スチール製の書棚に囲まれた部屋の中で雪室 チルル(
ja0220)は周囲を見回していた。魚腹海洋大松原研究室、受付で貰ったパンフレットによると魚の養殖を研究しているらしい。室内に置かれている本も養殖関係のものばかりだった。
「雪室さんでしたっけ」
奥から男が顔を出す。年齢は四十代ほど、眼鏡に白衣をつけた長身の男性だった。貰った名刺をもう一度確認する。魚腹海洋大助教授松原公一郎、名刺にはそう書かれていた。
「塗料分析は僕も専門じゃないんで時間はかかりますが、今日中には終わると思います。それでいいですか?」
「構わないよ、まだ何日かかかるつもりでいたから」
雪室は相楽 空斗(
ja0104)に書いてもらったメモ帳を確認しながら返答する。
「でもあたい達は依頼で来てるから、結果は魚頭町の魚市場までお願い。番号は分かる?」
「それは分かります。ところで何の依頼です?」
雪室は再びメモを確認する。だがメモにはそんな質問に対する模範解答は書かれていない。
「その塗料を使った不審船の捜索を頼まれてるの。漁場荒らされて困ってるって話なんだ」
「そういう事か」
松原は何度か頷きながら、部屋を歩き始める。
「質問は終わり? あたいも依頼に参加したいんだけど」
「引きとめてすまない。分かったら連絡するよ」
雪室は礼を言い、大学を後にした。
「内容は至極単純。‥‥の割に、どうも要領を得ませんね。先方の見通しが悪いです」
太陽が既に西の海へと沈んだ二十時過ぎ、幾つかの漁船が出港準備を進める中で、燕明寺 真名(
ja0697)と櫟 諏訪(
ja1215)は互いの手帳を見比べながら首を捻っていた。
「自分の方でも聞き込みしてきたんですが、どうも要領得ないんですよねー」
暖をとるためにも頭を回転させるためにも燕明寺はコーヒーをカップに注いだ。立ち上る湯気を見つめながら再び二人は思索に入る。
「目撃される場所はランダム、見つかったら逃走、大漁に採ってる気配は無い。何をやりたいのか気にはなるんですね」
櫟の手帳にはここ最近の目撃情報が日付とともに書かれている。最近のものは一週間前に灯台傍、古いものは一ヶ月前に離れとなっている。その間の目撃回数は八回、それぞれ違った場所で確認されていた。
「ちなみに釣れる魚が変わるって事は」
「多少は違うものですが根本的には一つの港だからせいぜい十種類ぐらいらしいですよ」
「その中で高いものは」
「伊勢海老、鯛らしいです」
「そこまでは分かっていることね」
聞き込みで分かった事は不審船の目的が不可解という所に行き着く。櫟は髪の毛を弄った。一本だけ生えたアホ毛が大きく揺れている。そこに既にライフジャケットを着込んだ楠 侑紗(
ja3231)が顔を出した。
「ちょっといいですか?」
一言前置きを挟み、楠はゆっくりと話し始める。
「町の方に足を運んだ方はいらっしゃいますか?」
燕明寺と櫟はお互い顔を見合わせ、ほぼ同時に二人は首を横に振った。
「何かあったんです?」
櫟が尋ねると、楠は再び淡々とした口調で話し始めた。
「私、お昼の内に町を見て回ったんです。流石に町全体を見るには時間が足りなかったんですが、それでもそれなりに見てきたつもりです。聞き込みも二十人ぐらいしました」
「それで?」
燕明寺が手付かずのカップを手にしたまま大きな瞳で見つめている。
「夕方ぐらいでしょうか、ちょっと天気が悪くなったんで近くの本屋に立ち寄ったんです。ついでに週刊誌とか見ていたんですが、店主さんが私を見るんです」
「他にお客さんがいなかったからじゃ」
「それはあります。夕方ではありましたが、書店は閑散としていました。私は注目を集める存在だったとは思います。でも店主さんから向けられた視線は何を買うのか観察するものというより、盗まないか監視しているような気がしたんです」
「そういうことか、悪戯流行ってるらしいからね。自分も調べたんだけどお釣りごまかしたり、品質に文句つけたりあるらしいね。酷いものだと当たり屋もあるとか」
「私も聞いてました。実際私が手にした週刊誌もグラビアの部分が何ページか破られていたんです。でも私はやっていません。そんな時に感じたんです。この町では一部の人に対して視線が厳しくなっているんじゃないかと」
「部外者に対しての偏見?」
「それに近いものだと思います。大きな町じゃありませんから、書店に来る人の顔は覚えているでしょう。逆に初めて見る人には敵、そんな潜在意識が生まれつつあるような気がしました」
「主観が含まれてますが、的を得てる気がしますね」
燕明寺はカップを地面に置いた。そしてメモ帳を取り出し、楠の言葉をまとめていった。
幾つかの漁船が港を離れていくのを見送りながら、撃退士はそれぞれの船に乗り込んだ。
「天魔が関係して無ければいいんですが‥‥」
雫(
ja1894)はココアを啜りながら、櫟の話を聞いていた。
「それで実際の所は?」
長成 槍樹(
ja0524)が借りたスマートフォンの操作を確認する。連絡先には同じ時間に出港する五隻の船の名前が書かれている。昼の内に相楽が聞き出してくれていたものであった。
「実は町人全員天魔だったとかも嫌いじゃないぞ」
「それはそれでホラーですね」
「依頼人の素性は確認しました。この町はまだ天魔に襲われた事が無く、中西さんも交戦経験はないようです」
「今時珍しい。とはいえ近くにゲートができたかもって話だから、あまり他人事にもできないな」
冷静に振舞いながらも長成は仮眠明けの頭にゆっくりと考えを巡らしていく。自分が今やるべき事、これからやりたい事を整理していった。
「そういえばA班の船は?」
思い出したように長成が尋ねる。港を見回すとB班の船はまだあったが、A班の船が見当たらない。
「もう出港しましたよ。潜るために波の状況とか海中の温度とか知っておきたいらいいわ」
「もう出てしまったのか」
雫の声に長成は苦笑を浮かべるしかなかった。
「おおー! これが船なのね?」
何もかもが初体験である雪室を他所に、常木 黎(
ja0718)は神経を周囲に巡らせていた。
「連絡よ。不審船を見つけたらしいわ」
常木が携帯電話を仕舞い、オウルを手にした。クライシュ・アラフマン(
ja0515)も同じくオウルを握る。
「場所は?」
「灯台東一キロ付近」
「やや遠いな」
「B班とC班が先回りしてくれている」
常木が答える。
「命綱をお願い」
常木は燕命寺、クライシュは雪室に命綱を預ける。
「急に引っ張られる事があれば掴んでね」
「分かったわ」
大きく息を吸い、常木は羽織っていたジャケットを脱いだ。
「これもお願いできる?」
「お預かりします。クライシュさんは仮面はどうします?」
「いや、これはいい」
燕命寺はジャケットを受け取り、命綱であるロープを握る。
「用はこのロープ持ってればいいんですよね」
「ですよ」
雪室がクライシュの身体に繋がれたロープを手にする。
「御武運を」
常木とクライシュは一礼し水の中へと入っていった。
「A班から連絡入りました。今潜水したようですよ」
携帯電話の通話ボタンをオフにして、二階堂 かざね(
ja0536)は同じ船に同乗する相楽と楠に状況を伝えた。
「よーし、後は接近するタイミングだな」
船頭に立ち、相楽は正面に広がる闇に目を凝らした。不審船がはっきりと見えているわけではない。だが海に映る灯台の光が不自然に波打っている。何かがいる証拠だった。
「具体的にはどう動きましょう」
コートを羽織り小さく固まった楠が尋ねる。
「まだ何も動かなくていい。まずはクライシュ君と常木君が動力部分を止めてくれる。それが成功したという報告があるまでは監視だ」
二階堂は再度携帯電話に目を落とした。まだ鳴る様子は無い。
「いつ頃電話来ると思います?」
「他の漁師に聞いた限りだと、スクリューに細工をするだけなら十分もかからないだろうという事だったぞ。だが気付かれないように接近、引っ掛けるものの捜索があるから三十分は見とけってことだった」
「三十分っていう事は三時半頃ですか」
「そういうことになるな。それまでは船の監視だ。もし連絡が来る前に動き出すようなら強攻策だな」
楠は相楽の手にあるロープに視線を落とした。強攻策といえば、ロープで向こうの船と繋ぎ乗り込む事になる。当然危険度が一気に高くなる。この時間まで眠れない事も含めて楠の機嫌は良いとはいえなかった。
「C班は?」
「まだ移動中みたいです。左側に取り付くってことでしたよ」
相楽は不審船の奥へ目を向ける。しかし流石にそこには闇しか見えない。どの程度C班の船が近づいているかは向こうから来る連絡と灯台の灯りが頼りだった。
「上手く行きますよね」
二階堂の質問に相楽は親指を立てて答える。
「秩序を乱すものは裁かれるものだ」
相楽の言葉にはありありと自信が満ち溢れていた。
問題の三十分が経過する。不審船には未だに動きが無い。だが同時にA班からの連絡も無い。C班の船では雫がココアを飲みながら待っていた。その隣で長成は何も言わずに空を眺めている。
「目立ちますよ」
雫が小さく笑った。
「大丈夫、気づかれてないです」
櫟が不審船を確認する。肉眼で直接確認できる距離では無いが、海面に動きは無かった。そこに連絡が入る。雪室からだった。
「スクリュー停止させたそうです」
「了解、暴れさせてもらうか」
長成と櫟がオウルを握る。そして不審船目指して漕いでいった。
両舷に突如現れたボートに不審船内では混乱を起こしていた。だが肝心のエンジンが動かない。それが更なる混乱の原因になっていた。
「ロープが繋がれたぞ。誰か上ってくる」
「ロープごと切り落とせ」
複数の男の声が船内に響いた。
「駄目だ切れない。何か仕込んでやがる」
「だったら釣った魚だけでも捨てろ。それとエンジンはまだ動かないのか」
「‥‥」
「エンジン」
苛立った足取りで男が制御室を覗く。だがそこにいたのは仲間の姿ではなくピストルを抜いた相楽とトンファーを構えた二階堂だった。
「チェックメイトだ」
相楽が男の足元に一発威嚇射撃を入れる。
「釣った魚の方も抑えさせてもらったよ」
左舷側からは長成と雫がクーラーボックスを抱えて姿を現した。
「ちっ」
進退窮まったと判断したのか、男は海へと身を投げる。慌てて甲板へと駆け寄る長成、ペンライトを取り出し海面を照らして男の姿
探す。そこにいたのは逃げた男を捕まえたクライシュと常木の姿だった。
乗員計三名と不審船拿捕の知らせは他の漁船によりすぐに港へと届けられた。撃退士達が戻る頃には依頼人である中西が救急車を呼んで待っていた。
「その救急車は?」
ジャケットを羽織った常木が尋ねる。
「聞きましたよ、夜間の潜水したんでしょ。心配だったんで救急車呼んでおきました」
「それじゃ好意に甘えさせてもらおうかしら」
一歩足を進める常木、だが流石に披露からか足をふらつかせる。
そんな彼女を支えてくれたのが長成だった。
「肩を貸そう」
大きな溜息を吐く常木、だが諦めたように呟いた。
「慣れないとねぇ」
長成に導かれるように歩く常木、その後ろを行くクライシュは相楽が支える。
「他に人には二階の事務所に海鮮うどん準備しておきました。温まってください」
「いいんですか?」
我先にと進んだのは雪室と二階堂だった。
「具は何が入ってる?」
「好きなものを入れていいよ。感謝の印だからね」
思わず二人はハイタッチを重ねて階段を駆け上がっていく。その二人に遅れて燕明寺、櫟、雫が続いた。だが楠だけ足が遅い。心配した雫が楠に声をかけた。
「うどんは苦手ですか?」
「そんな事はないですよ。好き嫌いは特に無いですし、人一倍食べる自覚もあります」
「それじゃ行きましょう」
連れられながら楠は二階の事務所へと入る。真っ先に入った雪室と二階堂は既にうどん抜きの海鮮うどんに手を伸ばしていた。
「ちょっといいです?」
部屋の中に市場の関係者がいない事を確認して楠が話す。
「ここの市場の人って親切すぎませんか?」
「そうですかねえ? 普通だと思いますけど」
カニの殻を取りながら二階堂が答える。
「私は頭良くないから難しい事分からないけど、依頼って基本困ってるからしてるわけでしょう。私達はそれを解決した。だから親切にしてくれるのは自然なものだと思いますよ」
二階堂はポケットを探りポケットからチョコレートを取り出す。
「食べてみます? 気分落ち着くと思いますよ」
「それじゃ頂きます」
食事前とは分かっていたが、好意を無下にする気分でも無いためチョコレートを貰う事にする。口の中に広がる甘みが寝不足から来ていた不機嫌を和らげてくれる。少し気分を落ち着けた楠、すると下の階から喧騒が聞こえてきた。
「取調べ始まりましたか」
燕明寺が窓から下の階を眺めてみる。
「こうして見ると、この市場も案外広いんですね。見たこと無い人も大勢います」
「ですね」
櫟も窓から階下を覗いた。
「昨日聞き込みで結構人の顔は見たつもりでしたが、まだまだですね」
撃退士達が捕えた三人の男が漁師達に囲まれ詰問を受けている。
「でもこうして見ると、大勢で脅迫しているようにも見えます」
燕明寺は表情を暗くした。先程親切と言っていた人の別の顔を見たようで少し怖くも感じていた。
「これ以上は見ない方がいいかもしれませんね」
櫟は窓の傍から離れる。代わりに茶碗を抱えた雪室が窓に張り付いた。
「証拠不十分な感じ?」
「どうでしょう。うまく言い逃れてるようにも見えますけど」
「あたいが頼んだ塗料の結果が早く出てもらいたいよ」
雪室が周囲を見回す。すると人の群れに近づく男性の姿があった。
「噂をすれば。あれ松原助教授だよ」
雪室が窓越しに男性を指差した。
「これで大丈夫ね」
伊勢海老の入った茶碗を抱えて雪室は椅子へと戻る。一方で燕明寺の視線の先では予想外の光景が広がる。助教授が不審船の三人を庇い始めたのだ。
「窓開けますね」
一言断り燕明寺は窓を開けた。助教授の声が微かに聞こえてくる。
「僕は元々この市場がまだ好調が続いているのに疑問を感じているんですよ」
「漁獲高を水増ししてるんじゃないかって言っているんです」
「例の塗料は彼らのものです。間違いありません。僕が雇ったんですから。この海域の漁獲量を調査するために派遣したんですよ」
燕明寺は窓を閉めた。これ以上は今は聞きたくなかった。