むせるような白が、視界を支配していた。指先も霞む霧の中を、撃退士達の影が観測台へ急ぐ。
電線を観測台までの案内にするため、上へ伸ばした細い鋼糸を器用に手繰るスピネル・クリムゾン(
jb7168)の視線の先も白い空気に呑まれ、遠く吸い込まれてしまいそうだった。
「ふぁぁ……真っ白けっけ……早く助けに行ってあげなくちゃ」
橘 有紗(
jb8671)が横でその言葉にこくこくと頷く。
「初めての実戦だし役に立てるかわからないけど、観測士さんのことは絶対に助けないとね」
はぐれないようスピネルとつないだ手を握り直す。
「霧が濃い……こうも視界が悪いと敵がどこにいるのか……」
御剣 真一(
jb7195)が呟いた。ナイトビジョンを装備しているが、視界良好とは言いがたい。同じくナイトビジョンで視界の確保を試みたフローラ・シュトリエ(
jb1440)も、肉眼よりマシとはいえ先までは見通せない濃密な空気に紅い瞳を細める。
前を歩く緋桜 咲希(
jb8685)の持つサイリウムが揺れる。霧の中に光が浮かび、その位置を知らせた。ライトがわずかに視界を開く。準備は整えてきたけれど、それでも彼女は少し怯えた表情で、前方に注意を払う。死角を補い合うための布陣だが、何が向かってくるとも知れない視界の悪さは背筋をぞっとさせた。
盾を前に神凪 景(
ja0078)が一歩前に出て実質先頭を歩くのは、小柄な彼女をかばってなのかもしれない。時折振り返って後ろと離れていないか確かめる。それの他は側面と後方を仲間に預け、前をじっと見つめた。
「不自然な霧ですね……一体何を企んでるんでしょう」
白い闇のような霧に、前後の仲間さえ見失いそうだ。
景とスピネルが念のため光信機の申請をしたが、ゲートの存在が認められないため通らなかった。有紗をはじめ通信機は必要だと考えていたので、咲希が言い出して携帯番号は交換してある。だが、いつの間にかはぐれてしまった場合には合流できるのか。
フローラが声をかけると、次々に仲間の声が返ってきて、その度に互いにほっと息をつく。
「道を間違えたりはぐれたりしないように気を付けたいわね」
フローラの声にしんがりを務めるセアラ・ウィルソン(
jb7422)が頷く。
「本当に何も見えないわね。全員いるわよね?」
見失っては厄介なことになると、距離を詰める。
すると、スピネルが続けた。
「気付いたら一人居ないとか増えてるとか無いよね?」
年少の二人がひっと息を飲む。
「スピネルやめてよ〜」
「こ、怖いよぅ」
ミセスダイナマイトボディー(
jb1529)がその豊満な巨体を揺らして有紗と咲希に豪快に笑った。霧の中でもその影は存在感があり、包容力を感じさせる。
「大丈夫やって! でも離れんようにしとこな」
その明るさとは逆に、ミセスの体調は万全ではない。彼女は見た目の通りに頼もしい撃退士ではあるが、今回ばかりは後方支援に回ると決めていた。咲希の提案で一団の中央を歩いている。
「私達、ちゃんと真っ直ぐ進めてるかな?」
景がスピネルを振り返る。大丈夫なんだよ〜と声を返しながら、スピネルは鋼糸を手探りで操る。
「感電とか、大丈夫ですか?」
真一が後ろから声をかけると、桃色髪の少女はにまりとした。
「実は痛いけど我慢してるんだよ〜」
「えっ!」
「大丈夫ですよ、御剣先輩。ここ、停電になってるそうです」
有紗の言葉に何だ、と胸を撫で下ろす真一を見てスピネルはくすくす笑った。憧憬を込めた瞳で真一を見る有紗も思わず微笑む。
「今どの辺まで進んだんでしょうか」
咲希が呟く。電線を辿るのはスピネルに任せ、電柱や道を注視していたフローラが顔を上げる。
「方位術を使ってみるわ」
「役場の人に地図を貰ってきたの。役に立つかな?」
景が地図を差し出す。
彼らは着実に観測台へと近付いていた。
風の音が聞こえた。あるいは、風によく似た、何かの音が。
セアラは職員の言葉を思い出していた。巨大な鳥のような何か。――この霧と無関係という事はないでしょうね。一人呟く。
敵はどこから来るか。背後だけでなく、空からの奇襲だってありえる。不意をつかれないよう警戒を強める。
ばさばさと羽ばたきが聞こえて咲希は身を竦ませた。
「……ひっ!? な、なんだ、ただの鳥かぁ」
だが、いつ敵が現れてもおかしくはない。ここはすでに彼らのフィールドだ。
有紗は自分が不意を打たれて陣形を崩さないよう中央に控える。観測士を救うまで怪我をして倒れるわけにはいかない。
また何か音がする。
スピネルは注意深く耳を澄ませた。
「……何か落ちてくるわ」
虚空を見つめていたセアラの冷静な声が、けれどはっきりと響く。
「!」
咄嗟に上を見上げた真一が前を歩いていたミセスと有紗の腕を引いた。どしゃ、と二人の目の前に赤黒い塊が落ちてくる。それは羽にまみれた何かの残骸だ。
「何や……!?」
先ほど飛び立った鳥か。スピネルは白い空を上げる。今聞いた音は、これほど小さな羽音ではない。
何かが、いる。
ナイトビジョンで少しは視界が開けているが、フローラはむしろ音に集中した。空気を切る音。追って、視界に黒い影を捉えた。
「敵よ!」
フローラの手に銀色の模様が浮かび上がる。
その声に全員が即座に構えるが、真っ先に動いたのは景だった。シールドで一撃目を受ける。鋭い鉤爪が空気を裂き硬質な音を立てた。景は正面から敵の姿を捉えた。半人半鳥――セイレーンだ。
その勢いのまま後ろへ押された景と入れ替わるようにすぐさまフローラが攻撃を仕掛けるが、敵は景を狙うのを諦めて素早く身をかわす。そして、再び霧の中に飛び込んでいった。だが、距離が開く前に、フローラは即座に追う。
スピネルが翼を広げる。赤と漆黒の二対の両翼が白い世界に浮かぶ。
激しく翼を震わせるセイレーンの眼前に軽く飛び上がった。
人数が多い今、一気に倒そうと、景は長槍に持ち替える。
「ほ、他にもいるかもしれません、から、警戒とフォローお願いします」
咲希は真一とセアラにそう言うと、おどおどと景の後に続いた。
その頭上、スピネルがエアロバーストで風を放出させる。
「もう! ばさばさうるさいんだよ〜!」
セイレーンは羽ばたく翼に風を受け、後方へ吹き飛ぶ。景は地面を蹴り、その足に槍を突き立てた。鋭い爪と槍先が拮抗し合い、何とか押し勝つ。
体勢を崩し落下したところを、強張りながら咲希がマッドチョッパーで打った。
力は強いが、防御は弱いらしい。悲鳴を上げるセイレーンに景が好球必打を食らわせると、振り抜いた槍が急所を一撃し、敵を仕留める。
「やった!」
「いや、まだおるかも。何や気配が……」
ミセスの言葉にセアラは耳を澄まし、敵を気配を探った。手には刀をしっかりと握る。
何か感じる。気配は後ろから来ていた。
「伏せて!」
はっと新たに現れた敵の影に気付いた真一が仲間達に呼びかける。有紗は慌てて盾で防御の姿勢をとった。
巨大な鳥の輪郭が滑空で迫る。
セアラはそれをじっと見据える。そして、ぎりぎりまで近付いたところで刀での一撃を霧の中から現れた巨大な翼に叩き込む。敵は体勢を崩しながらそのまま一行の頭上を滑り、霧の中へ突っ込んでいった。
反撃に驚いたのか遁走していく。それに気付いたのは真一だった。
どこへ向かったのだろう。巣でもあるのか、海か。どちらにしろこの方向には――観測台があるのではないか。
「急いだ方がいいかもしれませんね」
有紗の表情に焦りが浮かぶ。
フローラはロープをのばし、全員で持ち合うことを提案した。それなら、急いでも互いにはぐれることはない。方位術で再び位置を確認し、早足で観測台を目指す。
しばらくすると、霧が少し薄くなったようだった。先程一体倒したことと関係があるのか。若干見やすくなった味方の背中を、孤立しないよう有紗は懸命に追った。
ようやく辿り着いた観測台は、無線のアンテナが無残にも壊され、建物自体も傷付いていた。一瞬脳裏を過ぎる最悪の事態を横へ押しやり、景が扉を開ける。扉は簡単な作りだが妙に重い。扉を棚で内側から押さえていたのだろう。それは天魔に対して、あまりにも無力な抵抗だった。
周辺警戒にあたるフローラ、スピネル、真一を残し、観測台の中へと踏み込む。
果たして観測士は無事なのか。敵の姿はないようだ。
「観測士さん、いますか?」
有紗が呼びかける。返事はない。
ここにいないなら二手に分かれて外を捜索すべきか景が頭を巡らせていると、かたりとキャビネットからわずかな音が聞こえた。
「開けますよ? 大丈夫、私達は味方です」
有紗が戸に手をかけ、そっと開く。
――期待した通り、そこには観測士が隠れていた。
怯えて憔悴しきった蒼白な顔で、呆然と有紗を見る。怪我はしているが、重傷ではない。
「た、助けに来てくれたんですか……」
震える観測士に手を差し伸べて、景は頷いた。
「観測士さん、いたそうです。地下に隠れてもらって、出入口を防衛する人以外はこっちに合流出来るみたいですよ」
有紗からの電話を受けた真一が告げる。
「あとは残りの敵を掃討するだけね」
「お外のお掃除も大変そうなんだよ」
あれきり霧の中は静かだ。
天魔達の居場所も全て、白い闇が覆い尽くしている。ナイトビジョンの視界にも動きはない。ここでひたすら襲撃を待ち構えるべきだろうか。
「ローラちゃん、真ちゃん、あたしに考えがあるんだよ〜」
二人はスピネルの方を見た。
炎が上がる。
まるで火を綿で包んでいるかのように、白の中で揺れている。
スピネルの考えとはこれだった。近くの木に火をつけ、敵を引きつけて迎え撃つ。誰かはぐれたら目印にしようと考えた案だが、敵に気付かれる可能性もあった。そこを逆に考えた作戦だ。
効果はあった。
何かが聞こえる。霧に潜む何か。空気が確かに動いている。
フローラは耳を澄ます。息を整え、集中する。
探るのは、ただ物音ではない。――重なる羽ばたきの音だ。
「こっちよ」
地面を蹴る。
その先にはフローラが想像した通り、一塊になって炎を探りにきたセイレーン達がいた。獰猛に牙をむき、三人に襲いかかる。
スピネルがまた風で霧を吹き飛ばすと、風圧に一瞬セイレーンはたじろいだ。視認できる。三体いる。
フローラはSchneegeistを使う。霧よりなお白い雪が一番手前のセイレーンに絡みつき、その動きを止めた。
「攻撃の機会は逃さないわ。確実に仕留めさせてもらうわよ」
動きを止められた同胞を乗り越え振りかざしてきたセイレーンの鉤爪を、真一が引き受ける。
「視界は悪いが……これならこの姿でも存分に戦える! ……グアァァァァッ!」
光纏し、獣化した姿を霧の中に紛れさせ、陰陽桜双鉄扇で受ける。
観測台から駆けつけてきた景がその翼を広げた影に銃弾を撃ち込むと、天魔はひるんだ。
その隙にこちらが霧の中へ紛れ込み、真一は双龍旋棍を手に跳躍する。敵は真一に気付いて地面へ急降下を狙うが間に合わない。薙ぎ払いの重い一撃を食らい、セイレーンの体がぐらつく。そして、より霧の深い場所へ逃れようとした。どうやら、この天魔は深追いしない性質らしい。霧を広げ、より確実に獲物を得ようという考えか――今回の件の報告について考えながら冷静に真一は思考する。
残りの一体の前に立ちはだかったのはセアラだ。スピネルの風でやや視界が開けているうちに闇の翼で自身の両翼を広げる。
その時、観測台に残って警戒をしていたミセスは、霧の中で甲高いホイッスルの音を聞いた。そういえば咲希が何かあったらホイッスルで合図すると言っていた。咲希に何かあったのか、それとも?
「……気ぃつけて! 敵かもわからん!」
はっとして、地下室の入口を守る有紗に叫ぶ。有紗は慌てて細身の剣を構え、携帯電話で番号を呼び出した。味方に知らせなくては。
また笛の音が響く。それはやはり咲希のものだった。
けれど、現れたのは彼女ではない。先程セアラが羽に傷を負わせたセイレーンだ。
有紗は迫りくる異形の影に足が竦んだ。人に似て、人でない目。
ミセスは有紗を背にかばうように立つ。彼女の体は思うように動かなかったが、有紗と観測士は死守しなければと考えていた。その姿に勇気付けられ、有紗もまた観測士を守るために時間を稼ぐことを決意した。スマッシュで攻撃し、敵を引き付ける。天魔は思惑通り有紗に狙いをつけた。
それを咲希が追う。霧がまだ晴れないうちは近接戦で挑まなくてはならない。だが、いざ近付くと恐怖が彼女の足をもつれさせる。
「咲希ちゃん!」
有紗が叫ぶ。追跡に気付いた天魔が振り返り、有紗から咲希へと狙いを変えたのだ。
「!」
かわそうとするが、翼による激しい殴打が咲希の腕を掠めた。怖い、痛い……思わず俯く。天魔はさらに咲希に迫る。
助けなきゃと有紗が剣を構えようとしたその時、攻撃を受けて呆然としていた咲希が目を開けた。瞳が赤く輝いている。
「あ、そうだ。相手を殺せばもう痛くないし怖くないね」
「……え?」
「あはは……死ね! シネシネシネシネェッ!!」
突然咲希の全身からこの霧と反した黒い靄が吹き出し、鉈を無茶苦茶に振り回し始めた。いつもの彼女からは考えられない力で敵を打ちのめす。
「ちょ、あかん、これあかんやつや!」
翼を負傷し空に逃げられない天魔は咲希に蹴散らされ、ついでに彼女を止めようとしたミセスと咲希も蹴散らされることとなった。
真一の二度目の薙ぎ払いは敵を硬直させた。咆哮を上げるかのように体を躍らせ、一気に石火を叩き込む。セイレーンが倒れると、また徐々に霧が薄くなってきた。
「……霧が晴れたわね。やはり原因はこいつらね」
セアラは霧の向こうに太陽の輪郭を認め、恐らくはもう敵は目の前の二体だけだと見当をつける。ならば、ここは積極的に前へ出て構わないはずだ。セアラが言うと、見えてきたゴールに仲間達の気力をみなぎらせた。
スピネルがセアラと敵を挟み込むように回り、ばさばさと動き回るその翼を全力で打つ。同時にセアラの薙ぎ払いを食らい、爪が宙をもがいた。勝負がついたことを悟ったセアラは地へ降りる。
フローラに足止めされていたセイレーンに、真一の双龍旋棍が翻る。
人間ならざる異形の瞳が最後に捉えたものは、霞む青い空に煌く景の白銀の槍だった。
討伐が完了次第救助すると観測士に説明していたセアラは、言葉通り彼を地下へ迎えに行った。あとは彼を護衛して帰るのみだ。真一が観測士の怪我の手当てをし、彼を背負う。
行きましょう、とミセスと有紗になだめられてようやく正気を取り戻した咲希が、いつものように控えめに言う。
フローラと景が地図を広げて先に立ち、彼らは歩き出した。
みんな無事で良かったんだよ〜♪ とスピネルは振り返り、海辺の風景を見て微笑む。
「霧が晴れると……とっても綺麗なんだよ……♪」