時が止まったように空は美しく、残酷な程に澄んでいた。
「八塚君」
「貴女方は……どうして、此処に?」
赤糸 冴子(
jb3809)の呼び止める声。蒼穹を慰めるように舞い揺らぐ桜の中、目を細めて見上げていた檀は振り返り、その姿に驚く。
「八塚君。我々の仕事まで片付けてくれたらしいな、感謝するよ」
「いえ」
「桜見とったんか? 綺麗に色づいとるね。ほんま良い天気やと思うんよ」
自分はすべきことをしたまで。俯く檀に顔を上げろとでも言うように浅茅 いばら(
jb8764)は笑いかける。同じように頷き微笑んだのは月隠 朔夜(
jb1520)。
「良いこと思い付きました。折角のこの陽気と綺麗な桜です。お花見、しませんか? 檀さん」
「ですが…」
「まぁ、別にあんたが居たって居なくたって別にいいっすけど、あんたが居たって別に減るもんじゃないと思うっすから」
朔夜の誘いに戸惑う檀は視線を逸らす。平賀 クロム(
jb6178)が顔を背けて少し不機嫌そうに言っていた。
「それに、私は君と話がしたい。気持ちは彼らも同じようだしな」
薄く笑った冴子が軽く顔で後方をさした。
「あー、最高級のワイン持ってきたんだがもう開けちまったからな。香りが飛ぶ前に飲んでくれると助かるんだがな」
「私もだ。辛口が好みなのだが、甘口の酒が安売りしていて、つい多めに買ってしまってな」
ロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)とアンジェラ・アップルトン(
ja9940)がそれぞれ手に持った酒を指して言う。わざとらしさを滲ませる言葉、
「皆さんさえ大丈夫なら構わないのですが、酒は……正直、違いが解らなくて」
アンジェラの酒と、ロドルフォのワイン。至って真面目に見比べて、きょとりと首を傾げる檀。
「もしかして酒を飲んだことないのか…?」
「いえ、飲んだことはあるはず、なのですが」
「はず、ですか?」
含みのある檀の言い方に首を傾げる朔夜。檀は凄く言いづらそうに言葉を選び、口を開く。
「その、酒に弱く酒癖も悪かったみたいで。しかも、酔っ払っている間のことを全く覚えて居らず…」
悪気はないだけに翌朝楓が疲れた眼差しでこちらを
「記憶に、ないのです……けれど、もう酔えないですから関係ありませんね。酒は、どんな味がするのでしょうか」
「以前も言ったが、こういうことは気分が大切だからな。八塚君」
冴子はそう告げると場所を移そうかと檀を促した。
●
雨のように降りしきる花は、川に斑模様を作っていた。
手作りのお弁当に、封の開けられたスナック菓子。紙コップの中で揺れるのは、烏龍茶やコーラ、酒。皆が少しずつ持ち寄った品々が花見に色を添えている。
「まぁ色気はないが、こういった趣向も面白いな」
桜からワインへ視線を落とす冴子。その傍らでアンジェラは腰掛けながら口を開く。
「紹介が遅れたな。私はアンジェラ。君のことは報告書や話で知っている。よろしく頼むよ」
「うちは、いばら云うねん。けど、あんたには羅生門云うた方がええか?」
いばらは袖を捲る。見えた腕には刀で斬られたような一直線に伸びた疵痕があった。其れは謡曲を思わせる傷。羅生門の名は馴染みあるもの、檀は頷き少し首を傾げた。
「出来れば名前で呼ばせて頂けませんか?」
「別に構わんよ。そうしたい云うんならすればええわ」
檀に対し、いばらはさして気にする様子もなく答える。名前で呼びたいと拘るのは――。
(…双子、やからかな。それに古い家なら苦労もあったろうし)
いばらの視線の先には、変わらず伏せがちな視線の檀。朔夜は思わず呆れ笑い。
「もう、折角美しく咲いているのですよ。楽しまなきゃ損じゃないですか。そんな仏頂面じゃ、桜も翳ってしまいますよ」
「ああ……すみません、折角用意して頂いたお酒が不味くなってしまいますよね」
「気にすんなっつーの。ってか、謝るのはこっちだ」
指摘された檀は困ったように微笑んだ。名乗ったロドルフォは檀に紙コップを手渡しながら、軽く頭を下げる。
脳裏を過ぎるのは金木犀が咲き乱れていた秋の日のこと。ロドルフォの糾弾に使徒があげたのは余りに悲鳴のような声と、力。
「……あんたの事情も知らずに責め立てるような真似して悪かった」
「いえ、こちらこそすみませんでした。けれど、いいのです。貴方は何も間違ったことは言っていないですし、私が人の身を捨て力を求めたのは事実ですから」
だから、そんな人類の裏切り者に謝る必要は無い。投げかけるべきは情けの言葉ではなく、糾弾の剣であるべきなのに。
想い耽る檀を眺めるクロムの視線も、幾ばくか事情を知っているだけに複雑で柔らかいものには変わっていた。
「我々は率直に、君の上の意見を聞きたい」
「停戦や共闘に関しては構わない、ということです」
冴子に答える檀。クロムは檀から視線を逸らし、呟く。
「まぁ…俺の個人的な感情で言えば、そりゃ共闘は不本意っすけども…まぁ、合理的ではあるっすね。しかし、それだけでは無いっすよね」
「ええ。主としてはこの種子島を譲る気は無い。飽くまでもジャスミン様の目的は固いようです」
「だろうな。この島に何らかの目的があるのなら、共に冥魔を殲滅してハイおしまいとはいくまい」
以前も出た共闘に関する答え。サラリと言葉を返した冴子はまるで予測していたかのようだった。
「三つ巴を早々に解消するのがお互いにとって有利なのは変わるまい。倒せばその後の事はまたその時だ」
冴子に檀は何も返せないでいる。続くようにロドルフォが。
「しかし、天使だって人間を知らねぇ。そのせいで主が罪を犯そうとしているのなら止めてやるのも必要なんじゃねえか?」
「ですが…言葉だけではどうしようもないこともあります。私にも、それは解りますから」
ロドルフォに檀は俯いた。憂いに混じるのは悲痛の色。
「……やっぱりな。あの時、あんたの方が痛そうな顔してて、ずっと気にかかってたんだ」
「え…」
「今もずっと痛そうな顔してる。罪滅ぼしって訳じゃ無いが、あんたの力になりたい」
自分は傷付いてなど居ない。首を横に振ろうとする檀を制すように、ロドルフォは続けざまに言葉を浴びせる。
「自分の為に力を欲したわけじゃないんだろ? あんたは子どもを助けようとしていたと報告書で読んだ」
だから、その優しい心がこれ以上傷付くことのないように。
「…出来れば、あんたの目的じゃなくて。あんたの、本当の望みを叶える手助けもしたいけどな」
「私の、本当の…望み?」
ロドルフォの言葉がよく解らない。だって、自分の望みは唯、楓を救うことだけで。アンジェラは呟く。
「以前、楓とあった時。仲間が言っていたのだ『あなたの憎しみは他者によって作られたものではないか』と」
その言葉を聞いたとき、楓の目が見開かれたことを、鮮明に思い出せる。
「殺すことでしか彼を救えないと思っているのであれば…其れは、誰かに思考を歪められているのではないか? 貴殿も…楓のように」
本当に、その道でしか救うことは出来ないのか。改めてそう訊ねる彼女に檀はなんと言葉を返せばいいのか解らなかった。
「私もとある双子の片割れ。こうも双子の絆が歪められてしまったことが…悔しいのだ。何が起こったのか知りたかったのだが、楓は貴殿に聞けと教えてはくれなかったのだ」
「教えてもらえないっすか、過去に何があったのか」
クロムとアンジェラの声に、檀は少し考えてから。
「…いいでしょう。楓が私に訊ねろと言ったのならば。つまらない過去話になりますが」
口を開こうとした檀の耳を擽ったのは川辺に腰掛けたいばらが奏でる龍笛の音色だった。立ち込めるように響く鋭くも優しい音の連なり。
「これは、銀河鉄道の…?」
「…ああ、懐かしいですね」
其れは記憶に焼き付けられた想い出の旋律。朔夜の呟きに頷きながら檀は目を細め耳を澄ました。
――僕は本当に皆の幸いの為ならば、あの蠍のように百ぺん体を灼いても構わない。
「この台詞が好きでした。蠍も少年もとても気高くて、強くて――そして、私もそうありたいと願いました」
幼馴染みの梓がくれた絵本の一節。星空のように自由を求めたこともあったけれど、逃れられぬ運命が許すはずもなく。だから。
「私は八塚の為じゃない。楓と梓の為に家を背負う。夢を諦めるのではない、二人に夢を託すのだと……そう思えば、逃れられない運命も辛くはありませんでした」
そうして、ずっと自分に言い聞かせてきた。自分は報われなくてもいい。井戸に落ちた蠍のように、身を燃やし、己を犠牲にして――八塚という枷が楓を蝕むことの無いように。
そうして、ずっと自分に言い聞かせているうちに、本当の笑い方を忘れて八塚の継嗣としての面も取れなくなってしまったけれど――それでよかった。
でも、自分達に本当の自由と幸いを教えようとしてくれた幼馴染みの七条 梓。
「梓だけは、私達に分け隔てなく接しました」
まるで兄妹…いや姉弟だろうか。幼い頃から自分たち以外で唯一親しく接した相手。
梓は喧嘩をすれば平等に叱り、楓を庇い大人を怒鳴り付けることもあった。
「いつだって彼女は、私たちを個として見ていました」
特に楓にとってみれば、この事がどれほど救いになったかわからない。
だから楓は。
梓を。
弟の秘めた想いに気付き、微笑ましく見守っていた。少し痛んだ胸も人を好きになれる楓を羨んでいるものだと自分に結論付けて、人知れず苦笑いしたりして。
あれは、大学卒業も目前に迫った冬の日のこと。撃退士が討ち漏らした化け物は偶然近くを歩いていた自分達に襲い掛かってきた。
「しかし、梓が庇ったのは楓ではなく……よりにもよって、私でした」
直ぐに追い掛けてきた撃退士に天魔は倒されて、病院に運ばれた楓と梓。彼らが生死の境目を彷徨う病院のロビー。俯く檀に父が投げかけたのは『楓でよかった』という余りに残酷な言葉で。
初めて、自分は人を殴った。初めて父に抗った。鈍く伝わる痛み、怒りなのか哀しみなのか、言葉に出来ない激痛に泣いたのはその時が最後だった。
「ですが…あの時楓を貫いた痛みは、私が感じたものの比では無かったでしょう」
たった一人に選んでもらえるなら、それでよかったのに。
あの日彼処を歩いていたことも、
討ち漏らした天魔が襲い掛かってきたことも、
そして、双子として生まれてしまった運命さえも――
「全てはただ、不幸な偶然です」
けれど同じ日に生まれ、同じ姿をした双子。生まれた時間が少し違ったというだけで定められた運命。
何も欲しくなんてなかった。何も要らない。地位なんて、愛情なんて、全部望んじゃいなかった。
「その梓殿は、今どうしているんだ……?」
「解りません。使徒になってから、一度も故郷に戻って居ませんから」
生きているとは思いますが。アンジェラの問いに苦々しく頷く檀は、拳を握りしめ俯く。
「……私が死ねばよかったんだ」
低くこだまする心の悲鳴。ずっと後悔し続けた。吐き出されることもなく、檀の中で澱み続けた後悔という名の苦い感情。
自分が庇って死んでいたなら、きっと今でもふたりは仲良く暮らせていたのでは? つまらない程に平穏で、眠たくなる程に愛おしかった日常も続いてた? 握りしめた手に力が籠もる。爪が深く食い込んで鋭い痛みが走るのも、もう慣れた。
「檀さんが死んで解決になるだなんて思いません」
それに、朔夜は檀の瞳を見据える。
「その時、檀さんがお二人を庇ったとしても楓さんも梓さんも幸せになれたんでしょうか? 今の檀さんのように、自らを責め続けるだけだったのでは無いでしょうか」
「それでも…」
自分さえ居なければ。存在そのものを呪って、堰を切った想いの奔流は留まることを知らずに心を掻き乱し続ける。
「なあ、あんた。銀河鉄道の夜の第三稿は知っとる?」
いばらの問いかけに檀は首を振る。そうか、と頷いたいばらは謳うように言葉を紡いだ。
「己の信じるものを失くさず進むこと」
そして、大切な人の為――皆の為に。
「本当の幸いを探すこと。あんたが本当にすべきは……そうだったんちゃうかな」
蠍のように身を焦がし皆の幸いを願う、自己犠牲。
「それは、本当の幸やろか?」
「ですが、本当の幸いって……なんでしょうね」
縋るように訊ねる檀にいばらは首を振る。星のようにある人の心だけまた、幸がある。それを探すのはあんた自身。
いばらの言葉に檀は目を伏せる。自分達の幸いは後どれだけ残されているのか。
「辛いものだな……不本意な道しか残されていないというのは」
「……酒は、とても苦いのですね。なんだか、とてもそう感じます」
漏れるように呟かれた冴子の言葉に檀は笑ったつもりだった。だけれど、ワインが映していたのは、呆れるくらいくしゃくしゃに歪んだ不器用な表情で。
「その苦さを美味しい感じられるようになることが大人等と洒落たことを言うつもりは無いが…」
冴子は同じようにワインを呷る。
「ああ――私も何だか苦く感じるな」
わざとらしく呟いた冴子。
「あんたは、大切なことをいつも黙ってるんすよ。あんたはそれでいいかも知れないっすが…」
「楓は、それで傷付いていた…。悪魔に魂を売った俺を始末したいだけと思い込み、嘆いていたな…それは貴殿の望みでは無いだろう…?」
頷く檀にクロムとアンジェラは言う。憎しみをぶつけられる存在と、傷付ける存在とは違う。頷いた檀にクロムは軽く溜息を吐いて。
「だったら一度、楓と本音でぶつかりあってみればいいんじゃないっすかね。力ではなく言葉で、今はただの檀と楓なんすから」
「ですが……」
「無理に表情や想いを隠すようなことをしなくて良いんですよ。笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣いて、それではいけませんか?」
戸惑う檀に朔夜は微笑む。ぶつかりあうことで相手を傷付けてしまうことが怖いのかもしれない。
傷付けたことで泣かせてしまうかもしれない。泣いてしまうかもしれない。けれど。
「私はその後には笑えるって信じています。この桜だって、散ったとしてもまた来年咲くように」
人の心は其程弱くはないものだと朔夜は微笑みに込める。
「勿論、強制するつもりは無いよ。八塚君――いや、わかりづらいな、檀君。君はどうしたい?」
その言葉に檀は俯き、考える。
「話すとしても、今は言葉が見付からないのです」
「例え辛い結末になっても決断出来るのは強いことだ。その時は出来うる限り、協力はしよう。少なくても今は――大切な、同士だ」
冴子は静かに頷き答えた。
「傷付けるのが怖いんだろ? 弟を、人間を……そう思えるんなら、あんたの心はやっぱり人間のままだよ、八塚 檀」
ロドルフォがそう呟いた時。零れ落ちそうな花片を浚ったのはクロムの巻き起こした風。
(いつか、倒すべき相手に何やってるんすかね、俺)
死に逝く運命の花片でも風が吹けば空へと舞える。何事も遅いことはないことはない。込められた想いを察したアンジェラは目を細め、呟く。
「別れ際に、楓を抱きしめたのだ」
その感触は未だ鮮明にアンジェラの腕に残っていて。
「私は…見捨てられない」
だから、子どものように泣き叫んでいるように見えた青年を救いたい。少しだけ柔らかな表情で頷いた青年の兄に、アンジェラは問う。
もし、そうして救えたとしても。
「貴殿の救いは何処にあるのだ…?」
兄は虚を突かれたような表情をした。まるでそんな言葉なんて考えていなかったように。
少し考えた檀は、そうして口を開いた。自分に救いなど必要ない。自分よりもと懇願するように。
――私は、楓が貴女達のような人達に巡り逢えたことが、救いです。