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「よう、ケンさん」
「ケンさん、何か面白ぇ話聞かせてよ」
髪を青い紙縒りで結わえた若い侍が歩いている。人好きのするその若者は、犬乃 さんぽ(
ja1272)と言った。聞けば貧乏旗本の三男坊、犬乃さんぽ助などと名乗ったが、不思議な気品がある。
行きつけの団子屋に入ると、小さな声が彼を「若様」と呼んだ。
さんぽ助は指を口に当てて、シィと悪戯っぽくした。今頃、城中では早くご正室をとせっつく家老が主の不在に気付いたろうか。笑顔で団子を頬張る。
「最近久遠町や市中の様子はどう?」
粗末な着物を纏った時の将軍は、世間話の風を装い視線を巡らせた。――彼にはもう一つ、秘密の正体がある。
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城の者が何やら慌しく動いている。人探しだろうか。
古道具屋の店主は通りに目をやった。
ガナード(
jb3162)、と名を呼ばれ、客に応ずる。客は外の慌しさに気付く様子はない。これは、侍であった者の独特の六感やもしれない。
店の屋号は「牙等屋」という。だから店主は、響きにしてガナードと呼ばれている。だが、元々はさる藩の徒士であった。聡明な仁君であった主を喪い、不要な戦を繰り返し横暴の過ぎる次代を見限って出奔した。流れ着いたこの町で、物を活かす才と目利きによって古道具屋を営む今も、彼の心は侍であり、その忠義は亡君に捧げられている。
そしてまた、例の六感が客足の途切れた夕刻の店に働いた。
「ガナード殿……妖でございます」
壁の向こうから声がする。予期していたように、ガナードは手入れする商品の無銘刀から顔を上げることなく口を開いた。
「場所は」
答えて、気配が去る。手入れを終えた刀を置くと、彼は静かに立ち上がり、店を仕舞いにした。夜の闇に紛れる。
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「おい、今しがた例の押込み夜盗がひっ捕らえられたらしいぜ」
「やっと枕を高くして寝られるねえ」
「捕らえたのは美麗官吏ってえ話じゃねえか」
美麗官吏と噂されるは火盗改、十握 祐希(
jb4707)である。噂は、やや釣り目の美しい顔立ちが隠しきれぬためであろう。――即ち、身内以外誰も知らない秘密だが、祐希は女である。とある下級武士の生まれだが、女として他家に嫁ぐのを厭い、男装して亡父の跡を継ぎ町奉行の与力となった次第だ。
町外れの廃屋にて今、彼女は自身の倍もあろうかという巨漢の罪人を縛り上げたところだった。押収した品は数知れぬ。持ち主不明の品は古道具屋行きだろう。
てきぱき指示をしていると、役方姿の小男が現れた。さっと耳打ちされ、祐希は冷静に頷く。
「すまぬ。急用ができた。しばらく離れるから、ひっ捕らえた罪人どもは連行しておいてくれ」
同士たちがそれを受ける。だが彼らは知らない。颯爽と去る美麗官吏の本来の仕事を。
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今日も今日とて花街は賑わう。
尼ケ辻 夏藍(
jb4509)は、穏やかな笑みで街を眺めていた。遊郭の用心棒である。憂いを帯びた痩躯は、しかし店に仇なす輩がないか意識している。
とはいえまだ明るい時分、客足も少ない。
故に、遊郭の二階では艶やかな花魁が出窓に腰掛け、退屈気味に行き交う人々をのんびり眺めていた。
「すっかり春でありんすねぇ」
織笠 環(
jb8768)。源氏名を蝶々という。名の通り、首筋に蝶の刺青がある。
環は春風を受け、昨夜の上客の話に出た桜に思いを巡らせた。一緒に見たいのは、客でなく親しい人たち。その一人は用心棒の夏藍だ。
「下に夏藍さんおらはるんやろか……構ぅてくれへんやろか 」
手慰みに紙を蝶に折り、やや不出来なそれを階下へ投げる悪戯をしていると、遠くもう一人の心安き相手を見つけた。
来たるは煙管片手の商人である。百目鬼 揺籠(
jb8361)といって、反物や寝具を卸す直属の呉服屋だ。素行の悪さで一部からは疎まれている。そもそもは手練れのスリ師である。
「やぁ、百目鬼君。こんな時間に珍しい。今日はお客かな」
夏藍が揺籠に気付き目を細めた。
「まさか。後金の取立てに来たんですよ。俺が遊ぶにゃァ此処は高嶺の花過ぎまして」
手をひらひらと笑う。
「其方こそ、余所見してて良いんですかぃ? 日の高い刻とはいえ、お暇そうで何よりですが」
「相変わらず口が達者のようで何よりだね」
軽口を叩き合う。夏藍は揺籠の頭を抱え、ぐりぐりと拳を押し付けた。痛ェ痛ェ痛ェ! と叫びながら、しかし気の置けぬ戯れ合いに揺籠も楽しげな様子だ。
「あらあら、二人揃うとほんに賑やかでありんすなぁ」
そこへ笑いながら、環が下りてきた。
「ふふ、何やまた二人でじゃれてはんの?」
隙をついて夏藍の腕から逃れ、揺籠は大袈裟に痛がって首をさする。
「蝶サン。じゃれてるようにみえますかね、本気ですよこいつァ」
苦笑い。
「おや、蝶々。今日も美しいね。着物も見事だ」
夏藍が褒めると、環は笑みを零した。
「ありがとうございんす。揺籠さんの持ってくる着物が見事やさかいに」
「百目鬼君も偶には良い仕事をするね」
「偶にはは余計でしょうが……。や、とんでもねェ。着る人が善くなけりゃァ、着物も映えませんで」
笑い合い、環は夏藍の襲撃ではねた揺籠の髪を優しく直す。揺籠は口を閉じて視線を逸らした。
彼らの親しさには理由がある。彼らは皆、人でなく別の名を持つ物の怪だった。人に紛れ暮らしている。そしてもう一つ、彼らには共通項がある。
「ところで、最近妙な噂が流れているようだね。今は桜が見事な時期だ。無粋な輩は早めに去って欲しいものだけど」
夏藍が呟き、ひっそりと話すところにキンと張り詰めるような空気が落ちた。三人は顔を見合わせる。
「報せ、ですねェ」
揺籠は北へ爪先を向ける。
騒ぎのようだね、例の押し込み夜盗かも。店に何かあってはいけない、見てくるよ。そんな言い訳をしつつ、夏藍も急ぎ店を離れる。その二人の後を当たり前のように花魁のはずの環が嬉々と追った。
いつの間にか日が落ちていた。
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夕闇が迫る。天城 空我(
jb1499)の小さな道場にも。
それしか出来ないという理由で拓かれた商売っ気のないその道場は、いつしか知る人ぞ知る、とされていた。そして知れば誰もがこう言うのだ。
「江戸でも五指に入る、が、人を捨てねばアレは得られない」
いわば、そういうモノだった。
「天城殿はいらっしゃいますか」
表から声が聞こえ、若き道場主は礼儀正しくも朗らかに出迎える。商人の大旦那がいた。だがその用件に、空我の顔が厳しくなる。妖絡みだ。大旦那には道場を建てる際に大枚を借用していた。その借りの一環として折に触れ依頼を持ち込まれている。
天城の討魔師と呼ばれる天城の地の出の撃退士、それが空我の本当の顔だった。
道場を発つ。花街の方角ばかりが、奇妙に明るかった。
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花寄茶屋という団子屋がある。春は夜桜客のため、少し遅くまで店を開けている。
おりっちゃんと客が口々に親しく名を呼ぶのは、売り娘の城前 陸(
jb8739)だ。名物の花寄団子を忙しく運ぶ。客には道場帰りの武士も多い。
陸は給仕をしつつ、いつも人々の話に耳を傾ける。町の小さな変化も聞き逃さないようにする。彼女もまた、この久遠町で秘密を抱える者の一人だった。
客足の落ち着いた夕刻、同士であるさんぽ助が店を訪れた。団子や茶を供しつつ、世間話をする。将軍様だと知りながらも互いに気安い。
「市中は概ね穏やかですよ。……ただ、少しだけ妙な気配も」
さんぽ助に答え、湯飲みを引き上げて奥へ戻る。
店主がいる。人気の団子は彼の作だ。
「……北の桜が隆盛だ。一つ、手折って来てくれ」
初老の寡黙な店主の言葉に、陸ははっとした。桜を手折れとは。
符丁だ。
店主も元は優秀な撃退士だった。が、今は引退して若手の支援や連絡網の一旦を担っている。
「引退の理由は膝に矢を……」
「言わせませんよ! コホン。ともかく、行ってきます」
陸は急ぎ支度をした。
ふと気付くと、座るさんぽ助の傍に飛脚姿の男がいた。こちらへも報せだ。
「……分かった町人が被害にあうのを見過ごしてはおけない、直ぐに現場に向かうよ」
影から影に泣く人の涙を背負って物の怪退治、それも将軍の使命と眼に決意が宿る。
「にしても、ボクにこうポンポン仕事を持ってこれるのもごろうこ……あのご隠居くらいだよ。城前ちゃん、お勘定ここにおいて置くね♪」
去ろうとしたさんぽ助に支度を整えた陸が追いつく。
「北ですね」
月が昇る。
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白刃が踊る。
イカレ侍から商人はやっとで逃げていたが、もう息が続かない。腰を抜かして念仏を唱えた。
そこに空気を切る音が響いた。夜陰の中から突然の打撃に襲われ、侍は不意をつかれる。
「何奴ッ」
侍を打った円盤が糸に引かれ戻って行く。受け止めたのは、駆けつけてきたさんぽ助だった。
「狼藉はそこまでだ! 江戸市中での好き勝手、ボクが許さない」
円盤前面の蓋が開き、中に刻まれた葵の御紋を掲げる。さんぽ助――否、時の将軍犬乃さんぽは、幕府に献上された南蛮渡来のヨーヨーなるものを武器に構えた。
驚く商人の前に、いつの間にか羽織姿の古道具屋がいる。
「下がっていろ」
侍がさんぽに気を取られている間に、ガナードは商人を立たせた。彼の周りで、黒焔が揺らめく。
「……好き勝手してくれる」
ガナードは鋭い眼光で侍を一瞥した。居場所を荒らすなら、阻止するのみだ。
怒る侍を、さんぽと共に駆けつけた陸が牽制した。何かが侍の足元に細く幾本も突き刺さる。なんと、団子の串だ。
互いに距離を取り、場が拮抗する。
そこへ一つの影が先陣を切って侍の懐へ入り込んだ。左袖から一瞬、百眼の文様が覗く。揺籠は鉄下駄で敵に蹴りを入れた。冷静な横顔に好戦的な光が宿っている。
「人に紛れた妖としても……異様ですねェ、これは」
体勢を直す。撃退士は儲かりますしねェ、と商人らしい肚を抱きつつ、同胞の悪さを放っても置けない心境もある。
揺籠の攻撃に続け、濃紺の模様を纏った拳が殴り込んだ。夏藍だ。穏やかな佇まいとは裏腹の無骨な戦法で、不逞の輩と対峙する。
「御二人と花見はしたかったけれど……」
二人にやや遅れ環が現れる。溜息を漏らし、異様な侍の姿に仕事の顔になる。舞うように侍の刀を受け流した。彼女の傍で青い蝶が羽を震わせる。
「初会で花魁に触れようやなんて……茶屋から出直してきなはれ」
「ウ、ア……」
漸く同胞の匂いに気付いたか。妖は焦り、踵を返した。通りを一目散に遁走する。
すると、その前を塞ぐように、闇夜に紛れた影が相対した。黒い陣笠で顔は影に沈んでいる。
「綺麗な月夜に潜むは影の者か。悪鬼羅刹は人の心に巣食う邪悪だけで十分……」
何も無いはずのその手の中に十手が現れる。それはまさしく無居兵器。影は笠を放り投げて、十手を構えた。
「主の相手はこの名も無き火盗がお相手仕ろう」
美麗官吏と呼ばれる横顔を月が照らした。十手で侍に打ちかかる。
「穏やかじゃないね、ご同輩……は刀かな」
夏藍は侍を注視した。侍の目の不気味な光、操られているのだろう。ならば本体は刀か。仲間にも伝える。
「お侍ならお客になるやもだしね」
無闇に傷は負わせたくない。
それを聞き互いに視線を交わすと、環の傍で無数の蝶が形を成し侍に攻撃を仕掛けた。素手でも敵を切り伏せる「素切」と呼ばれる幻術だ。
「綺麗な桜や思いんせん? そないな刃似合わんぇ」
敵が蝶に気を取られた隙に、揺籠の左腕が伸び侍に巻きつく――と、侍には見えた。そして、揺籠の左腕の文様が本物の眼となり見開いたように思えた。幻覚だが、嵌り、侍はもがく。
逃れようと我武者羅に振り回す腕を鎖が捕らえた。場を冷静に見ていたガナードが音もなく死角へ回り込み、距離を開けて鎖を放ったのだ。
祐希がその瞬間十手を打ち込み、侍の手から刀を弾いた。
侍は、糸の切れた人形のように倒れこむ。
「やったでしょうか」
陸が侍に駆け寄る。侍は朦朧としていた。
「儂は一体……」
その眼が正気であることを確認し、陸が持つ癒しの素切を施そうとすると、祐希がはっと顔を上げた。
「いかん!」
怯えて千鳥足だった商人が、何故か韋駄天の如く刀を拾い上げた。一瞬の隙に操られたのだ。
「ク、ク……」
恐ろしい速さの初手に襲われ、陸は盆に術を込めてこれを何とか弾いた。
「悪足掻きも大概だな。弁えろ」
ガナードは鎖を消し、どこからともなく大太刀を取り出す。彼らは激しく切り結んだ。
「ほう……遅れは取れんな」
そこへ踊りこんできた揺籠がふっと煙管の紫煙を吹きつけ、虚を作る。
「人に仇なし人を喰って生きる、ンなのはもう時代遅れでさぁ、同胞サン」
素切によって素早く懐に入り蹴り上げると、次の瞬間に視界から消える。それによって拍子の狂った攻撃を後に続いた夏藍が直接片腕で受け、魂を吸う術を使いながらもう片方の拳を叩き込む。
負傷を受けた刀は、怒りを顕にした。手負いの凶暴性に気付き、ガナードは黒く輝く霧を呼び出してその攻撃を間一髪防ぐ。
「人の世に死の穢れを撒く者をその悪き魂魄の一片たりとも討ち滅ぼすのが、我等討魔師の使命よッ! 人を天を地を護る。それこそが、その根源こそがこの雨月蒼燕の刃だッ!」
そこへ最後に現れたのは、若き道場主の空我だった。駆けつくや否や、居合を峰側で放つ神速の抜刀をし、刀を吹き飛ばす。空我は静かに射抜くような眼光を向けた。
吹き飛んだ刀を、今度はさんぽがヨーヨーなる武器を自在に操り空中に縛り留める。
「成敗☆!」
そして、ガナードがそれを光と闇の入り混じる不可思議な矢を放ち、打ち砕いた。
「悪さが過ぎたようだな……」
が、消えぬ気配に空我は刀を戻さない。天城の討魔師は討滅、根源からの消滅を主とする。退けただけでは止まらない悪意を完全に討ち祓う。攻撃的だが、本質はあくまで守護。彼の持つ刀はその具現だ。曰く、他者に攻撃するは槍、自らを護身するは刀。理念の刀は万物を断ち、またあらゆる害意を討ち払う。
邪気の正体を桜に感じ、空我は左八相にて構え、刀を倒し身体の影に入れる。
次の瞬間、桜は十七に分かたれていた。
Chest、その声と共に、どこかで涼やかな鈴の音がした。
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「まだ帰しんせん。夜桜見物や」
妖退治を終え、やれやれと一服する揺籠の手を環が引いた。夏藍の手もしっかり掴んでいる。
「え、俺もですか? ……まったく、仕様がないですねェ」
苦笑しつつも楽しそうだ。
「蝶々の頼みとあらば。でも、少しだけだよ」
嬉々とした環の様子に夏藍も目を細める。
この辺りには桜が多い。彼らは連れ立って花見らしい。
「私たちもお花見したいですね。若様がいたらきっと売り上げ倍増ですよ」
環たちの姿を見て陸もさんぽ助に微笑む。
そして祈る。この瞬間の平和が、いつまでも続きますようにと。
風が吹き抜け、桜を散らす。仕事人たちは頷き合い、それぞれ闇に紛れて岐路に着く。誰にも知られぬ稼業は、しかし今日も久遠町を守ったのであった。