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秋空は何処までも高く、どれだけ手を伸ばしても届かない。
雲ひとつない蒼穹の空に混じるのは金木犀の橙色。和らいだ日差しは晩秋の訪れを告げていた。そうして、移ろいゆく四季はやがて冬の足音を連れてくる。
「金木犀……良い香り……だけど脆く、儚い」
ふとそよいだ風にのって漂う甘い香りに、月隠 朔夜(
jb1520)の呟きが零れる。
ゆっくりと花の香りに談笑を咲かせている場合ではないと解ってはいた。けれど、吸い付けるような金木犀の香りは不思議とそれを許してはくれない。
「ええ、なんだか凄く切ないような……。そういえば、ねぇ、知っていますか?」
「なんでしょう?」
胸を満たすような甘い香りを吸い込みながら唯月 錫子(
jb6338)は朔夜へと問いかけた。
「金木犀って、その香りで遣ってくる虫たちを選んでいるんですって。なんだか……」
意外にしたたかなのかも知れませんね。錫子のその言葉にきちんと姿勢を正し歩を進めていた赤糸 冴子(
jb3809)が口を開く。
「まぁ、その香りに寄せられたのは虫ではなく天魔だったわけだが……」
「そういえば、報告書によると、シュトラッサーとヴァニタス共に八塚と名乗っていたようですねー……兄弟、なのかなぁ……」
正確に言えばヴァニタスの方は名乗っていたわけでは無いらしいけれど。礼野 真夢紀(
jb1438)は考えた。そうして、ふと過ぎったのは大好きな姉達の姿。
「ああ、そうだろうな」
「もし、私が。私ならお姉ちゃん達と戦うなんてことになったら、いやだなぁ。そんなの、哀しいし、絶対攻撃なんて出来ないですよ」
兄弟で天魔の道に別れて歩むなんて、自分だったら耐えられそうにないなぁと、
ぼんやりと思う。
(……人の絆か)
少しだけ眩しそうにロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)は真夢紀の呟き聴いていた。
「ったく。天魔が何考えてるかよく解んねぇけどよ。ガキの頼みもあるし、種子島にはうめぇ特産品とかあるし、ぜってぇ渡さねぇ……」
「本当に何の為にこの島を欲しがるのか、解りません。だから使徒に逢うことがあれば理由を尋ねてみたいですが……答えてはくれないでしょうね」
蔵寺 是之(
jb2583)の言葉に樒 和紗(
jb6970)は静かに頷く。
真っ正面から訊いて素直に答える敵も居ないだろう。だがとりあえずは訊いてみたいと思う。
「勝手な理由でこんな島が乱されるなんて我慢ならねぇよ。……あ、そういや俺も悪魔だったか」
是之が思い出したかのようにぼそっと呟くが、幸い言及する者は居なかった。
「何にせよ、殴って倒せばいいので御座ろう? 話は早い。参るで御座るよ」
エイネ アクライア(
jb6014)は佩いた刀に手を触れた。滑らかな鞘の手触りは、少しだけ冷たくなり始めた秋の風と何処か寒々しくも感じた。
●
厭になる程、突き刺すように漂う金木犀の香り。
その香りの中で、並び歩く金髪と銀髪の双子。その少年達の違いは髪の色だけ。その服装と光も映さない無機質な瞳が人外であることを告げていた。
「――見つけました!」
和紗の凛と鋭い声が緩やかに流れる蒼天へと突き刺さる。その声より早く遠距離より放たれた矢は風切り音を立ててカストルへと迸る。
だがその矢面へと踊り出たポルックスによって防がれた。
「そこだっ!」
和紗に続き黒色の翼を広げた是之は矢を放つ。行動後の僅かな隙を狙うが、またもポルックスが庇われて、是之は舌を打つ。
「ちっ……面倒くせーな」
「双子型の眷属でござるか……。如何様なものか」
エイネは様々な考えを巡らせるけれど。それよりも実際に刀を交え方が早いと思考を放棄した。
「お手並み拝見と参ろうか」
抜き放たれた刀、ふわりと風が巻き起こり飛び上がる。前髪の合間から覗く小さな角と翼が彼女が人外の存在でありながら人の為に戦うと決めた者であることを示していた。
互いに距離を詰め合い、直剣を抜いた朔夜の髪が銀色へと染まっていく。
「双子で少年型か……サーバントとはいえ殺りにくいですね」
「けど、サーバントだもん。ほっとけば人に迷惑をかけるに決まっているんだから……頑張ろう!」
真夢紀の言葉に背を押されるように朔夜は頷いて前を向いた。
「――いざ尋常に勝負で御座る!」
エイネが放つ竜如き旋風が2体の間を引き裂くように、反対方向へと吹き飛ばす。賺さず朔夜が間へと割り込み掌底でポルックスを弾き飛ばす。
「当たればどっちも効果抜群だからな……、空から一方的に射抜かせてもらうぜ」
充分な距離を弓を弾く。巻き起こる矢風が狙い通りカストルの背に突き刺さる。
互いの欠点を補うように動いていたのだろう。引き離してしまえば、それぞれの戦力はそう対したことも無い。
撃退士達もまた、互いの不得意を得意な者が補う形で場を進めていた。
カストルの攻撃も防ぎながら、
カストルが危うい。けれど撃退士達が阻害する為庇えない。
無機質な筈のポルックスの表情に、何処か焦りのような色が浮かぶ。だから、自らの生を分け与えようとした。
「もう止めろ、大人しく眠らせてやれ!」
ロドルフォは悲痛な想いを込めて盾でポルックスを殴りつけ、カストルの想いを断ち切った。
「全く、厄介な真似をしてくれる。少し大人しくしていたまえ」
ロドルフォの背から現れて意識を刈り取る一撃を見舞う冴子。そして、叫ぶ。
「諸君、こちらの動きを少し止めた。一気に仕留めたまえ!」
「了解で御座るよ!」
カストルは虫の息だ。庇うことも、回復も阻害された現在。
「――不意打ち御免!」
エイネの攻撃を耐えられるはずもなく。急降下し鞘から抜き放った紫雷撃で打ち抜き、カストルの命を削ぎ落とす。
カストルが墜とされたのを確認し錫子はポルックスの対応へと急いでいた仲間の元へと足を奔らせた。
「防御型は、随分と献身的なようですね……」
「何しろ自分の命を分け与え、兄を蘇らせた訳だしな。カストルとポルックスってとこか」
阻害されたが、庇うだけではなく自らの生命力を兄に分け与えようとしていた。そんな様子を眺めていた錫子の呟きに返したロドルフォ。
何か知っているのですか?と首を傾げた錫子に対して言葉を続ける。
「……ああ、ギリシャ神話だ。人を神にするって最高に胸糞の悪い話があってな」
言われて錫子も記憶を辿ると、ぼんやりと何処かで聞き覚えのあるような気もする。
「自分が盾になってでも、命を削ってでも護りたいという気持ちは解らなくはありませんが、間違ってますよね」
そうして、錫子は白色の大鎌を構えた。
「ひとりは寂しいですものね。ともに送って差し上げましょう」
悪しき魂を切り裂くと謂われる大鎌。だけれど、其処に籠もるのは慈悲の輝き。
(これで、ずっと一緒ですから――)
声も無く、音も無く。眠るように遠い場所へと誘った。
その傍ら、カストル撃破後に、エイネの使用していた阻霊符が功を奏した。カサリと揺れた金木犀の葉陰から白鴉が飛び出してくる。
その音に気付いた撃退士達。攻撃能力は無さそうだが、サーバントである以上討ち堕とすにほかないだろう。全滅までは行かずとも半数ほどは堕とせただろうか。
「使い道がねぇサーバントなんてありえねぇからな……、その体を赤く染めてやるぜ……!」
是之もそのうち1体に弓矢を放つ。だけれど、それは白鴉のサーバントを掠め堕とすに至らなかった。
「待て!」
まるで是之のその声に推されるかのように白鴉は翼を広げて急降下していく。
●
「やはり、撃退士だったんですね……」
その言葉とともに、白い影が姿を現した。
何処までも深く揺れる憂いの蒼瞳。その肩に乗る白鴉と同じ冷たい雪のような色の髪。
「やはり、またキミか。八塚君」
「貴女はあの時の……そうですか。今回も早かったようですね」
冴子の姿を認めた檀。
「ということは、あの人が使徒……ですか?」
真夢紀のそんな声に冴子は無言で頷く。
「なぁ、あのサーバント。白鴉だろう――ギリシャ神話で偵察や密告に使われるという謂われがある。何を調べている、というよりは――」
「……貴方はこの島で何をしたいのですか?」
何が目的なのか。ロドルフォの言葉に続けるように和紗はそう訊ねる。
「お答え出来ません……」
「ええ、どうせ答えてはくれないのだろうと思っていました」
檀のその言葉は予測していた和紗は。
「けれど、諦めてはくれないのでしょう? やがて大きな戦いへとなります。だから、俺達は貴方を止めますよ」
退かないというのであれば、止めるまで。
「お前の思いで島が破壊されんのは納得いかねぇ! 両方ともぜってぇぶっ倒してやるぜ!」
翼を畳んだ是之がそう告げた。
――その時。
「変わることを、離れて行くことを恐れて、成長することまでもを拒んだのか……気に食わねえ」
「貴方に、何が解ると言うのですか……」
それは、吐き捨てるようなロドルフォの呟きだった。しかし、反応し顔を上げた檀の声は震えている。
「不変……絶対なる停止は死と同義だ」
変わるからこそ美しい。何かを堪えるように黙す使徒に強い嫌悪の眼差しを向けた。
ふとロドルフォの脳裏を過ぎったのは、異形の存在にされながらも人としての生を望み自ら死を選んだ少女の姿。尊い最期だと思った。同時にああ有りたいとも願った。
ただ只管に美しく、どんなに焦がれても自分には手の届かないモノ。だからこそ。
「黙ってないで何か言いたいことあるなら言ってみろよ! 力を求め縋るが余りあっさりと人としての生を捨てやがって!」
「解ったようなことを言わないでください! 私だって、……私には、この道を選ぶことしか出来なかったんです!」
ロドルフォは今にも掴み掛かりそうな程に強い口調で檀に問い詰める。
答えた檀の悲痛な声に応えるように生み出された無数の風がロドルフォの身を切り刻む。
「……いいぜ。いつか、俺が……あんたを、殺してやるよ……」
「ロドルフォさん!」
膝をつき倒れ込むロドルフォ、しかし尚も戦意は失わずに途切れながらも強い口調で言い放つ。何処からか小さな悲鳴が巻き起こり慌てて錫子が駆け寄る。
視界が掠れてゆく。揺らぐ世界の境界線にロドルフォが最後に見たのは。
「……恵まれている貴方達とは、何もかもが違うんですよ」
風が吹く。舞い散る金木犀の香りと花びらが視界を覆い、その向こう側。
フッと表情を緩めた檀は笑っていたのだろうか。撃退士達に初めて見せたのは全てを諦めたような哀しい笑み。
私も変わりたかった、彼にも変わって欲しかった。だけど用意された舞台の上で人形のように舞い続けていた自分達には、余りに遠すぎた願い。
「ねぇ、檀さん。最初は二人でもね、それでも、いつかは一人で立って歩いていくものよ」
朔夜は穏やかな笑みを浮かべる。全てを憂い悩み、全てを諦めたような哀しい笑みの向こうに何を想っているのか知りたかった。
「あなたはなぜ、肉親、血を分けた双子の片割れを救いたいのですか? 天魔の目的じゃなくて、貴方の気持ちを訊かせて欲しい」
「どうして、それを……」
自分は確かに言って居なかった筈。そんな表情を浮かべた檀に対して朔夜は穏やかな笑みを崩さないまま言葉を続ける。
「学園の仲間が貴方達について調べたんですよ」
京都の有名な能楽の家元に八塚という姓があったこと。そして八塚家には5年前に姿を消した双子の兄弟が居た。その名は檀と楓。
朔夜に続き冴子が口を開く。
「偶然にしては、よく出来過ぎていると思わないかね。そして、君は戦うことでしか救えない魂が有ると言った。つまり……」
「ええ、私達の推察に過ぎませんから、間違っているかもしれない。だけれど、私達は間違っているとは思いません」
言い切るようなふたりの口調に押されるように檀は顔を伏せたまま、言葉を紡ぐ。
「大切な人を救いたい気持ちに理由は無い。それだけです。きっとまだ、その気持ちはあなた達と同じはずですよ」
だから、迷わない。迷えない。その為に手段は選ばないとあの日に決めたのだから。そうして、紡ぐのは少しだけ泣き出しそうな小さな声。
「……それに全ては私の責任ですから。情けない兄の、せめてものケジメです」
「やはり、君のことはよく解らないよ」
まぁいいだろう。最後の呟きは聞こえない振りをして、小さくかぶりを振って冴子は口調を改める。
「さて、八塚君。先日、八塚君と会ったのだが」
その言葉に明かに反応を変えた檀。やはりな、冴子の口元に笑みが浮かぶ。
「冥魔は私、いや、我ら冥界プロレタリアの敵でな。場合によっては協力できなくもない」
端的に言えば駆け引き。冴子の思惑は天界側を利用出来ればというものだけれど、半分は本心が混じっている。
効果は確かにあるはずだ。憂いに揺れる瞳が別の色を含ませ揺れるのを冴子は見逃さない、だけれど。
「……私ひとりでは決められませんから」
管理している天使次第だと言外に込めた檀。それも予測の上と冴子は言葉を紡ぐ。
「そうか、気が向いたら話をしようじゃないか」
「ええ、それから」
檀は撃退士達に背を向けて踏み出す足を止めて、振り返る。
「……彼にはすみません、と伝えて頂けたら幸いです」
最後に錫子とロドルフォの事を非道く哀しそうな瞳で見おろして、檀は立ち去った。
●その時はいつも突然で
悲風が何処か懐かしい気配を連れて、頬を撫でた。
――ただ、何かが起こる気はしていた。
慌てて振り返った檀は、その姿に言葉を失う。
逢魔時と誰かが名付けた時間。その斜陽を背にして、黒い影は立っていた。
彼岸も此岸も全てが混じり合い溶けて逝く空。だから、こんな再会も別に運命の悪戯とかではなくて至極当然のことだったのかもしれない。
夕陽が映し出したふたつの影法師。それは、同じだけの長さで地面に揺らいでいた。
「――ようやく」
懐かしい自分と同じ声が耳を擽る。忘れるはずがない、あの頃とちっとも変わらない姿と声。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。愛おしさも切なさも、様々な感情が折り重なり合い忘れたはずの胸の痛みがチクりと刺す。
「漸く会えましたね……兄さん」
言葉とは裏腹に、口ぶりは5年振りの兄との再会を喜ぶものではない。
いや、あったのは悦びか。やがて訪れる宵の闇よりも深く昏い瞳で見つめられて、更に憂いの色は濃くなってゆく。
「楓……」
夕焼けはあの頃と変わらず美しい。声だって、姿だって何一つ変わりやしないのに、どうしてだろう。
変わってしまったのは、きっと――。
「……どうして、此処に……」
呆然と吐き出された檀の呟きは金木犀の香りの中に溶けていった。
5年前。別たれたはずの弟の姿が其処に在った。
その身に大きな闇を宿して、此処に居る。
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探そう、本当の幸いを。
見つけよう、本当の自由を。
その為ならば、僕はあの蠍のように体をなんべん灼かれても構わない。
そうして、舞台は始まった。
そうして、物語は狂いだす。