●逢魔時の忘れ花
遠くで混じり合う淡い藍と茜色。やわらかな色彩が澄んだ空を染めている。
一面にたなびく鰯雲に夕陽の黄金色が反射して、まるで落ちてきそうな程に綺麗な空だった。
寂しさを連れて吹き抜けるのは仄かに冷たくなった秋の風。歩く速度に合わせて動く影は長く伸びて少しだけ寂しさを誘う。
(確かに、また逢えそうな気がする空だね……)
現世も常世も、想いも全てが茜に溶けてゆくような空。
別離は突然訪れる。それが突然自分の身に降りかかったとしたら如何なるのだろうか。少しだけ考えてしまった嵯峨野 楓(
ja8257)は思考を断つように顔を振った。
「少しだけ冷えますね、天魔関係無く彼女が風邪をひいてしまわないかが心配です」
「……このような日も一日も欠かすこと無く参り続けている、律儀ですね。それだけ、大切ということなんでしょうね。その約束も、その彼も」
望月 六花(
jb6514)の呟きに応えたのは少しだけ考え込むような声。振り返ると安瀬地 治翠(
jb5992)が何時もと変わらないような穏やかな表情を浮かべていた。
「ええ。それだけが大切なものを――大切だったものを此岸に繋ぎ止める楔のようなものですから。例え、愚かしいと想いつつも縋り付きたいと願うのでしょう」
治翠に小さく頷いてあくまでも他人のように言葉を吐き出した六花。だけれど、チクりと嘲笑うかのような小さな痛みが胸を突き刺す。
大切なものを喪う哀しみは知っている。忘れたくてもただ切ない程に美しい夕映えの空が、それを許してはくれない。
いっそ死んでしまえばよかった。死ぬよりも苦しい痛みに何度そう思ったかは解らない。
けれど今の自分には死んだら怒る人がいて、だから苦しみを抱えながらも生きている。
同じだから、喪わせるわけには行きませんねと六花は握る手に少しだけ力を込めた。
「……そういえば、彼岸花の花言葉を知っているかい?」
「解らんな、どういう意味なんだ?」
少しだけ下りた沈黙を割るように、言葉を発したのはルティス・バルト(
jb7567)。だけれど、言葉を返したのは隣を歩いていた紫鷹(
jb0224)。
彼岸花の花言葉は、誓いと追想、それに――悲しい思い出。
「……なんだか切ないよね。それも故人に捧げるには、辛過ぎる気がするよ」
「そうだな。何だか、縛るような言葉だ」
「俺は……俺だったら、そんな風に縛ったりはしたくないけどね……」
ルティスは少しだけ悲しそうな微笑みを浮かべる。
死んでしまったら、躰は朽ち果て燃やされて残らない。此岸に遺るのは自分が関わってきた人々の記憶のみ。
それすら失い忘れられたらこの世に存在したという証は消えてしまう。その時がきっと本当の死で寂しくないと言えば嘘になるだろう。
だけど、もしも自分なら愛しい人を縛る枷のような誓いはしたくない。そんな悲しい願いがあってはいいものか。
「かといって、私達にその枷を解くことは出来ないだろう。家族でも友人でも無い私達にしか出来ないことがきっと、あるはずだ」
憂いて過ごすには辛すぎる。泣いて暮らすには切なすぎる。
ただ、その哀しみという凍て付いた記憶を少しでも融かすことが出来ればと、ただ紫鷹は想いを紡いだ。
「そうだな、ところでさ彼岸花の十日詣ってのは初耳なんだが、意味深ではあるよな?」
「わしも聞いたこと無いの。どんな意味が込められているのかの」
紫鷹に頷いた小田切ルビィ(
ja0841)は、ふと脳裏に浮かんだ疑問を言葉にする。むーっと考えてから橘 樹(
jb3833)。調べた知識も辿るけれど、やっぱり思いあたりはしない。
「まぁ、日本ではどっちかと言うと不吉なイメージの方が強いが……」
「天上の花って呼ぶ国もあるそーだの! もしかしたら、そちらの意味なのかの――それにしても、綺麗な夕焼けだのー」
「逢魔時ね。私も好きよ……神秘的で何かが起こりそうな気がするから。まぁ、良いことか、それとも悪いことか――それは解らないけれど」
樹の声に瑠璃堂 藍(
ja0632)の声が重なる。だけれど、そんな藍の言葉にルビィは一抹の不安を覚える。
(何も無ければいいんだが……)
胸中で広がる予感に少しだけ不安を覚えて自然とルビィの足取りは速くなってゆく。
淡い空色は次第に赤く染まっていく。
予兆めいた風も、少しだけ色づいた木の葉を揺らして吹き抜けた。
●彼岸に願う悲しき想い
「案の定ってヤツかい。嫌な空気の読み方しやがるぜ……」
何処か悲痛な色を含ませて、ルビィは呟いた。
墓地へと辿り着いた撃退士達の視線の先にはディアボロの前で祈るように手を組み目を閉じた女性の姿があった。
「いけませんね――紫鷹さん!」
地場の力を使い滑るように真っ先に移動した治翠は振り上げられた痺れの一撃を盾で弾く。
「ああ!」
応えた紫鷹が濡れ羽色の髪を踊らせ、夕闇を駆けた。
「あなた、達は……!」
「撃退士だ。目の前でむざむざ殺させるわけに行かない。許せ」
騒ぎに目を開いた紫苑の瞳が驚きに彩られる。
紫鷹は刀で斬りつけた後、戸惑いの様子を見せる紫苑を無理矢理抱き上げディアボロから距離を取る。
続くように藍が紫鷹が追い、紫苑の前を塞いだ。
「向こうだの!」
少しよろめきながらも悪魔の羽を広げて飛び上がっていた樹。上空から地形を確認し一番近い戦闘に適した場所を伝え牽制攻撃を放つ。
「さて、鬼ごっこと行こうか。来なよ、彼岸花を散らせたりなんかしないから」
その牽制攻撃に気を取られたディアボロに、更に楓の雷符が弾けて襲い掛かる。振り向いたタイミングで六花とルビィは注意を惹いて駆け出す。
ディアボロの知能は高くない。故に気を惹けば誘導することは容易い。
開けた場所に位置取り、紫苑の様子を気遣いながら阻霊符を発動する。
紫苑は自ら動く気は無くディアボロの注意も撃退士達に向いている。後は紫苑に攻撃が行かないよう気を配るだけだ
「貴女があちら側へ行きたいというのなら、私にその想いを否定することは出来ませんけれど。だから、私達が勝手に貴女を守りたいって思うってしまうのも許して下さいね?」
背に紫苑を庇いながら、一瞬だけ振り返った藍は微笑みを浮かべていた。けれど、直ぐにディアボロを見据えて影手裏剣を放った。
悶え苦しむディアボロが放ったのは痺れ花。惹き付けていた六花が盾で防ぐことを心居るが冥魔の攻撃は軽くは無い。
「余り無茶しないようにね」
「有難う御座います」
絶えず仲間の様子を見配っていたルティスが素早くライトヒールを放ち、六花の腕の傷を塞ぐ。
礼を告げた六花に、これもレディの為だからねとルティスは穏やかに微笑んだ。
「――逢魔が時は終わりだぜ。そろそろ彼岸へ還んな……ッ!!」
振り薙いだルビィの剣は正確に戦いの終わりを告げた。
●明日を待つ空に
心掛けたお陰で大した被害こそは出なかったが、それでも余波で乱れてしまった墓前を整え直す。
その間も紫苑はただ呆然としていた。
紅く染まらない曼珠沙華。通じ合うことのない相思華。
(きっと今は何を言っても辛いだけだろうね。だから、俺は何も言わないよ)
その言葉の代わりにルティスが捧げたのは、ほんの少しだけのハグ。紫苑は驚いたような表情を浮かべていた。
仄かに伝わる体温、彼女は生きている。だとしたら、後は乗り越えていく強さだけ。
想いは伝わっただろうか。ルティスは少しだけ気になりつつも紫苑のもとを離れる。
「おやすみの所、失礼致しました」
手分けすれば少し乱れた物を整理するくらいならあっと言う間。片付け終わった墓前に治翠は手を合わせてゆく。
「なぁ、アンタが縛られることは無かったんじゃねぇか?」
「違うの。縛られたかったのは、私自身よ」
ルビィは思ったことをそのまま伝えた。その言葉に漸く自我を取り戻した紫苑は俯いて拳を握り震える。夜闇色の喪服にぽつりぽつりと涙の花が咲いてゆく。
約束という名の鎖で縛られていた。
けれど、その鎖は脆くいとも容易く切れて、解くことは簡単だったのに壊れないように解けないようにと脆い鎖に縋り付いていたのは自分自身。
縋り付いていたかった。例え子どもの夢想なような約束でも、誓いの鎖が無ければ立てなかった。
「そうだの。わしには責められないの……彼も、紫苑殿のことも」
紫苑はその声に顔を上げると、きゅうっと図鑑を抱えるようにした樹の姿。
「誰かを好きになるということはそういうことでは無いかの……」
ただ逢いたい。例え死がふたりを別つとしてもそれ以上に純粋に相手を想い、願いあえる関係。
好きという感情はそんな当たり前で掛け替えのないもので出来ていた。
「わしはまだ、其処まで誰かを好きになったことは無いからの。多分、のことだの!」
それだけに少し眩しかった。けれど樹は取り繕うように、すぐに笑顔を浮かべる。
「……うん、私も解ってる。素直になれなかったことを、過去を悔いたって戻ってくるわけでもないし、仕方の無いことだって頭は解ってても、感情で理解するのは難しいもんね」
だから、仕方無いことなんだよと楓は言う。
「情けないね、こんな年下の子達に慰められるなんて、さ」
「いいんだ」
困ったような笑みを浮かべた紫苑に対して許すような穏やかな口調を含ませて告げたのは紫鷹。隣に腰掛けた彼女は紫苑を覗き込むように見つめた。
「今日が終われば顔をあわせる事も無いだろう……どんな人だったんだ?」
「変人だったよ、あのバカはさ……」
紫鷹の言葉におされるように、途切れ途切れにゆっくりと語り出した。
少しだけ呆れた想い出を語れば浮かんできたのは追想の優しい微笑み。けれど次第に途切れがちになり顔を覆い泣きじゃくり始めた紫苑の背中を紫鷹は優しくさする。
紫鷹が口を開こうとしたその時だった。
「見ての! 空が、彼岸花が……紅いの。綺麗、だの」
はしゃぐような樹の声に顔を上げ遠くを見れば、その光景に思わず言葉を失う。
傾き沈む太陽が最期に遺す優しい茜色。
「綺麗……」
辛うじて紫苑が紡いだのはその一言。
紅く染まっていた、空も世界も彼岸花も。此岸も彼岸も全てが茜色に解けて混ざり合い全てが優しい色を湛えていた。
秋の夕空は胸を締めつけるように切なく美しい。一日の終わりの別れの空、切ないはずなのに不思議と湧き出てくるのは希望という感情。
「わしは彼では無いから何を伝えたかったのかは知らないし、此処にいる皆も彼ではないから正解は出せないと思うの。だけれど、彼はただこの光景を紫苑殿に見せたかったのではないのかの……」
だって、こんなにも綺麗な空だから。
「全てが茜に染まる優しい秋の逢魔時にまた逢おう――美しい約束だと想うわ。とても素敵なおまじないね」
此岸と彼岸が混じり合うだなんて子どもの夢想。だけれど、本当はきっと違う。
「きっと、彼は好きだったものを貴女に見せたかったのよ。美しいものを通じて想いだけでも再び逢うことが出来たらって想ったのではないかしら? だって――逢魔時だから、ね」
此岸と彼岸が混じり合う刻にこの空が貴女の支えになるなら、この時だけは彼に逢ってもいいのではないかと藍は言葉を紡ぐ。
「もう、バカ……もう、バカって言えなくなっちゃうじゃないの……」
ぼんやりしていた。本ばかり読んで考えていることはよく解らなくて。だからこそ、私が確りしなきゃと思っていたのに。
「こんな、男らしいことしてさ。もう、バカなんて言えないよ……」
ぽつりと大きな雫が紫苑の手のひらに落ちる。だけれど、この光景を見逃すのは余りに惜しくて、拭いはしない。
「きっと彼は解っていたんだろう。強いものこそ折れてしまう時はぽっきりと折れちまうもんさ。人は自分が思ってる程強くはない。だから、喪失に縛られてしまうことを見抜いていたんだろう」
婚約者の想いなんて代弁出来ないけれどと前置きをしたルビィが語る。
「時々でいいんだ。想い出して欲しかったんだと思う」
そんなルビィに頷いたのは治翠。
「ですね。逢いたければまた来年に。この場所で彼岸花が紅く染まる季節に貴女が生きていることが、彼が生きていた証になります。それに」
彼は、きっと貴女の心の中に居る。思い出すことで心の中に居続けるのだから。
「人に終わりはないって、私は思いますよ」
誰かに期待されることもなかった治翠は少しだけ希望を込めて言葉を紡ぎ終えた。
いつか自分にもそんな大切な存在が出来るのかなと。少しだけ考えて今は考えても仕方の無いことだと結論付ける。
「そういえば、紫苑と彼岸花の花言葉には、遠方にいるあなただけを想うという言葉があるそうです」
しんみりと零れたのは美しい夕映えの空に溶けてしまいそうな楓の呟き。
相思華。花と葉がともに付かないことから付けられた異名だと言われている。花は葉を思い、葉は花を思い。花と葉は離れていても互いに想い合う。
遠く離れていても想い合う。それって何だか素敵ですよねと微かに優しい笑みを浮かべる。
「だから、もっと見て下さい、感じて下さい。綺麗なものを、美しいものを――いつか、彼が迎えに来てくれた時に話してあげられるように」
時には振り返ったとしても、堪えきれずに涙を零してしまったとしても、立ち止まることだけはしないで欲しい。
「愛しているなら、なおさらだよね」
そう語る楓の表情は何処か遠くを見るように。それにと紫鷹は手鏡を差し出して。
「それに、私たちが駆けつけられたのも、紫苑さんがこうして生きているのも、誰かの遺志だと思わないか?」
「……うん。仕方無いわね」
それが誰だか、もう解るなと紫鷹が差し出した手鏡に映っていたのは夕焼けに染められたからか泣き腫らしたからか真っ赤な情けない自分の表情。泣きながらも浮かべたのは呆れるような笑顔。
「今度こそ、伝えられなかった言葉を伝える為にどうか、今は生きてくださいね」
幸せに罪を感じるのであれば、彼岸で待つ彼に伝える物語を作ると考えていけばいい。
悲話なんて勿体無い。
貴女が観てきた世界と貴女の人生という一冊の物語を、彼に語る日まで。六花の言葉に頷いた。
――また、逢う日を楽しみに。
樹は一輪、彼岸花を手折り希望の願いを込めて笑顔で渡す。
直ぐに訪れた夜に染められて白色の彼岸花は藍色に変わってしまったけれど、受け取った紫苑の頬を伝う暖かな雫は明日を待つ空の色に染まり、ぽつりと落ちた。
少しだけ離れていた場所でその様子を眺めていたルティスはフルートに唇をあてた。
やがて流れ出す切なく優しいメロディーに連れられて星達も歌い出す。
夜空の向こうには新しい明日。
その朝に君は居ないけど。それでも世界はまわってゆくのなら、悲願で心のファインダーを曇らせるには惜しすぎる。
立ち止まらずに進もう。
いつまでもこの胸に咲く追憶の花を抱いて、愛しいものを探しに往こう。
今なら、きっと――出来る気がするから。