移ろいゆく季節をたゆたうように、人は生きてゆく。
時が流れゆくのと同じように、人はみな変わってゆく。
伸びた身長の分だけ、様々なことが見えるようになった。
新しい言葉をひとつ覚える度に、理解していくこともあった。
重ねた歳の数だけ思い知らされたのは、絡み付く鎖にも似た『八塚』の名が持つ意味と重責。
逃れようだなんて、思えなかった。
だから、せめてと他者の本当の幸いを願った。自分には届かぬ願いでも、大切な誰かが掴めたのなら幸い。
たったそれだけだったのに、如何して、こんなことになったのだろう。
何処で間違えてしまったのだろう。
どうしようも無くなってしまったからこそ、未だに本当の幸いという名の『正解』を探している。
素晴らしい程に残酷な運命の物語。
狂いだし、もう終わることすら許されない舞台。
けれど、その中で――そもそも『正解』なんて、存在するのだろうか?
●矜持
凛と凍て付き突き刺すような大気は、じんわりと地肌から熱を奪ってゆく。
吹き抜け頬を撫でた冴ゆる風。其の風に混じるのは微かな潮の香り。雪の降らない南の島にも、冬は訪れていた。
澄んだ冬の静寂に飛び散らばるような星屑達。宵空に浮かぶ寒月は、余りにも頼りない光で春待月の夜を照らしている。
「お久しぶりですね……檀さん」
「貴女は、この前の……」
「朔夜です。あなたとは色々と話合いたいのですが、事は一刻を争いますよね……その後に、聴いてくれますか?」
名乗り訊ねた月隠 朔夜(
jb1520)に檀は頷く。
「……にしても、闇夜に女を狙うとは、不届きな野郎だな」
海本 衣馬(
ja0433)は拳を握りしめる。ディアボロだけではない。最もそれを目撃しておきながら自分達を試す為に放っておく天使のことも、気に入らない。
拳を握る衣馬の手にさらに力が籠もってゆく。
その内心を察したのかどうか。鷹代 由稀(
jb1456)は、タバコの煙とともに呟きを吐き出す。
「ディアボロもそうだけれど、侵略者と裏切り者が高みの見物とはね。何様のつもりなんだが……」
「ああ、天使ってのも随分悪趣味なようだなー。この状況もよー。そのディアボロって俺と趣味が合いそうだ」
藤村 将(
jb5690)が浮かべたのは冷ややかな笑い。
その将と由稀の声。当然のことだった返す言葉も無いといった様子で、俯く檀。だけれど。
「ありがとう」
「……え?」
その声の主はケイ・フレイザー(
jb6707)。その言葉の意味が理解出来なかった檀は思わず顔を上げて聞き返す。
「あの女の子のこと、気付いてくれて」
「……いえ、私は結局……」
見ていることしか出来ないから、何も出来ないことと同じで、それは見捨てたことも同然。
まさか、そんなことを言われるとは思っても居なかった。純粋に檀は戸惑うような様子を見せる。
そんな使徒の物憂げな表情に何かを感じた、衣馬は力強く呟く。
「後のことは任せろ、心配はするな。お前が手を出せないなら、俺達が助けるまでだ」
「……すみません」
ただ、それを言うと使徒は黙り込んでしまう。
(天界の事は一先ずは如何でもいい。先ずは冥魔のブルジョワ共の力を削ぐことが先決だ)
その為に利用出来るものは利用する。赤糸 冴子(
jb3809)の思惑は其処にある。
例えば、天界という人類と敵対する勢力であろうとも自らが目指す革命への足掛かりとすることが出来るのではないか。
そうして、持ち掛けた交渉だった。
(……それに、八塚君は、ただの天界のブルジョワ共の飼い犬というわけでもなさそうだしな……)
しかし、冴子の瞳に映るのは思い悩んだ使徒の姿。
その内心が如何様なものかは解らない。
ケイオス・フィーニクス(
jb2664)は興味深そうに眺める。以前娘がこの地を訪れた際に出逢ったという変わったシュトラッサー。
興味本位でこの場を訪れてみれば、成る程。中々に面白い。
「……まぁ良い。力を見せてみろと望むのならば、望み通り見せてみせよう」
ケイオスが呟くその言葉。
やがて、見えてきた
「無事保護が完了したら携帯連絡入れるわ。そうね。誰か、其処の使徒さんに携帯貸してやってくれない?」
「わかった……ああ、先に言っとくぜ? 使徒の出番なんて、勿論無ェから。あんたは後ろから見てな」
由稀に応えたマクシミオ・アレクサンダー(
ja2145)は、自らの携帯を放り投げる。檀は反射的に受け取りマクシミオの表情を見る。
片目を眼帯で覆った彼の表情に浮かぶのは、自信に満ちた笑み。
「そういうことだから、携帯電話のメールを確認することくらいは出来るでしょう? "裏切り者"さん?」
その様子を見届けた由稀は少し皮肉を込めて呟いてから。
「……んじゃ、行ってくる。正面は頼んだわよ」
単独で保護に向かう由稀の背を見送り、撃退士達は訪れる試練の刻に、ただ前を向いた。
●守護者
移動しつつ由稀は携帯電話で通話をかける。相手は地元警察。
「撃退士よ。保護をお願い。場所は――」
由稀は手早く事情を説明すると、相手方はあっさりと理解したようですぐに向かうと応えた。
発砲音。そして、すぐに鉄扉を叩く音が止んだ。夜の静寂に響き出すのは怒号と獣の唸り声。
「……始まった、か」
倉庫を迂回し見つけたのは裏手の窓。戦闘が始まったことを確認してから由稀は手頃な石を拾い打ち付ける。
「……居る?」
由稀は口にタバコを咥えたまま、ポケットからペンライトを取り出して薄暗い倉庫の中を照らし探す。
照らせる灯りはごく僅か限られた範囲。しかし、由稀の声に反応するかのように聞こえた物音。その方向へとペンライトを向けると、コンテナーの影に白いうさぎのぬいぐるみのようなものが見えた。
「おねえちゃんは……?」
「私は、まぁ……撃退士。もう大丈夫。私と、私の仲間達が助けに来たから」
耳を塞ぎ応えた由稀はペットボトルを差し出して。
「……とりあえず、飲みなさい」
遠慮がちに受け取った少女は恐る恐る口を付ける。飲み物を口にしたことで、落ち着いてきた様子だった。
「怪我は無い?」
「……うん」
服はだいぶ汚れて表情も疲れ切ってはいるようだが、かすり傷ひとつ見受けられない。
「で、何でこんな夜更けにひとりでほっつき歩いてたの?」
「……ぬいぐるみをね、取りに来たの。ひるまだと、お母さんぜったい、ゆるしてくれないから」
由稀の問いに、少女は罰が悪そうに小さな声で途切れながらも応えた。
「……だとしても、夜なんて、もっと危ないだろうに……抜け出してきた?」
応えはない。しかし、それが肯定。だから。
「……怒ってるわけじゃないよ。そりゃ、面倒ごとは増やされたけどさ」
今は無事で良かった。怯えるように顔を上げて由稀の顔をじぃっと見つめる少女。
次第にその瞳には涙が浮かぶ。
「あ、のおばけ、まるで、わた、しがこ……こわがるの、おもしろがってたみたいだったの……!」
ぬいぐるみを思わず放り投げて、少女は由稀に抱き着きわっと泣き声をあげる。
「……もう、大丈夫だから」
抱き着いてきた少女の背をさするうちに緊張の糸が解けたのか、気付くとそのまま眠りに就いたようだ。
携帯で連絡を入れてから由稀は少女を起こさないように、そっと少女を抱え上げる。
「……全く。これだから子どもというのはね……」
口では皮肉を言いつつも、少女を抱いた由稀は外への扉を目指した。
●夜闇の襲撃者
想像よりも遥かに大きいディアボロが目の前に在る。
虎の身に、猪のような長い牙と尾。
固く閉ざされた鉄扉に体当たりを続けるトウコツの人面は嗜虐の色に満ちていた。
その様子は、まるで中に居る少女が怖がる様子を楽しんでいるかのように。
「……撃退士として本来のお仕事だな」
「嗚呼、勿論。俺が来たからにゃァ、塵一つ残させねぇよ」
ケイの言葉に返したマクシミオは、彼にライトを渡し、前を見据える。
「あの子供に傷なんかつけさせねえ――往こうぜ」
マクシミオは、駆け出す。
それよりも先に、いち早く踊り出ていたのは衣馬。
「ほら、こっちだ……こっちへこい!」
衣馬の拳銃から放たれた威嚇射撃。その弾丸はトウコツの胴部へと命中し、トウコツは振り返る。
低い獣の唸り声が夜の帳へと響き渡り、飛び上がるトウコツ。鋭利な爪で衣馬の脳天を叩き着ける。
「大丈夫か!」
「……生憎、これくらいで倒れる程、柔じゃないのでね」
朦朧とする意識を繋ぎ止め、衣馬は冴子に応える。そうか。ならば良かったよ。そうして、冴子は前を向き凛とした声で告げる。
「そちらには大事な労働者がいてな。君も奪う者であれば容赦はしない」
冴子は闇色の翼を広げ、一気に飛び上がる。鋭い声とともに散弾銃を構え。
「飛ぶ事もできんひよっこが相手になるものか。死ね」
攻撃後の僅かな隙を狙うように撃ち込まれる一弾。トウコツが疾る朱の影。
「さてねぇ……気に入ら無ぇんだよなぁ、そういうの!」
マクシミオが放つ光の槍。続くように朔夜とその背後から飛び出した将が攻撃を浴びせる。
尚も止まらぬトウコツの勢い。
「……ほう。我が同胞の傀儡は中々活きがいいようだ……躾が必要だろう――」
重力の十字を放とうと、思考したケイオス。しかし、このままではどうしても味方までもを巻き込んでしまう。
ならば。
「見よ――我が魔眼」
金色の瞳でトウコツを睨み付けるケイオス。その鋭き悪魔の視線はトウコツの身を地へと縛り付け自由を奪う。
続くケイが雷の剣を放った直後、冥魔は更なる唸り声を発する。
足を奪われた程度では退かない凶暴性を持つディアボロ。手の届く距離に居た撃退士達を襲い始める。
集中砲火を受けた前衛の被害はかなりのもので、これは機動力を削いだが故の反動とも言える。
意識を奪おうと放つ攻撃も、殆ど有為には働いておらず。
――トウコツ。
伝承にして四つ凶に数えられた名を冠するディアボロ。容易い存在ではない。
「だけど、こっちも退けないもんってのが――あるんでねっ!」
言葉とともに薙ぎ払われたのは、ケイの雷の剣。
弾ける雷の音。そして遅うのは蝕む痺れ。しかし、それでもトウコツは笑みすら浮かべている。
再び朔夜の影へと隠れようとしていた将のもとへ反撃とばかりにトウコツが食らいつく。
「……っ! 面白いじゃねぇの」
よろりと揺らぐ躰。肩を剔られてもなお、将が浮かべるのは笑顔。
「しかし、天界だか冥界だか、使徒だかヴァニタスだか――そんなこと、俺にゃァどうでもいい」
そんなことは将にとってはどうでもよかった。ただ求めるのは、血肉沸き上がり踊るような闘争のみ。
一歩も退かず猛攻を続ける将とディアボロ。ニィっと口を緩ませ眼光を尖らせる将に対し、心なしかトウコツも笑顔を浮かべているよう――ただ、闘争を純粋に楽しんでいた。
「いいぜぇ。その表情も、その姿勢も嫌いじゃねー。気に入った! あぁ……殺したい程に気に入ったぜっ!」
将の動きに合わせ鮮血の飛沫が舞う。だが気にとめる様子もなく将が見据える男振り薙いだ己の足、締め上げほんの少しだけ、意識を奪う。
その隙を攻めるように、続けざまに撃退士達の猛攻に確実に傷を負っていくトウコツ。
なおも抗うように、朔夜を目掛けて振り下ろされる腕。しかし、遮るように踊り出たのは衣馬。
思わず息を飲む。強靱なる肉体でトウコツの鋭い爪を受け止めたものの、衣馬の身は深い剔り傷を付けていた。
滴り落ちるのは、冷ややかな汗と鮮血。ぽつりと落ちて、青白く輝く地面に深紅の花を咲かせてゆく。
「俺達を信じろ――と、言っても説得力は無いだろうがな。生憎俺達は諦めが悪いんだ」
血を流しながらも余裕の表情で檀を見やる。決して軽くは無い傷なのに言葉通り一歩も退かない。
その時鳴った携帯電話。その画面の文字と衣馬を交互に眺める。
「ほら、言ったろ?」
そうして、振り返った衣馬は朔夜の瞳を見て。
「……問題、無い。さあ、今の…うちだ!」
朔夜は頷き、素早く駆け出す。
その手に握るのはネイリング。月光を受けて寒々しくも美しい輝きを見せる朔夜の愛刀。
「終わらせましょう――!」
振り薙ぎ払われる剣閃は華のように。その剣は災厄に終わりを告げる。
●揺らぐ想いに、差し伸べる手を
夜は驚く程に静か。
先程あったばかりの争いの音さえも、飲み込むように消し去ってしまった。
少女を抱え倉庫から出てきた由稀は警察に彼女を引き渡してか細い月の光に映るのは、9つの影。
「それで"試し"の結果は……どう、なんだ?」
傷だらけの体を何とか起こした衣馬は檀に問い訊ねる。
吹き抜けた風が木々を揺らして音を立てる。撃退士達の視線は使徒に向けられた。
「……私としては、問題無いと判断します。お疲れ様でした」
その視線の雨を浴び受け止めるように、目を伏せたまま何処か機械的に告げる檀。
ディアボロを討伐し、少女を救出した。かなり危うい戦いではあったが此方が呈した条件に関してだけを言えば、一応は成功した。
「我々は八塚君のお眼鏡にかなったということか……光栄なことだな。では、早速話を訊かせて貰おうではないか」
冴子の言葉に檀は頷き。
「……ええ。私達天界側は、人類側と手を結び冥魔討伐をともに志すことは構いません」
「それだけなら俺らも同じだ。ンで、それ以外に目的があンだろ?」
そもそも目的が無ければ攻め入り制圧したり等はしない。マクシミオは問う。
「……主としては、この島を譲る気は無いとのことです」
「では、俺ら人類側はこう告げておこう」
傷だらけの衣馬。しかし、その眼に宿る力と光は衰えることを知らず、強い口調で言い放つ。
「この島も、この世界も。此処で生まれ育ち、そして死に逝く俺達のものだ。一欠けらとて、お前達にやるつもりは無い」
それでも。
「どうしても欲しいってんなら、天使を連れてこい。理由を聞かせろ。そして、その理由で俺達を納得させてみろ。でなければ、一歩も譲る気はない。その意志は、はっきりさせておく」
「……それでは、貴方達は学園長や生徒会長を出せますか?」
強く熱い衣馬の口調に問いかけ返すのは、檀の硬い声。
どうして。訊ねようとした衣馬に先手を打つように檀は言葉を続ける。
「私とあなた方は、組織の末端同士と言う点では変わりないはずです。こちらのみが一方的に主をと言われてもお応えできません」
冴子が微かにかぶりをふりながら。
「残念ながら彼の言うとおりだな……そもそもこの交渉はこちらから持ちかけたものだ。話し合いに応じるかどうかも天使側にイニシアチブがあると言っていい」
つまり、天使本人に出てきてもらうには、まだ人類側の攻め手が揃っていないと言う事だろう。
「なぁに、今スグとは言わねえよ……けど、それぞれの思惑も有るんだ。いずれは、顔突き合わせて話す機会が必要だと思うぜ?」
「そうですね。それについては同意しますが……」
マクシミオの言葉に檀はそう言いつつも、それで主の考えが変わるだろうかとも思う。
「……にしてもさぁ」
突然割り込む声。その声の主は将。
「シュトラッサーって良いよなぁ。ガキ殺そうとしても、上の命令だって言えばいいんだからよー。俺でもなれるのかな?」
将は檀を嘲笑う。
交渉の場で刺激するような言動は禁物。数人の仲間が止めようとしたが、しかし使徒は黙し、俯くだけ。
「はははは。お前タマとか責任とかって持ってなさそうだよなー」
その言葉にも、檀は俯くだけ。幾ら言われても、むしろ受け入れている様子。
勿論、罵倒し続ける将に使徒になる意志は無い。
――だから、これは。
(彼奴、試しておるのか? あの変わったシュトラッサーを……)
少し離れた場で様子を見守っていたケイオスは内心呟く。
少女を見殺しにするかも知れない。察するに、この使徒にとっても不本意な命令であったのだろう。
それを計算していたのか。ふと真顔になった将は問いかける。
「それで……お前は今、やりたくない事を嫌々やってるって顔してるけど、今すぐ死ぬとしたらお前は自分の人生をどう思うんだ?」
その問いに、檀は驚いたような表情を見せる。そして、流れた夜風に揺れる髪を抑えながら困ったような表情を浮かべて。
「どう、思うんでしょうね……?」
「逆に訊くようなものかしらね。それは……貴方のことが解らないから彼は訊いているんだけどね」
私達に訊かれても解るはずないじゃない、それは貴方にしか解らないことよ。逆に問うように言った檀に由稀は気怠げに返す。
「……そうですね。せめてを言うのならば」
そう、少なくてもあの日までは。
「つまらない人生だったと思いますよ。ですが、そんな日常が……愛おしくて、何よりも大切だった」
何もないことが幸せだった。ありふれた日常こそが愛おしくて、大切で。
他人から見たら、本当にくだらない幸せだったのかも知れない。
楓が居て、大切な人が笑っている。それを、自分はいつもほんの少し離れた場所から見守っていた。
そんな当たり前の光景だけど。
「……たった、それだけでよかった」
懐かしむように呟いた檀は、ほんの少しだけ憂いの表情を緩める。
だから、この道を選んだのも間違いではないと思っていますよ。その想いは音にはならずとも、その瞳が告げていた。
「楓ちゃんか……」
ケイは檀と同じ顔をしたヴァニタスを思い出す。
燃え盛る炎のような瞳。憎悪に満ちた表情の奥に棲み着くのは哀しみという感情。
「なぁ、檀ちゃん……楓ちゃんさ、心の中で泣いてるんじゃないかって言われて動揺してたぜ」
だからこそ、泣いているように見えた。
檀は翳りを濃くしてゆく。きっとその表情の奥には、色々な想いが渦巻いていて、だからこそケイは其処を突く。
「可哀想なくらいに――梓、って呟きながらさ……」
梓。
「……その名を…」
檀は、大きく瞳を見開き驚愕の表情を浮かべる。
ケイが近付くことにも気付かない程に、動揺し立ち竦む檀の耳元に囁く。
「……可哀想だよな。救ってやらなきゃな」
救う。そのことの意味は。
「私は……その為に…」
「オレ達だって目的は同じなんだ、だから――」
「ケイさん! 檀、さん……ですが、私は哀しいと思います……! 兄弟同士で殺し合うだなんて」
ケイの言葉を遮るような朔夜の声。
胸に手をあてた朔夜は、じっと檀の瞳を見て、問い訊ねる。
「……本当に、そうすることでしか弟さんを……楓さんを救えないのですか? それが、本当に正しいのですか? 殺し合うことでしか弟を救えないだなんて考えは、私は悲しいと思います」
重ね問うように、何処か懇願する響きを持って朔夜は訊ねる。
「……だから檀さん、あなたはそんな表情をしているのでしょう?」
憂いの表情は迷いの証。人としての生を捨てる程にまで強く想うのであれば。
「もう一度、話し合って欲しい。貴方には意志を宿す瞳も、想いを伝える口も、抱きしめる腕もあるのでしょう? 何ひとつ、失ってなどない……じゃないですか! でしたら……」
同じように自分も弟妹を持つ者だから、兄弟同士で殺し合うなんて、そんな悲しいことは止めて欲しい。
縋るような朔夜の視線に。
「……では」
応えるように、檀は顔を上げ深海色の瞳で見つめ返した。其処に宿るのは揺るぎない決意の光。
「――あなた達には違う道が選べると言うんですか? 別の方法で、弟を救えるのだと言うのですか?」
絞り出すような檀の声。静かながらも激情を孕み、突き刺すように鋭い響きが籠もる。
「けれど……死んでしまったら、其処までじゃないですか。喪ってしまってからでの後悔では遅いんです……私は、後悔するようなことはしてほしくありません」
だから、思いとどまって欲しい。朔夜の声は、次第に懇願するように。
「あなたは優しいのですね――けれど、その優しさは非道く残酷ですよ」
言葉とは裏腹に、檀は羨ましそうな視線を朔夜に向ける。
「だって、楓も、そして私も、もう、既に……」
「人じゃない、ね」
檀の言葉に続けるように由稀は言葉をのせた。檀は頷いて。
「それに、後悔なんて……もう、ずっとしていますよ。あの日から、ずっと……」
告げた檀の瞳には、決意の中に憂いが混じっていた。
弟を殺さなくてもいい――そんな道があったのならば、とうに選んでいる。
皆が幸いになれる道があるのなら、僕は死んだっていい。この身だって、何度灼いても構わない。
大切でかけがえのない存在を、誰が好き好んで自らの手で殺められるのだろう。
死ぬことよりも苦しかった。悔いて、悩んで、悩んで、悩んで。探し求め続けて、そうして――。
「……漸く、見つけたのがこの道なんです。やっと掴んだのがこの力なんです」
こうすることでしか、舞台にすら立てなかった。だから、この道を選ぶしか無くて求めた力。
人であった頃の自分は誰かの手が無くては生きてはいけなくて。惨めな程に弱く、儚く愚かな存在。
大切な存在だからこそ、死ぬことよりも苦しい選択をした。
「それを、あなた達は間違っている……というのですか?」
「……あんたと俺は、どっか似てる気がしてならねえな?」
返したのはマクシミオ。檀を見やる表情に浮かべるのはクツクツとした笑い。
「俺もあんたも大事な奴が傷付くンが嫌で仕方無ェだけ」
「そうですね……同じです。貴方も、そうして戦っているのでしょう?」
争いが嫌でも、大切なものの為に、戦わなければならない時もあって。
「だから、あんたと俺は同じだ。それも一つの手だと思うぜ?」
マクシミオの言葉を受け止めて、再び視線を朔夜の方へと向ける檀。
「……朔夜さん。ありがとうございます」
だけれど。
引き返せないのなら、せめて。
「私に出来るのことは、楓に恨まれることだけ。私は、悪で居ましょう」
廻り始めた運命は、誰にも止められるはずがなくて。その中で反響し膨れ上がり続ける憎悪ならば、終わらせるしかない。
もう、そうすることでしか。彼を苦しみから救えないのだから。
――だとしたら、私は悪で居よう。
それで、楓が報われるのであれば。
それで、楓が救われるのであれば。
――だったら、私は救われなくてもいい。報われなくてもいい。
「……それが、今の私のたったひとつの望みです」
誰にも知られず消え逝く、物語の憎まれ役。
それでいい。恨みも、憎しみも、怒りも――全ての苦しみををぶつけられる存在で居よう。
だから、内心なんて知られない方がいい。
「シュトラッサーよ。それが、汝の誇りなのか? ……いいや、」
違う。問いかけたケイオスは一度、言葉を切って思考を巡らせる。
結局は他人のことだけを考えているシュトラッサー。娘が言っていたように変わり者。
だけれど、それが。
「――汝自身は、本当にそれで幸いになれるのか?」
「……ええ。それだけが、私の幸いです」
小さく頷いた檀は、ただ笑った。
だけれど、やはりその笑顔に含まれているのは、全てを諦めているような色。
「……そうか。やはり、変わっているな」
混沌の名を持つ彼は、ただそれだけを言った。己も人という光に魅せられた悪魔という闇の存在。
(――我も、他人のことは言えないな)
自ら黒翼を捧げた、たったひとりの愛しき存在が居た。
だから、全てを投げ打ち自らを犠牲にまでも、大切な者を救いたいという気持ち。
それが、何となく解るような気がしてケイオスは頷くこともなく、聴いていた。
「早く弟を解放してやりたいんだろ? ならば、オレ達にあんたを利用させてくれよ」
「……利用、ですか?」
この場でその言葉が出ると予想していなかった檀は訊ね返す。
「オレ達だって、冥魔を倒したい。力をあわせることが、オレたちのためにも……弟のためにもなるんじゃないか?」
だから、互いに利用しあえばいい。ケイの言葉に添えるようにケイオスも口を開き。
「そうだな。共闘となれば……その目的存外早く汝自身の手で至る事になるであろうよ」
「なるほど……それで、利用ですか」
ケイとケイオス。
檀や天界にもメリットはある。人間にとっても手を結ぶことは、きっと悪いことではない。
少なくても、この先延々と天魔両方を相手に戦い続ける力は人間には無い。だから、マクシミオは。
「まァ、正直、俺は別に従属になるのも嫌じゃねえけどな」
力でも技術でも劣る相手ならば、いっそ、どちらかについた方が楽。
「少し我慢すりゃ手に入れられるケーキがあるのに、どうしてわざわざ苦しみながらパンを取ろうとしなきゃいけねえンだ?」
「……命かけてパンを求める自由だってあるぜ。多数のために切り捨てるのがあんたの身内なら何も言わないけど」
少しの我慢だけでいいのに。マクシミオの考えは一歩間違えれば危険なものにもなり得る。だから、友としてケイは皮肉とともに釘を打つ。
その様子を見て、少し息を吐いた冴子。
「……と、まあ我らも完全な意思の統一ができているわけではない。同志とするには心配も多かろう」
一拍おいて、冴子は。
「だが、冥魔と共に我らを相手するのは骨が折れよう。停戦には十分な戦略的価値があるのではないか? お互いにな」
「……ええ、私自身としては問題は無いかと思います。しかし、主の意志は揺らぎません。それでも、いいのですか?」
檀の声に頷いたのはケイオス。
「それだけで、充分」
元より人類側からの申し出。余り期待はしていなかった。停戦まで持ち込めれば充分だ。
(……さて、以上は建前だ。人間側の兵士としてのな)
(建前……ですか?)
突然、語りかけてきたのは冴子の声だった。しかし、彼女の口は動いてはいない。
その意味を察した檀は同じように意思疎通で返す。
(私の考えは先日話した。個人的に可能な限りなら、君の目的には協力したいと思っている)
その為にも、もっと語り合おうではないか。そうだな。
(どうだ、酒でも飲みに行くか。人間の店でよければ、な)
(……如何して、私を?)
驚き、戸惑いの表情を浮かべる檀。
(そうだな、互いのことを知る為というのはどうか? )
(ですが、私はシュトラッサー。残念ながら、酒では酔えなくなってしまいました)
生真面目に返した檀に、冴子は言う。
(私だって同じだよ。しかし、このようなことは、気分が大切なのだよ。八塚君)
多分だけれど。そう告げた冴子の表情は、微笑みかけているようにも見えた。
「とりあえずは……あなた方の意志。主に伝えておきましょう」
「ありがとな」
衣馬の言葉に、小さく首を横に振る檀。
「改めて、私の名は赤糸 冴子。新たなる同志を私は歓迎しよう」
これからも逢うことがあれば、その時はもよろしく頼むよ。
冴子が差し出した手。檀はその手を握り返すことを躊躇う様子を見せていたら。
「これでいいよな? 檀ちゃん」
間に割って入ったケイが、冴子の腕と自分の腕を掴みそんなことを言うものだから。
返す言葉は無くただ、困ったように檀は笑った。
こうして、行われた天界への交渉の場。
シュトラッサー個人としては問題無いと判断し不完全な形ながらも、一応は終了した。
後は天使の意志と、こちらの更なる一手次第。
その為には、まだもう少し情報を集める必要がありそうだ。
冬の夜明けは遠い。
変わらずの凍て付くような大気が世界を満たしている。
(いえ、これは……邪推、でしょうか?)
朔夜はどうにも天使の目的が、それだけではないような気がして、夜空を見上げる。
例えばそれが恋愛感情という最も強く、如何することも出来ない執着心であったのなら――どうなのだろうか。
冬の澄んだ宵の空には、無数の星屑達が散らばり自由に燦めいていた。
何も知らない輝き達。この島の星空は、哀しい程に美しい。