――朽ちろ。
◆ ◆ ◆
「……うっわー」
その街を見下ろして。彼女が漏らした感想はただそれだけだった。
眼下に広がる光景を、呆気にとられた面持ちでぽかんと見つめ、
「これが……全部、敵?」
並木坂 マオ(
ja0317)はぽつりと呟いた。
黒い髪。そして、それよりもより深く濃い、真っ黒な瞳には、驚愕を通り越して呆れの色が浮かんでいる。
増殖を繰り返す樹海の木々は、うねり、複雑に絡み合い、馬鹿馬鹿しいほどの質量を持った、巨大な森になりつつあった。森になりつつ――そして今もなお、侵食をやめない。
「街ひとつ飲み込むとか……やっぱとんでもねぇなぁ、天魔。かーなーり、シャレにならんわ」
距離にしておよそ、一キロほど。緑の街並みを(比喩ぬきで正しく緑の街並みを)周囲で一番高い建物の屋上から見下ろすのは、八人の人影だった。そのうちの一人――黒髪に赤い瞳の少年が、うんざりしたようにぼやいた。
「確かにね……街を飲み込む森か。自然の逆襲といえば聞こえはいいけど、天魔に歪められたものだと思うと、ぞっとしないね。ここは早々にお引取り願うとしよう」
笹鳴 十一(
ja0101)にネコノミロクン(
ja0229)が相槌を打つ。腰まで届く彼のダークブロンドが、風に流されさらりと揺れた。
「ほーんと、嫌になるくらい大きいですねー。アルス姉さんの術を思い出します……」
澄んだ青い瞳のに、広がる森を映しながら、ソリテア(
ja4139)が、どこかげんなりとした面持ちで呟く。何かの記憶を払うように、かぶりを振って、そっと頬に印された紋様をなでる。
「何千――何万本、でしょうか? 森林浴、と言うには薄気味悪いですね……」
「確かにな。森林浴なら間に合ってるぜ」
実際に口にして不吉さを感じたのか、水無瀬 詩桜(
ja0552)は、倦厭するかのように眉根をひそめた。その言葉に、ジョニー・パターソン(
ja7004)が頷く。
「確かにな。ま、相手が天魔ってなら根こそぎぶっ潰してやるまでよ」
緑なす樹木が都会の喧騒を静かに飲み込んでくれるのならば、なるほどそう悪いものでもないが、文字通り実際に『飲み込まれて』しまっては元も子もない。ましてや、それが天魔ともなれば。調和などは当然望むべくもなかった。
「うー……それにしても、でっかい樹ですねー。倒しがいがありますっ」
「さすがにここまでとは……想定外の大きさでした。丁嵐さんのやる気にあやかりたいものです。ともあれ、早く片をつけないとマズイですね。種でも撒かれて、ネズミ算式に増殖されたら目もあてられません。ここまで巨大化したもの相手だと、こちらの攻撃がどこまで通じるのかが不安でもありますが……」
丁嵐 桜(
ja6549)の言を受け、四方堂 一樹(
ja0152)が思案深げに呟く。あごに手を当て、腕を組み、静かに瞳を閉じた思案のポーズで、
「つったってぇ、予定通りにやるしかねぇだろ。いーんでない? 隊列組んで、一気に特攻! この人数と装備じゃ、他にやりようも思いつかんよ」
両膝をかかえながら、微妙に地面に座りきらない姿勢で、屈み込んだ笹鳴が、四方堂を見上げて笑う。気負いのない笑顔。それにつられて、四方堂の表情がふっと緩んだ。
「……ですね」
「ま、大丈夫だよ。こんだけ撃退士が揃ってんだもん。かるーく楽勝してやろうよ!」
ぐっと軽くこぶしを握り、並木坂が明るく宣言する。彼女の言葉に、笹鳴は座った姿勢のまま、にっと肩をすくめて頷いた。
「だーな。んじゃま、いっちょ森林伐採と洒落込むか」
「――っうわあああああああっ!」
悲鳴を聞くと同時――
身体は既に動き出していた。思考より先に行動がある。並木坂は、迷う事なく悲鳴の主の元へと飛び掛っていった。正確には、その声を上げた男性に、絡みつこうとする蔦の元へ。
撃退士は超人だ。
常人と比べて何倍何十倍何百倍の身体能力を持ち、アウルを練る事で放たれるスキルは、それまで世間と化学が信じてきた物理法則さえ、簡単に裏切る事が出来る。火の気のない場所から炎を生み出し、圧縮フロンも使わずに大気中の水分を凝縮させ、呪文一つで氷を作り出す事も出来る。
ましてや、彼女はその才を引き出す為に訓練を重ねた撃退士だ。
地を軽く蹴る――跳躍というほどの強さではなく、地面を滑るように。踏み出しの推力を上昇ではなく全て前進に使い、並木坂は一気に相手との距離を詰めた。
自分が動けば世界は止まる。それは錯覚でも何でもない、たんに経験からくる事実だった。どこまでも加速する知覚が、世界を置き去りにしていく感覚。流れる汗、呼吸の音、風の強さ、空気中に飛散する塵の数まで、全てが明確に認識出来る。その中で動くのは、あまりにも容易い。
青年を絡めとろうと、伸びてくる蔦を蹴り飛ばす。うねる蔦は衝撃そのままに形を変え、触れた先から並木坂の足に撒きついたきた――ところを、逆手に構えたダガーで力任せに切り落とす。ここまでが全て、一挙動の動作。
残る片手にも役目はあった――事態の速度についていけず、目を白黒させている青年の、首根っこを引っつかみ、今度は力一杯に地面を蹴って後方に跳んだ。その後を、追撃するように蔦が追いかけてくる。
避けられない。普通に考えれば。が、肥大した知覚はもう一つの可能性を彼女に伝えていた。眼前に迫り来る蔦を、瞬きもせずにじっと見つめ――
「貫け!」
一言。
水無瀬の声と同時に、並木坂の背後から、薄紫の輝きが生まれた。膨れ上がる閃光は矢となって蔦に降り注ぎ、一瞬で標的を消滅させる!
が、効果はそれだけで終わらなかった。崩壊は瞬く間に広がり、発生する木々よりも速く、破滅の光が森を蹂躙していく。樹海の一部が抉られ蔦が後退したのを見て、並木坂はようやく掴んだままの青年を手放した。一瞬で生命の危機と救出を経験した彼は、忘我の状態でへたり込んでいる。
その顔をひょっこり横から覗き込むようにして、水無瀬が声をかけた。
「あのー、大丈夫ですか〜?」
「ブ、ブレイカー……」
「はい。撃退士です。後は私達が引き受けますので、この場は任せて、他の皆さんと一緒に避難しちゃっててください」
見ると、青年の他に、銃火器などで武装したメンバーがいる。迫る樹海になんとか抵抗していたのだろうが――結局のところ、天魔のような災害と真の意味で渡り合えるのは、撃退士しかいない。相手もそれを理解しているのだろう。即座に頷き、仲間と共に去っていった。
それを見送りながら、ぽんっと肩に触れる手に、振り向くと、並木坂が笑みを浮かべて立っていた。
「さっきはありがと! 助かったよ」
「いえいえ。お互い様ですから大丈夫です。実は実戦で使うのは初めてのスキルでした。ちゃんと敵に当たってよかったです」
爽やかな笑顔で告げられる事実には、なにやら不穏なものもあったりしたが。
「嬢ちゃん達! 来るぞ!」
警告を発したのはジョニーだった。ネコノミロクンが、素早くその後を続ける。
「隊列を組んで! 個々で撃破されて、消耗戦になったら分が悪い! 陣形から外れないように!」
尚も侵食を進める蔦は、不気味なほどゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。無数の蔦が複雑に絡まりあった様は、癌細胞のようだ。そんな中。
先陣を切ったのは笹鳴だった。隊の特攻隊長。迫り来る、触手じみた蔦をかわしいなしながら、手にしたハンドアックスを無造作に振るい、次々と切り裂いていく。
「へへっ、サイズだきゃあ馬鹿でかいが、こんなノロイんじゃ、意味ねぇやな!」
「数が多いですけどね!」
四方堂が叫びながら、アスファルトを砕き、地中から噴出したきた枝を、仰け反ってかわす。一瞬前まで彼の頭があった場所を、彼の胴回りほどもある枝が過ぎてゆく。
「……っと!」
更に。彼の足元に撒きついてきた蔦は飛び上がって回避した。そのまま、空中で器用に背後から伸びる蔓を蹴り飛ばし、その反動を利用して頭上の枝に着地。伸びる枝が身体に絡みつく前にまた、近くの枝に飛び移る。
常に一箇所に留まらず、上下左右、全方位を飛び回り、一撃離脱を繰り返しながら、木々の侵食を防いでいる。冗談のような機動力だ。
「っらああああ!」
叫び声と共に一閃。ジョニーが全体重を乗せてハンドアックスを振るった。伸びてくる木々をまとめて一刀両断にする――が、それだけだった。切った数だけ――否、それ以上の数の幹が、すぐにまた伸びてくる。それを見て、ジョニーがぼそりと呟いた。
「……きりなしか?」
「こっちが破壊するより、再生速度の方が早いみたいだね。……不味いな」
「皆さん、どいてください!」
鋭い声。目に飛び込んできたのは、ブルーのツインテイル。小型のガズボンベを構えたソリテアが、紋様に彩られた幼い顔には不釣合いな、酷く好戦的な笑みを浮かべ――
「――って、ちょっと待って……」
茶色の瞳にぎょっとした色を浮かべ、ネコノミロクンが静止の声をあげるが。
彼女は、待たなかった。
閃光。そして爆発。
爆音はなかった。否、轟いたかもしれないが、耳には届かなかった。
急激に熱された空気が膨張し、一瞬で広がる。舞い上がる土煙、赤い炎の舌が、あたりを丹念に嘗め尽くし、生まれた上昇気流が、地上の塵を吐き清めた。クリアな視界に映ったのは――
「……あれ? 効いてない」
そこはかとなく煤だらけになったソリテアが、意外そうな声を上げる。その彼女に、ネコノミロクンがけほけほと咳き込みながら、
「……っ当然、だよ。透過能力を持つ天魔に、通常攻撃が効くわけないだろう」
周囲の瓦礫や塵に燃え移ったのか、地面から強烈な熱気が立ちこめていたが、肝心の樹木にはいささかの影響もない。透過能力の真髄は『許可されないと触れられない』。撃退士がこの世の条理を覆すように、天魔の透過能力はあらゆる『力』を無効化する。斥力引力重力表面力張力火力、てこの原理や滑車運動。慣性の法則。そして、広域爆発で生まれた爆風や、炎さえも。
撃退士のもつアウルだけが。
唯一、天魔に致命傷を与えられるのだ。
「じょ、状況が明らかに悪くなった……」
天魔には効かないが、生身の撃退士には有効な煙と炎が周囲に立ち込めるのを見て、四方堂が頭を抱える。と、
「――危ない!」
「避けろ!」
動きを止めた三人に向けて、重なる警告が二つ。先に動いたのは丁嵐だった。
四股を踏むように両の足を踏ん張り、地を割りながら生き物のようにのたくる根っこを引っつかむ。そして
「――りゃあああああ!」
まるで雑草か何かのように。太さ数十センチはある樹木を、力づくで引っこ抜いたそのまま無造作に投げ捨てる。一方で、触手に捕まった仲間を目にした、ジョニーの判断は冷静だった。
(ガス爆発が効かねぇんじゃ、トーチの火も意味ねぇな……となると)
取れる手段は一つしかない。ならば迷う必要はない。
意思を純化し研ぎ澄ます。彼の身内に宿るアウルが、血流と共に身体を廻り、やがて一箇所に集中するイメージ。掌に生まれた白銀の炎が、彼の獲物を包み込む。燃えさかるアウルの炎は刃となって、木々を呆気なく斬り払った。樹海の一部に空隙が生まれる。
「おー、やるなー。ジョニー」
「えーっと」
スキルの威力に純粋に感心してみせる笹鳴の横で、ソリテアが気まずげに汗を流す。彼女は素早く、囁くように何かを唱えると、唐突に手を掲げ、呪文を唱えた。降り注ぐ光の矢が、密集した樹木に突き刺さり、一気に森を減退させる!
「さあ! 道が出来ました! 皆さん、ここは危険です。先に進みましょう!」
「切り替え早いなぁ……」
その素早さに感嘆しつつ、一行は先を急いだ。
天魔相手に持久戦は不利だ。
特に、周囲の物を端から取り込み、無尽蔵な増殖を続ける相手ともなれば、まともにやりあうのはあまりに馬鹿げている。もとより、街を丸ごと飲み込むような質量を相手に、正面からぶつかって敵う筈もない。
足元の瓦礫がはじけて、その隙間から一本、また一本と蔦が押し寄せてくる。唯一の救いは、その速度だ。特に指向性も持たず、ただ触れるものを取り込もうとする単純な動きだけなので、現状でギリギリ生き延びている。と――
「――見えたっ!」
並木坂の歓声があがる。ただひたすらに突き進んできた森の塊の中に、光り輝く一点があった。ソリテアが即座に詠唱を始める。
空が暗い、中心に辿りついた時点で、一行は既に樹海に飲み込まれていた。四方から迫る無数の枝を、ふたりのダアトを中心に、それぞれが牽制する。
水無瀬の突き出した手の先から、紫の光が放たれる。一瞬の空隙が生まれるが、あまり意味はない。森全体を消し去るには、あまりにも力が足りない。
「植物が俺の手足を取ろうだなんて、いーいい度胸だ! ちゃんとエスコートできんだろうなっ!?」
「こんのっ――」
ジョニーが啖呵をきり、手足に絡みついてくる蔦を引き千切りながら、並木坂が声を荒げる。と、そこで。
魔女の呪文が完成した。高らかに叫ぶ。
「街を飲み込むのは、いい加減にしてください! Curus=Undine=Forts The Third Fortune/Arctic Blizzard!」
魔女には六人の姉がいる。姉妹は互いに力を分かち、望むものに分け与える。
三番目の姉、クルスを頼みにして放たれた術は、大気を一瞬で凝結させ、無数の氷弾を生み出した。
澄んだ清らな優しい水が、信じられないほどの勢いで空間を満たし、凍えるような冷気が、礫となって巨大樹へと襲い掛かる!
葉が、枝が、蔦が、生茂る緑がそのままに、吹き荒れる氷弾が弾ける度に、巨大樹全体が凍り付いていく。固まり、凍り、そして。やがて。
澄んだ音を立てて。限界を超えて巨大化しすぎた樹木は、自重に耐え切れず砕け散った。きらきらと。砕ける欠片が宝石のように飛散する。
「こんなにあっさり……?」
丁嵐が、拍子抜けしたように漏らす。四方堂が肩を竦めた。
「極度の低温の中では、どんな植物であれ、硝子より脆くなります。液体窒素の薔薇実験は見た事ありますか? あれと同じ理屈ですよ。加えてこれだけの質量ですからね。動き回っているうちはともかく、固まってしまえば自重に耐え切れません」
更に言うならば。固体となった状態では、液体よりも体積が増える。植物の成分はほとんど水だ。凍りついてしまえば内側から膨張し、更に崩れやすくなる。
がらがらと音を立てて崩れおちる巨大樹の名残を、鎮痛そうな面持ちで見つめていた水無瀬は、ある一点で目を止めた。
「あ……皆さん、見てください! あそこ――」
興奮に声を上ずらせて指差す。その先には。
崩れて、飲み込まれた街並み。その奥に建つ、一際大きな建物から歓声をあげて飛び出してくる、人々の姿だった。
「そうか……侵食の方向が避難所と逆方向だったから、避難出来てたんだ」
緑の天蓋が崩れ、空に太陽が覗いている。
陽光に照らされた巨大樹の欠片は、美しく輝いていた。