●レインデイズアイスクリーム
小さい頃から、ずっと眼鏡をつけて暮らしていた。これがなければ何も見えない。視力検査など、一番上のそれすらただの真円に見えるほどだ。否、歪んでみえるのだから真とはいかないか。ともかくも、私は昔から目が悪かったのである。
眼球病。眼球病。それはそう呼ばれている。病気では、ないのだとしてもそう呼ばれている。身体に目玉を生やし、百目鬼に憑かれたようなその姿。死なないから。死んでいないから。それで終わらせられるはずもなく。
まるで、悪夢のようだと、梶夜 零紀(
ja0728)は胸中呟いた。容姿の異常、視力の異常。放置すれば近い将来、精神をも異常をきたすだろう。そうなってしまう前に、そうやってしまう前に。元凶を絶たなければならない。狂ってしまえれば。いっそ死んでしまえれば。そういう類。そういう劇物。
目玉を生やして。全てに視神経を繋げて。過大する情報を叩きこませて。吐瀉物として目玉を産ませる。自分と同じにする。人間を人間でありながら人間のまま人間とは言えない何かに貶める。その異常性に、郭津城 紅桜(
ja4402)は心中で苦虫を噛み潰した。
「この世の物とは思えない有様ですわね。早急に退場を願いますですわ」
「実に無様な姿ではないか、女もこうなっては目も当てられんな」
ラドゥ・V・アチェスタ(
ja4504)の言葉は残酷だ。眼球のディアボロ。感染源。彼にとってはそんなもの。そんな人間から離れたもの。化物ですらなく、狗に過ぎない。憐憫を抱くになど値せぬ。精々足掻いてくれればいい。虫ケラよりはマシだと思える程に。
リュカ・アンティゼリ(
ja6460)が短くなった煙草を携帯灰皿に落とし込んだ。これが、最後の一本だ。名残惜しいことだが、ここからは任務。潜伏込の仕事となる以上、紫煙をくゆらせながらというわけにもいくまい。恋しく感じもするが、それも件の感染源を始末するまでのことだ。
「見つめられンのは好きだが、目玉の数は二つまでにしてもらいてェな」
「何ていうか、気持ち悪い相手だなぁ」
声ではそういうものの、鈴原 りりな(
ja4696)の顔は寧ろ歓喜の一色に塗れている。相手は眼球病の感染源。ディアボロ。つまりは天魔のそれだ。だったら気持ち悪かろうが敵だろうが誰も死んでなかろうが兎にも角にも行動はひとつだけ。
「天魔は全部壊す……壊してあげなきゃいけないんだよっ! あはははっ!」
眼球病。その感染源が今回の相手だ。接触から目玉を吐き出させられ、体液に触れればそれと同じにされる。レインコートの女。そんな風貌だと聴いている。目玉だらけで、ふため見たいなどけして思えぬのだと。だけどエルザェム・シュヴェルトラウテ(
ja6482)はお腹が空いたのでそんなことより早く終わらせてご飯を食べたい。
その体液に触れれば、そこに眼球が生えてくる。厄介で、気味の悪い敵だ。しかし、と。フローラ・ローゼンハイン(
ja6633)は思う。視神経の繋がった眼球。ひとつふたつであれば便利なのではないかとも考えられるだろう。元来視認できない後側頭部であれば視界も消えるのだから。だが果たして。外れた調和を受け入れられるかどうか。
卯月 瑞花(
ja0623)が道を行く。人通りの少ない道を。助けを呼んでも叶いそうにない場所を。こうやって、誘き寄せる。つまりは囮だ。こうしてはいるものの、仲間も視認できる範囲で隠れているのだろう。視線は感じない。気配もない。だが、それでいい。そうでなくては隠れている意味もない。
ここに来て、雲行きが怪しくなってきた。ぽつり。ぽつり。ざあざあ。ざあざあ。途端に雨脚は強くなり、世界を濡らす。錯覚ではあるのだろうが。途端、悲壮感で溢れたような気がした。
●アシッドキャンディ
ある日、突然見えるようになった。眼鏡をかけたまま眠ってしまったのかと思ったものだ。そうではない。そうではなかった。ほら、かけていないのに見えている。素晴らしい。後ろも横も前も斜めも多角的に多重的に見える見えるはあははは。
雨がやかましい。ひどく、やかましい。降って、地面にあたる音と。自分のレインコートに跳ねる音と。体液を浴びてはいけない。血液を浴びてはいけない。そのために用意したこの雨合羽ではあったのだが、思いがけずそれとしての正しい機能を発揮していた。ざあざあ。ざあああ。やかましいものの、これは追い風でもあるのだろう。こうも五月蝿い静寂で押しつぶされているのだ。多少のことで隠れた彼らが気づかれることはあるまい。息を、潜めて。身を、伏せて。と。
跳ねる音が、ひとつ増えたような気がした。ぼとぼとと跳ねる。弾かれる音。居た。目前に。その場所に。それはいて。息を呑む間に、顔の見える距離へと移動していた。そう、見えた。見えてしまった。顔中の。身体中の。それが。
「ふむー、どう見ても黒だよねー……それじゃ始めますかねっ♪」
それが合図。それが号令。雨音の中でも響く声が、開始の号砲。駆け出して、走りだす。それでは、状況を開始しよう。
●カタストロフィックチョコレート
それは幸福だ。見えることは間違いなく幸福だ。幸せだ。幸せなのだ。幸せで幸せで幸せで幸せだ。さあ、わけてあげよう。この幸福をこの感激をこの歓喜をこの悦楽をこの境地をこの快感をこのありとあらゆる感情のないまぜからくるなにものにも変えられぬ筆舌に尽くしがたい謳歌しうる―――
すとん、と。その苦無は女の胸に突き立った。その横を瑞花が走り抜ける。苦悶の声は上がらない。だって、口にあたるそれも眼球で埋まっているのだから。その隣を、春先には似合わない雪結晶が駆け抜けた。
「その苦無は御土産にどうぞ♪ ただお代の代わりに……多勢に無勢でも最後までお付き合いくださいね?」
その声を皮切りに、包囲は完成しようとしていた。仲間、仲間。敵は、敵と呼べるものはそれしかいない。この女しかいないのだ。と。
視界から女が消えている。どこにと首を回す前にそれは目前に顔を寄せていた。恋人の距離。見つめあう、眼と眼と眼と眼と眼と眼と眼と眼。急ぎ後ろへ身体を蹴るも、指先から僅かに飛んだ赤雫が頬に付着する。ぐるんと、見えるものが三重にぶれた。
「うっわ、ホントに生えてきた!?」
新しい部位に包帯を巻きつけることで視界を奪う。両目を開けているのにひとつだけ閉じているという違和感が、意識の片隅で木霊していた。
「簡単には壊れないでよね! あはははっ!」
その瞬間は、どの眼球にもりりなが消えたように見えたかも知れなかった。近づいて、斬りつける。その所作を高速で行い、ディアボロの女を衣服ごと一閃した。
傷口が見える。血が溢れている。降りかかった一滴が顔に落ち、それが自分の新部を産んだ。ぐらりと、視界が揺れる。三つ目。車酔いのような錯覚。ひとつ増えただけでこれなのだ。数多となればいかほどだろう。顔をあげて、左のひとつと右のふたつで女を見る。確かに斬ったはずだが、衣服の隙間から見えるそれはもう赤くない。ただその形に眼球が溢れているだけだった。
「へえ、ただでは壊れなさそうだね? そうだよ、そうでないと! あはははっ!」
雨音にも邪魔させぬ高い声。狂気の声。頭痛がやまない。だがそれを超えて笑い声が止まらない。たまらない。たまらなく楽しい。みっつめのそれすらも、笑みの形に歪んでいた。
「物言わぬ人形になるまで、壊して壊して壊しつくしてあげる!」
戦闘開始の合図からすぐに瑞花のフォローへと走ったエルザェムだが、ふらふらと消えては腕を伸ばしてくるディアボロの攻撃にいらつき始めていた。こちらは空腹で仕方が無いというのに。これでは何時まで経っても満たされないではないか。
「お前……面倒だ……ガルルゥ!」
忍耐力が底をつく。強引に飛びかかり、鉤爪を振り下ろした。切り裂かれる、肉。眼球。赤いそれが激しく飛び散れば、この距離で防ぎ切れるものではない。雨合羽から露出した顔面に付着する。猛毒が付着する。途端、世界が広がった。
気持ち悪い。気持ち悪い。多重に見える悪寒。平衡感覚は失われ、まるで立って居られない。複数の眼で見ている不安感。女の指がこちらに伸ばされた。避けなくてはと思うものの、どちらを向いているのかもわからない。撫でられた。愛しそうに。愛おしそうに。胃から迫り上がる異物。雨粒の跳ねるアスファルトへと、エルザェムは眼球を吐き出した。
フローラの銃弾が、ディアボロに注ぎ込まれた。脚を狙い、移動力の抑制を狙うものの。消えては現れ、現れては消えるレインコートの女。脚を使って移動しているわけではないのだろうか。まさか、あんなところまで何もかもが視野ではあるまいし。否、それも有りうるか。
女も、常に移動しているわけではない。狙いを定めれば、それらは着実に命中していた。だが、それは逆に警戒心をもたげさせる。穴だらけのレインコート。つまるところ、血液の出口が増えたということにも繋がっている。ふとした拍子に、同じあれへとされかねない。
「体液が皮膚にかかっただけで視神経を繋げるなんて……その筋の研究者が見れば卒倒しそうですね」
どうでも、いいけれど。心中でそう続けた矢先、今度は顔が見えるほどの距離にディアボロが出現する。慌てて撃ち込み、手を伸ばされぬ距離まで下がる。また移動するそれ。脳裏に焼き付いた複眼と多眼の群れが、しばらく離れそうにもなかった。
「宵闇を照らし東雲の光よ……今この場に……っ」
紅桜の生み出した光球が周囲を照らし出し、夜暗に閉ざされた戦場を明るいそれへと移し変えた。だが、その行為に、その行動に後悔する。見えるようになったことを後悔する。見えた。見えてしまったのだ。女の、レインコートの女の全貌が。
顔の中心に双座する虫のような複眼。その周囲を埋め尽くす大小の眼球。首にまで植わっているところを見るに、その悪体は全身に行き渡っているのだろう。自分たちの攻撃によって、あるいは攻撃としての自傷によって傷つきぐちゃぐちゃになったものもあるが。その体液は彼女自身にも例外ではないらしい。開いた傷口、赤と桃色の肉裂けたそこから、またいくつも眼球がせりでてきている。口はない。眉もない。鼻孔もない。眼だ。眼だ。眼球だ。この女には眼球しかない。
その風貌に吐き気を催して、身体をくの字に折り曲げた。救いがあるならば、今戻しても角膜のそれがこぼれ落ちぬことか。
レインコートの女。正面とは真逆の位置で零紀は息を整えていた。戦闘を長引かせるつもりはない。ただ、心を落ち着けているだけだ。この位置にいながら、味方のものではない視線を感じている。間違いなく、このディアボロのものだろう。きっと、頭にも背にもそれらが植わっているに違いない。
「これが初の実戦、か。 呼吸、リラックス……俺は常に動き続け、止まることはない……」
言い聞かせる。言い聞かせている。この場でそうあるべきという理想の自分。そのためにそうあるためにコンディションをつくりあげていく。
「…………行くぞ」
地を蹴る。前傾姿勢。疾く走る。接敵。振り上げる。手応えはあるものの、その違和感には歯噛みした。骨を断つよりも先に訪れぬ肉を潰した感触。眼球を切るとはこうであるのかと。だが、ここで下がる意志はない。噛み締めてでも。
「苦痛を齎す者よ。裁きの刃にて、滅べ!」
渾身の力を込めて、激烈を振り下ろした。
他の仲間より少しだけ、ラドゥは戦場への参加が遅れていた。建造物に身を潜めていたのだが、その二階から飛び降りた衝撃で数瞬の間走りだすのが遅れたのだ。なに、さしたる支障ではない。既に精神は臨戦のそれへと浸っている。
それに、と。所詮は、悪魔に使役される狗に過ぎない。見くびるつもりはないが、自分より上の何かだとは思えない。よって。
「駄犬が……我輩に触れる事、貴様に許した憶えは無いが?」
眼前に移動し、こちらに手を伸ばした女のそれを。ラドゥは容赦なく切り飛ばした。手首と共に白い球体が舞う。手首辺りにもあったのだろう。さしたる興味はなく、そちらに顔を向けるつもりもない。だが。
吹き出るそれを躱し切ることは叶わなかった。マントを翻した頃にはもう遅く、端正な顔が赤く赤く染まっている。吹き出物のように、泡ぼこのようにそれらは沸き立つと。整っていたそれも、思い返したくないもので染まる。溢れ出す情報量を脳は支えきれず、ぐるんと暗転した。
「そんなに見詰めンなよ」
こちらに現れたディアボロの女に向けて、リュカは容赦なく苦無を投げつけた。突き立ち、刹那動きを止めるそれ。赤いものが溢れるが、刺さった刃が邪魔で吹き出すことができないでいる。女の消える頻度が減っていることにリュカは気づいていた。明らかに、こちらへの攻勢が積極性を失っている。それが弱っているのだとするならば。楽観視するつもりがないが、攻撃は無意味ではないのだとの実感としても良いだろう。
血液は溢れ、そこからまた眼球が生まれる。生まれて、爆ぜて。爆ぜて、生まれる。歪で、でこぼこだ。その衣服は、レインコートの中は。もうきっと人間の形ですらないのだろう。保っていてはいないのだろう。その顔でさえ、今や巨大な複眼で埋め尽くされているのだから。どこかトンボを思わせる。そこへと、リュカはまた得物を投げつけた。
「目玉は二つまでが美人だぜ」
また、化物が化物らしく人から離れていく。
●アイストロベリーパフェ
自分だけが幸福に浸ればいいだなどと、下劣な考えは持ち合わせていない。いつだって、自分は満足出来るだけの囁かなものさえあればいいのだ。過ぎたものを抱え込むつもりはない。裕福であれば分け与えなければならない。それは義務だ。だから、私はこうして正しいことをしているのだ。
誰のそれが決定打となったのか。女の動きが止まった。指先ひとつ動かさぬそれに不審と警戒を持って構えるが、杞憂であったのだとすぐにわかる。ぽろりと、何かが落ちた。何か。今更そんな表現をするまでもない。眼球だ。何かがどうにかなるのなら、それは目玉に決まっている。血液は吹き出さない。ただ粘着力がなくなったかのようにぽろぽろと落ちていく。落ちていく。今や穴ぼこだらけでやせ細ったその様は、枯れ木か何かを思い起こさせた。
崩れていく。つま先から目玉までが崩れていく。塵は塵に。悲鳴ひとつあげることなく、苦悶によじる様すら見せず。春の雨に消えていく。
彼らにも変化が起きた。新部を生み出させられた数名。それらの眼球も星に逆らわず地に落ちる。違いがあるとすれば、そうしてできた穴もすぐに塞がったことだろうか。原理はわからないが、再生したらしい。
安堵する。息を吐いて。空気の冷たさに少しだけ身を震わせた。頭を振る。帰ろう。眠って、この陰鬱を忘れるために。
了。