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 結界が消え去った種子島の空は、ゆっくりと暮れ始めていた。
 潮風がどこからか香る中、楓は物言わぬ亡骸を見下ろし安堵ともため息ともとれる吐息を漏らした。

「シマイ……」

 もうあの軽薄な笑みが自身を惑わすことはない。悪魔の呪縛からようやく解き放たれた感慨を抱きつつも、楓は複雑な感情に駆られていた。
 あまりにも虚しい死に様。最期まで誰とも繋がりを得ないまま、その理由さえ知ろうとせずに逝ってしまった。
「……俺も、こうなっていてもおかしくなかった」
 結局のところ、この男と自分は似ていたのだとも思う。
 他者を受け入れられず、向き合う事すらできなかったのは強い劣等感の表れ。だからこそ互いを利用とい名の楔でつなぎ止め、虚しさを埋めたような気になっていただけで。

(あいつらがいなければ、俺もずっとあのままだった)

 思えば彼らと出会ったあの日から、この結末は決まっていたのかもしれない。
 拒絶しても罵声を浴びせても、向き合うことを諦めようとしなかった。なぜこんな自分にと思うのと同時に、シマイにも同じように踏み込む相手がいれば、何かが変わったのだろうかとも思う。
 今さら、どうしようもないことだけれど。
「……っ」
 その時、頭に激痛が走り思わず呻き声を漏らす。
 慌てて駆け寄る撃退士に支えられながら、楓はかつて自身と約束を交わした面々へ切り出した。
「――お前達に、頼みがある」
「楓……?」
 怪訝な表情を浮かべる彼らに、はっきりと告げる。

「俺を討つと言う約束。今ここで果たしてくれないか」

 その言葉に場が騒然となる。
 何を言い出すのだという撃退士に対し、楓は端的に告げた。
「俺にはもう、時間が無い」
 反論の声が上がる。
 学園が楓を保護しない以上、主を失った時点で彼に残された時間がないのはわかっている。けれどそれはもう少しだけ先の話で、今すぐどうこうという話ではないはずだと。
 聞いた楓はゆっくりをかぶりを振ると、静かに続けた。
「お前達には黙っていたが、俺はシマイの浸食を今も受け続けている」
 説明によれば、シマイは自分の命と引き替えに楓の記憶を奪う術をかけていたらしい。意識を奪われた時に何かされたことは分かっていたが、あの男が事切れた直後にようやく理解した。
「恐らく、俺の記憶はあと一日も保たない」
「そんな……」
 現在楓の中では、凄まじいスピードで記憶が壊れているのだという。
 話を聞いた撃退士達は、シマイが死に際『時間は有限だ』と言ったのはこのことだったのだと悟る。

 ――楓は俺のものだよ。

 浸食の悪魔が遺した最期の執念。
 その醜悪さに怒りを漏らす者もいたが、楓はそこでほんの少し微笑んだ。
「俺は後悔していないし、これでいい」
 主に刃を向けた以上、相応の代償があることは覚悟の上だった。元よりこの戦いを選んだ時点で、自分の死は決まっていたのだから。
「遅かれ早かれ結末は変わらない。なら、お前達のことを覚えているうちに幕を引きたい」
 はじめて心を開いた相手を忘れる前に。

 迷いの無い告白を聞いたクロムは、一度目を閉じて。
 真っ直ぐに楓を見据えると、口を開いた。

「わかったっす、楓」

 それ以上は敢えて何も言わない。互いに無言で頷き合うさまは、言葉は不要と言わんばかりで。
 エルゼリオは逡巡する素振りを見せていたが、やがて顔を上げると楓に向き合った。
「――楓、お前は俺の大切な友だ」
 燃えるような紅い瞳。その火を消さずに済めばと、どれほど思ったかわからない。
「本音を言えば、お前には生きていて欲しかった。けれどそれが叶わぬのなら……俺は、お前の望みを叶えたい」
 告げる声に苦渋が滲むのを、楓も気づいているのだろう。彼の元に歩み寄ると、肩を叩く。
「すまない。……ありがとう」
 アンジェラは手を差し出しながら、言葉が出ないでいた。楓は彼女の手を取ると穏やかな表情で言う。
「世話になった。……それと泣くな」
 握った楓の手はほんの少し冷たくて、苦笑する瞳に映る自分はいつの間にか泣いていて。
「楓、貴方を想った事……私は忘れない」
 その気持ちは恋だったのかもしれない。けれどこれ以上は言葉にならず、ただ涙に変わるばかりで。
 アンジェラと握手を交わした楓は、ケイの方へと視線を向けた。気づいたケイは、いつも通りの笑みを浮かべてみせる。
「終わったな」
「ああ、終わった」
 そう言って楓は、左手の小指にはめていたクラダリングを外す。この戦いが始まる前にケイから預けられたものだ。
「返しておく」
「ん」
 受け取ったケイは、沈黙した後。
「俺はこんな奴だから敢えて聞くぜ、楓。もっと生きたかったか?」
「言わなくてもわかるだろう。お前なら」
 返ってきた言葉にケイはさもおかしそうに笑う。その表情がほんの少し切なそうに見えるのは、光の加減だろうか。
 そして楓は先程から黙りこくっているヘルマンの元へ行くと、何かを取り出した。
「お前にやるよ」
 差し出しされたのは、緋色の能扇。上質の和紙に金銀の箔押しが入ったそれは、だいぶ使い込まれていているのがわかる。
「……よろしいのですか」
 どうしても捨てられなかった、人だった頃の証。
「”これ”の礼だ」
 左手を掲げ、楓は微笑う。
 人差し指にはめられているのは、以前渡した幸福の指輪。いつか魂が廻って会えるようにと願いを込めた。
 大事そうに扇子を受け取るヘルマンは、その内で狂おしい程の激情と闘っている。
 迫る喪失を前にともすれば暴発しそうなほどの慟哭を抱えながら、それでもなお手放す事を選んだ。
 すべては、目前の愛しい存在が幸せであるために。
 楓はそんな彼を何も言わず軽く抱き締めてから、何事か呟き。改めて撃退士達を見渡すと、その言葉を切り出した。

「――そろそろ時間だな」

 もう既に、人だった頃の記憶が薄れかけている。
 その時、突然目の前にピンクのツインテールが飛び出して来た。
「ふー様嫌だよ!」
 面食らう楓の前で泣きじゃくるのはリコだった。
「どうしてふー様が死ななくちゃいけないの? そんなのリコ嫌だよ!」
 楓はこの時初めて、彼女にきちんと意識を向けた。ばつが悪そうに頬を掻いてから、頭をぽんとやり。
「その……今まで悪かった」
 急に謝られなんの事かわからずにいる彼女へ、苦笑しながら告げる。
「次はもう少しマシな男を選べよ」
「ふー様!」
 すがるリコを撃退士達になだめてもらい、楓は最後に檀へと向き合った。
「楓……」
 檀はそう言ったきり、何も言わない。

 同じ顔。
 同じ声。
 同じ喜び。
 同じ悲しみ。

 全てを共有してきた魂の片割れに、告げる言葉はただ一つ。

「兄さん、貴方は生きてください」

 互いの考えていることは嫌でもわかる。
 こちらを向く蒼い瞳はいつだって、己の鏡だった。
 だから。

「貴方の存在が、俺の生きた証です」





 沈む夕陽に辺りが橙色に染まり始める。
 最後の瞬間は、あっけないものだった。
 楓自身、もうほとんど力を残していなかったのだろう。撃退士達が放った渾身の一撃が、命の炎を削り落とした。

「――楓殿、輪廻の先でお待ちしております」

 薄れゆく意識の中、楓はその声を聞いていた。
 何度も聞いた深く穏やかな響き。
 まるで歌うようにそれは贈られる。


 たとえ貴方が全てを忘れても
 また一から始めましょう
 貴方が幸せになるまで
 何度でも何度でも
 未来永劫
 私の全ては貴方だけためにあるのですから


「知ってるよ――ヘルマン」



 最期に見たのは、黄昏色の空だった。





 こうして、種子島における冥魔の灯は消えた。
 誉によればシマイの結界が破壊されたことにより、毒の影響を受けた一般人も快復に向かっているらしい。
 島内にはまだ幾ばくかのディアボロは残っているものの、そう遠くないうちに殲滅されていくだろう。

「ゆりりんの言う通り、悪い事は起きなかった」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたリコは、自分に言い聞かせるように呟いた。
 だって、彼はあんなに幸せそうな顔をしていた。
「だから絶対、これでよかったんだよね」
 言いながら、涙がやっぱり零れてしまうのだけれど。
 全てを見届けた檀は、しばらくの間ずっと楓の亡骸に寄り添っていた。
「……ありがとう、楓」
 不思議と涙は出なかった。
 楓を失った喪失よりも、今は送ることができた安堵が勝っているからなのだろう。
 彼を惜しむ撃退士達を見て、ふとシマイはこの戦いに入る前から負けていたのだと気づく。
 ――あの方達に敵うわけありませんよね。
 魂を捕らえてなお、奪えないものがあった。そのことに気づけなかった時点で、あの悪魔に勝ち目はなかったのだと。
「私も、そろそろ結論を出さなくてはいけませんね」
 いずれ来るであろう、訣別の時。
 その相手が誰なのか、檀にはいまだ見えていないけれど。

 ――今は少しだけ。

 弟の死を悼ませてほしい。
 気を抜けば粉々になりそうな痛みに浸らせてほしい。

 水平線に沈む夕陽は、まるで送り火のように赤く燃えていた。



【錯双乱的玩具箱・エピローグ】 担当マスター:久生夕貴








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