家庭科室に二十名を越える人数が入る。通常の授業よりは少ない人数にも関わらず室内には妙な熱気があった。視線は中央に注がれている。机の上に鎮座しているのはマグロ、先程学園に運び込まれたキハダマグロだった。
「おー、おっきいねー」
全長一メートル程の魚を目の前に、ありのままの感想を口にしたのはアッシュ・スードニム(
jb3145)だった。マグロを見つめる人垣の中でマスターである麻生 遊夜(
ja1838)と同じく遊夜をマスターと崇めるダッシュ・アナザー(
jb3147)とともに参加している。初めて見る巨大魚を前に尻尾を振り、ありのままに興奮を表現するアッシュ。反面その隣に立つダッシュは自前のデジタルカメラをマグロに向けシャッターを切っている。
二人のマスターである麻生自身もこれから作り出されるだろうマグロ料理を楽しみにしていた。自前のマグロ料理レシピ帳を一枚一枚捲りつつ、どんな料理を作ろうかと思案を重ねている。そこに依頼人であるストローベレーが登場する。ゴムエプロンに軍手、いかにもという出で立ちでの登場だった。
「お初の方も多いな。自己紹介をしておこう、この学園で用務員をやらせてもらっているストローベレーだ」
ストローベレーの自己紹介に拍手が起こる。そして拍手が終わるのを見越して麻生が一歩前に進み話を切り出した。
「ストローベレーさん、解体の前に一つお願いがあるんですがいいですか」
ストローベレーの視線が動く。それを正面に見据え麻生は言葉を続けた。
「魚拓をとらせては貰えないでしょうか」
「ボクからもお願いします」
どこからともなく来崎 麻夜(
jb0905)が合いの手を差し出す。ただこちらの目的は魚拓ではない、麻生の点数稼ぎである。だがそんな捻れた思いの交錯を知らないストローベレーの目には、今回参加した生徒の総意にしか映らなかった。
「貰い物だ。大切にな」
ストローベレーはそう言い残し、マグロから距離をとる。それは魚拓を許可したという合図だった。
「ありがとうございます」
頭を下げる麻生。合わせて来崎も頭を下げた。
「だが和紙や墨汁は持ってきているのか。他には墨を弾かないよう水分を吸収するために新聞紙等が必要だが」
麻生は自前のレシピを捲る。だがレシピは魚拓について何も教えてくれない。
「職員室に行けば揃うだろう。何人かついて来てくれ」
「俺行きます!」
真っ先に名乗りを上げたのは伊藤 辺木(
ja9371)だった。
「運輸の下働きしていたから荷物運びは任せてください。ついでにマグロを炙る焚き火の材料とか網とかも見つけたいので!」
「それなら俺も手伝おう」
もう一人進みだす者がいた。アスハ・ロットハール(
ja8432)である。
「料理はできないが荷物運びなら僕にもできるから」
さも当然のように道具調達班となったストローベレーと伊藤のもとへとアスハが進み寄る。しかしそんなアスハの腕をイシュタル(
jb2619)が掴みとめる。
「ちょっと待って。料理できないって初耳なんだけど」
イシュタルの手には特に力が入っているわけではない。口調も至って変わらず淡々としたものだった。
「誘っておいてなんだが‥‥僕は、料理できん」
「胸を張って言う事じゃないわよね、それ‥‥」
どこか呆れた様子も見せるもイシュタルはアスハとともに収集班の列に加わる。
「ではその間に僕達も酢飯の準備をしよう」
家庭科室から一時離脱する収集班を見送り、沙 碧葉(
jb7043)が兄弟である沙 碧葉(
jb7043)、沙 夏樹(
jb7044)の肩を叩いた。
「ご飯を炊いた後に冷ましながら酢と混ぜ合わせるから時間がかかる。今から準備しておいて損は無いだろう。耀羅も美味しいものは好きだろ」
「そりゃ好きだけど‥‥なんでわざわざ‥‥」
肯定の意思を示しつつも耀羅は素直にはなれなかった。そこには単純に兄に本心を曝け出したくない反骨心と幸か不幸か一緒に参加する事になった義理の姉、沙 月子(
ja1773)の存在があった。
「寮生活だと兄妹揃う機会が減るからさ。こういう機会に食事でも、って思ったんだけど。夏樹はどうだ?」
背中越しに碧葉は夏樹に声をかける。だが夏樹は反応を見せない。ゼンマイの切れた人形のように身動きせず一点を見つめている。その先にいたのは義姉である月子と千葉 真一(
ja0070)、神宮陽人(
ja0157)だった。
「薄味と濃味で悩むね‥‥素材が良いとやっぱり美味しいし」
何を話しているのか碧葉にははっきりとは聞こえなかった。だが中途半端に聞こえるからこそ胸の中でもやもやとして残っている。
「夏樹、ご飯を炊くよ」
碧葉が再度声をかける。それに対し夏樹は無視したように歩き出す。
「他を見てくる」
「他ってどこへ」
「他は他だよ」
それでも夏樹の足は意図的に月子の場所を避けていた。
やがて収集班が戻り魚拓作りが始まる。しかし魚拓作りなどやったことの無い参加者達にうまく作れるわけも無く時間だけが進んでいく。鮮度を落としたくないマグロを前にストローベレーが魚拓の修正を引き受け解体に入る事になった。
「一つ要望があります」
水無月沙羅(
ja0670)が手を上げる。
「この魚の解体、私にやらせてもらえないでしょうか」
真剣な表情で沙羅がストローベレーに訴える。突然に申し出に面食らうストローベレーであるが、それを許可する。きっかけは水無月の持っていた使い込まれた出刃包丁だった。
その一方でLyuju・Fon・Croitel(
jb7976)はストローベレーの持ってきた各種包丁を観察していた。上から覗き下から見上げ右へ左へと回転させ一つの結論を導き出していた。
「きっとこれで解体するのですね」
そもそもLyujuはマグロというものを知らなかった。天使であるため食べた事もない。解体という言葉から建築か彫像だと想像している。
「これも使うのですか」
沙羅に尋ねるLyuju、それに水無月は首を振る。
「解体にもやり方がいくつかあります。私はこの包丁だけですね」
自分の包丁の切れ味を証明するかのように沙羅はマグロのエラビレを立てて一太刀で切り取る。
「早速マグロに第一刀が入ったぞ。始めはエラからの切断だ」
「あれはエラビレね。マグロはあのヒレを使って泳ぐの」
「これは骨のぼり向きの飾りになりそうだな」
水無月の解体開始とともに麻生が実況に、来崎が解説に入る。自然と注目を集める二人。見ている者の何人かは解説以上に来崎の手あるカンニングペーパーを気にしていたが、来崎自身は気にしていなかった。
「こうして見ると簡単に捌かれて行くのね」
エラビレ切断から背側の肉の捌きに入る沙羅の包丁捌きにシャロン・リデル(
jb7420)がそんな言葉を口にする。その言葉を麻生が耳聡く聞きつける。
「確かにこうして見ていると僕でも出来そうな気がするな。一緒にやってみないか」
まるで食堂に行くかのような気軽さで麻生はシャロンを解体に誘う。その申し出に思わず手を上げかけるシャロン、だが最後には目を逸らしてしまう。自分が超前衛料理作成者である自覚があったからである。そんなシャロンを他所に美森 あやか(
jb1451)と木瀬 優司(
jb7019)が手を上げる。
「‥‥あの、解体を手伝う代わりというわけではありませんがマグロのブロック一つ持って帰っても良いでしょうか?」
恐る恐る美森が交渉を持ち出す。
「余ったらいいんじゃないですか」
答えたのは水無月 ヒロ(
jb5185)だった。
「でも頭は譲らないからね」
ヒロが狙っているのはマグロの目玉だった。だが頭という単語に稲葉 奈津(
jb5860)が連想したのはマグロの頭をそのまま火に入れる御頭焼きだった。
「御頭焼きでも作ってくれるの?」
しかし稲葉の問いにヒロは首を傾げる。
「御頭焼きっていう手もあったね。でもボクはあんなの作れないよ、道具も持ってきてないし」
ヒロは思わず家庭科室を見回す。そこに伊藤が助け舟を出した。
「御頭焼きが上手くできるかは保障できないが、それぐらいの火力なら出せそうだぞ! この部屋で全部の料理をやるには無理がありそうだしな!」
そもそも伊藤は家庭科室だけで作業をするのは手狭になると考えていた。実際米を炊いているのが
千葉、美森、沙三兄弟、沙羅。加えてヒロがオーブンを使用している。中身はスイーツに使うスポンジケーキだった。室内は冬間近にも関わらず高温になりつつあった。
「それに網も見つけてきたぞ! 外にはちょうどストローベレーさんが集めてくれた落ち葉もあるらしいし、魚拓作りに使った新聞もある! 火を起こすにはもってこいだ! 後でLyujuさんとも焚き火をしようと約束していたところだしな!」
テンションを上げていく伊藤、釣られて自然と稲葉の期待値も上がっていく。だがヒロはそんな二人の思いを一言で絶望へと突き落とした。
「網なんて使わないよ。僕はマグロスイーツを作るんだから」
ここまで来て遂に稲葉は自分が地雷を踏んだ事に気がついてしまった。反面興味を惹かれた者もいる。超前衛料理作成者のシャロンである。しかしシャロンは自覚があり味覚も正常であるが故に今回料理には手を出さないと心に決めている。だが目の前にいるヒロは敢えて料理に挑戦するという。尊敬とまでは言わないが、心意気には共感するものがあった。
「そ、そう。マグロスイーツね。楽しみにしてるわ」
トロ、中トロ、中落ち何でもござれ〜依頼前確かに稲葉はそう考えていた。だがこれから出来るであろう未知の物体の前には少なからず恐怖を感じ始めている。
一方でマグロの解体は進んでいく。沙羅は既に背側の肉を捌き終え、続いて背骨の間に挟まった身を取り除いていく。
「こうしたすり身状のものはどんな料理へと変貌するのかも見物だな」
「一般的にはネギトロ丼やハンバーグ、かまぼこなんかの練り物に混ぜる事もあるね」
実況と解説が息のあったコンビを見せる。合わせるように写真を撮っていくダッシュ。食べられるところを無駄にしない解体法に満足する千葉、その一方でアスハは複雑な表情を浮かべる。
「しかしこうして自分達が他の生物を搾取してるのに、自らが餌になると全力で拒否するのは身がっ‥‥」
アスハの思考は目の前のマグロから人間にとっての餌へ、そして更に天魔にとっての餌である人間へと飛躍していた。
「人間が身勝手なのは今に始まったことでは無いと思うのだけどね…。まぁ、天魔も同じようなものだけど」
アスハの反応にもイシュタルはいつものように冷静だった。しかしそれだけではまだ物足りないアスハは、料理の準備の終えたものから捌かれた背側の肉を好きな分量をアッシュから分けてもらい刺身へと挑戦。沙羅の解体を参考にイシュタルもそこに神宮はそっと消毒用アルコールと使い捨ておしぼりを添えた。
「神出鬼没だな」
神宮の配慮に千葉は周囲の邪魔にならない程度で話しかける。
「だがその心遣い嫌いじゃない」
「はいはいどうもね。解体見てないと大事なところ見逃すよ」
「そうだな」
千葉の言葉を受け流し神宮は再び解体現場から姿を消し、火にかけた千葉の土鍋を覗きに行く。
「だがそういうところは嫌いじゃないぞ」
千葉の言葉は実況と解説にかき消される。だが千葉の表情は満足したものだった。
背骨の身を削ぎ終え、続いて沙羅はマグロの頭部を切り落とす。室内では続々とご飯が炊き上がり始めていた。酢飯を作るべく碧葉は炊き上がったご飯をボールへと移し、耀羅が団扇を準備している。そこに次男の夏樹の姿は無い。代わりにいたのはヒロッタ・カーストン(
jb6175)だった。
「こういう機会だから記録に残るようにアンケートをお願いしているんだ。協力してもらっていいかな」
ヒロッタは同じく撮影をしているアッシュとも後で写真交換をする約束を取り付けている。
「協力、協力ね‥‥」
団扇を仰ぎながら耀羅は口を尖らせている。参加しても別に構わないのだが思わず反抗心が先に出てくる。それを宥めるようにヒロッタは補足する。
「参加者の身辺調査をやろうとしてるわけじゃないよ。ただこうして文字や映像なんかの媒体で残しておいた方が記憶に残るからね」
自分の発言の証拠としてヒロッタは耀羅にも見えるようにカメラを差し出した。それに碧葉が狙いをつける。
「カメラ持ってるって事は写真を撮るって事ですよね」
「それは勿論。撮って欲しい写真のリクエストとかありますか」
碧葉の発言に耀羅も思わず碧葉を見つめる。
「最後でいいので全体写真を撮って欲しいんです。それを焼き増しで三枚」
本当は月子との写真と言いたかった。だがまだそこまでの言葉は出てこない。それでも全体写真で一緒に写るぐらいなら少しは距離が縮まる、碧葉にはそう思えた。
「私もそれで」
やや俯きながら耀羅も頷いてみせた。
解体が終了しておよそ一時間が経過、家庭科室で丼、唐揚げ、寿司、サラダと次々と料理が出来上がる。
「とりあえずこんなもんか? 他にもあるし」
千葉は自分が作った料理の出来栄えにひとまずの満足を見せていた。その近くでは月子が準備した寸銅鍋を使い、あら煮とまぐろ出汁うどんを作成する。
「うどん出来たよ。体があったまりますよ〜無駄になるところなんてありませんからね〜」
骨のぼりには使わない細かい骨を中心に月子は作り上げた会心の作だった。早速手近なところから千葉と神宮を味見兼毒見役に任命、試食会を開始している。
実況、解説を行っていた麻生、来崎もすり胡麻、醤油、ごま油からたたき丼を作成。最後に卵黄と海苔を乗せる豪華仕様である。美森もそれを見習いつつユッケを完成、更に表面を炙ったマグロを包丁で細かく叩き、山葵、醤油、ごま油、塩、マヨネーズと各種調味料で合わせたタルタルを振舞う。
「これは勉強になるね」
出来上がった料理を一テーブルごと周り、木場は自分なりにノートに料理をまとめていた。
「こんなに沢山あるのなら何でも作れそうだね」
調理器具も当然だが、調味料も数多く揃っている。その中で木場は敢えてシンプルにカルパッチョに挑もうかと考えを巡らせていた。
そこにようやく魚拓の修正を行っていたストローベレーが登場、後には外でマグロステーキに挑んでいた伊藤とLyuju、骨のぼりを作っていたアッシュが続く。
「こっちも出来たんだよ」
ヒロは事前に焼いていたスポンジケーキにマグロの切り身と生クリームをコーティング、最後にマグロの目玉をトッピングしたショートケーキを作り上げた。
「後で切り分けるね」
断りきれず生クリームの泡立てを手伝った稲葉とトッピングを手伝ったシャロンに特大の笑みを浮かべるヒロ。だが笑顔を向けられた二人の顔は引きつっている。
「皆さん写真を一枚いいですか」
頃合を見計らい、ヒロッタが全員に聞こえるように呼びかける。
「集合写真を取りたいと思います。作った料理を手にしてこちらに顔をお願いします」
フラッシュが炊かれシャッターが閉じる。撮影された参加者の顔は悲喜交々だった。