●
書庫の奥の非常口を開けて中の様子を伺うと、図書館はひっそり静まり返っていた。
「『本に私のお話』……?」
図書館の館内図を借りてきた不知火あけび(
jc1857)が、それを眺めながら首を傾げる。資料を改めて読み上げていたCamille(
jb3612)が頷いた。
「司書長さんが、本に自分の話が書いてあった……って言ってたようだけど本の天魔なのかな?」
Camilleの手の中の資料を、自身も読み返そうと後ろから覗き込んでいたミハイル・エッカート(
jb0544)が「読んだ者の生命力を吸う本の天魔か?」と呟いた。
資料によれば司書長は話すこともままならず、ぼんやりした様子だったという。
幻術を見せる敵なのでは、とあけびは万一を考えてアラームを仕掛けた。
「なるべく連絡を取り合うようにした方がいいかもね」
そう言いながら、依頼で行った地下迷宮探検の動画音声をアラームに設定する。
「原因のわからねー怪奇現象は天魔のせいだって思っておけば問題ないぜー」
とラファル A ユーティライネン(
jb4620)は静寂に包まれた図書館の中にさっさと入り込み、いつもの調子で言う。その手には災害時用のものを書庫のどこかから持ってきたのか、いつの間にかメガホンがある。
「照明をつけられるといいですね……」
と陽波 透次(
ja0280)が手探りでスイッチを探す。だがスイッチを入れても反応がない。どうやら大元が切れているらしかった。
Camilleが「それなら館内図でわかるかな」とあけびに言うと、全員分コピーしてきましたとあけびが館内図を渡す。全館、点灯したいけれど……とCamilleは長い指で館内図を辿った。それらしき文字はないが、事務所の中にありそうだ。
透次は先にそちらの様子を見てくると仲間たちに言った。
「警備室があれば防犯カメラもあるかも。それで司書さんの場所もわかるかな?」
Camilleが言うと、透次は「それも見てきます」と答えた。あるとすれば恐らく事務所だろう。
「救急車がなるべく早く来るといいけどな」
ミハイルがちらりと外の様子を見る。
司書長の衰弱ぶりからすると、状況から考えてまだ中にいるであろう司書も危険と予想して予め彼が要請したものだ。
救出は早い方がいい。手分けして探した方がいいだろう。
一階と二階で簡単に班を分け、撃退士たちは中に立ち入る。
書庫を抜ける時、何か音がした。
ラファルが一瞬振り返ると、彼女の碧眼に床に落ちた本が映った。今のはあれが落ちた音なのか、それとも始めから落ちていただろうか。妙に気を引かれたが、仲間たちの背が遠ざかり、首を傾げながらも彼らの後を追う。まずは正確に状況を判断することが必要だ。
それでも、どうしてか気になりもう一度だけ振り返る。
本のページを月明かりが照らしている。
けれどそこに並んだ文字は見えないまま、ラファルは書庫を後にした。
風もないのにページがめくれる。
『「天魔のせいだって思っておけば問題ないぜー」
学園一のメカ撃退士ラファルはそうのたまった。悪魔に襲われ、八割機械化のサイボーグ撃退士としてよみがえった彼女は悪魔を激しく憎悪している。だから悪魔絡みと言えばたとえ何があろうと依頼を引受けて悪魔の心をぎったんぎったんに折ってやる事をライフワークとしていた。
しかし、その戦争が終わりつつある今、彼女の憎しみはどこに向かうのか――』
●
二階を担当することになったルナリティス・P・アルコーン(
jb2890)とCamilleを階上へ送り出し、ラファルとあけびが一緒に貸し出しカウンター付近を調べていると、ほどなく透次が戻ってきた。
「事務所は鍵がかかっていて、警備室もその奥のようです」
ただ、いくつかの電気は非常用としてつくようになっているらしく、館内全体を明るく照らすほどではないが、視界は確保出来そうだった。
どうしても必要であれば鍵を壊すことも視野に入れつつ、警戒しながら司書を探すことにする。
「阻霊符を使いましょうか」
透次が言うと、ヒリュウを連れたミハイルが首を振った。
「いや、ルナリティスが透過を使うかもしれない」
透次は頷き、必要があれば使えるよう準備だけする。
「さて、早いところ片付けないとな」
ミハイルはヒリュウに天井近くから見渡し、依頼メンバーを見つけたら鳴くよう命令した。まずは司書の居所を探らねばならない。
透次が戻ったので、一階を彼らに任せあけびが二階へ上がるとすでにCamilleとルナリティスが探索を開始していた。
Camilleが立ち止まり、あけびが追いつくのを待って彼らは本棚の間をそっと歩き出した。
「相手の正体が不明だからそれぞれ離れすぎない方がいいって話してたんだ」
あけびも同意し、周囲を警戒しつつ司書を探す。
Camilleが少し声を張り上げ、人の名前を呼んだ。
Camilleのヴァイオリンのような奥行きのある声が響くが、静寂のみがその応えとなる。
ルナリティスがちらりと真紅の目を向けると、その意味を察してCamilleが答えた。
「職員の名前を聞いておいたんだ。名前を呼べば警戒しないでくれるかもしれないから」
暗く冷えた本棚をあけびが館内図と照らして一つ一つ確認しながら進む。文庫本、全集、エッセイ、日本文学、外国文学――。
その時ふと、ルナリティスは本が開いたまま投げ出されているのを見つけた。
不思議と目を引く、本にしては珍しい白銀の表紙。
何者かが本を放ったのだろうかと警戒しつつも横に避けようと手を伸ばす。
その時、ルナリティスはあるはずのない文字をページの中に見つけて固まった。
Camilleの声が遠くなる。
あけびが何かに気付いたようにルナリティスたちに何か呼びかけたような気がしたが、まるで擦りガラスの向こうで話しているようだった。
『とある並行世界。
死にゆく原生生物と出会った。蠍人間の様な姿のそいつの生への渇望と深き知恵に興味を惹かれてヴァニタスにしたのはその時は単なる気紛れだった。だが気がつけば長い付き合いとなっていた。あいつは私の片腕だった。最期は私の為に敵軍と戦って斃れた相棒の事を記憶に留める為に私はその名――パピルサリアを名乗った』
書いてあるはずのない文字。パピルサリア――彼女の名、ルナリティス・パピルサリア・アルコーン。そのミドルネームは、忘れないよう自らの名に宿した、ヴァニタスの名前。
それが何故、ここに。
ページは続く。
『いつ始まったのかすら曖昧な戦争。そんな物の為に未知と驚きに溢れた平行世界を収奪する事は私には実に愚劣に見えた。ある日私はとあるゲートの守備隊への配属を命じられたがこの戦争に価値を見出せなかった故に任務を放棄し己の好奇心を満たす為に放浪していた。ある時それがバレて始末されそうになった私は追手を撃破し逃走。数年の放浪生活の果に僅かな力をも使い果たした私は久遠ヶ原の者と会い保護を受けた』
心の奥深くを暴かれた怒りで全身がざわめく。
「私の心を覗くな……!」
意志の力で本を振り払うが、よろめいてぶつかった棚から本が落ちてくる。思わずそれを止めると、一冊の本が彼女の手の中で独りでに開き、文章が更に彼女に迫った。
『ああ、数多の並行世界は何と愉快なのか。世界は醜くも美しい。人もまた然り。世界も人も私の好奇心と探究心を満足させてくれる素晴らしい存在だ。だから私は私の探求の邪魔をするのならば撃つと、裏切りの日に決めた』
「私の心を覗くな――……!!」
頭から必死に文字を引き離し、ルナリティスは気が遠くなるのをこらえて投げ払った。
●
その数分前。
――幾度目かCamilleが司書の名を呼んだ時、あけびははっとして顔を上げた。
視界の隅に何か動くものを感じた気がしたのだ。
見間違いだろうか、何も動くものはない――だがその正体を探るよりも先にあけびの目に、本来の目的が映る。
それは本棚の向こうある人の服の袖だった。司書を見つけた。
「! あそこに――!」
あけびはCamilleとルナリティスに指差す。
司書はぴくりとも動く気配はないが、今何かが動いたと思ったのはもしかして彼女が僅かな身じろぎをしたのだろうか。
そう思いながらすぐさま駆け寄ろうとするあけびにCamilleは従ったが、どうしてかルナリティスは別の本棚の影に消えていく。
だが、それを何故だろうと思う間もなく、司書の何か異様な雰囲気にあけびは気付いた。
名前を呼ぶCamilleの声に司書が返事をしなかったのは意識がないのか、それとも衰弱して返事ができないのか。
いや、違う。司書に接近したあけびの目には彼女が本に釘付けになっているのが見えた。それがこの異様な雰囲気の原因だった。
――魅了されてる?
と聖なる刻印を使おうとした時、あけびの足元に一冊の本が落ちてきた。
急に落ちてくるなんて、おかしい。
何かが本を動かしているのだろうか。
念のため雷死蹴で本を攻撃しようと意識を向けた瞬間、開いた本の文面が意識の奥深くまで入り込むように迫ってきた。
『藤色の髪のまだあどけない少女が、駆けていく。忍の一族の跡取りとは思えぬ天真爛漫さで。年は十一になった頃だろう。
それを見守るのは、彼女が「お師匠様」と呼ぶ人。否、その正体は天使だった。
天使が目を細めて彼女を見る理由を、少女は知らない。使徒として有望だと今日まで教育されていたことを知らない。
ましてや、彼女の秘めたる力が覚醒した今、少女が天使の手に余る存在になってしまったことなど知る由もない。
天使は彼女を外へ連れ出す。――殺さねばならないのだ。
箱入りだった少女は外出を素直に喜び、彼らは共に珈琲味のソフトクリームを味わった』
一文字一文字が景色のように鮮やかに心に染み入り、目を離せなくなる。
これは一体……?
『私のお話が書いてあったの』
司書長の言葉が警鐘のように心のどこかで鳴り響く。だが、懐かしい人の面影を追うかのように自然に本に手が伸び、あけびはページをめくった。
『天使が俺はお前にとってどんな存在だ、と少女に聞いたのは何故だったのだろう。
少女はソフトクリームを手に彼を見つめた。
「私のヒーローでお師匠様だよ! お師匠様みたいな立派な侍になるんだ!」
その瞳には迷いも、曇りも、そして無垢な弱さもない。それが天使の目にどう映ったことだろう。
「姫叔父は私のお姫様で兄貴分なの。侍としてはまだ未熟だけど、姫を格好良く守るんだ。それに……お師匠様も私が守るよ!」
天使は殺さねばならないはずの少女を抱きしめ、少女から彼の記憶だけ消した』
ページをめくる手が止まらない。
本から目が離せない。
『――ッ!!』
その瞬間、友達や兄貴分のよく馴染んだ声で仕掛けたアラームが鳴り、あけびの意識を引き戻した。
あけびに呼びかけていたのだろうCamilleの声に、不意に気付く。
「大丈夫?」
はっと夢から覚めるように周りの景色があけびの周りに戻ってくる。
「私、どうしてたんですか?」
正気に戻ったあけびにほっとしたようにCamilleは憂いを帯びた表情を緩ませた。
「本を見たら急に動かなくなったんだ」
本、と今読んでいたものを思い浮かべると再び引きずられそうになり、あけびは慌てて聖なる刻印を自分に施した。だが、思うように意識が保てない。
「本に自分のことが書いてありました……」
あけびが言ったのと同時に、ルナリティスの激昂する声が響く。Camilleがそちらに行こうとすると、ふらつきながら彼女が本棚の向こうから姿を現した。
ルナリティスは深く息を吐いた。
意識を引きずられそうになる感覚。心を抉ってそのまま本の形にしたような、あの本の内容をもう一度確かめたい、確かめなければならないという焦燥感。それがどんどん強くなっていく。
「早く外へ連れ出す必要がありそうだ」
そう言いながらルナリティスはアラームを設定し、定期的に鳴るようにする。
だが、連れ出そうとしても司書は石になってしまったかのようにぴくりとも動かない。
すぐに一階チームと合流して急いで救急車に連れて行きたいが、この精神を揺さぶられた状態で運べるだろうか。本自体が司書を傷付ける様子は見えない。脱出は後にして、まずは敵を倒すのが先か。あけびの内に潜む忍の冷静さで何とか思考していると、Camilleが死んだように重くぐったりしながらも本を手放さない司書をそのまま抱き上げた。
「俺が連れて行くよ」
今はそれが最善だろう。あけびはCamilleに聖なる刻印をかける。Camilleはまだあまり本の影響を受けていないようだった。
敵を探るのと、仲間への連絡を二人に任せ青年は階下を目指して走り出した。
あけびは詳しい状況を説明しようと一階のミハイルに電話をかける。
しかし、その電話は繋がらなかった。
●
一階に残ったメンバーは、それぞれ分かれて探索していた。
館内図を眺めていたラファルは自分が一階フロアを大体把握したと判断すると、生命探知でしらみつぶしに探すことにした。
「建物の中での人探しなら不純物もほとんどいるめー」
しかし、それを実行したラファルは首を傾げた。野外ではたくさんの生命反応で役に立ちにくいところがあるが、建物の中なら使えるスキルのはずだ。それなのに。
この広大とは言えない公共施設の中に、今感じられる範囲だけで無数の生命反応がある。
だが、今彼女の目の前にあるのは、どう見ても本だ。
本がやばいのか、とラファルは結論に行き着く。司書長の様子を思い出し、念のため特殊抵抗を上げて本を確認する。
手にした本に踊る文字列。
普段はあっけらかんとしたラファルの表情が凍りついた。
『ファルは殺された、悪魔に殺された』
怒りを伴った疑問符が、機械仕掛けの五体を駆け巡る。
何だこれは、何の冗談だ、と問うように耳の奥がキリキリと鳴った。
ラファルは本をずたずたに引き裂き、しかし引き寄せられるように別の本を手に取る。
『天使が襲ってきた。悪魔は天使に殺された。そして瀕死の悪魔は生き延びるためにラファルを』
「嘘だ!」
しかし本を引き裂いても、後から後から不愉快な文字の並ぶ本が目に飛び込んでくる。
『天使が』
『殺された』
『ラファル』
『悪魔は』
淡々と並ぶ言葉。ここは何の本が並ぶ棚だったろう。
意識が揺らぐ。
「起きろ! 進級試験に遅刻するぞ!」
その意識にかかった靄を切り裂いたのはミハイルの声だった。
視界がぶれ、それがミハイルに肩を揺さぶられているためだと一瞬遅れて気付く。
目の前の靄を取り去ろうと、ふるふるとペンギン帽子を乗せた頭を振った。
ミハイルはほっとした。本に没頭するラファルは声をかけても反応がなく、何かがおかしかった。聖なる刻印をかけようと準備する間にラファルが正気を取り戻してくれたのは幸いだったが、これは――かなり気を引き締めねばならない。
ここで何が起きているのだろう。上へ連絡をとるべきか、と携帯電話を入れたポケットを探ろうとした瞬間、呼び出し音が鳴り響いた。恐らくあけびだろう。
だが、電話をとろうとした時、ミハイルの耳に響いたのは透次の絶叫だった。
●
本を開こうと思ったのではない。
本を開きたかったわけではない。
なのに透次は今、開いた本を手に固まっていた。
どうして、いつの間に、こんな本を手にしていたのだろう。透次は一階を探索していたはずだった。ざっと見てから仲間と一緒に本棚の間までくまなく探すつもりではいたが、本を一冊ずつ手にとろうなどとは思っていなかったのは確かだ。
見たこともないのに、その本は毎日開く学校の教科書のように、開くのが当たり前だと無意識の習慣に訴えかけてくる、その手の本のように思われた。
警鐘を鳴らす本能とは裏腹に、透次の目は本のページを追っていた。
『昔のことだ。父はおらず、撃退士の母は戦場で死んだ。
実家には 僕と姉、家政婦のおばさん、飼い犬のコロ。
僕たちは、家族だった。
苛められっ子だった僕。守ってくれたのは家族。
弱い僕はいつも守られていた。
ある日のことだった。
故郷が天魔に襲われた。
おばさんとコロは惨殺されたが、僕と姉を庇い逃がした。
怖かった。
いつも僕を守ってくれた家族を僕は見捨てた。
優しかったおばさんとコロは酷い死に方したのに。
おばさんとコロを犠牲にしてまで生き残る価値なんて――僕には無かった 』
「アアアアア! 僕なんて死ねば良かった!」
透次は絶叫した。
仲間にそれが聞こえただろうか。そんなことを考える余裕すらない。
「殺して死ね死ね死ね死にたい」
後悔と自責が荒波のように押し寄せ、その打ち寄せる強さに透次の心はズタズタに引き裂かれんばかりだった。それが自らの楔とでもいうように本を抱えて崩れ落ちる。
死にたい、死にたい、死にたい。
気持ちがどす黒い闇の底に沈んでいく。
大切な人たちを、僕は――。
「……違う」
半ば無意識に透次は呟いた。
大切な人、と言う言葉と共に脳裏に浮かんだ姿。それは姉の姿だった。
押し寄せる自殺願望をかきわけ、姉を必死に思い浮かべる。そんな透次を追い詰めようと、死んで楽になってまた逃げるのかと嘲るような言葉が本の上を踊った。
「違う」
透次は先程よりもはっきりと否定を口にした。なおも意識を、罪をつきつけるような文面に引き戻したがる誘惑から退けようと、透次は自らの腕を傷つけ、痛みで正気を保とうとした。
「おばさんとコロの犠牲が無駄でなかった事、僕という人間の価値を生きて証明するんだ……」
誓った。
優しい人が酷い目に合う世界は嫌だって。
生きて僕に出来る事をやるって。
透次の目に信念の光が戻り、駆け寄ってくるミハイルの姿をとらえる。
「何があった?」
素早く問いかけるミハイルに、自分でやったのだと説明する。
ミハイルがラファルの状況を説明すると、恐らく自分も同じだったのだろうと透次は合点し、まだ時折眩暈のように透次を本に向かわせる奇妙な感覚を振り払おうとアラームを鳴らした。
この本が天魔ということなのだろうか。
そこでミハイルのヒリュウの声がした。
「見つけたのか」
ミハイルと透次は頷きあい、ヒリュウの元へ急いだ。
●
本が次々と落下してくる。
見せ付けるように、Camilleに迫ってくる。
書庫は広く、そして本棚同士の距離は表よりもずっと狭く、逃がさないとでもいうように、司書を連れ出そうとするCamilleの行く手を塞いでいた。
前へ進めなくなったCamilleは司書を後ろに庇いながら、執拗に彼に迫ってくる本たちの攻撃に耐えていた。何としてでも外に出さないつもりで、積極的な攻撃をしようというのか。
司書をかばっている以上、下手に戦うよりも、仲間を待った方がいい。意識を持っていかれそうになりながらも、ただ静かに信じてCamilleは足を踏みしめる。
二階で目にした本に、翻訳風の文体で自分のことが書かれていた。そして今、ここでも彼を襲う本は、彼の内面を見せつけようとしている。どの本にも自分のことが書いてあるのは、それぞれが別の個体ではないのかもしれないという疑問が浮かぶが、思考力を保つことはかなりの努力が必要だった。
けれど、あけびとルナリティスから聞いて覚悟していた分、Camilleはぎりぎりのところで内容に没頭しないよう耐えていた。
『日仏の両親を持つ少年を、周囲は奇異の目で見ていた。人と違うものを、人は恐れる。生まれながらにして、彼はそれを痛いほど知る運命にあったのかもしれない』
耳鳴りがする。水の底に沈んでいくような。
『同性が好きなことを自覚したのは、小学生の頃だった。
けれど、それを口に出すことは決してなかった。それはきっと、彼自身のためではなかった。
従兄に好意を抱いた。その時の気持ちはもう遠い記憶だけれど、淡い憧れを忘れることはないだろう。その影響だろうか。子供の頃から洋楽など大人びた趣味を楽しんでいた。
全てをさらけ出せば、きっと家族は悲しむ。口を噤み、その秘密を一人で抱えたまま、高校卒業後に上京した。
撃退士の能力に気づいていたが、戦うことは向いていないと思っていた。彼は美しいものが好きだった。ただひたむきに、アートに生きていた。
愛を失うその日までは。
愛して、それを失うことと、愛さないことはどちらの方がましだろう。その答えがわかったとして、それでもきっと辿る道は変わらない――』
痛みは感じる。
だがマイノリティとして生きる決意はできている。それを恥じようとは思わない。Camilleはただあるがまま目を逸らさず、前を見ていた。
傷つきながら強くなっていくから、自分を知ろうとすることは人一倍、幼少からしてきた。眼前につきつけられることを、もう恐ろしいとは思わない。
ミハイルと透次が駆けつけてくる。
Camilleはバイオレットの瞳で、まっすぐに彼らを見た。
●
群がる本を蹴散らすのは難しいことではなかった。
遅れて飛び込んできたラファルが飛び掛ってくる本に容赦のない攻撃をくわえる。
本は後から後から襲ってきて、どうやら遠慮も分別もなくなってきたようだが、その隙をついてミハイルは司書にシンパシーを使い、ここで起きたことを調べた。
思ったとおり、本に自分のことが書いてあると思い、離れられなくなったようだ。しかし、自分のことを読んでいると思い込んでいるが、彼女が今抱えているのは白紙の本だ。
これも敵なのは間違いない。
しかし取り上げようとしても、若い一般女性とは思えない力で本を押さえつけている。
ミハイルがスリープミストで眠らせようとしててこずっていると、突然キーンという耳に痛い音が響いた。
思わず全員が耳を塞ぐほどの大音響だ。
流石に司書までもが耳を塞ぎはしなかったが、手が緩んだ。それをひょいとラファルが取り上げる。もう片方の手にはハウリング音を発するメガホン。にやりと笑う。
やれやれという風にミハイルが頭を掻いた。
「おかげで目が覚めたな」
透次とCamilleに司書を託す。
「頼んだぞ」
まだ敵は中にいる。踵を返すミハイルに、このまんまじゃ終わらねーぜと闘志をみなぎらせラファルもついていく。
託された透次は意識が混濁しているような司書に友達汁を使い、笑顔で声をかけた。
「大丈夫、守ります」
聞こえているかどうかはわからない。だが、少しでも安心させたかった。
Camilleと透次は互いに声を掛け合いながら出口を目指した。すでに状況は理解していても、本は心の暴かれたくない部分を殊更に露呈して、絶えず自分自身という読者を得ようと誘ってくる。降りかかってくる本をCamilleが払い、透次が司書を抱える。
靄がかかりそうになる頭を振り、必死に平常を保ちながら進んでいった。
「あっ」
足元がおぼつかなくなり司書を落としかけた透次は、自分が下になり彼女を受け止める。
Camilleが彼らを起こし、再び出口を目指す。
救急車の赤いランプが、非常口の外に見えた。
●
ようやくミハイルと電話が繋がり、あけびは喜んだ。
互いに状況を説明し合う。司書を救出出来たのは喜ばしいが、早めに敵を倒さねばならない。本を読みたいという誘惑がどんどん強くなり、頭がぼうっとしていくようだ。
二階でも本を見つけては誘惑に耐えながら倒しているが、それで前進しているかもわからない。
救急車に司書を預け、透次とCamilleが追いついてくる。
仲間たちに聖なる刻印をかけて、意識を保つ助けをしながら透次が呟く。
「これだけ切りがないということは本体がいるのかもしれません」
Camilleも一つ一つがそれぞれの意思で動いているとは思えないと言って、離れた場所でも続きのように話が続いていたことを話した。
「本を作る天魔がどこかに潜んでるってことだな」
ミハイルが言う。
ルナリティスから連絡があり、二階は本の出現が収まってきているのであけびが一階に向かったという。
透次は白紙の本の出現が多い方向を本体のいる方向ではないかと話す。それならやはり、一階だろうか。
ルナリティスに任せ、あけびが一階に下りてきた。
見回って怪しいものはなかった、とミハイルは小さく呟く。
それなら敵は図書館にあるものに擬態しているのか?
ミハイルは素早く視線をめぐらせた。
「机や椅子、本棚の配置や形がおかしくないか?」
あけびが館内図と見比べる。
「あの列……本棚が多い……?」
「ヤングアダルトの列だな」
ミハイルが確認するように呟いた。
「よしきた」
ラファルが異界認識で敵をあぶりだす。
「見つけたぜ」
びしっと指差す。
だが、その瞬間、これまでにないほどの朦朧とした感覚が彼らを襲った。
自分のことが綴られた本を手にしなくてはならないという強迫観念が波のように押し寄せ、視界を歪ませ、仕舞いにはどれが本体の本棚なのかわからなくなる。
ミハイルがふらふらとしながら、導かれるように本の方へ向かう。
手を伸ばし、本棚に入った本を一冊、迷いなく抜き出した。
『「聖女に恋した死神」
幼少に両親を亡くした子供は、父の元上司に引き取られた。
普通の少年として育つが、いつか特殊工作員の訓練が始まる。
会社の不利益を非合法手段で解決。それが彼の生きる価値。
少年はいつしか、死神へと変貌していた。
殺人鬼! 人でなし!
罵られても眉一つ動かさずに、来る日も来る日も任務を遂行する。
そしてある時、彼は久遠ヶ原へ送られた。
ところで、そこですっかり死神の性格は丸くなり、友人に恵まれ、美人婚約者がいる。
彼女は聖女と呼ぶに相応しい人。
幸福な日々。けれど、時折、脳裏によぎる気持ち。
――「死神は幸せになってもいいのか?」』
ミハイルの目が文字に釘付けになる。口が僅かに開閉し、何事が呟く。
それは小さな声。誰にも聞こえないほどの――繋いだままの電話の相手以外には。
「――ビンゴ」
その瞬間、大きな翼を広げたルナリティスが天井を透過し、二階から直接降下してきた。
突撃銃を手に、そのまま攻撃する。
そこでようやくミハイルは本から目を離すことに成功した。
「なるほど、確かにヤングアダルトの列だった」
白と黒の霧を纏ったルナリティスが、一階の様子を知るために繋げたままにしていた電話を切った。
傷付いた本棚は、まるで醜悪な幻覚のように歪んだ。
いっそう強まる本を手にしたいという欲求を、そこに綴られた面影を追いたいという強烈な感覚をこらえ、あけびは隼突きで攻撃する。
時間はかけられない。
これ以上この感覚が強くなる前に。
透次の風斬りが破損した部分を狙う。
本棚は呻き声をあげ、悶えた。彼らを惑わせていた本のページがばらけ、視界いっぱいに舞う。彼らの目を引き付けようとする文字を、ラファルとミハイルが叩き落した。
Camilleが本棚までの道筋を作る。
「これで、終わり」
あけびの韋駄天斬りが本棚に向かって煌き、紫の花弁が散った。
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病院に運ばれた司書は衰弱こそしていたが、幸いにも深刻なダメージはないらしい。
連絡を受け取り、撃退士たちはほっと胸を撫で下ろす。
足元には本が散らばっている。先程まで見えていた文字が消え去り、そこには白が広がるばかりだった。やがて、打ち倒した細かい破片から消えていく。
撃退士たちは静かにその場を離れた。
互いに黙ったまま、自分の見た物語を口に出すことなく、頭からまだ追い出しきれないその余韻が消えるのを待った。
あの物語に、いつか、幸福な続きを、綴れるだろうか。
夜明けは、まだ遠い。