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レティシア・シャンテヒルト(
jb6767)という名の鬼がいた。
何百年も山にひっそりと住んでおり、人間に追われた物の怪を匿ったり等世話を焼いている。何でも元は人間だったらしい。だが勝手な都合で祀られ、あるいは貶められ、いつしか鬼となった身であった。今は人を恨んではいない。ただ、線を引いている。
故に人と関わることには気が進まなかった彼女が、脱走を手伝うことになったのは、知己の小鬼に泣きつかれて断れなかったためだった。
「良かった、他に誰も手伝ってくれなくて……」
泣き笑いの小鬼に彼女はそうでしょうねと苦笑し、呟く。
「そういえば……近くに、異国からのお客人がいるようですよ」
さて、人と狐の婚姻か。憂いを帯びた目を伏せ、鬼は彼方を仰ぎ見た。
少女は世界を旅していた。
月の都や竜宮城にも立ち寄り、掠めたのがこの地。Robin redbreast(
jb2203)――聞き慣れぬ名の少女の正体は、バジリスクという舶来の物の怪。大蛇である。
彼女を訪ねた小鬼はその幻想的な雰囲気に心を奪われながらも事情を話す。
「いいよ」
小鬼の必死の様子に、少女は快諾した。
これで二人。
その後当日の朝まで方々を訪ね歩き、人里近くまで下ってようやく鎌鼬のエルネスタ・ミルドレッド(
jb6035)と出会った小鬼が、事情を話して頼み込んでいると、
「その話詳しく聞かせてくれないかな?」
そこへ現れたのは大陸風の滑らかな衣装を纏った若者――砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)だった。
穏やかな青年だが小鬼は只者でない気がして畏まる。
「脱走か……ふふ、勿論手伝ってあげるよ」
竜胆は微笑む。
彼は、この地の者ではない。少し前にふらっと現れ――そして実のところ、狐子達の様子を眺めていた。思うところがあったのか、小鬼の声を聞きつけて現れたようだ。
風に纏った鎌鼬も承諾する。
「想いが通じ合っているのだから、結ばれるべきでしょう」
そうでなければ一生後悔する、と。
その二人の間にいつの間にか白い髪の童子が立っていた。
「狐子……何だか可哀相。ハル、で良ければ……助けになる、よ。」
ハル(
jb9524)という少女とも見紛う童子。狐子の様子を見守っていた竜胆は気付く。
「君は……」
村の子供達と遊んでいた座敷童子だ。
ある家に住んでおり、村に来る狐子を見かけるようになり、互いの正体を知った上で二人は仲が良かった。
これで五人だ。小鬼は深々と小さな頭を下げる。
「ああ皆様、狐子様のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
嫁入りまで、最早あまり時間がない。彼らは頷き合い、狐子の元へと急ぐ。
そこから少し離れた三郎次の家の黒猫がピンの耳を上げた。
「どうかしたのか、ミイや」
頭を撫でる三郎次の手をすり抜け、黒猫――狗猫 魅依(
jb6919)は家を抜け出ていった。
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嫁入り行列の中、主役であるはずの花嫁は、不安な面持ちで俯いていた。
行列が始まったが、小鬼が戻ってこない。
逃げ出す予定の谷までもうすぐだ。仕方がない、一人でも逃げなくては……。
そう思った瞬間だった。谷の斜面で炎が爆発し、落石で行列が足止めされる。何だ何だと騒ぐ狸達に囲まれ唖然としている狐子の腕を何者かが掴んだ。
「今のうちに逃げるよ」
竜胆が素早く狐子の手を引き、音もなく行列から離れる。
竜胆に連れ出された先で狐子を待っていたのは、小鬼と物の怪達だった。
「狐子様、このお歴々が力を貸してくれますぞ!」
「まあ!」
狐子は感激して一人一人の手を握り、見覚えのある顔を見つけて喜んだ。
「ハルも来てくれたのね」
ハルが優しい白い光で狐子を包み込む。温かいその光は緊張を和らげた。
「無事、に狐子が三郎次の許へ行け、るように……頑張る、ね」
そこへ黒猫が駆け込んでくる。
三郎次さんの猫? どうしてここにと思っていると、猫はたちまち人の姿になって狐子の尻尾にひっついた。
「もふもふ〜♪」
「ミイ? 驚いたわ、あなた猫又だったの!」
「みぅん♪」
狐子が尻尾で頬を撫でると魅依は嬉しそうに喉を鳴らした。
「……嗚、ゆっくりしている時間はなさそうですよ」
レティシアが呟く。
狸達が花嫁の不在に気付いて慌てふためくのを感じたのだ。
すると、魅依の姿は幼子からたおやかな娘へと変わり、彼らが態勢を整える前にその真上で爆発を引き起こした。
「門出の始まりに一発いっておきましょうか」
尾が分かれ、瞳孔も細くなっている。猫又どころではない。今の魅依は、仙狸だ。
そこへ風を纏い、流れる空気に乗ったエルネスタが一行に追いついてくる。
「阻害物は排除したわ。行って」
阻害物――その言葉に狐子は思い出す。この先は棘の林なのだ。立ち往生するところだった。
狸達がまだ混乱している間にと、竜胆が狐子を庇護するように寄り添い、一行は駆け出した。行く手を塞ぐような倒木はない。鎌鼬が整えてくれたのだろう。
道は真っ直ぐ下り、時折布が下げられていた。
首を傾げる狐子に、ハルが微笑む。
「狸が嫌いな……木酢液、を染込ませた布、を……掛けておいたん、だ」
それ、に……と後方を見やる。その瞬間、狸達が将棋倒しになる音が響いた。ハルが予め道の入り口に縄を張っておいたのだと言う。狐子は知らないうちに竜胆が飛び越えさせてくれたらしい。
へどもどする狸達を将軍が叱りつける。
「行けい! 花嫁を取り戻すのじゃあ!」
まず猪に乗った前衛の狸達が先立ち、突進しながら追ってくる。更に一行に向かって、次々に矢を放ってきた。
はっとしたエルネスタが素早く宙を舞い、鞭のように空気を裂く風でそれを打ち落とす。
「お嫁さんにも攻撃してくるんだね」
Robinの柔らかい声が冷めた色を帯びた。
不意にその姿は美しい鱗を持つ巨大な蛇となる。翡翠を嵌め込んだような眼で一睨みすると、地中から蛇が湧き出て狸達の足を絡め取る。
悲鳴を上げる狸達の声に怯むなという将軍の怒声が重なった。
やがて棘の林が近づいてきた。
一見すると道が閉ざされているようだが、その中に一本エルネスタの作った道がある。
竜胆が狐子をかばい直進していく。時折気まぐれな風に打たれた枝がたわんでくるのを少女の姿に戻ったRobinとハルが切り落とし、道の後方を塞いだ。
「これならきっとあっという間に逃げ切れるわ!」
振り返れば狸達は棘に怯え、木酢液に蹲っている。これで脱走を遂げたも同然と、狐子が喜ぶ。
だがしかしこれで勝利ではなかった。狸将軍は怒りに震え、唾を飛ばして狸達に指示を繰り出す。すると、これぞ狸の真骨頂か、彼らは龍に変化し、炎で棘を焼き払い、追走を図ってきた。
闇雲に放たれる矢がエルネスタに掠った。レティシアがすぐさまそれを癒すが、戦慣れしている狸達は流石に攻撃に長け、巨熊となっては地響きを起こし、龍となっては大木を倒す。油断は出来ない。
しなやかに宙を走る魅依が突進してきた騎猪兵達に神通力を流し込んで意識を揺らがせる。
攻撃を嫌い怪我を癒すことに専念していたレティシアも、気まぐれに絵筆で名状しがたい怪異を描き、それを具現化させた。まともにそれを見た狸達は震え上がる。それと併せるようにRobinがふぅっと息を吹きかけると、毒霧が湧き上がり、まるで夜のような暗闇が辺りを包み込んだ。狸達は恐慌に陥る。
だが狸将軍の息子、即ち花婿率いる一団がそれをかいくぐり攻撃をしかけてきた。石に火をつけ、火薬球の如く飛ばしてくる。
「逃がすなー!!」
燃え盛る赤が一行の上に降り注いだ。
竜胆が即座に光の守護陣を展開し、狐子を守る。
「……傷一つつけさせない。お前達、大切な花嫁に何するんだい?」
その口調は穏やかだが、青紫に光る目には有無を言わせぬ迫力があった。
エルネスタが雷を帯びた風を剣と化し、飛び掛る。狸達が二の足を踏んだ瞬間、Robinの呼び出した巨大な蛇が花婿を丸呑みにした。
だがしばらく閉じ込め、やがて吐き出す。
本気で攻撃することも出来るが、死傷者が出れば報復合戦が始まりだ。それは本意ではない。レティシアもその考えは同じで、花婿を始めとする行動不能になった狸達を縄で縛り上げる。犠牲が大きいと狸も引くに引けなくなるだろう。但し――再び絵筆で禍々しい神を描き出し、震え上がらせる。
「こ、こんなことしていいと思っているのか!」
青い眼の鬼は、黙って花婿の眼前に奇怪な絵を描き出した。狸と狐の間に遺恨が残らぬよう、怒りを自身が受け入れるように。
これで、追手の数は減った。が、残っているのは素早く能力のあるもの達ばかりだ。
「洞窟……入口に縄を張っておいた、から……通り抜け……よう?」
ハルが提案する。この先には洞窟があり、崩れやすくなっているが、そこを通れば人里へ近道になる。人里まで逃げれば、山の者は追っては来られない。
Robinがそれに同意した。
「崩落しそうになったらあたしが何とかするよ」
よし、とばかりに、狐子達が一気に洞窟へ向かおうとした時、そこで白雲が猛然と追いついてきた。
それに気付いたエルネスタが風のようにその眼前に立ちはだかる。
「まぁ、何を言っても無駄でしょうけど……自分の娘が幸せを掴もうと必死なのだから、見守るくらいできないの?」
その雲の中から現れたのは、狐子の父。稲荷神である。
「一族のことに口出しは無用」
鎌鼬の風が宙を切るが、父神も大風を起こしそれを相殺する。
風が吹き荒れ、その隙をついて一行を洞窟に突入した。
やはり刺激を加えれば崩落は免れぬ様子だが、Robinが天井を石化させて固める。狸達もこれを追って来るが、またもやハルの縄につまづいて転んだ。そこを、竜胆が氷の陣で敷き、深い冬の空気を誘って彼らを眠らせる。
「そろそろ追うのも疲れただろう? ……ゆっくりお眠り」
エルネスタが狐子を抱え上げて洞窟を駆け抜け、妨害していた竜胆達も通り過ぎたところで、Robinが洞窟を崩落させる。魅依だけが最後まで残り、崩落する洞窟に飛び込もうとする残りの狸達を神通力の槍で突き飛ばした。
「じゃあね」
そして、するりと透けるように埋まった洞窟の中に入っていく。狸達は慌ててそれを追おうとしたが、そこにあるのはたった今出来たばかりの岩壁ばかりであった。
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洞窟を抜ければあとは吊り橋を渡るばかりだ。
今にも落ちそうだがこれを越えれば人里に辿り着ける。
「待っていてね、三郎次さん……!」
高さに震えそうになりながらも、狐子が吊り橋に踏み出す。
「待てい!!」
低い声が響き、殿のハルが真っ先に振り返ると、それは最早僅かとなった精鋭を連れた狸将軍だった。どうやら透過の術を心得ていたらしく、なおもしつこく追ってくる。狸の射った燃える矢が吊り橋に穴を開けた。
このままでは橋を落とされる――エルネスタが矢を風で打ち落とす。
そしてハルが眩い彗星を作り出し、狸達の目を奪った。
「星、がキラキラ……してる。綺麗じゃない?」
少しでも時間を稼げれば……赤い瞳がちらりと橋の方をみやる。
Robinが先行して吊り橋の杭が落ちないよう支えるのをレティシアが手伝う。魅依が空中を駆けながら、間が抜けて不安定な吊り橋を渡る狐子を支えた。
いざという時は橋を踏み抜いても連れて渡るよう竜胆がすぐ後ろに構え、エルネスタがそれに続く。
橋を渡ろうと狸が一列になったところをすかさず作り出した大きな槍で突き飛ばした殿のハルが吊り橋を渡りきったところで、竜胆が吊り橋を炎で落とした。
だが、立ち止まった狸達を、狐子の父の雲が追い越して来る。なおも続く追走に、エルネスタが再び立ちはだかった。
「ここまで追ってくるのは、体裁の為かしら? 娘の為かしら? 後者であったとしても、その思い、届いてないわよ。しっかり言葉で伝えることね。いつまでも子供じゃないのだから、きっと届くはずだもの」
うっと言葉に詰まった稲荷神の雲が一瞬二の足を踏む。
レティシアが静かに口を開いた。
「お気持ちもわかりますが、方々に恨みを買っている狸と縁を結べば、狐一族にも飛び火しかねませんよ」
戦に強い狸一族なら娘を任せられると思ったのかもしれない。狸と縁を結ぶことでこの地に安定をという長としての判断もあるのだろう。娘の願いを簡単に許せない事情はあるだろうが、この追走劇を見て思うところはないか、冷静に問う。
父神の目が揺らいだその時。
「このままで済むと思うなよ!!」
とうとう怒りが頂点に達した狸将軍が、巨大な火球を橋の向こうの狐子に投げつけた。
「何てことを! 狐子!!」
父神が将軍を吹き飛ばして岩壁に叩きつけ、大慌てで飛んでいく。
火球は生きた木々に飛び火し、辺りは瞬間的に戦場の如き有様となっていた。その中で、Robinが炎の中から静かに進み出てきた。
「狐子は今の攻撃で死んでしまったよ」
父神が崩れ落ちる。
「狐子は立ち止まらなかったよ。命を賭けるくらいの気持ちだったんだね」
「そんな……狐子、許してくれ、許してくれ。私が間違っていた……」
Robinはしばらくその様子を見ていたが、やがて静かに言葉をかけた。
「嘘だよ」
「……え?」
「でも、この道中、そうなってもおかしくなかったのは、忘れないでね」
炎の中から狐子が現れる。そこには竜胆が付き添い、炎から狐子を守っていた。
「お父様……」
竜胆は青紫の目で狐子の父を見た。
「狐の神よ。……神である貴方が、僕が現れた理由が分からないはずは無いよね?」
父神ははっとした顔をする。
すると穏やかな青年の姿は麒麟となった。麒麟――それは即ち、吉兆の証。狐である狐子と人間である三郎次が結ばれる事が吉兆であると。
狐子も驚きの表情で竜胆を見つめた。
「前例が無い? 無かったら作ればいい――新しい時代はそうして作られるものさ」
神獣は高らかに宣言する。
「麒麟の名において証明する。この愛は光を齎すと」
その瞬間雨が降り出した。しかし太陽はなおも輝き、雨粒を光のように煌かせる。
「この方々がお前の嫁入りの参列者なのだな……」
父神が呟く。
雨は炎を消し去り、彼らの上にいつまでも優しく降り注いでいた。
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――さて、昔話ですが、飼い猫を探していた若者は、白無垢姿の娘が現れたことに大層驚きました。
もっと驚いたことは、物の怪達が嫁入り行列のように娘と並んで現れたことです。
美しい青年の姿をした麒麟が若者に娘を託しました。
「二人で幸せにおなり。美しい想いは、きっと周りも幸せに出来るよ」
畏まりながらも若者はしかと頷きました。
これを見届け、飼い猫である猫又はそっと姿を消そうとしましたが、娘はもちろん優しい猫又を放したりしません。座敷童子も彼らの許へ居を移し、その祝福はきっと二人の家庭を幸せにすることでしょう。
こうして物の怪の皆様の力に助けられ、夫婦はいつまでも仲睦まじく暮らしたそうです。
めでたし、めでたし。――そうですよね、狐子様?