6月30日更新分
●
コォォォ…ン コォォォ…ン
掃き清められた石の回廊に鉄靴の音が響く。それ以外の音はない。
美しい彫刻が施された天井、規則正しく並ぶ石柱にもまた装飾が施されている。
伝統的な天界の建造美を随所に感じる回廊、だが注意深く見れば艷やかな白磁についた傷があちらこちらで見つかるだろう。
(静かなものだ、三月も前に此処で死闘が広げられたとは思えないほどに…)
回廊を乱れのない歩調でいく長身の男――ザインエルは、その場に広がっていたであろう光景を想像しようとした。
天界におけるベリンガムの居城。
その玉座から私室に続く回廊。城の主の部屋への回廊としては異常なほど長く作られたそこは、かつて城主ベリンガム本人を封じるために張られた術が幾重にも張り巡らされていた。
それゆえ、ザインエルが歩くこの場所こそが、最初にベリンガムが王権を復活させる為に最初に刃を振るった場所になるのだ。
「来たか、ザインエル」
「はっ」
「よい、楽にせよ。それゆえ、こちらに呼んだのだからな」
迎えられた主の私室は、数多の並行世界に力を及ぼす天界を統べる者である事を考えれば、驚くほど小さい。
また部屋をさらに小さく見せているのは、本棚の多さも要因だろう。長きに渡り幽閉されていた主が書を好むようになった過去をうかがわせた。
そしてその部屋の一番奥、窓辺に配置された長椅子に坐す若い声こそが、この部屋の主。
ザインエルが剣を捧げた王、ベリンガム王である。
「余は平気だというのに休めとうるさい爺がいてな、お前には悪いが休憩中という体をとらせてもらっているという次第だ」
休憩中と言いながらも、空中に広げた書に魔力で文字を綴りながら王は肩を竦めた。おそらくは各地の同志に向けての指示だろう。
早く、些事に煩わせずに済むようにしなければ。
ザインエルは気持ちを引き締めたが、それを見た彼の王は笑みをこぼす。
「フッ、お前は分かりやすいな。だが折角私室に呼んだのだ、要件を聞く前に茶くらいは付き合え」
そして書をしたためる手を下ろした。
「エネルギー、ですか?」
ザインエルが固辞したため、一組だけ置かれたティーカップから立ち上る湯気も大人しくなった頃合いで、ベリンガムは漸く要件を切り出した。
「そう、エネルギー。それも集めたばかりの鮮度のあるものが欲しいんだ、出来るだけすぐに」
天使たちが現在干渉している異世界はいくつもある。
ベリンガム達王権派は天界と異界をつなぐ主要供給ラインの大部分を掌握したが、ラインの先の掌握はこれからである。
補給を断った事で、(ラインの先にいるエルダーの残存勢力との戦いを)急ぐ必要がなくなったのもあるが、一番の理由は人出不足が大きい。
彼らの勢力は皆一騎当千の強さを持っているが、駒がまだ足りないのだ。
「地球なら既にお前が居る」
しかもエルダー共が長期的な利用する場所だと位置づけていた為、埋蔵量もまだ潤沢なままの狩場だ。
「更に都合がいいことに、懸念であったオグンは死んでいる。オグンが居なければ、メタトロンが余の手筋を超えることもないだろう。彼は優秀だが、攻め手に欠けるからね」
メタトロン、かつての上司の名にザインエルは何の感情も抱かない事に内心ですこし驚いた。
だが、同時に納得もする。
正しい場所に己がいるのだと。
「潰しても構わない。搾りたてのエネルギーを余に献上せよ。出来るな?」
「御意」
「あぁ、それと」
即座にゲートを何処に開くか、そう考え踵を返そうとしたザインエルを、王は呼び止めた。
手のひらに載せた奇妙な白く小さな蛇を差し出しながら。
「これを使え」
学園に、奇妙な報告が提出されるのはこれよりしばし後となる。
(執筆:コトノハ凛)
3月16日更新分
ああ!
空が蒼く吼えている。
開く、開く、次元が割れる。
あれが天使の門。
異世界への扉。
天王ベリンガムが治める群島へと繋がる、王下の世界へのゲート。
事態を見届ける為にそこに留まった、書記長・大塔寺源九郎は鈍く曇った眼鏡越しに黒い瞳でそれを見た。
「僕らは必ず帰って来る」
青年は呟き、踵を返してその地を立ち去った。
●
「……撤退、指令、ですか」
腰まで長く伸びる濡羽色の娘、京都救援部隊長の神楽坂茜は、無線機を片手に呟いた。
それは二月末、ザインエルのゲート展開詠唱を阻止した、すぐ後の日の事だ。
五十万近い住民が京都市中で未だ眠りについている。
先の作戦の成功によりその数は大幅に減ったが、しかし、今度はリーネン・イェラネンが崩壊した中京城天守閣の跡地にて、大地を深く掘り、周囲を天界物質の蒼水晶で張り固め、ゲート展開詠唱に入っている、との偵察報告が入っていた。
『……残念だがね、今度はザインエル自身が守護に回っているらしいじゃないか。あの男に祭器も神器も増援も無しに、現地のその戦力だけで、勝てるだろうか?』
声の主は、学園長・宝井正博だった。
「しかし、取り残されている市民の皆さん達がまだ」
『学園生達へと予想される被害が大きすぎる』
その言葉に神楽坂茜は黙った。
葛藤しているような沈黙だった。
『君達はもう十分以上にやった。先の作戦の際、誘眠サーバントの展開具合から、座天使ザインエルが自身で開こうとしていたゲートの大きさは半径10km以上、直径にして20km以上にも及ぶ巨大なものだと見られていた。手を拱いていてはおよそ150万もの市民達が展開するゲートの結界内に囚われると予測されていた。そして、敵の防衛は手厚かった』
学園長は言う。
『しかし、君達は困難な作戦を成功させ、ザインエルのゲート詠唱を強制的に中断させ、100万の市民達を誘眠サーバントの影響下から解き放って安全圏へと避難させる事に成功した。100万という巨大な数の人々を守ったのだ。これは胸を張って良い、大きな成果だよ、君』
もう一つ、と彼方で指折りでもしているように、中年の男は成果を続けて並べる。
『さらに君達はこれによってザインエルに自らゲート展開する事を諦めさせた。防衛に引き摺りださせた。結果、ゲート詠唱はリーネン・イェラネンが行なっている。権天使といえどもザインエルより遥かにゲート展開術の力量は劣るだろう。敵の現在の展開具合から見ても、せいぜい範囲は半径5kmというところだ。このまま開かれたとしても、ザインエルが開いていた場合の規模に比べれば半分以下に抑えられたのだ。これも大きな成果だよ』
「ですがまだ、取り残されている人達がいらっしゃいます」
「取り残されているのは50万人です、学園長。ぼくらが普段武器を研いでいるのは何の為か。市民達の血税からの学園への寄付金は何の為か。ぼくらぁ市民を救出する為に、命を賭ける義務があるんじゃないのか。その義務を、学園は危険だからと放棄するのか――」
眼鏡をかけた中肉中背の青年が言った。書記長・大塔寺源九郎。
「そういう意見も、ありそうだけれど」
『君達は学生だ』
「既に二十歳こえてますよ」
『私から見ればまだまだ子供だよ』
「まぁでしょうけどねぇ」
一部に大人も混じってはいるが、学園生というだけあって、多くは歳若い者達が中心である。
『予想される被害が大きすぎる』
無線機からは深く重く、息を吐く音が聞こえた。
『……そして、それでなお、見込まれる成功率が低すぎる。はっきり言うなら、危険だからやめろというのじゃない、無謀だからやめろというのだよ。今は、ただでさえあちこちで問題が頻発している。到底無理はできないし、無理する時ではない筈だよ』
無謀だ、と述べる学園長の言葉に黒髪の娘は眉間に皺をよせて瞳を閉じると、藁にでもすがるような調子の声音で問いかけた。
「……一応確認しますが、やはり、祭器は動かせそうな状況ではないのですか? 伝わってきている情報通りならば、あれがあれば」
『ああ。祭器を持った部隊は、東北でルシフェルやメタトロンの軍勢とにらみ合っている。あそこから引き抜けば、現地部隊はあっという間に蹂躪されかねない。祭器だけ移す訳にはいかない。かといって部隊まるごと撤退して、天魔いずれかの陣営に著しくパワーバランスを傾くを見過ごす訳にはいかない。冥魔の一強化を防ぐ為には、クサビは引き続き打ち込み続けている必要がある、というのが大鳥南クンの見解だね。私も概ね同感だ』
「増援も無理そうですか?」
『……天界で内乱が起こり、関東で二つの巨大ゲートが開いて以降、天使達は各地で活動の勢いを急激に増し、それに対抗するように冥魔も活発化している。四国の方でもなにやら動きがあるようだ。撃退庁は政府と共に横浜と周辺の避難民達の対処に追われている。どこもかしこも手が足りない。そして無謀な事で神器を出す訳にはいかない、逆に奪われかねない』
聞こえて来る学園長の声には渋みが深かった。
『今は、無理をする時じゃないよ。それより、神楽坂君、部隊を撤退させたら君は東北へ行って、レミエル委員長から祭器・千億星の光旗槍の担当を交代して、引き継いで貰いたい。君なら使える筈だ』
「それは……祭器の量産、改良を急ぐ為ですか?」
『その通り。レミエル委員長は戦場に留めておくよりも、研究所に戻ってもらって研究にあたって貰いたいんだ。祭器の威力と実用性は証明された。今はまだ槍は一本しかないけれど、しかし、これが二本、三本と増えた時――その時こそ、京都でザインエル達と対決するというのは、その時こそ、ではないのかな。その手順が、最も、人命を守れる方法だとは思えないかね?』
精神吸収は基本的に急激には進行しない。だから、今は耐える時だ、と学園長は語る。
これに源九郎が頷いた。
「……確かに、効率的には、それが最も良い気がしますね。最もリスクとリターンの交換比が良い。けれど、しかし、それは、基本的にであって、例外は幾つもあり、何の保証も無い、と僕は認識しています。その認識に間違いはないですか?」
『……間違いないだろうね』
「それでも退け、と。勝負するなと。博打は避けろと。今の僕らでも、ザインエルには勝てないと――」
『源九郎君、勝てる作戦、立てられるかね?』
「……まァ、八割、無理でしょうな。今の奴は全盛期と比して衰えましたが、しかしそれでも、僕の計算が合っているとしても、この状況下では、勝率は二割弱、といったところでしょうか』
『二割で勝負するにはリスクが巨大過ぎる』
沈黙が降りた。
長い沈黙の後、女が言った。
「――承知しました」
神楽坂茜は淡々とした無機質な声音で述べ、頷いた。
「退くのか? 神楽坂?」
「ええ……出る可能性の極めて少ない目に大勢の命を賭けて、一か八かのルーレットを回すような博打はできません。実際に命を賭ける人達のことを考えれば、捨て置かれる人達の事を考えても、やはり、どちらかを選ばなければならないのならば、できません」
会長は書記長へと感情を殺した声音で呟いた。
「確かに……例えば、市民達がまだ市中に分散していて中央へと連行されている最中であったなら、連行される彼等の救出を目指して、再度突撃しザインエルと対決する選択肢にも価値があったかもしれません。けれど、既に市民達は中央へと集められてしまいました。今、再度の攻撃を仕掛けても、おそらく、勝てず、救えず、多くが無駄死にするだけです」
鈍く光るグラスをかけた青年は反論できず、中年の男の声が響いた。
『――再び必ず、奪還しよう。四年前とは違う。それは、そう遠い日でもない筈だよ。四年前よりも学園生達は遥かに強くなっているし、そして、今や我々には祭器がある。今の学園生達の力に加え、祭器とその使い手の数さえ揃えば……必ずやザインエルを打ち破れる筈だ。奪還出来る筈だ。他の、京都のみならず、ゲート支配を受けている多くの地域すらもね』
かくて、京都救援部隊は撤退した。
彼等は先の戦いにおいて、非常に困難な作戦を成功させ、およそ百万の市民の救出に成功した。ゲートの範囲も半分以下に抑えた。これは巨大な成果である。
しかし一方で、残り五十万が誘眠サーバント達によって眠らされ、いまだ市中に取り残されていた。
ザインエルが守護についている限り、現有戦力では手が出せない。敵はあまりにも危険な存在だからだ。
遠く、三味線の音色が風に乗って響いてくる。
源九郎と一部の撃退士達は、本隊と周辺の市民達が京都市から遠ざかった後も、状況確認の為にその地に残り、そして、数日後、半径5km、直径10kmに及ぶ結界を展開する京都ゲートの出現を、その目で確認した。
この時、京都に展開されたリーネン・イェラネンのゲートは、ベリンガム王側勢力が支配する、天界中央へと繋がっていた。
ベリンガム王の勢力圏と直接繋がるゲートが地球に開かれたのである。
地球における他の天使達のゲートの天界側出口はエルダー側の勢力圏にあったが、このゲートだけは違った。
天の覇王ベリンガムの勢力圏と地球とを繋ぐ通路が、直接開通した事が、はたして地球人類にとってどのような未来をもたらすのか。
様々な推測はなされたが、どの目が出るのかは、誰にも解らなかった。
だが、地球にとって天界の政変は他人事ではなくなった証のように、異界の門の輝きが彼らを見送ったのだった。
(執筆:望月誠司)
2月25日更新分
――天界・中央島。
天使達の王の住居たる壮麗なる宮殿の玉座に、彼は腰を降ろしていた。
宮殿の磨かれた床は先日、多くの血を吸った。
ベリンガムは彼を傀儡としていた十二支族の長老達を宮中に呼び出し、密かに彼に味方していた一人を除き、その悉くを討ち果たす事に成功していたのである。
彼等はベリンガムを戦場の雄に過ぎず宮中で謀略など図れる男ではないと見縊っていた。ベリンガムも長年、そのように演じていた。その結実だった。
ベリンガムはエルダー達を宮中で殺害した後、中央島を制圧すると共に各地へと王の側へとついた軍を侵攻させた。
電撃戦は概ね成功だった。
それまで天界の勢力圏はほぼすべてがエルダー側の支配下にあったが、ベリンガム王ら王権派は階級制度によって冷遇されていた下級・中級の天使達を中心に密かに協力を取り付けており、王権派の蜂起・侵攻に合わせて内応させたのである。
結果、多くの地域では、内外からの攻撃を受けてベリンガム王側の軍に制圧された。
一戦すらせずにベリンガム王に寝返った地域すらもある。
一夜にして――というのは少々大袈裟だが、短期間のうちに天界勢力圏は塗り替えられ、大半がベリンガム王側勢力が支配するところとなった。
勢力図が一変するとさらに多くの下級・中級の天使達がこぞって王の下へと馳せ参じた。
ベリンガムは「天界の膠着しきった腐った体制・社会を王の立場から改革する」という大義のもと、元の階級にとらわれぬ実力主義を掲げていたからである。
無能な上に扱き使われていた者。手柄を横取りされた者。失敗の責任を押し付けられた者。身分によって恋人との仲を引き裂かれた者。階級制度の壁により出世できてなかった者。
階級制度に起因する不平不満を持っていた者達、才能や実力はあれども厳格な階級身分制度社会で下位に抑えつけられていた者達が、こぞって王に味方した。
今もなおこの流れは留まらず日に日にベリンガム王側はその勢力を拡大させている。
だが、中央とその周辺、価値の高い重要な異界などはベリンガム王側の勢力下となったが、辺境ではエルダー側勢力の生き残りが謀殺されたエルダー達の後継者を速やかに立て、意外な頑強さを見せて抵抗していた。
エルダー側についてる多くは、これまでの厳格な階級身分制度社会で恩恵を被っていた者達である。
階級制度のおかげで、天界軍で無理を押し通して好き放題をやっていた者。危険な前線に出ずとも収入が確保され安穏と優雅に生活できていた者。いわゆる武闘派に対する穏健派な者――身分制度のおかげで、安穏としていても豊に生きていける余裕を持っていられたからこそ穏健派でいられた、という者は多かった。
また、先王を殺害した上に以降エルダー達の傀儡であった王よりも、長年の先祖代々の恩と義理を重んじ直属の主にこそ忠誠を誓っている者もエルダー側に多く留まっていた。
天界の内部抗争は大きく見るならば、いわゆる上下のヒエラルキーの激突、改革派と守旧派、その対決の態を見せていた。
しかし、
「エルダー派の残党は、長くは持つまい」
天の覇王ベリンガム、この時既に時代の流れは己にあると、確かな手応えを感じていた。
●
一方、地球。
天界中央から見れば、地球という異界は資源地として非常に豊である事は知られていたが――ひとことで言うなら、ド辺境扱いであった。
例えるなら、地球の史上においても、例えその場所に金銀宝石が大量に採掘される鉱山があったとしても、辺境は辺境として見なされていたのと同じ事である。
「狂王ベリンガムの軍は各地の天使達を虐殺してまわり、その財産を強奪しているそうだ。連中に言わせれば、富の再分配ということらしい」
鳥海山から東北の大地を見下ろしつつ、メタトロンは呟いた。
彼等、地球派遣軍はエルダー側勢力の生き残りの一つ、ベルラケル支族の指揮下にあった。
「ベルラケルの新エルダーは、かの愚かなる狂王ベリンガムに天界を任せれば、天は魔に抗しきれず滅んでしまうだろうとお考えだ」
いかにベリンガム戦に強くとも、血に餓えた梟雄の統治など荒れるに決まっている、というのがエルダー側の主張だった。
「故にベルラケルは、カサルーイ支族、ジルガド支族と連合し、徹底抗戦を行なう。三支族連合は、前王ゼウスの血を引く遺児を新たなる正統な王に立てる予定だ。各地の天使達に前王ゼウスを弑して王座を簒奪し、今また前エルダー達を騙し討ちしてこと如くを殺した血に餓えし狂王ベリンガムに、はたして正統性があるのかと問いかけ、抗い続けると。再び平穏を天界にもたらす日まで」
地球派遣軍の天使達の天界側出入り口の集中地であり、またベルラケル支族が根拠地としているのが天界・ベルラケル南方諸島である。
ベリンガム王が王によるクーデターとでも呼ぶべきものを起こした時、南方諸島は諸地域からの連結を断たれて孤立したが、今では、カサルーイ西南群島とジルガド東南群島の両地域との連結を取り戻していた。
いずれも辺境であった為、ベリンガム王側の電撃戦時の第一攻撃対象とならず、調略も手薄だった為、なんとか制圧されずに持ちこたえていたのである。
メタトロンは横に立つサンダルフォンへとそう語った。
事情を整理したサンダルフォンは、
「……我々は天界に正統を取り戻せますか?」
エルダー派は勝てますか? とメタトロンに問いかけた。
「無論だ」
メタトロンは頷いた。否定する訳にはいかない。
「正統なる新王のご威光のもと、総員奮起すれば、天界での戦いは十分に逆転できるとの仰せである。狂王の敵は、我々だけではない」
メタトロンは言った。
「我々地球派遣軍は、天界にて狂王に抗する正義の士達を支えるべく、これまでよりもより多くの資源を収奪し、天界に送らねばならない」
対ベリンガム戦線の前線は天界の天使達に任せ、メタトロンらは引き続き地球で資源の確保活動に勤しむようにとの事だった。ただし、ノルマは跳ね上がっている。
「我々は、これまでよりもより多くの資源を収奪し、天界に送らねばならない。それが出来なければ――」
エルダー派は滅ぶだろう。
今や、地球から送られている資源が反ベリンガム王派の重要な支えとなっていた。
既に戦力は逆転している。いまや圧倒的にベリンガム王側のほうが強大だ。
エルダー側は単独では拮抗する事すら難しい状況だろう。冥魔達が久しく前線に出ていなかったベリンガム王の武名を忘れておらず、彼の勢力をこそ脅威に思ってそちらを集中的に攻撃すれば、あるいは逆転できる可能性もあるかもしれない、という戦力比であった。
逼迫した状況であった。
だが、それでも少ない可能性に賭けて勝利を現実のものとするには、資源の確保が絶対条件であった。
エネルギーが尽きてしまっては抗戦できなくなる。
そして、反ベリンガム王軍の前線が敵を抑えきれなくなったら、その矛先はメタトロン達にも迫って来るだろう。滅びが迫って来る。
「資源、ですか」
「そうだ……天界に正統を取り戻す為に、より一層、資源獲得に励むよう、全軍に通達せよ。かの狂王は逆らった者には容赦は無いそうだ。見せしめの為に殺戮し財産を奪う。勝たねば我々に明日はない」
「承知いたしました」
2016年2月末、地球に派遣されている天使達の足元からは業火が迫っていた。
業火に呑まれぬ為には、必死に足掻くしかなかった。
そして、窮地に追いやられたエルダー派天界軍――地球派遣軍のその必死さは、当然『資源』と見なされている人間達にとって、災厄以外の何物でもなかった。
天使達が過激になれば、冥魔達も負けてはいられぬと過激になる。
関東のアクラシエルゲートやベリアルゲートなどに代表される壮絶な資源収奪競争。
この時代、地脈が集中する日本への天魔達の攻勢は、その苛烈さを一層増していったのだった。
(執筆:望月誠司)
2月8日更新分
牢獄に、男は押し込められていた。
それは半生を振り返った時も同様だった。石の壁に囲まれてはおらずとも、男は常に押し込められていた。
戦う力は並の天使にはおさまらぬものを持ちながら、天界の厳格な階級制度により、男は常に最底辺に押し込められていた。
冷遇され北のロシアの大地で酒を呷り燻っていた日々、それは男の人生の象徴だった。
天界の階級社会では、いかに実力があろうと上が言っている事が間違っていようと、逆らうことは許されない。
精神エネルギーの分配方法など天界の社会構造を良くあらわしている。
下級の天使が身を削り苦労してゲートを築いて精神を収奪しても、多くの場合成果の半分以上は上納しなければならず、さらにサーバントの作成や維持など諸コストにエネルギーを使い、手元に残るのは全体から見て僅かである。
そしてしばしば理不尽な命をくだされても嫌とは言えぬ。どんなに杜撰な戦略であっても、現場の戦術で必死になんとかせねばならぬ。従わねばならぬ。そして、苦労と責任は現場の下級天使達に押し付けられ、功績と報酬は上級天使達に奪われる。それでも従わねばならぬ。それが下級天使というものだ。
階級さえあれば!
最下級の天使である男はそれを渇望した。それがあれば理不尽から脱せられると。
しかし、男が立身出世を目指し奮闘してきた果てに辿り着いたのは、冷たく蒼い石壁の牢獄であった。
「――無念なり」
ギメル・ツァダイは呻いた。
彼はベリンガム王の声を聞き、それに導かれて動いた。ベリンガムは天界の王である。天界の頂点である。
最下級の天使とはいえ大義は王命を受けたギメル・ツァダイにこそあり、メタトロンやザインエルは王命を受けたギメルに従うべきだったのだ。せめて協力すべきだった。それがあろうことか邪魔をしてくるとは!
そう――ギメル・ツァダイは最下級の天使である。
故に、彼は天界の最上位の場所で繰り広げられている争いを知らぬ。
天界は王の意志のもと、一枚岩で動いていると思っている。
だが、その思い違いを責めるの酷であった。天界の大半の天使達はギメルと同様に天界は王のものであると思っている。それが常識なのだ。
しかし、で、あるならば王命を受けて動いたギメル・ツァダイが捕縛され、こうして牢に放り込まれているのは、なんともおかしな話である。
何故、こうなったのか?
どうして?
「理不尽である……」
剃髪の巨漢は牢屋に唸り声を響かせた。
「理不尽である……!」
何故、己がこんな目に、とギメルが思った、その時だ。
「荒れているな、卿よ」
牢獄の扉が音も無く開き、滑るように白いローブとフードに身を包んだ大男が入ってきた。
「貴様は――」
巨漢の目が見開かれた。
――ザインエル!
そう、声をあげそうになった瞬間、一瞬で赤髪の偉丈夫の姿が消え、ギメルの口元はその大きな手で抑えつけられていた。
神の剣は声を潜めてギメルに言った。
「静粛に頼もう。人目を憚って此処に来ているのでな」
●
日本国、北海道、洞爺湖、ルシフェル・ゲート最奥。
昨年の末、冥界よりの目付けレヴィアタンがルシフェルに報告した。
山形県と秋田県に跨がる大山『鳥海山』に天界ゲートを構える力天使トビトの神樹にエネルギーが再び蓄積されてきていると。
そしてこう言った。
「使用される前に奪ってしまいませんか。あれはエネルギーとして蓄積されているので利用できる見込みがあります」
と。
しかし、ルシフェルはこの時点ではいまいち乗り気にはなれなかった。
「そう出来れば、重畳だな。が、しかし、俺達が攻め寄せればエネルギーを他に移したり放棄したりするんじゃないか?」
と。
しかしレヴィアタンは、
「それは容易な事ではありません。それに、例えそうされてしまっても――あの位置に力天使トビトのゲートがあるのは邪魔ですよ。根本的に存在が問題です。ぶっこわしましょう、トビト・ゲート。我々の伸張を図るならば、断固として破壊すべきです」
「根本的に存在が問題だからぶっこわす?」
ルシフェルは吹き出した。レヴィア本人は真面目な顔で言うからおかしい。
しかし、
「まあ、確かに邪魔だなァ、俺達から見て、あの位置は」
レヴィアの言う事は間違ってはいなかった。
「その気になれば一気に刺しにこれるからな。だが……直接対決やらかすのかい?」
「秩父であれだけやらかしたのです。もはや、不戦条約など有名無実でしょう」
「それもそうか……」
ルシフェルは苦笑しながらも頷いた。
懸念は人類側の横槍であった。長期化すれば必ず嫌らしく背後を突いて来るだろう。
しかし、鳥海山は例の神樹戦以降、十分な戦力の補充がなされていないとの偵察報告もあった。
大軍で急襲して一気に攻め込めば、援軍が満足に来ないうちに落とせるかもしれない。しかし、それはあまりにも博打であった。メタトロンがザインエルなどに軍を与えて素早く差し向けてくれば、必ず長期戦になってしまう事だろう。それは避けたかった。
そこへもたらされたのが『あの情報』である。
その為、ルシフェルは天界の動向をつぶさに探らせていた。
後日、
「ルシフェル様!」
年も明けて二月、レヴィアタンが言った。
「ベリンガム、どうやら本気のようです。宮中にエルダー・トライブス十二支族の長老達が呼び出されました」
「やはり、偽りではなかったか。これは確定と見て良いか? まあ、慎重を期すなら実際に殺るまで待ったほうが良いんだろうが……速攻と決めたからには、一つ勝負といくか。ザインエルからの話もあるしな。あれも確かならば、メタトロンは絶対に間に合わん。兵は神速だ、出るぞ」
八枚の黄金の翼を広げ、地球方面派遣軍の総大将が立ち上がり、宣言した。
「鳥海山を陥とす!」
●
「なんと、ルシフェルが大軍を率いて出撃したと?」
メタトロンゲート執務室。ケルビムは卓を叩き、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「はっ! 留守を男爵リザベルに預けて魔界宰相ルシフェル自らが陣頭に立ち! 配下に旅団長レヴィアタン! 少将アラドメネク! 旅団長ソングレイ!
騎士マルコシアスの四将! 従えるディアボロも精強にして三千を数える大軍との事! 鳥海山を目指している模様!」
サンダルフォンが報告する。
「三千……! それは、おのれルシフェル、血迷ったか!」
「このままでは鳥海山のトビト様はとても持ちません、叶うならば至急援軍をとの事!」
「ルシフェルを自由にさせる訳にはいかぬ。至急力天使ザインエルに一軍を率いさせ先発させよ! 天使レギュリアにサーバントを集めさせよ! 関東の主天使アクラシエルにもサーバントを集めさせておくように!」
かくてメタトロンは鳥海山を守りルシフェルの進軍を挫くべく矢継ぎ早に指令をとばした。
まずザインエルに即応できる者達を率いさせて応援に向かわせ鳥海山を延命し、その間に大軍を編成し本格的に救援に向かわせんとしたのである。
●
かくて天界、南方諸島。
「まさか、またザインエル様の指揮下でかの地に向かう事になりましょうとはな」
剃髪の巨漢がカッカッカッと野太く笑って錫杖を鳴らした。
「世の中、何がどう転ぶか解りませぬな、『座天使《ガルガリン》』よ」
「だからこそ面白い」
甲冑に身を固め、真紅の外套を翻して神の剣は配下の三柱と自らの手勢、そしてメタトロンから与えられたサーバントの軍勢を振り返った。
「能天使ギメル・ツァダイ」
「はっ!」
「権天使グラディエル・インヴィクタ」
「ハッ!」
「権天使リーネン・イェラネン」
「はい!」
「出撃だ。これより我等進発する!!」
かくて、ザインエル軍は天界を通ってゲートを用いて地球へと向かい――そして、鳥海山ではなく『京都』に降り立った。
●
「――馬鹿なっ?!」
陶器の割れる音が鳴り響いた。
「間違いございませぬ。ザインエル様は天界が南方諸島にあるトビト様のゲートに入って地球の鳥海山に降り立ったのではなく、クー・シーなる者のゲートに入って京都に降り立ちました! そしてかの地の制圧を開始しております!」
サンダルフォンが厳しい面差しで血反吐をはくが如き声音で呻くように報告した。
「馬鹿な……! この火急の時に何を考えているザインエル、悪ふざけでは済まんぞ! 私がサーバントを与えたのは、鳥海山への応援の為であって、京都などの制圧の為ではない! 至急呼び戻せッ!!」
メタトロンがサンダルフォンにそう叫んでいると、
「メタトロン様ッ!!!!」
配下の天使が血相を変えて飛び込んで来た。
「今度は何が起こった?!」
「中央との……天界中央との連絡線が、一斉に沈黙しました! まったく応答が返ってきませぬ!! また、中央のみならず、西南群島とも東南群島とも連絡がつきませぬ!! 中央とのエネルギーラインも完全に停止しております!!」
メタトロンは絶句した。
「おそらく、天界中央で一大事が発生しております!」
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「天界の諸地域とのラインが断たれた……?!」
関東、ネメシスの実質的な司令官・アクラシエルは通信水晶に映る、メタトロンの副官であり名目上ネメシスの長であるサンダルフォンの顔を凝視した。
「現在、我々、地球派遣軍のゲートが集まっている南方諸島と、天界の他地域を結ぶラインのすべてが沈黙しています」
それは、メタトロンやアクラシエルら地球派遣軍が天界の勢力圏との連結を断たれ、孤立した事を意味していた。
「エネルギーラインも?」
「そうです。幸いというべきか、資源地である地球担当である我々にはエネルギーの蓄えがありますが、いざという時の支援を他地域から望めない状況では、万一、エネルギーが枯渇するような事となったら、我々地球の天使達は皆、揃って破滅です」
地球の天使達は皆、揃って破滅。
アクラシエルは生唾を飲み込んだ。
「……メタトロン様はなんと?」
「鳥海山への救援はメタトロン様が自ら赴かれると。そしてアクラシエル殿、貴官は関東で巨大ゲートを開く為の準備を進めていると聞いています。それを、発動するようにとの指令をくだされました」
「ネメシスは鳥海山の救援には向かわないと?」
「そうです。最悪、鳥海山が陥落しても、それは損失ではありますが、すぐに全軍が破滅するような事態にはなりません。しかし、万一エネルギーが尽きる事態などになってしまったら、我々は全滅です」
サンダルフォンは言った。
「ですから、貴方には原住民が密集している、その関東地方の攻略をなんとしても急いでください。当座の目標は一千万人、それだけの人間を支配領域に捕獲できれば、孤立したといっても当面は安泰になれるだけの収穫を我々は得られます」
「一千万……!」
かつて、ザインエルが京都にゲートを開き捕獲したのが、それでも五万人に過ぎなかった。そして反抗を受けまともに収奪できたのは三万人である。その三百倍以上。確かに、日本国関東地方は人口密集地であり、理論上はその数を達成する事は可能だが、それだけに防衛も厚い。
――出来るのか?
アクラシエルの胸中をそんな思いが掠める。
が、それでもやらねばならぬという事は理解できた。
「……了解いたしました」
「関東は地球派遣軍全体の生命線です。このような困難な任務は、貴方達ネメシスにしか出来ない。しかし、貴方達ならば出来る筈だ。失敗は許されません。天界の命運を、頼みましたよ」
その言葉を最後に通信は切断された。
「……これは、まいったな」
アクラシエルは天を仰いで嘆息した。
全軍の運命が、あるいは、己達の成果にかかってくるかもしれないという。
「まずは、横浜か」
そこだけでは一千万には足りないが、獲れる場所から進めてゆこう、とアクラシエルは決意するのだった。
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ルシフェル、動く!
初め、その報が人類側にもたらされた時、撃退庁東北支部の総司令、長月耀は久遠ヶ原学園にこう打診した。
「天魔が大規模に激突するなら、この側面を突かない手はない。今後の為にも両軍の戦力を削っておくべきだ。その上で、トビトゲートをあわよくば破壊する。ついては学園にご協力を願いたい」
と。これにはレミエルが積極的に賛同し、
「ちょうど先日、祭親器の第一号も完成した。これは、我々の力を示す時だろう」
と述べた。
かくて、撃退庁東北支部よりの協力要請に応える事が決定され、レミエルを主将として執行部親衛隊長・岸崎蔵人他、即応できる者達で一部隊が編成された。
かねてより研究開発が進められていた祭器。二種があるとの事だったが、一種目である旗槍の祭器は、親器となる槍と、子器となる腕輪から構成され、槍持つ撃退士より腕輪を身に付けた撃退士達へと力を供給し、その能力を大幅に向上させるという。
そして、一部隊が東北の応援へと出撃した後の事だった。
今度は京都にザインエルが軍勢を引き連れて湧き出たように突如として現れ、制圧を開始しているとの報が入る。
ギメル他、二柱の天使とサーバント軍団が暴れまわり、誘眠の波動を周囲へと撒き散らして住民達を次々に眠らせており、ザインエルもまたかつてゲートを展開した中京城の地脈点に入り、ゲート展開の術式を発動しているという。
ギメルは自らを能天使であると名乗り、我々はベリンガム王の麾下たる座天使ザインエルの軍だと称した。
「『座天使《ガルガリン》』ザインエルだとっ?! しかし何故、鳥海山が冥魔の大軍に襲われているのにそれを放って京都に?」
学園は訝しんだが、京都からは助けを求める悲痛な叫びが届いており、その疑問にかかずらっている訳にはいかなかった。
ザインエル現る、の報を受けた学園は、再び急ぎ部隊を編成する。
親衛隊長の岸崎が東北に出ていたので、至急、生徒会長の神楽坂茜を主将とし、書記長らが補佐について破壊が繰り広げられている京都へと向かった。
「ザインエルが術式にかかりきりで身動きが取れない今を逃す訳にはいきません。絶対にゲートを展開させてはなりません。京都の破壊も進めさせる訳にはいきません。ザインエル軍は強敵、まず先発の私達が暴れまわっているギメルらを抑え、中京城への道を整えておきますから、それまでに主力を編成して応援にきてください。そして合流して身動きの取れないザインエルを直撃しましょう」
というのが神楽坂茜の言であった。
しかし、先発隊が出発してより急ぎ京都救援の為の主力隊の編成が進められる中、今度は横浜市を中心としてその周辺地域の市民達が、突如として唐突に眠りに落ちるという大事件が起こる。
埼玉で陽動を繰り返し、撃退庁らの目がそちらに向いている中、アクラシエルらネメシスは誘眠のサーバントを大量に横浜市内へと潜伏させていたのである。
その範囲は横浜市を中心に半径十数キロにも及び、巻き込まれたものの正確な数がすぐには図れないほどで、一説では500万人にも及んでいるといわれている。
住民を眠らせるのは、ゲート展開が完了するまでその範囲内から逃がさない為であり、このような現象が起きている以上、横浜市のどこかで強力な天使がゲート展開の術式に入ったであろう事は明白であった。
それを裏付けるように、それまで沈黙を保っていた神奈川県鎌倉市にあるゲートより大量のサーバントが出現し、横浜市へと向かって雪崩れ込み始めたのである。
「まさか、私が大将として前線に出る事になるとはね」
久遠ヶ原学園学園長、宝井正博は唸った。補佐に会計長の大鳥南や熟練の教師達がついてはいるし、前線とはいっても実際に戦闘が行われる位置よりはかなり後方であったが、学園長が部隊を率いて、関東へと赴く事となった。
過去に例を見ない凄まじい数の人間達が巻き込まれ、さらに首都東京の眼前に刃を突きつけられたかのようなこの事態に対し、撃退庁が動いた。
これと協調する為のパイプ役が必要であり、生徒会長が出払ってしまっていたので、学園長がもっとも適任となってしまったのである。
学園長が率いた部隊は、本来京都救援の主力となる予定だったが、この未曽有の危機に対し急遽横浜へと向けられる事になるのだった。
かくて、鳥海山、京都、横浜においてそれぞれ戦いが勃発する。
2016年2月、天・魔・人の争いは、あらたな局面を迎えようとしていた。
(執筆:望月誠司)
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