●ロンリー・ムーン
少し掠れた瑠璃色の空に静かに、孤独な月は揺れていた。
千切れ雲が星を覆い隠した空にひとりぼっちで浮かぶ満月は少しだけ寂しく感じる。
「ね。つき、きれー。……でも、ちょっと、さみしい」
「確か、今日は中秋の名月でしたね……月は綺麗に見えますが、これではまるで独りぼっちなのです」
「フェイはカナコに何をしてあげられる?」
どうしたら、あの月のようにひとりぼっちじゃないって言えるのだろう。どうしたら、あの雲を取り払ってあげられるのかな。
空を見上げるフェイリュア(
jb6126)につられるように仰いだ天ヶ瀬 紗雪(
ja7147)の口から囁くように漏れた言葉は夜の闇に吸い込まれるようにして消えてゆく。
午後10時を過ぎて灯りも疎らになった深夜。閑静な住宅街を照らすのは途切れがちな街路灯と月の光。
月光を受けた大地は白く仄かに輝いて歩く撃退士達の影を映し出している。
「……でも、その翳す雲を払うことが出来るのは、結局は自分自身しか居ないんだよ」
夢前 白布(
jb1392)が思い返していたのは、かつての日々。自分もカナコと同じように虐めを受けていたあの頃。
願っていた、祈っていた。
けれど、ただ待っているだけでは結局は世界は変わらなかった。
「かつて、僕がそうだったように小さな勇気で世界は変わる。僕はその事を彼女に伝えたい――後は、カナコさん自身の問題だけど……」
「道を決めるのは三浦さん自身。だけどね、きっと戸惑うことは優しさだって私は思うの。迷うことも強さだって。だから、私は大丈夫だって信じるよ」
後ろから掛かった声に白布が振り返ると、地領院 夢(
jb0762)が静かな微笑みを浮かべて立っていた。
まだ、確かに彼女には人の心が残っている。悩み苦しみ、それでも耐えていることが人としての強さの証明だと、だから信じている。
「尊い感情が残っているのならば、手を伸ばそう。出来ることなら虐げ殺す側に回ってほしくなどはないからな」
「その手を血で染めて……その責任の無いままに心の衰弱を付け狙うなんて、そんなこと復讐劇を、させるものか。人としての尊厳を護ってみせる」
楽な道に逃げたとしても心は救われたりはしないのだから。
インレ(
jb3056)に続くように、月野 現(
jb7023)も静かに頷いた。
「復讐劇ってェのも良いんですがねェ。ありゃァ最後が悲劇になりがちなのが、どうにもアタシの性じゃァ無いようで」
士気が高まって参りましたねェとNinox scutulata(
jb1949)は、飄々とした笑みを浮かべる。
「『最後にお姫様の笑顔があれば、物語にはなべて事も無し』ってね。へへ」
相変わらずに仮面のような笑いを浮かべたままに道化は詠うように言葉を紡ぐ。
涙なんて哀しいものは似合わない。物語の集結にはどうか、幸せな結末を。何が彼女の幸いかは彼女にしか解らない。けれど。
「さて、みんな。仕事の時間だよ」
やがて見えた目的地。携帯ゲーム機の電源を切って眠たそうな眼差しのままユーリヤ(
jb7384)は前を向く。
午後10時。
満月の光が地に影を創り出している。
「それでも、夜明けは来る……か」
蘇芳 楸(jz0190)の瞳に映るのは、変わらずに昏い夜も更けてきた空。
ひとりぼっちで揺れる月だけが辺りを照らしていた。
●真夜中サンドリヨン
部屋に灯りはなく、カーテンの隙間から差し込むか細い月光だけが部屋を照らしていた。
カナコは部屋の片隅にあるベッドの上で、毛布に包まって様子を伺っているようだった。
「初めまして、私、地領院夢っていいますっ」
「カナコ、こんにちは。フェイだよ」
まずはそんなカナコの緊張をにっこりと、明るい笑顔でまずは挨拶をしてみる夢と、その夢の背後からひょっこりと顔を出したフェイリュアもにっこりと笑う。
ふたりに続くように撃退士達が次々と名乗りを上げた。
「悪魔に誘われ、迷うておると聞いた。わしらはできればその誘いに乗って欲しくない」
幼子に言い聞かせるように穏やかな口調でインレは言う。
「だからカナコ、おぬしの事を聞かせてはくれんか」
毛布の隙間から、少し怯えるようなカナコも、やがて、ぽつりぽつりと口を開いた。
「ミキとは、中学の頃に知り合ったの……わたし、お父さんが転勤族でずっと転校の繰り返しだったから、初めての、友達で、嬉しかったんだよなぁ」
興味本位で色々聞いてくる子も居た。除け者にする子も居た。転校してきたばかりは色々構ってくれたけど次第に飽きたのか空気のように扱うクラスメイト達も居た。
中学に上がり父が単身赴任することになった。けれど、対人関係を上手く構築出来ずに教室の隅っこで一人俯いていた自分に声を掛けてくれたのはミキだけだった。
次々と幸せだった頃の日々を思い出すように語るカナコの表情は自然と柔らかくなっていく。ミキという少女を通して見た世界を好きになっていったあの頃。今尚輝いている想い出達。
初めて居場所を見つけた。ミキと一緒に居られればよかった。ただ、変わらないままで笑いかけてくれれば。
「それだけで、よかった、のに……」
カナコは両手で顔を覆った。ふぁさりと毛布が零れ落ちる。フェイリュアは、そっと微笑んで寄り添った。
「このお花ね、ゼラニウムっていうんだ。お花の持ってる言葉、きみがいてしあわせっていう意味なんだって。フェイはね、カナコに逢えて嬉しいよ」
フェイリュアは背中を撫でると、そのまま溢れるような想いと共に涙が溢れてくる。何かを言いたいようにしているが嗚咽に混じって上手く声にならない。
ただ、じっとフェイリュアは聞いて頷いていた。カナコの想いを受け止めるように。
「うん、カナコ、我慢強いね。……でね、いっぱい泣いたその涙の向こうには何が見える?」
憎くないわけがない。信じていた分だけ裏切りが絶望へと変わって、憎しみが生まれる。
「失って、疎まれて、裏切られて、きっとそれは全てが嫌になるほどの苦しみなんだろう。だけど、君が嫌うもの全てを壊し尽くせば、それで君は幸せなの?」
そう、白布に言われて首を振った。赦せないとは思うし、負った傷や苦しみを返すことが出来れば気は済むかもしれない。けど、幸せにはならない。
「今のキミに足りないのは、キミ自身を支えるもの。精神的、物理的なんでもいい……そして、巣立ちだ。話を聞く限り、キミはミキって子に軽重はともかく依存してる部分があるようだね」
ユーリヤの言葉を聞いて、思わず黙ってしまったカナコの手を紗雪は優しく包み込む。
「弱くたっていいのです。自分の弱さを認める事が出来る人は、強くなれる人だと私は信じていますから」
残酷な世界でも、始まりも終わりも自分自身で決められる力を人は持っている。
白布も頷いて、遠く白い月に思い出すように言葉を紡ぐ。
「僕も、カナコさんと同じように虐められてた。けど、変われたからカナコさんも小さな勇気で変われる。そう、信じてるよ」
「時に三浦お嬢様、『シンデレラ・コンプレックス』ってご存知で?」
ニノクスの言葉にカナコは首を振った。
幸せは待っているだけじゃ訪れない。現実は自分で動いていかなきゃ、やって来ない厄介なもの。
「良かったらお友達になりたいな。……カナコさんが幸せを見つける為のお手伝いをさせて欲しいの」
差し出された夢の手をカナコが握り返そうとしたその時。
割れた硝子の音が穏やかな空気を打ち破った。
●勿忘雪
飛び散る硝子片に月の光が反射して、きらきらと輝いた。窓辺に降り立ったのは、氷のように冷たい表情を浮かべた使徒。
「……きたか」
襲撃者に真っ先に気付いたのは窓際で警戒をしていたインレ。
フェイリュアとニノクスは突然の来訪者に怯えるカナコを背に庇う。
「そうか。君達は撃退士か」
撃退士達が光纏する様子を見て、シュトラッサーはピクりと少しだけ意外そうな表情を見せた。
その様子に楸が愕然とした表情を浮かべるけれど、何かを堪える様子で十字槍を握り直す。
「カナコはまだ尊きモノを失っていない。故に奪わせはしない」
告げたインレは使徒の様子を見てみるが、意外にも撃退士達の様子を伺っているようで太刀を抜き刺そうとはしない。
「僕は人間が嫌いなわけじゃない。けど、悪魔に汲みする者となったら別。天界の剣として僕は災禍の芽を摘む。ただ、それだけだ」
「……どっちみち、カナコはヴァニタスになんかならない道を選んだよ。面倒臭いから帰ってくれる?」
ユーリヤの言葉は面倒臭そうに気怠げなものだった。
「本当に、それはシュトラッサーとしてだから……ですか? 本当にただ、それだけなんでしょうか?」
「……何が言いたいのかな」
祈るように両手を胸の前で組んだ紗雪に対し、雪色の髪の使徒は少し不機嫌に返す。
「私はまだ貴女を知らない。知らないからといって知りたくないわけではありません。此処に居るのは何か、別の理由があるのでしょう?」
「僕は僕は悪魔に全てを奪われた。使徒としてだけじゃなく、これは僕の復讐だ」
「罪を犯してない人を殺せば悪魔と同じだということは解っているのだろう?」
そんな現の言葉を予測していたかのように雪色の使徒は顔色を変えずに受け止める。
「解って居るさ。けれど、ヴァニタスになれば欲望のまま人を蹂躙して愉悦を覚えるような存在になる。人としての意志をねじ曲げられて、ね。それ以上魂と手が穢されないように」
僕はそれをあの時、出来なかったから。
言葉にこそならなかった思い。少しだけ翳ったようにも見えた使徒の表情を夢は、押し花を包み込むように握り眺めていた。
「……心に弱い部分は誰だってある。けれど、彼女はそれに負けなかった。それが答えだ」
現はあくまでも冷静に告げる。けれど、使徒はまだ納得出来ない様子で。
「弱い心と解っているのなら、君達は力を欲し悪魔に魂を売りかけた弱い心がまた、いつ転ぶか解らないのに、それでもその少女を庇うのかい?」
「カナコさんは、そんな人じゃないよ。もう迷わない、転ばないって僕は思う」
返したのは白布だった。
「どうして、そう言い切れるんだ。一度闇に傾きかけた弱い心を、君達は何故信じられるんだ」
「だって、カナコさんは悩んでちゃんと答えを出した強い人だから、だから私はその選択を信じるよ」
揺るがないような白布や夢に対して使徒の口調は少し揺らいでいるようだった。
「フェイも、カナコのこと信じる……ねぇ、あなたの敵はカナコなの?」
フェイリュアは問いかけるように言葉を紡いだ。
撃退士達は決意を込めた表情のまま、使徒を射貫いている。
「君達は、本当に……」
その様子に一瞬だけ驚いたような表情を見せた使徒。
「……まぁ、いいよ。精々後ろから刺されないようにするといいんじゃないかな。君達の選択が人類に不利益をもたらさないように、願っているよ」
何か言おうとした言葉を止めて、少しだけ呆れるように呟いた使徒は、結局は一度もその剣を抜かないままに、背を向けて立ち去っていった。
●結末を喪った物語
午前1時を過ぎた。
シュトラッサーが立ち去った後の部屋の有り様。飛び散った硝子片を拾おうとした紗雪を止めて、ひとりで拾おうとしたカナコを、今度は皆が止めた。
結局は掃除道具を持ってきて貰い、割れた窓硝子と散らかった部屋の最低限の片付けだけはしている。
「ところで、カナコよ。御主はこれからどうしたい」
「とりあえず、このまま生きてみようっては思う、けど、それでも……まだ、学校へは行けないかな……」
部屋の整理をしながら、ふとインレが訊ねてみたそんな言葉にカナコは少し自信無さそうに答えた。
生きて行くことは決めた。新しい友達を得たことで、少しだけ前を向いて歩いていくことは出来る。
けれど、学校での現状は何一つ変わらない。ミキにどんな顔をすればいいのか解らなくて、脳裏を色々な想いが駆け巡っていく。
「それは、今すぐ出すべき答えじゃありませんよ。……そうですね、この単語帳とシャープペンを借りてもよろしいですか?」
「いいけれど、何に使うの?」
きょとりと首を傾げたカナコに現は優しい眼差しを向けた。
その単語帳を覗き込み現の意図を察した撃退士達が同じように単語帳へと書き込んでいく。
「大丈夫なのです。カナコさんは一人じゃ無いのですよ。寂しかったり、辛かったり、また迷った時には……むしろ、そうじゃなくても連絡して欲しいのです。今度は撃退士としてではなく、友達として相談に乗りますから」
最後に紗雪が単語帳に書き込んで、シャープペンと一緒にカナコに単語帳を渡す。其処には1ページずつ連絡先と一言ずつメッセージが書かれていた。
「幸せの為に努力する姿ってェのは、それが誰であれ美しいモノなんでさ。ガラスの靴を履く為に踵を切り落とすシンデレラが居ても、アタシは素敵だと思いますよゥ。へへ」
ニノクスの明るい声が割って入って、微笑む紗雪やインレの優しさに支えられて、弱々しくもカナコは微笑みを返した。
「楸さん、どうしたの? なんかぼーっとしてるけど」
そんな様子を遠目で見ていた楸に気付いた白布が覗き込むように訊ねた。
「……雪那(セツナ)。それが妹の名で、多分あのシュトラッサーの名前だ」
「え、っと……どういう事なの?」
「俺の妹はシュトラッサーだ。故郷は使徒になった妹によって滅ぼされて、俺はその事件でアウルを得て生き延びた」
憶えている。紅い日だった。夕陽に血の赤が混じりあい、その中心で血を浴びた妹が居た。
衝動的に踏み出して戦闘になった。勿論敵うはずもなく発見された時には、辛うじて生きている程度だったらしい。
「あれから5年も経ってるんだ、随分と俺も変わったからな」
復讐でも無く、自分でもよく解らない感情で今でも妹を追い続けている。その為に久遠ヶ原へ入り、撃退士を志した。
5年経ち成長した自分の姿。向こうは気付かなかったんだろう。
「今回は三浦を護るっていう任務だった。その任務を忘れて突っ込む程俺も判断力は失ってないさ――にしても、意味解んねぇ。奪っていったのは悪魔じゃなく雪那自身だろうが」
勿論、その答えを返す当人は既にこの場に居るはずもなく。ただ夜の風が吹き抜けていくだけだった。
見上げた月。益々宵の色は深く昏くなっていく。夜明け前は昏い。
けれど、その夜空の向こうには明日が待っている。