ならば、せめて。
この天に咲く花を美しいと感じられたまま、終われたのなら。
●転調
「暫く振りだな、檀君」
「何故、此処に……」
赤糸 冴子(
jb3809)の声に気付いた檀が振り向いて、軽く目を見開く。
8人の撃退士の姿。祭り会場からは少し遠い此処へ偶然辿り着いたというには不自然な人数。
「何故、あなた達が……」
「さびしー背中だね。そんなんじゃ夜風に攫われちゃうよ?」
ひょっこりと顔を覗かせたファラ・エルフィリア(
jb3154)がひょいっと差し出したのは、大人の握り拳よりも大きなりんご飴。
「とりあえず、お近づきにりんご飴どうぞ!」
「ありがとうございます。けれど……」
「いいの! 甘い物食べると元気になるから!」
ファラは明るく笑いを返す。それでも不思議そうにしている彼に少し困ったような笑いを浮かべたのは月隠 朔夜(
jb1520)。
「檀こんなとこに一人でぽつんと居る、なんて話を聞いたら来たくなってしまいますよ」
「ったく、そういうことだ。良かったな、こんだけお前の為に駆け付けるお人好しが周囲にいて」
穏やかに笑う朔夜に対し、マクシミオ・アレクサンダー(
ja2145)は何処か不機嫌そうに言い放つ。
報告書を読んで感じたのは、どうしようもなく自分と似ていたという事実。
誰かの為に身体を張って、全てを投げ打つ覚悟を決めて――戻れない一線も飛び越えてしまったというのに、自分ひとりで考えても仕方のないことで悩んでいる。
(……まるで、生き写したみてェじゃねえか)
憂いの表情が嫌になる。けれども、苛立ってしまうのはきっと同族嫌悪だからだ、とマクシミオは思った。
「あー、君があの檀君か。話には聞いてるよ。僕はアラガ。ま、程々によろしく」
白銀 抗(
jb8385)は薄い笑いを浮かべた。何故、檀に対し、抗はただ一言。
「ま、君のご主人とちょっとねー。中々面白い子じゃない、彼女。嫌いではないよ」
「初めまして、僕はレイ。檀さん、と呼んでいいかな?」
檀はレイ・フェリウス(
jb3036)の言葉に頷き、口を開こうとしたその時――。
「檀殿、久しぶりでござるよー!」
ざぱーん。水飛沫が月の光をうけて煌めいた。
神秘的にも見える光景。ただし、出てきたのは褌にさらしを巻いただけという超軽装備姿のエイネ アクライア (
jb6014)だが。
「え……? あ、はい。お久しぶり、です?」
呆気に取られた檀はもはや脱力している。
「拙者は夜の海を満喫してたでござるよ。夜の海はいいでござるぞ」
ごく自然に言い放つ。これには朔夜も驚き。
「え、夜の海に居たんですか?」
「大丈夫でござる。拙者の故郷は冥界の漁村。昼夜関係無く泳ぎまくっていたし、今日は花火とやら。方角も星も詠まずとも、陸を見失う心配もござらんしな」
再び呆気に取られる一同を余所にごく当たり前のようにエイネはさらっと言い放つ。
「で、何をしていたでござるか?」
「花火を」
短く答えた檀に軽く頭を振りながら冴子は。
「そうか。けれど、一人で花火なんて味気ないだろう。ご主人はどうしてる?」
「ジャスミン様は……」
冴子の問いに思いを巡らせる檀。作り物めいた笑みが脳裏を過ぎる。
何か嫌な予感もしたけれど、ただの気のせいかもしれない。何も確証は得られない。だから、檀は過ぎった不安を打ち消して、言葉を飲み込む。
「……いつものように、南に居ます。余り、人前には出たがられませんから。だから、花火に興味を持たれたようなのですが代わりに見てこい、と」
「へぇ、随分と変わった命令するんだね、彼女。何か君を遠ざけたい理由でもあったのかな?」
自分の思考を読むような抗の言葉に檀は俯く。代わりに口を開いたのは朔夜。
「なるほど、花火綺麗ですものね。ジャスミンドールさんにもその美しさが伝わればいいと思います」
けれど。朔夜は微笑む。
「花火だけが祭の見所ではありませんよ、良ければ屋台巡りしませんか?」
「え……いえ、命令は花火を見てこいというだけですし、私が人の多い場所へ行くわけには……」
此処で充分です。言外に込めて断った檀。しかし、冴子は薄く笑って首を振った。
「いいから来たまえ、檀君。今宵は付き合って貰うぞ」
「ちょっと、無理に誘うのよくないよ! 確かに童心に返って遊ぶのはいいって思うけど!」
ファラの制止も聞かずに、冴子は戸惑いの表情を浮かべる檀の手を掴み、駆け出す。
――彼にはこれくらい強引な方がいいのだよ。
振り返りファラを一瞥した冴子の瞳が告げていた。
●一夜
小さな島には似つかない賑わいだった。
忙しく流れる人の喧噪は、誰も彼も笑顔を浮かべていた。強制連行された檀は眩しそうに目を細めて祭りの華やかさを眺めている。
「……甘い、ですね」
ファラから貰ったりんご飴をちょろっと舐めた檀はそっと呟く。
「お? 檀たん、実は甘い物苦手だったりした?」
「ああ、いえ。多分、好きだとは思います。けど、慣れていないのです。家では中々こういったものを食べさせてはもらえませんでしたから」
ファラの問いかけに檀はりんご飴を眺めながら答えた。提灯の揺らめく灯りを受けて、きらきらと輝きを放つ透きとおった飴。
そういえば、梓も好きだった。大きいものに惹かれるように見ながらもいつも買うのは小さい方。こっちの方が食べやすいから、などと言いながら笑っていた。
「ところで、舐めた後はどうするのですか? 中に林檎が入っているようですが……」
舐めているところは知っている。けれど、其処からどうすればいいのかが解らない。熟考を重ねても答えを出せない。
訊ねられたファラはごく当たり前の顔をして。
「え、そりゃ、囓るんだよ。丸かじり」
「えっ」
「えっ」
互いに、顔を見合わせる。
「え、その? 囓るのですか? 林檎を?」
「うん、丸かじり。あたしのお勧めはざくざくしてる飴と一緒にこう、ばりぃっと勢いよく豪快に!」
「丸かじり……豪快、に……」
じぃっとりんご飴とにらめっこする檀。それなりの強度も大きさも太さもある。囓る為には、かなり大きな口を開けねばならぬだろう。
「……そういえば、檀君おぼっちゃまだったもんね」
少し躊躇いの様子を見せる檀。意味深な笑みを浮かべた抗が煽るように言う。
対抗心を煽られたのか、意を決した檀が口を開きかけた時――。
「檀殿! たこ焼きの屋台を見付けたでござる。突撃致すでござるぞ!」
「うわっ?!」
急に立ち止まったエイネと激突。ついでに、弾みで鼻にりんご飴も激突。
「すまない」
「いえ、こちらこそすみません。前を見ていませんでしたから。大丈夫でしたか? 怪我などされていませんか?」
互いにぺこりと頭をあげた檀の顔に一同はぎょっとなる。
「あ、檀たん鼻が赤くなってるー」
「え……あっ」
堪らず噴き出したファラに、檀は縮こまる。
思わず小さく笑いながら朔夜はウエットティッシュを差し出す。
「はい、檀さん。これを」
「すみません……」
申し訳無さそうに朔夜からウェットティッシュを受け取った檀は、ぐしぐしと鼻の辺りを拭う。恥ずかしい。
「む? りんご飴のことでござるかー? なにも、別にそんな悩むようなことではないと思うでござるよー」
それもそうですよね。檀はりんご飴をかじってみた。初めて食べたりんご飴は、やたらと甘ったるく、何処か懐かしい味がした。
(今のとこ楓君と出会う心配は無しってとこかな)
一同より少し後ろを歩く抗は携帯電話を閉じた。他班が同じように楓を連れて祭り会場に居るらしい。
双子が出会さないように宙や他班と連絡を密に交わしたお陰で出会さないで済んでいる。
(ま、互いの覚悟が決まるまであわさない方がいいよね)
多少強引に道を逸らしたりする場面もあったが、元より無理矢理引っ張られるように来た祭り会場。檀は何も違和感を感じなかったようだ。
「……あの」
気まずそうにロドルフォに声を掛けた檀。
「いえ、その、着崩すのは最近の流行なのかなと思ったのですが、左前は……」
「ん? 檀、どうしたんだ?」
首を傾げるロドルフォ。なんて説明していいのか暫く考えるが浮かばない。
「えっと、ロドルフォさん。私に着いてきていただけますか?」
※※※
「着付けにも作法があるのか」
「ええ。左前は、余りよくないとされているんですよ」
流石にその意味は言葉にし辛くて、やんわりと檀は言葉を濁す。
「丁度よく更衣室があってよかったな。あァ……てか、ここ貸衣装屋みたいだ」
周囲を見渡すマクシミオにロドルフォ、爆弾一発。
「そだな。折角なら着てみろよ」
「ええ、着付けなら手伝いますよ。マクシミオさんには……そうですね、この藍鉄地の浴衣などは……」
「檀、何他人事のように言ってるんだ?」
ロドルフォの真顔の問いに檀は固まる。
「……へ?」
「檀もマクシも折角だし着ようぜ。日本の祭りはこういうのを着るのが流儀なんだろ? 着なきゃ楽しみも半減だ」
「いえ、私は、別に祭りを楽しみにきたわけでは……」
檀は後退。
「いいから!」
ロドルフォは強行作戦に出た。というか、無理矢理剥いだ。
「おー、檀たん。細いのに結構しっかりしてるねー。てか、なんですか金髪イケメンが儚げ美青年剥がすとかあたしとくー!」
「って、うわぁぁっ! な、なにを……!?」
慌てて檀が上着をひっつかみ隠すが時既に遅し。ファラは心のシャッターを切った! 1秒に108回くらい連写出来るスグレモノ。
あと、フラッシュライトは無用ですよ? ファラの(欲望に染まりすぎてある意味)澄み切った瞳はこんなにもきらきらと輝いているのですから!
「恥ずかしがることはないよーぬい」
「出てけー!」
ロドルフォはファラを摘まみ出し外へ押し出した。どんどんと抗議の声が聞こえるが気にしないでおく。
(面白かったのに)
場のカオスっぷりを薄い笑いを浮かべながら高みの見物していた抗が残念そうに息を吐いた。
※※※
衣装屋から出てきた檀を待ち受けていたのは冴子の姿。
「奢りだ」
「これは……」
ぐいっと冴子は檀の頬に冷えたビール缶を押し当てる。
「もう少し楽しい顔をし給え」
「……有難う御座います」
受け取り缶の封を開けると涼やかな音を立てて、泡が弾けた。恐る恐る檀は呷り、ひとこと。
「……相変わらず、酒は苦いですね」
「辛気くさい顔をするな。余計に酒が苦く感じる。それに、私までそう感じるではないか」
また謝ろうと口を開きかけた檀を制するように冴子は再び口を開いた。
「私は美味しく酒を飲みたいだけだ。一時的だとはいえ、檀君は我が同志だ。このように杯を交わすのも悪くはない」
「私も、悪くはないと思います……けれど」
缶を一瞥し再び冴子を見る。檀は困ったように笑って。
「やはり苦いですよ。私には」
「あァ、射的があるな」
マクシミオの呟きに、興味を示したのはエイネ。
「射的で御座るか?」
「ええ、銃であの台に乗っているものを撃ち落とすんです。倒すか落としたらそれが景品としてもらえるんですよ」
エイネの問いに朔夜が応えた。銃。武器。浪漫。
この時こそ、修行の成果を見せる時。エイネは意気揚々と射的屋へと向かった。
「うーむ、この武器は、軽すぎるでござるな」
どうもしっくりこない。エイネはおもむろにコルクで出来た射的弾を掴み、見つめる。
ぎゅっと一握り。そして、意を決したように大きく振りかぶり――。
「こっちの方が手っ取り早いでござるー!」
はい、ぶん投げた。軌道を描いた弾は見事招き猫に命中し地に落とす。
思わず呆気に取られるファラがひとこと。
「ねえ、あれって……あり?」
「一応、弾で落としたからありなんじゃないかな……銃で撃つよりよっぽど難しそうだし」
妹分の呆然とした呟きに、レイもなんとか結論付ける。しかし、ファラの瞳が輝く。
「じゃあ、あたしもやってくる! なんか邪道な遊び方がゾクゾクくるしー!」
「いいけど、周りには気をつけるんだよ」
元気よく駆けだしてゆくファラを手を振って見送りレイは周囲を見渡した。
「すみません……本当に、すみません」
「いや、いいんだ。兄ちゃん、ある意味凄いね。うちも水に入れただけでポイを破くお客さんはいるが向かいの射的屋の流れ弾が当たったのは初めてだよ」
一方檀は向かい側の屋台の男性に全力で頭を下げていた。
「檀さん、どうされました?」
その様子に気が付いた朔夜がきょとりと首を傾げてみる。
「あの、魚のマスコットを狙ってみたのですが…」
「はい」
「何故か、向かいの金魚すくいのおじさんの額に……」
「はい……えっ?!」
頷きかけた朔夜に、申し訳無さそうに俯く檀。
「ちなみに、金魚すくいも、ポイを水に入れた瞬間破いたことがあります」
「檀……お前、大丈夫なのか」
使徒として色々問題あるだろう。思わず呆れてしまうロドルフォ。
「……え、いえっ 戦うこととこれは別じゃないですか!」
「ノーコンにも程があるだろ!」
すぱこーん。団扇が綺麗なツッコミの軌道を描いた。
●追憶の天花
規則的に寄せては返す波の音と、不規則的に鳴り響く花火の音が折り重なり合って静かな夜を彩っていた。
「そォだ。宮沢賢治なら、俺はよだかの星が好きだわ……知ってっか」
「ええ。読んだことはありますよ」
「あの醜い猛禽じみた鳥にさ、妙に親近感湧いちまってよォ」
「親近感、ですか?」
あの話は、居場所を奪われ、迫害されて空へ飛び立つ余りにも哀しい鳥の話。親近感が湧く、だなんて。
「……ただ、マクシミオさん。貴方は、何処へ飛び立つつもりなのですか?」
檀の問いに、マクシミオは言葉を返さなかった。
「それにしても、この花火と言うのは綺麗でござるなぁ……」
「私ね、花火と人は似ていると想うんです。消える時は一瞬で儚い」
だけれど。朔夜は空を仰ぎながら呟く。
「夜空を艶やかに彩る花火のように、その人の生きてきた軌跡は誰かの心に遺るんです。例え散ってしまっても……」
「この人間界の、日本の文化――侵略し、消し去るのは実に惜しいと思うでござる」
祭り会場を後にした一同は、海岸に再び戻ってきていた。
変わらず人影は無く、響くのは波と花火と自分達の声だけ。
「私の目的は軽く話はしたな。冥界のブルジョワ共を叩き潰し、プロレタリアの自由を得る事だが……冥界に属する総てを敵だとは思っていない」
静かに花火を眺めている檀に語りかけたのは冴子。
「春から随分経つ。まだ、悩んでいるか」
冴子の真剣な蒼色の瞳。檀は逸らせないで見つめ返して。
「そう、簡単に答えは出るものではありませんよ」
檀は瞳を伏せる。ずっと思い悩んできた問題は余りにも難しくて。
「大切な人の幸せを願う。決して、私は誰かを傷付けたいわけじゃなかった」
ただ、それだけなのに。
それだけ、だったのに。
「……どうして」
世界は難しかったのだろう。
運命は残酷だったんだろう。
「不思議だね。誰かを思うことで心が袋小路に陥っているなんて」
レイの優しい声。振り向くと、彼の穏やかな瞳が受け止めるように自分を真っ直ぐに見つめていた。
「少しだけ、深呼吸をして頭を空っぽにしてごらん」
どれだけ深く相手を思っていても、幸せを決められるのは本人だけだと気付けるはず。
「私達が出来るのはただそれを見守り、障害を取り除くこと……未だ夜は長い。じっくり話して、考えていこうじゃないか」
「けれど……」
「遠慮は無用。残念ながら、あたし達はそれなりに……ううん、だーいぶお人好しなんだよ。それに、あたしも個人的に不思議に思ってたことあったからさー」
だから、話してこようよ。レイに続くようにファラは言う。少しだけ表情が和らいだ檀の姿。冴子は再び語りかける。
「そもそも、どうしてそんな事情になったのだ。原因がわかれば対応策もまたあるのかもしれないが……」
「あの、続き……」
「何だ?」
冴子の問いかけに、少し迷った檀はぼそりと呟く。僅かに冴子は眉をあげた。
「楓は、病院でそのまま死んだわけでも、ヴァニタスになったわけでもない。一度、目覚めたんです」
零れるように語り出す檀。春に語った時よりも重い表情。
「じゃァ……アイツと話したのか?」
「いいえ」
マクシミオに檀が返したのは自嘲の笑み。
「私は、逢えなかったんですよ。顔をあわす資格もない」
居場所も、愛していた女性も、全て奪ってしまったのに。
「愚かですよね。もし、ちゃんと楓と向き合えていたのならば……あんなことにはならなかったかもしれないのに」
「あンなこと?」
檀は瞳を閉じて、絞り出すように呟く。
「楓は、その手で人を殺めたのです……兄弟子だった人を」
愕然と見開かれた紅い瞳と、鼻をつく鉄の香り。厭な程に記憶に焼き付いている。
「私は逃げるように稽古に打ち込むようになりました。演じていれば、何も考えないでいられましたから」
目覚めないままの梓を見舞った病院から家に戻れば、直ぐに着替えて稽古場に入った。
食事を取らなければ周囲に迷惑をかけてしまうから食べた。けれど、直ぐに吐いた。
布団に入って寝ることなんて忘れていた。力尽き倒れ込むように稽古場で眠りに落ちて、すぐにうなされ飛び起きてしまう。
「壊したかったんだ。私は、私を。それが心地良かった」
情けない自分に似付かわしい末路だと思った。
そんなことで償えるはずもないのに。
結局、まともに寝食を取らなければ過労で倒れるのは当たり前。強制的に入院させられた病院は皮肉にも2人と同じ場所。
「梓を見舞い、自分の病室に戻ろうとして、私は……」
偶然にも見てしまった。
寒々しさを感じる程に無機質な白と、突き刺すような赤。二色の世界。
血溜まりの中で斃れ臥す兄弟子の姿と、返り血に濡れた弟の姿と――微笑む悪魔の姿。
自分は何も言えなかった。弟が逃げ出して我に返った。
慌てて追い掛けた。しかし。
「私は途中で崖から落ち、動けなくなって……気付けば、天使が蹲る私をじっと眺めていました」
――哀れやなぁ、ニンゲン。高いとこから落ちた程度で動けんくなるなんてねぇ。ほんま、弱くて呆れるわ。
世間知らずの自分でも、天使が何をしているのかは解る。
「天使だったら、私を殺すのだろう。感情を吸い尽くして、異形に変えて……でも、それならいい」
楓も梓も手の届かない場所へ行ってしまった。自分を置いて。自分だけが取り残されて。守るものも無くなったこんな世界にもう未練はない。
「でも、その時シュトラッサーのことを思い出したんです。もしかしたら、その力があれば私にも弟を救うことが出来るかもしれない」
だから、自分は賭けに出た。経緯を話してどうか、自分に力を与えて欲しいと懇願した。
蹲る無力な脆い存在を気に入る天使などあるのだろうか。
そんな分の悪い賭け――破れれば、代償は自分の命。
――ええよ。その願い、うちが叶えたる。
けれど、権天使ジャスミンドールは無力な自分を使徒にした。
それは、ただの気紛れだったのかもしれない。
「その少女が、檀君の主人ってことね」
抗の言葉に頷く檀。空を仰げば、変わらず花火は乱れ咲いている。
「ジャスミン様には、感謝しています。例え気紛れに与えられた力でも私は、この力が無ければ舞台に立つことは出来なかった」
力と一緒に埋め込まれた茉莉花の枷。
「私の願いを叶えてくれました。だから、私も彼女の願いを叶えなければならないと思うのです」
彼女の願いは奪われた天界の地位と居場所を取り返すこと。
5年もの間ずっと傍にいた自分は、彼女がそれらをどれほど大切に思っているかを知っている。だから。
例え、人と対立してしまうことになっても。胸が痛んでも、それが力の代償。
感情を奪われていた方がどれだけ楽になれるのか。詮無いことは何度も考えて。呆れて。
「けど、それって、道具と何も変わらないではないですか……」
「そうかもしれませんね……でも、それでいいのです」
朔夜の言葉に檀が浮かべたのは諦めの笑み。
「自分を愛せない奴が誰を愛せる? 救える? 幸せに出来る? 寝言は寝て言えよ」
しかし、彼の諦めた表情に腹を立てたのは堕天使の叫び声。
ロドルフォは檀の胸元を掴む。
「自分ってのはな、もっとも近しいニンゲンなんだよ! それすら大切にできなくて、他人の幸せを守るなんて無理だ!」
「……止めれ、ロド。イイ加減にテメェも言い過ぎだ」
見かねたマクシミオが、彼の肩を掴み諫める。ロドルフォは檀を離し深く息を吸う。
堕天使の言葉は余りにも真っ直ぐすぎて。
(俺には、辛すぎる……)
本当に止めて欲しかったのはマクシミオ自身。そうして、生き写しのような白い使徒にも――この言葉は、刺さっているのだろうか。
天花が夜空に咲いて、散った。
「…じゃあ、どうしろって言うんですか……」
檀の声は震えていた。
考えて、考えて、考え続けて。何度も心が潰れそうな程に思い悩んで。
「全て、私のせいなのに!」
継嗣だから大切に扱われたのは形だけ。弟を酷く扱うのは止めて欲しいと嘆願した手も振り払われた。
子どもの、余りにも小さな手では八塚を変えるだなんて出来なくて。
もっと力があれば、守れるのに。
無力さに嘆いた幼い自分が選んだのは、自分で全て背負い込むこと。苦しくはなかった。辛くはなかった。
「だから、当然のことでしょう。私が居なきゃ、楓も辛い思いは――」
「勝手に救われた方の気持ちも考えろよ! 自分が大切にしたい奴が君の為だなんて言って次々と自分の幸せを犠牲にしてく」
ロドルフォは瞳を閉じて、吐き出すように呟く。
「……悪夢、だろ。ちょっとだけ楓に同情するぜ」
「きっと、檀さんが自分を犠牲にして楓さんを救ったとしても……ううん、これは逃げているだけです。死ぬことで全て終わりにしようとしているだけなんだと思います」
朔夜は優しく諭すように口を開く。
「梓さんだって、未だ生きているんでしょう? もし、目覚めた時に命を賭けて守った大切な人が自ら命を投げ打ったと知ったら……私だったら、自分を責めたり、憎んだりしてしまうかもしれません」
「別に、私達は君を責めているわけではないんだ。君は双子の兄として、弟を精一杯愛している。その気持ちや姿は尊いとさえ思うよ」
朔夜に続いたレイも。
「使徒が生きたまま別のものに変じるのと違い、ヴァニタスは死んだ後に生み出される言わば思考する傀儡。終わらせる為にもう一度殺そうと、そう思い詰めるのも無理は無いんだけど……」
レイは一拍おいて。
「自分が、と思い詰めるのは……言い方が悪くなるけど、それは全く正しくないよ。人としても、理としても」
「けれど……」
レイは俯く檀の肩に優しく手をおいた。
「弟を愛している。大切に思っている。だけれど、このことは貴方の負うべきものでは無いはずだと思うのだけどね」
だから。顔を上げた檀の瞳にレイの暖かな瞳が映る。
「檀さんはそろそろ、お兄さんの面を取ってもいいんじゃないかな?」
兄としての責任感だとか、後継者としての重責だとか、護れなかった自責とか。
そんなものは脱ぎ捨てて。抗は目を細め囁く。
「そうだね。言葉なんて君の心でしか作れない。その兄で居ようって気持ちは邪魔になると思うけど?」
「多少傷付けあったっていいじゃねえか。ぶつかりあって、話しあって……家族って、そういうもんだろ?」
堕天使は自らの衣装を握りしめていた。蛍が舞い飛ぶ夜空の柄。とあるはぐれ悪魔の友人から借りたもの。
ロドルフォが初めて檀に会った日。思い出したのは人としての生を望み自ら死を選んだヴァニタスの少女の姿だった。
美しい死を知っているからこそ、それを捨てた使徒には、どうしようもない憤りを感じた。けれど今は、その真意を知って何とかしてやりたいと願っている。
だから、このまま何も伝えないまま終わってしまうのはいけない。
「……変われる。生きてるってのはそういうことだ」
死んでからでは遅すぎる。亡き少女を想い続けるはぐれ悪魔の悔恨は余りにも痛すぎた。
「そうであるなぁ……拙者がはぐれたのは人の世や文化が美しいからと思っただけではござらん」
エイネはあの日のことを回想する。あの猛将を退けた人の力。
ゲートの力なんか無くたって、人間はずっと強くて、気高くて。
「団結の力は何よりも強い。檀殿も手を取る間柄。拙者達でよければ力になろう」
「ええ、檀さんはもう一人で悩む必要はないんです」
受け入れるように笑うエイネと朔夜の表情に。
「僕は……」
気付けば、世界は滲んでいた。
違う。どうしようもない程に強く、人間らしい胸をこみ上げてくる何か。使徒になってから忘れていた感覚。
あの父を殴った瞬間から凍り付いていた心を解かすような暖かな雫は頬を伝い、冷たい砂浜に不格好な模様を作っていった。
「悩んで迷って苦しんで。それを口に出せて、聞いてくれる奴がいるだけ、あんたは幸せだ」
マクシミオの言葉は、全くその通りで。自分には勿体なさ過ぎる。
「あとさ、これは僕個人の考えなんだけど、道があると思うから選択肢が減るんじゃない?」
抗の言葉に数人が首を傾げる。
「その気になれば僕等は屋根の上でも、人の家の庭先でも、どこへでも行ける訳で、まずは君が行きたい場所から絞ってみたらどう?」
「檀たんはさ、ただ終わらせることが目的じゃないんだよね?」
ファラの言葉に声は出せないまま、檀は頷く。
「あたしなりに本当の幸せ、考えてみたんだ。でね、今楓たんを殺したってきっと救われないとも思った」
憎む、恨む、殺す。そんなことを言いながらも、楓は兄からただ逃げているだけで。
「だって、本当に絶望し恨んだ相手は檀たんじゃないと思うよ? きっと、今も愛してるんだと思う」
妄想にしか過ぎないけれど、きっと間違ってはいないだろう。
「幸せっていうのは長く存在することじゃない。存在している間にいかに生きていてよかったって思えるかどうかじゃないのかな?」
檀は黙したまま。しかし、ファラの言葉は確かに彼の心に響いているのだろう。
「今の楓たんに、それがあるの? あると思えるの?」
それは、違うよね。
「救いたいって気持ちが単に終わらせたいっていうのじゃなかったら、他にするべきことがあるんじゃないのかな?」
「する、べきこと……?」
「おじいちゃんが言ってた。楓たんの孤独は楓たんを愛しちゃった人達がなんとかしてくれるって……でもシマイがいちゃ解放されない。魂は束縛されたままだって」
老紳士の言葉を、決意を思い出す。
「だからおじいちゃん。命を賭してでもシマイを殺すって。自由な中で愛され必要とされていることを感じ取って欲しいって」
「そうだね。解放された彼が何を選ぶのかは分からない。けれど、彼だって変わってきてるはずだよ。今なら、破滅や殺戮以外のものを選ぶと思うから」
レイの言葉に背を押されるようにファラは真っ直ぐに檀の瞳を眺めて。
「なら、まず、殺す相手は別にいるよね?」
ファラの言葉に僅かに驚いたような表情を浮かべ、頷く。
今度こそ、本当の自由と幸いを。
「……その為に、使徒になったのだから」
檀の周囲を漂う光球。与えられた力を見やる瞳にもう、迷いはなく。
「さて、白銀君が言う“行きたい場所”とやらが定まったか」
周囲を一瞥した冴子は口元を緩め、檀の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「――ならば、改めて問おう。君はどうしたい?」
いつだって、願うのはただひとつ。
それは、哀しいことじゃなくて。
「僕は、楓を幸せにしたい」
心の底から、生まれてきてよかったと想える。
願わくば、そんな優しく暖かな世界を。
※※※
「あ、ちょっと待ってよ」
帰り際呼び止められて立ち止まった檀に抗はデジタルカメラを手渡した。
「それお土産ね。今日は来てないんでしょ、彼女」
デジタルカメラの中に入っているのは花火の映像。
単純にこれを見られないのは勿体無いからと思った真意と、あとは、擦れ違っているような天使と使徒へのちょっとしたお節介。
「あー、それとさ人間の世界には『百聞は一見にしかず』って言葉があるんだよってこと、彼女に伝えてよ。意味は檀君、知ってるよね?」
「ところで諸君ら、どうだったか。学園内にシュトラッサーやヴァニタスは居たか?」
抗に頷き立ち去ろうとする使徒に冴子は呼びかけるでもなく、周囲に言葉を投げかける。
「ああ、ヤツらか――ふふ、お気に入りの配下ごと学園に身を寄せるとはな。面白い話だ」
「配下を?」
「何にせよ、異界での地位の芳しくなくなった天使や悪魔に取ってはこちらの方が過ごしやすいかもしれないな、私も含めて」
檀は冴子の言葉の真意に気付けていないようだった。当然、予測していた冴子はフッと笑う。
「解らないのならばゆっくり考えればいい。私達はいつでも相談に乗ろう」
●予兆
「へぇ、これがはなび、なんねぇ」
デジタルカメラの画面を眺めながら、気怠げにジャスミンドールは呟く。
「綺麗やけどすぐ散ってしまうんは、好かんなぁ」
「前も仰っていましたね、ジャスミン様は」
「綺麗なものは永遠に手元に置いときたい、そう思うのは普通やろ?」
当たり前のように言う天使に檀は言葉を選びながら口を開く。
「花火、その場の雰囲気もあわせて美しいと感じるのですよ。やはりジャスミン様も見にいかれては……」
「今はええ。そのうちきっと機会はあるんやからなぁ……なぁ、檀」
「何でしょうか?」
「ずっと一緒に居てな」
天使は笑う。
その作り物めいた笑みの向こうに秘められた想いや真意に気付けないまま。
――夏が終わる。