「やっと依頼が取れた、初めての仕事ですが今日も頑張ります」
依頼開始から数日、まだ日も昇りきっていない港に撃退士達の姿があった。だが依頼人である斉藤の姿はまだない。輪の中心では雪ノ下・正太郎(
ja0343)が九十度に折れ曲がる綺麗なお辞儀を披露していた。
「釣りとは言え、依頼である以上全力を、尽くすのみだな」
周囲を見回しながら神凪 宗(
ja0435)は防寒対策のために準備した軍手の感触を確かめる。だが厚い軍手の生地を通してもひりつくような寒さは手の感覚を麻痺させていく。
「遅くなって申し訳ない」
五分程遅れて斉藤がストローベレーと共に姿を現す。
「病院から電話がありまして」
「奥さんですか」
宇高 大智(
ja4262)が尋ねる。
「詳しくは行って見ないと分からないですね。漁が終わってから向かうってことにしました」
「そうですか」
神妙な顔を浮かべながら宇高は続く言葉を飲んだ。斉藤の顔から良くない内容の電話という事を察したからである。
「とりあえず船に乗り込むぞ。忘れ物は無いな」
ストローベレーの号令に合わせて撃退士達は一人ずつ船に乗り込んでいく。
「今日は何が釣れるかわくわくするわね」
「私は今日こそは鯛を釣り上げる」
これまで好調を維持している田村 ケイ(
ja0582)とミルヤ・ラヤヤルヴィ(
ja0901)は意気揚々と船に乗り込む。一方で雅喜(
ja0963)は少し気持ちを落としていた。【2011文化祭】幸運の石をつけてきたにも関わらず、これまで連日メバルやカサゴを一匹という記録を続けているからだ。
「ホタルイカもシラサエビも鯛以外は好む魚いないからな」
雅喜の不調の原因をストローベレーはそう解説した。
「おかげでマダイ専門の連中は好んで使うんだが初心者にはまだ難しいか」
一度だけマダイらしき当たりはあった。しかし逃げられている。それが一層雅喜が悔しがる原因となっていた。
「だが感知の精度は上がってきた。そろそろ狙えるはずだ‥‥」
ゆっくりとした足取りで柊 夜鈴(
ja1014)も船に乗り込む。手にしているスマートフォンには今朝の雲模様が表示されていた。
「問題は雪だな」
「降るんですか」
水無月 蒼依(
ja3389)が声をかける。
「確率は五十パーセント、覚悟しておいた方がいい‥‥」
柊の言葉に水無月はしばらく考え込むような素振りを見せたが、やがて何度か頷き自分の服装を確かめる。
「全員乗ったか、救命胴衣渡すぞ」
ストローベレーが周囲を一望する。
「最後に紐結べているか隣同士で確認するように。胴衣だけ浮かんで自分が沈むとか笑えないからな」
ストローベレーが見回る中でしのぶ(
ja4367)と滅炎雷(
ja4615)は救命胴衣の確認をしていた。だがしのぶが苦戦している。防寒対策のためにトレーナーにジャージ、レインウェア着込んできたため着膨れしていたからである。
「しのぶさん、いつにもましておっきいね」
「いつにもってどうゆうことかな、ライ君」
「言葉通りの意味だよ。ほら、紐が足りなくなってる」
「そんなの継ぎ足せばいいじゃない」
しのぶはタオルを滅炎に渡す。
「賢いな、しのぶさんは」
最後にストローベレーが全員の救命胴衣を確認する。
「それでは船を出します。揺れますから気をつけてください」
斉藤がエンジンをかける。そして船はゆっくりと速度を上げ、船は大海原へと向かっていった。
出港して間もなく、雅喜が寝袋を準備している隣で雪ノ下は甲板に立ち、風の動きを読んでいた。
「一雨来るな」
朝食代わりに持ってきた焼きそばパンをかじりながら、雪ノ下は雲の様子を眺めている。
「雪らしいですよ。柊さんが確認してました」
「機械に絶対は無い。過信は禁物だ」
「でも選択肢の一つにはなるさ。雨でも雪でも海面が荒れれば釣れる魚も変わるらしい」
ニット帽の位置を確認しながらミルヤも甲板に現れる。
「その辺は経験と勘と俺達の感知能力でカバーするんだ」
「感知って言っても難しいですよ。まだ魚の気配ってよくわからないですから」
「目に見えるわけでも空気中にいるわけじゃない。単に感知するだけじゃなく、得た情報を自分なりにまとめる事さ」
雅喜は二人の話に耳を傾けながら、寝袋を固定。そして日課となった餌用のクーラーボックスを確認する。そして雪ノ下とミルカの様子を伺い、一杯取り上げる。
「止めた方がいいわよ。ストローさんの話によるとスルメイカには寄生虫もいることがあるから」
口元まで運んだ所で船室から呼び止められる。雅喜が振り向くと、田村が複雑な表情を浮かべている。
「目に見える大きさらしいから捌く時には取り除くらしいけどね」
「本当に?」
「本当に」
「身体に影響ある?」
「あるのとないのがあるそうです」
真面目な表情で答える田村に対し、雅喜は残念そうな顔を浮かべる。そして手にしたイカとクーラーボックスを何度か見比べ、三度見返しだ後で大きな溜息とともにボックスへと戻す。
「そろそろ魚群ポイントに着きます。準備を始めましょう」
斉藤の声がするが雅喜の耳にはまともに届かなかった。
「釣りをする場合最も気をつける事は竿の先は海に向けることです」
船を停泊させ、斉藤は釣りの簡単な解説を始める。
「狭い甲板の上で長い竿は凶器になります。針を海に浮かべる時も周囲には気をつけてください」
「はい」
斉藤が解説している間にストローベレーが一人一人の釣り針に餌をつけていく。
「釣りとは言え、依頼である以上全力を、尽くすのみだな」
竿を手にし、神凪 宗(
ja0435)は静かに自分の決意を口にした。
「こういう作業は、我慢強さが必要なのだろうな。さて、何処まで耐えられるか‥‥」
レインウェアに股引の二枚重ねと考えられる防寒装備は整えている。だが海上の風は港のものと比べて寒く、周囲に遮蔽物もない。安物ながらもレインウェアが大部分の風を防いでくれているが、顔に吹き付けてくる風が船酔いとともに神凪を襲っている。
軽く頭を抑えながら、神凪は酔いを誤魔化すために読書中の水無月に話しかける。タイトルは斉藤かの子著の「漫画でわかる釣り入門」依頼人である斉藤崇の妻が書いた作品である。港から貸し出されたものであった。
「‥‥船酔いですか‥‥揺れないところにいるのが重要‥‥」
「そうか、少し場所を変えるか」
「‥‥船の前にいるよりは‥‥後ろの方が‥‥楽だと思います‥‥」
水無月は小さく頷きながら立ち上がり本を閉じる。
「そういえばその本は分かりやすいのか?」
神凪の問いに水無月は首を傾げる。
「‥‥面白いけど‥‥専門用語が分かりにくい‥‥あわせとか‥‥後でストローベレーさんに‥‥確認しないと‥‥」
「それに関しては俺は力になれそうにないな」
水無月に遅れて神凪も立ち上がる。そして竿を手に船の後方へと移動していった。
「カサゴゲット、これで三匹目」
ミルヤが上機嫌で魚を手繰り寄せる。その様子を宇高は素直に羨ましがっていた。
「よく釣れるね」
労うように宇高はミルヤにおにぎりとお茶を差し出す。サポートに入ってくれた望月 忍(
ja3942)、日比野 亜絽波(
ja4259)両名の作である。
「おにぎりとお茶、全員分用意したから、いつでも食べてくれよな」
「どうも。コーヒー準備してるが、おにぎりにはお茶だな」
礼を述べ、ミルヤはおにぎりとお茶を受け取った。二人の間ではストローベレーがカサゴから釣り針を外している。
「さっきから観察させてもらってたけど上手いんだな。どうやればそんなに釣れるか教えてもらってもいいかな?」
「気配を消すの。魚から直接私達が見えるわけじゃないんだけど、糸を通して私達の呼吸みたいなのが伝わってる気がするわ」
「隠密みたいなものか」
「そうじゃない? 神凪さんや水無月さんもそれなりに釣れてるし」
ミルヤが船の後方へと視線を向ける。二人の傍には斉藤が立ち網を手にしている。
「といってもベリーちゃんの受け売りだけどね」
「それを理解できたのはお前さんの素質だ」
ストローベレーが針を外したカサゴを高々と掲げる。
「多少小振りだが、まずまずだな」
「二十センチぐらいですね」
「リリースしてもいいがどうする?」
ストローベレーが尋ねて来る。
「今日の取り分は確保してるしリリースするか」
既に二匹釣り上げているミルヤもストローベレーの提案に同意する。しかしリリース前にストローベレーの手が止まる。
「しまったな、カメラ持って来れば良かった」
「それもそうだ」
思い出したように宇高は手を叩いた。
「だったら魚拓でも取ります?」
「リリースする物や売り物に墨塗るわけにもいかんだろ」
「それもそうですね」
宇高が笑う。
「魚拓やるためには買い取るしかないな」
「やるなら鯛でやりたいね」
ミルヤも高らかに笑った。
「そのためにはまず鯛を釣らないとな」
ストローベレーがカサゴを海へと返す。すぐにカサゴは海の中へと潜り見えなくなってしまった。
「ハハ、凄く揺れるよ〜♪」
何人か当たりが来る一方で辛抱の時間を迎えている者も居た。しのぶと滅炎である。二人ともそれなりの成果を上げ、最後にマダイを狙っている。だがホタルイカを餌とした二人の竿は既に三十分反応していない。加えて僅かながら雪が降り始めている。そこで船室に移動し、自前と田村から貰ったカイロで暖をとっていた。
「それじゃもっと揺らしてみようか!」
寒さで固まりつつある筋肉に活を入れるためスクワットを開始するしのぶ、だがそれを柊が制した。
「ちょっと揺らすのは待ってください‥‥」
しのぶが中腰の体勢のまま柊へと視線を向ける。柊は眼鏡の位置を整えながら東の海面を見つめている。
「何か来てませんか」
釣られるように生姜湯で暖をとっていた田村も柊の指差した方角に耳を傾ける。
「エンジン音?」
「それっぽいね」
滅炎がお茶を飲みながら答える。望月と日比野が準備してくれたお茶である。こちらも田村の準備したものと同様に生姜いり、保温を考えたものになっていた。
「帰港するのかな」
しのぶは斉藤に尋ねる。
「もうすぐ八時半、太陽も上がったし帰る船も多いでしょうね」
「日が昇ると狙い目の魚も変わる。専門的に狙っている連中にとっては仕事終わりの時間だな」
ストローベレーは船内の様子を見渡す。時間が時間のためか全員が大物狙いへと移行しており、当たりの来ている竿は無い。身体を揺すったり、カイロを擦ったり、寝袋に入ったりとそれぞれの方法で寒さに耐えている。
そんな時に一つの竿が大きく揺れた。雅喜のものである。
「引きが強い。大物だ」
ストローベレーが声を上げる。雅喜が慌てて寝袋から飛び出し竿を手にする。だが片手掴んだだけで今までのものとは違うという感覚が全身を走った。下手をすれば身体ごと海に引きずりこまれる、そんな恐怖だった。
「誰か手伝ってくれ。上手く力が入らない」
雪ノ下が急いで立ち上がり助太刀に入る。
「タイミングを合わせよう。一二の三で引き上げる」
「リールを巻くタイミングは」
「任せる」
いつしか周囲には風が出てきていた。海面も風に煽られ波打ち始めている。船は揺れ、二人の足場は一層不安定になっていた。
「一、二の三」
「もう一回、一、二の三」
二人は声を合わせる。だが魚との距離は中々縮まらない。
「糸に気をつけろ。無理に引っ張れば切られるぞ」
「魚の動きを読むんだ」
ストローベレーと斉藤も激を飛ばす。そしてその傍らで別の声が上がる。柊の声だった。
「船が来ます‥‥」
「帰港する船だろう?」
「いや‥‥こっちに向かってきます‥‥」
柊の声に思わず雅喜、雪ノ下を除く全員が海上へと目を向ける。問題の船は東から向かってきている。朝日を背に撃退士達の乗る船目指して直進していた。
「信号を送れ」
「鏡でも旗でも何でもいい」
斉藤とストローベレーは急いで船室へと潜り込む
「エンジンは?」
「沈黙。すぐにはかかりません」
「向こうの船は」
「‥‥やっと左折を‥‥開始しました」
「全員何かに捕まれ」
ストローベレーの怒号が轟く。休憩していた者はそれぞれ手近な手すりやロープに捕まる。だが雅喜と雪ノ下はまだ魚と格闘をしていた。
「お前達はコレに捕まれ」
ストローベレーは船室からロープを投げる。
「絶対にロープから手を離すな。離すなら先に竿を離せ」
「分かりました」
船に気付いたのか竿も大きく暴れ始める。だが二人はまだ竿を離さない。一方で接近していた船は減速することなく突進している。方向転換しているものの見つめる柊や田村の眼には微妙に映っている。
「釣り上げた」
竿を引くのに合わせて鯛が大空を舞った。雅喜が歓喜の声を上げる。
「‥‥おめでとう」
水無月が賞賛の言葉をかける。だが視線は鯛ではなく、接近する船に向けられている。船体に船の名前が書かれているようにも見えるが海の飛沫のせいではっきりと読み取れない。船員は二つ影が確認できるものの、マスクとニット帽で人相までは判断できない。
「くるよ」
滅炎が楽しげな声を上げる。船に大きな衝撃が走った。身体が揺れる。横からの衝撃に加えて足場は上下にも動いている。
「バランスを取れ、そして絶対に手を離すな。転覆してもだ」
甲板では先程釣り上げられたマダイがまだ跳ねている。ぶつかった衝撃で大量の海水が船に入っている。柊や水無月、神凪は直接海水を被った。だが必死に手すりやロープに捕まる。揺れが収まるまでの三十秒足らずが一分以上にも感じられる時間となっていた。
その後撃退士達は港へと戻り、衝突してきた船の報告とシャワーを借りて食堂へと向かった。タオルが不足したためしのぶから借り、一匹だけ連れた鯛で打ち上げをするためである。
やがて食堂で撃退士達を尋ねる者が現れる。港の責任補佐の中西だった。
「斉藤さんは」
「病院、呼び出しがあってね」
「奥さんの件で?」
宇高が尋ねると中西は首を振った。
「そっちも満更嘘って訳でもないんだけどね」
中西は舌で上唇を持ち上げる。
「斉藤君が事故起こした話は聞いてるよね。あの相手の子が騒ぎ出したんだよ」
「騒いだ?」
「先週聞いた時には捻挫だったんだ。入院も検査的なもので二、三日で退院と僕は聞いてた、恐らく斉藤君もそう聞いてたはずだ。彼免停中だから僕が病院送ってるんでね、一緒に聞いたんだよ。だけど今朝の電話では骨折したっていうんだ」
「当たり屋ですか」
「まだ確証はありません。と、こんな辛気臭い話は食堂なんかでするものじゃありませんな。実は今回ほとんど無料で働いてもらったと聞いて餞別をね」
中西はクーラーボックスを降ろして蓋を開ける。
「売れ残りで悪いけど一応伊勢海老ね。造りにしてもらうから楽しんでいって頂戴」
「いいんですか」
「駄目だったらわざわざ持ってこないよ。自慢するだけの嫌なおじさんになっちゃうからね」
「それじゃご馳走になります」
中西は手を振りながら去っていく。撃退士は歓喜の声を上げた。