●潮騒の悔悟録
何処までも蒼かった。
ただ、何処までも広がるような蒼い世界。その先で蒼い空に海が混じる。
手を伸ばせば届きそうで、けれどどれだけ手を伸ばしても届かない。まるで其れはかつて、この手の指の隙間から零れ堕ちたものに似ている。
全てが蒼に包まれ消えていきそうな錯覚を覚える程に、この島の光景は美しく、そして――。
(目的の為に手段は選ばない。そう、決めたでしょう)
自分に言い聞かすように胸の中で何度も何度も繰り返した言葉と決意。けれど、その気持ちを嘲笑うかの如く声の無い世界に遠くから響く潮騒は遠く仄かな記憶を呼び起こす。
平穏だった日常。ただ、二人で笑い合いながら星空に願いを掛けた。
あの日々は既にこんなにも遠く取り戻せない過去の幻影。だとしても、せめて最期は安らかな終焉を。
遠く懐かしい想い出に空と同じ蒼色の瞳は揺れていた。
けれど、その思考を破り取るが如く聞こえてきたのは戦の音。そして、こちらへと何者かが向かってくる気配。
振り返って見れば、使徒の瞳を彩ったのは驚きの感情。
(こんなに、早く撃退士達が来るなんて……)
遠くに見えたのは現れ武器を構えた撃退士達の姿だった。
●空が散る日
海は硝子の如く何処までも澄み渡り深い藍色を湛えていた。
その海と同じ色を浮かべた空を吹き渡る風に優しい木々の緑は穏やかに揺れている。潮の香りに混じるのは、少しだけ懐かしくも感じる南国の花々の香り。
数々の自然と寄り添い生きる小さな島――それがこの星の島の本来の姿だった。
鬨の声が蒼穹に響き渡り、久遠ヶ原学園より派遣された撃退士達の殲滅作戦が開始されてから少しの時間が経った。
「他班の方達の負担も大きいことでしょう……早々にあの方には立去ってもらわないといけませんね」
仲間の撃退士達の猛攻により穿たれたサーバント群の隙を潜り抜け龍玉蘭(
jb3580)を始めとした中央後班。
標的である三姉妹サーバントと使徒がいる本陣を目指しその脚を休めることなく走り続けていた。
「っ! はい! まだまだ未熟者ですけれど、精一杯頑張ります」
一同の意志は只管に前を向いている。けれど、玉蘭に応えるように口を開いた天野 那智(
jb6221)の視線は周囲に向けられていた。
自然と寄り添い暮らす平穏の島。
けれど、木々は薙ぎ倒され地には大きな穴が穿たれている。
「……こんな自然豊かな綺麗な場所が侵されるのは我慢なりませんから、ね」
痛々しいその姿をそれ以上見ていられない。だから、これ以上の暴虐を決して赦してはなるものか。
今何か出来るのは無尽光を持つ自分達だけ。例え未熟者だとしてもその光は希望の黎明になるはずと、潮風に那智の巫女服の裾は揺れる。
必ず、護ってみせる。救ってみせると。
「ええ、私もです……どうかこの島で、平穏の歌が響く為に刀を手に執りましょう」
こんなにも美しい蒼穹の空に剣戟の音は似合わない。響くのであれば平穏の祈歌を――その旋律を奏でられるよう織宮 歌乃(
jb5789)は緋色の刀に誓いを込める。
「諸君! 居たぞ!」
赤糸 冴子(
jb3809)の声の先に一際目立つサーバント。その更に奥には中心に青年の姿。
「どうやら、使徒のようだな」
「そうみたいっすね」
確かめるように呟いた泉源寺 雷(
ja7251)に返した平賀 クロム(
jb6178)の言葉には何処か昏い響きが込められていた。
使徒――力を求め人でありながら人類を裏切った者達。
クロムのは今にも駆け付けて殴り倒したい衝動を抑えて、拳を握る。勝てないと解っている相手に仲間を巻き込んでまで挑む意味は無いから。
そんなクロムは使徒の憂いに満ちた横顔に不思議な既視感を覚えることに気が付くけれど、まだ、思い出せない。
彼の様子が少し気になりながらも、島津 忍(
jb5776)は言葉を紡いだ。
「状況を開始する。慣れているとはとても言えまいが、先ずは全力を尽くそう」
忍の言葉に一同は頷いて陣形を取り、戦闘体勢へと入った。
●響き渡る、見えない明日
いち早く銃を構え攻撃態勢に入ったのは鷹代 由稀(
jb1456)。
「出来るだけあがくけど、早めに終わらせてね。みんなと違って若くないから体力がねー」
冗談めかした口調だが煙草に火を付けて銃を構えた由稀の瞳は鋭い。挑発するように太股に打ち込まれた弾丸に誘われるように由稀を認識し剣を構えたエリュアレ。
ふわりと軽やかに、振るう刃が鎌鼬を生み由稀の腕を斬りつけて血を流す。けれど、由稀はその構えは緩まない。
「んじゃ、踊ってもらうわよ」
繰り広げられるのは銃撃と剣閃の舞。さぁ、踊り狂おう。
「赤椿の祈り、緋刃と化して参ります」
舞踏に添える歌のように紡がれる言葉。乙女の祈りに応えて歌乃の手から放たれた光は、椿の花片と化して風を伴いステンノを同じ色彩への石と変える。
どれだけの効果を見込めるか解らない。けれど、一瞬でも動きを封じられればそれでいい。
祈るような歌乃の視線の先、ステンノの背後に現れたのは気配を消して近づいていた忍。
「油断も慢心もせんよ。猟兵の戦いの時間だ」
定めた獲物は決して逃がしはしない狩人。振り上げた武器に乗せ躰を蝕む毒を放つが期待していた効果は得られないようだった。
ステンノが石と化し、エリュアレは由稀が食い止めている。
故にメデューサを護る者は誰もおらず、それでも関せずとメデューサは無機質に立ちはだかる障害物をただ薙ごうと行動を開始する。
「さて、念のため聞くが、あくまで支配者層の駒として動くと言う事だな?」
命令のまま行動する光を映さない瞳に応えは無く。しかし、それが冴子への答えだった。
そうか。
「ならば、殲滅する!」
勢いよく構えたショットガンから無数の散弾が撃ち込まれる。
メデューサが口を開く。音にならない大気の震えに黒い蛇の幻影が生まれ真っ直ぐに冴子を襲う。しかし割り込むように玉蘭が庇う。
「大丈夫、私が守りますから」
メデューサの攻撃や呪いでさえも弾き飛ばす彼女の献身の意志の硬さ。
冴子が気を引くような形になった隙に那智は側面に回っていた。攻撃後に生まれる一瞬の隙を狙って対面に居たクロムと目を合わせて、頷き合う。
同時に放たれた攻撃はメデューサの体を穿つ。
確実に流れは撃退士達側にある。このままメデューサを叩き落とせれば。
しかし、それよりも早くステンノの石化が解けてしまった。
メデューサを切り付けようと駆けて近付いていた雷に無数の蛇が絡みつき、その行動を止めようと締め上げる。
けれど、冷静に雷は刀で断ち切り束縛を逃れた。
「イメージチェンジはどうだ?」
雷の剣閃により切り裂かれたはずの髪は、また直ぐに蛇のように蠢きながら復活してしまう。
けれど、雷の顔に浮かぶのは余裕に満ちた表情。
「一度に二人の攻撃は防げるか? ステンノ」
視線の先、玉蘭の放った光の衝撃がメデューサを撃ち抜いていた。
歌乃の椿姫風に続き忍が毒撃を放つがその両方が効果を成さなかった。
充分な距離も取れなかった為、大半の攻撃がステンノに庇われてしまい撃退士の間に焦りが生まれる。
「本当に厄介な姉君だ。もう少し妹君に厳しくしたまえ」
それならばとステンノに庇われるのを承知で冴子はショットガンを放つ。
庇うのは撃退士達も同じ。サーバントからの攻撃を玉蘭が何度も庇護の翼で弾き守護していた。退くことなく少しずつ両軍共に消耗して行く。
戦況の中、一瞬でも攪乱させらればいいと忍は発煙手榴弾を放つ。
しかし一瞬で潮風に掻き消され後には何も残らない。発煙手榴弾の性能程度では天魔関係せず視界を奪う程にはならない。
けれど忍は冷静に武器を持ち替えステンノに向く。
「イエェーガァーーッ!」
雄叫びを上げ跳躍し、体重を乗せた鋭く重い一撃。ステンノの意識を掻き乱すには充分。
再び引き金を引こうとしていた冴子にメデューサが幻影の黒蛇を放つ。玉蘭の翼は尽きて冴子への攻撃を許してしまう。
だけれど。
「私の祈りの焔が、冴子様をお守り対します故……共に全力で天魔の魔蛇を討ちましょう」
「感謝する」
歌乃が放った緋獅子の衣の加護。温もりに守護され直撃したメデューサの攻撃になんとか気を奪われそうになるのを堪えた。
「面倒な相手姉君をお持ちだそうだが、これならばどうか!」
放たれる弾丸はメデューサの胸を撃ち抜き、その活動を停止させる。
弾幕で応戦しエリュアレの攻撃を食い止めていた由稀。
間合いに入れば鋼糸で応戦し、長年の勘を活かし戦い続けていた。
「銃撃つだけじゃ芸が無いでしょ? マジックとまではいかないけど……こっちが動けなくなる前に手足の一本ぐらいは貰うわよ」
まだ行ける。けれど、一人で止めているのには限界がある。そのまま鋼糸を操り左踝を削ぎ落とす。
それにより機動力は落ちるが、横目でチラリとメデューサの方を見れば丁度撃破した時だった。
「速さならこっちも負けないっすよ!」
「援護は任せて下さい!」
いち早く駆け付けたのは那智とクロム。
両方面から囲うように武器に雷を纏わせ放ち穿つ。
次々と放たれる攻撃に推されていくエリュアレ。
主力のメデューサが落ちたことで完全に流れは撃退士達にあった。
エリュアレの速さも撃退士の集中攻撃には耐えられずあっけなく落ちた。
また、ステンノの丈夫さも撃退士達の猛攻には耐えられず、
「これで、終わりだ」
踏み出すと同時、薙がれた雷の刃。
鋭く放たれた一撃は、長姉の命を刈り取るには充分だった。
●憂愁の使徒
ステンノが倒れた。
これで、担当サーバントは全て撃破に成功した。
通信からの報告によると各地で繰り広げられている戦闘は撃退士側の優勢でサーバントを次々と撃破し侵攻を食い止められているのだという。
「さて、私達としては立ち去っていただけると助かりますが?」
「ええ、私としてもこの場で戦うつもりはありません」
警戒は緩めないまま告げた玉蘭に対し使徒はそう返す。
人類の裏切り者――射貫くように強く向けられたクロムの眼差しは鋭くて何処までも冷たい憎悪の瞳。
「一応聞くだけ聞くっすけど。種子島を突然襲撃した、その理由は一体なんっすか?」
憎い。憎くて仕方が無い。けれど、その想いを噛み殺しクロムは告げる。
「お答え出来ません、けれど」
一度、言葉を止めて再び顔を上げた。その憎悪すら受け止めるように憂愁に濡れた表情のまま紡ぐ言葉。
「……恨みたいのであれば恨めば良い。憎みたいのであればまた――その、覚悟は既に出来ていますから。それが、私のやり方です」
言い切る口調。けれど反するように思い悩んだような表情は翳りを増してゆく。
緋太刀を手にしたまま歌乃は使徒の瞳の奥に複雑に揺れる想いを感じて、堪えきれずにその口が言葉を紡ぐ。
「……元は人だったのでしょう? 日常の幸せを知っている筈。平穏なこの島を、人の血で染まった花園にしてどんな理想を叶えようと」
「知っているからこそ、ですよ。それが壊れるのも、また……」
日常の幸せを知っているから。知っていたからこそ。望む物がある。
砕け散ってしまったかつての日々。この空のように届かない切なく遠い破片。
儚い物だと知ってなお、途切れてしまった絆を信じて。惨めだと思いつつも微かな希望に縋る。
「だから、ただ……救いたいだけです」
「救う為に、成す術が争いでしかないと?」
「全く、理解出来ないな……」
使徒の応えに対して冴子と忍の声が返された。けれど。
「そうすることでしか、救えない魂もあるんですよ」
だから、戦うことを。その為にこの手を穢すことを厭わない。
人を傷付けることに躊躇いが無いと言えば嘘になる。けれど、それが道だと言うのであれば。
「争うというのなら、私が貴方を止めます。日常を護りたくて刀を手に執った、赤き獅子の娘として」
織宮 歌乃。そう、名乗った彼女は使徒に同じように求めると。
「檀。姓は八塚……久しぶりですね、姓を名乗るのは」
何処か噛み締めるように使徒はそう、名乗り返した。そうして、背を向ける。
「……お前さ、ヴァニタスに知り合いがいたりするか?」
去る檀にクロムが声を掛けた。
ふと、振り返る檀。浮かべる表情は違えど、確かにかつて対峙したヴァニタスと同じ顔をしていた。
使徒の姿が完全に見えなくなってから一同は緊張の糸が切れたかのように、一気に息を吐く。
「う、うーん……けど、何とか上手く行きましたね」
「さて、どうでしょう? 意外と見逃してもらえたのかもしれませんよ」
那智の言葉にそう玉蘭は返す。
だって、あの使徒は自ら攻撃しようとはしなかったのだから。
実戦経験が浅く傷だらけの自分達と、多数のサーバントを率い無傷のシュトラッサー。
使徒の強さが正確に如何程のものかは解らない。けれど、こんな状態の自分達と使徒が戦ったら――考えるまでも無いだろう。
「はーぁ、化け物相手はやっぱ疲れるよー」
「コーヒーでよければある。どうだ?」
「おー、貰えるものなら貰っとこうかな」
由稀は雷から受け取った缶コーヒーを呷る。隣で同じようにカフェオレを飲む雷と同じ空を見上げる。
瞳に映るのは美しき蒼穹の空。
失われた命は戻ってこない。けれど、今あるものを護り抜ければ未来に希望は紡げるはず。今は、それで充分だ。
何処か予兆めいた風を連れて、祈りは蒼に溶けていった。
中央後班。
重傷者を出さずに、使徒及び天界勢力を撤退させることに成功。
蒼の世界。ただ締めつけるように美しい瑠璃色の空と海。
静まり返る南種子町を、ただ潮風は吹き抜けていった。
●寂寞の黄昏
恨んで欲しい。憎んで欲しい。
こんなことでしか、何かを為せない自分に刃を向けて欲しい。
赦されないことで、赦されたかった。
想いを押し込めて言葉を紡ぎ出していたけれどあの撃退士の少年が向けた視線は確かに語っていた。
――人類の裏切り者。
それは、あの日の彼のように憎悪を孕んだ哀しい瞳。
覚悟は出来ている、出来ていた。
憎しみの瞳を向けられるのも慣れていたはずだった。
手段を選ばないということはそういうことで。目的を叶える為には、何かを犠牲にしなければならない。
どれだけの人の未来を壊したのだろう。きっと、数え切れないくらいの人の希望を奪ってしまっている。
自分の願いの代償は人々の明日。その為の犠牲と割り切れる程――終わりの無い思考迷宮。翳りもまた深く濃くなってゆく。
(私は、ただ……)
沈む太陽。暮れていく空は長く何処までも細く伸びる影をひとつだけ作る。
ひとりきりで迎える夕焼けはあの頃と変わらず美しい。優しい茜色に仄かに胸を突き刺す痛みを覚えて檀は目を逸らした。
「檀……」
遠くから檀を見つめるジャスミンドールの視線にも気付かぬまま。
やがて、遠くの空を染める藍の色が夜の訪れを告げていた。