●空が散る
青空。哀しい程に澄んだ別れの空。
例年より早く咲いた桜は盛りを過ぎて、ゆるやかに命を散らしていく。
「タロウくんもおうちに帰りたかったでしょうね……」
叶わぬ願い。最早どうすることも出来ない運命に駿河紗雪(
ja7147)の呟きは空の青に静かに溶ける。
「理不尽に奪われた物を、そんな筈はないと信じたい気持ちにかける言葉は難しい、けど……」
だからといってこの問題を避けては久遠ヶ原学園に来た意味がない――氷野宮 終夜(
jb4748)は想う。
ナミとタロウも天魔の争いに巻き込まれ理不尽に当たり前の日常を奪われた。終わってしまった日々。
ディアボロと化した以上心を取り戻すことはもう無理だろう。撃退士達は理解している。
嫌という程にその意味を理解しているし、撃退して受け入れることも出来るだろう。だけれど。
「けれど、そうして前と同じように笑える人はどれだけいるのかな」
そして、どれだけの時間がかかるだろう。どれだけ泣けば、傷付けばその日は訪れるのだろうか。
優しくも残酷な時の流れ。それは僅か11歳の少女には辛くて重すぎる運命だった。
「別れは辛いですけど……その現実を受け入れてもらわないと……」
「そうね……」
ぽつりと。今にも泣き出しそうな表情を浮かべた冬樹 巽(
ja8798)の声に瑠璃堂 藍(
ja0632)の声が重なる。
信じるだけではどうにもならない。顔を上げた終夜は決意を込めてインターフォンに手を伸ばす。
はい、と応じる声とともに玄関の扉が開かれて現れたのはエプロンを着た女性、恐らくナミの母親だ。
彼女は8人の姿を見て、すぐに察したのか頭を下げる。
倣うように撃退士達も頭を下げ、挨拶を済ませてこう切り出す。
「僕達はナミさんに……タロウの埋葬に立ち合って欲しいと思っています……」
「け、けれどタロウはディアボロですよ。変わり果てたその姿を……死体を見て、ナミが傷付いたら……」
巽の言葉に母親として当然の心配。終夜も無闇に死に立ち合わせることに不安を感じていた。
続くように口を開いたのは天宮 佳槻(
jb1989)。
「ナミさんの中ではタロウは生き続けています、今も終わっていないんです。……もう既に死んでいるのに。なら、それを終わらせるのはいつでしょうか?」
そう、このままでは終わらないのだ。終わりたくても終わることを許されず、時の流れの中で藻掻き苦しむだけ。
時は忘れさせてくれると言うけれど、また同様に痛めつけるのも其れなのだ。
「だから僕達はナミさんにさようならと言う機会を作りたいと……そして、作れるとしたら今回が最初で最後のチャンスなんです」
佳槻の説得に暫く悩んだ後に母親は頷く。
どうなるか分からない、心配。だけれど娘は弱くないと信じたから。
埋葬の立ち会いが認められたところで藍も母親に交渉を持ちかける。
「タロウに思い出してもらえるかと思って……」
勿論希望的観測に過ぎない。くだらない感傷なのも。タロウは悪魔に命を吸い取られた傀儡だ。
けれど、せめて最期は絆に、幸せだった想い出の中で命を還したい――その意図を汲んだのか頷いて取りに戻った母親と入れ替わるようにナミが姿を現す。
「ねぇ、撃退士さんならタロウを戻してくれる?」
撃退士と言えば天魔のスペシャリストだ。彼らならなんとかしてくれるはずとナミは一縷の望みに縋るようにただ必死に訴えかける。
けれど、その儚い希望を打ち砕いたのは佳槻。
「タロウがナミと一緒に帰ろうとしなかったのは自分が元のタロウに戻れないことを知っていたからです」
自分達も出来るだけのことをするが倒さなければならない。ディアボロと化すその本当の意味が分かっていると掛けた想いからの言葉。
解ってはいる。解ってはいた。けれど理解することと受け入れることは似ているようで別のことで、みるみる溢れるのは大粒の涙。
声こそにならないそれは、拒絶だった。
「別れは辛いです……けれど、受け入れて。タロウを……見送ってあげませんか……?」
大切なものを失う辛さ。亡くすことの悲しみを彼は識っている。痛みを知っているからこそ、優しくなれるように。
肩を震わし俯くナミに桜木 真里(
ja5827)は訊ねる。
「…本当に見送らなくて大丈夫なのかな。後悔しない?」
それにタロウだって笑ったナミさんの方が好きなはずですよ、と。
紗雪は両膝をつき見上げるように手を伸ばしハンカチでその涙を拭う。ナミは静かに応え、頷いた。
●春風は別れを連れて
洋館での捜索の末に一同がタロウを見つけたのは屋根裏部屋だった。
一番見つけ難いであろう場所。彼が此処に居たのはせめてもの想いなのか、それとも単に偶然なのか。
どちらにせよ、彼はもう救えない、撃退士達は頷き合い足を踏み入れる。
ギィと軋む床の音。ピクリと応えるように中に居たディアボロはその牙で佳槻へと襲い掛かる。
咄嗟に前へと踊り出た終夜が佳槻を庇いディアボロの攻撃を盾で受け止めた。
「これが……」
ディアボロ。魂を、絆を奪い取られた者の末路。
すかさず真里の呼び出した無数の影の手がタロウを絡め取り動きを止める。
グルルルルと低いうなり声をあげるディアボロ――タロウ。
落ち葉色の毛並みは宵闇のように染まり、鋭い爪と牙を禍々しい気配を覗かせて。
生を。生きている者を恨むようにも瞳に昏い色を湛え、睨み付けている。
藍の握るフリスビー。深淵へと堕ちた彼にはその言葉も想いも届かない。届け、られない。
けれど迷ってはいられない。藍は強く前を向く。
もう届かないけれど、偽りの生が救いなのだと、そう信じ佳槻の放つ炸裂符を追うように黒色の焔を纏った影手裏剣を放った。
それらは胴に命中し小さく弾けると、タロウの偽りの生を削り落とす。悲鳴が暗い部屋にこだまする。
首輪や顔をなるべく傷つけないようにと決めておいた狙い通りに攻撃を当てることが出来た。
反撃とばかりにタロウは絡みつく影の手を振り解き、駆け出す。
勢いのままに鋭い牙が藍を襲い掛かるが、素早く巽が小さな癒しの光を送り込みその傷を治した。
「一時でも早く、悪魔の鎖から解放を……」
辛かったですよね、寂しかったですよね――それら全てを、もう終わりにしましょう。
「タロウ、帰りましょう。 大切なナミさんのもとへ」
紗雪の手から一条の光が放たれ風となり。
ひらり。
またひとつの花が、散った。
●はじまりの風は夢の続きへと
撃退士達がタロウを連れて坂上家に戻ると母親とナミが庭で出迎えた。
「タロウ!」
ナミは両腕で抱えていた段ボールを落とし、駆け寄る。けれど。
「タロウ……」
其処には変わり果て息絶えた親友の姿。母親も痛ましい2人の姿を見て、俯く。
覚悟はしていたけれど、耐えがたい現実。
「ごめん、ごめんね……っ タロウっ」
私が悪いの。タロウに抱きつくように泣き崩れるナミに近づいたのは紗雪。
そっとリードを握っていたナミの手を包み込むように握り、静かに、優しく語りかける。
「痛いですね。まだ、痛みますか?」
体のではない、心の傷はまだ。
「痛ければ、痛いと……辛ければ辛いと言っても良いのですよ、貴女1人が小さな胸に痛みを抱えることはないのです」
忘れなくても良い。まだ駄目だと思うなら無理に踏み出さなくても進まなくても良い。
「時は酷です。その時がくればおのずと進まなくてはいけなくなる……その時まで十分に浸っていても良いのですよ」
まるでひだまりのように優しい声と、ぬくもり。
紗雪は握られた手をそっと放す。
ナミの手には小さな犬のマスコットが握られていて、赤い目のまま顔を上げるとプレゼントですと、にこりと微笑む紗雪の姿。
「そして浸るのは幸せな楽しい記憶に、ですよ? タロウくんはナミさんにそれを沢山残してくれたはずです……それがタロウくんからの贈り物だと私は思います。大好きなナミさんへの想いの証です」
何処かタロウに似た面差しのマスコットを愛おしそうに胸に抱いて、泣く。
「貴女がリードを離したことに何の責任もない」
本来ならば、そんなこと一つで命を失わせたと責められるような謂れはない……天魔の侵攻こそが原因なのだから。
終夜の言葉。
天魔を憎めというわけではなく、ただ、奪われる理不尽を忘れないでほしい、と。それを許さない気持ちも――それは、受け入れてはいけないと。
ナミと視線を合わせるように屈んだ真里も続くように語りかける。
「それに、よく懐いていたタロウがリードを離したくらいで君の傍を離れたりするのかな」
「えっ……」
確かに彼の言う通りタロウは自分が何処にいても見つけてくれて、傍に居てくれた。
「きっと君を守る為に離れたんじゃないかなって俺は思うんだ」
まだ幼かった頃、家族でキャンプへ出かけた時にナミが川に落ちそうになっていたのをいち早く気づき助け出したのはタロウだった。そのお陰でナミにはかすり傷ひとつ無く。
そうやって、ずっと守られてきた。とても賢く利口で従順なタロウだったから。
あの混乱状態の中、気づくことはなかったけれど、確かにその言葉の通りで。
溢れる涙のまま、頷く。
「タロウは……とても賢い子だったから、その通りだと思います。けれどバカ、ですよ。大バカです。ただ、傍に居てほしかっただけなのに……っ」
「……本当に、これで終わりなのかしら?」
藍の呟きに真里は言葉を続ける。
「動物の医者になるのが夢だって聞いたよ」
「け、けど……タロウが居なきゃ意味無いよ……だって、タロウに長生きして欲しくて……だから」
ううん、と首を振る真里。
「俺達は君の友達を助けられなかったけど、大きくなった君はきっとたくさんの動物を助けるよ」
この桜は何度も散るけれど、夏の太陽が葉をまた赤く染めてはじまりの白へと舞い戻り、また花を咲かせる時がまた来る。
残酷な時は流れ、無情に季節は巡り、ただひたすら繰り返して、ナミはひとり大人になる。大人になる時が来てしまう。
道標無き少女には、夢という希望を。
「その中にはもしかしたらタロウの生まれ変わりもいるかもしれないね」
ただ、未来に向けて。
「だからどうか夢を諦めないで欲しい」
今度はタロウに待って貰うんじゃない。
また会える時を信じて、ナミが待つ番なのだと。
「そして忘れないでください……タロウは…ナミさんを愛していたのではないでしょうか…?」
きっとこれからも心の中に居ます。
だから、タロウのためにも、獣医になるという夢を叶えてくださいね……。
「ありがとう、ございます……!」
巽の精一杯の言葉も、確かにその頬を伝う涙も春風に運ばれ消えてゆく。
その傍ら、母親に首輪を差し出す佳槻は。
「それにナミさんには、まだあなたが居ます……生きて、ナミさんの傍に居て下さい。……夢叶えるその時まで見守ってあげてください」
母親は顔を両手で顔を覆い、頷く。泣き顔は母娘そっくりで。
きっと、これなら大丈夫だろう。
タロウの墓には山桜の苗木が植えられた。その花が持つ言葉は『あなたに微笑む』。
何よりも一緒に笑い合う時が楽しかったから、ナミは泣きながらも確かに笑顔で告げる。
――大好きだよ。またね。
これは大切なきみに捧ぐ、別れの曲。大好きな君に送る最期の祈り。
桜が舞っていた。別れを惜しむように、未来への希望を紡ぐように。
また咲く時を信じて、時は進んでいく。