても天使、とりわけメタトロン旗下の天使の困窮は、ミカエルを通じて聞き及んでいる。
勿論、人間の立場では支配領域を放置するわけにはいかない。
(だが、本当にそれは正義なのか? 道は一つなんだろうか‥‥?)
作戦決行前、横浜ゲートを撤去すれば攻撃しないとミカエルを通じて打診を持ちかけた。しかし、答えはNOだ。
メタトロンは人間の手を取る気がないのか、それとも、取りたくとも取れない状況なのか。
剣で解決する問題ならいい。しかし、彼我の間にあるものが互いの正義であった場合どうするべきなのか‥‥。
ろくに吸ってもいない煙草がフィルターの手前まで燃え、ふっとその赤を失った。
指先に感じていた熱がなくなり、紫蝶はハッと我を取り戻す。
(指揮官が悩んでどうする。考えても栓がないなら、私がすべきことは――人間の正義のもとにコア破壊を指示すること。そうだろう)
遠く西の空、九州で撃退士の戦線を指揮する友人の顔を思い出し、紫蝶は顔を上げた。
光信機を手にとると、全撃退士へのメッセージを吹き込む。
私の願いはここにおいていこう。そう心で呟いて。
「久遠ヶ原作戦指揮官の月摘紫蝶より、関東地区天魔ゲート破壊作戦に参加する全撃退士に告げる。
ここからが本番だ。つくば、横浜のどちらも難しい戦いになるだろう。
しかしいま、天魔に蹂躙される時代は終わろうとしている。人間と天魔の関係は変わろうとしている。
どうか、各々が未来に悔いのない行動をしてほしい。‥‥以上だ」
雲はいつの間にか流れ、澄んだ茜の中、月は西の空へと落ちようとしている。
紫蝶は細く頼りない下弦の三日月を眺めながら、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。
選択の時は、近い。
(執筆:由貴 珪花)
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