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悲しい気持ちを、人は色に喩えて『ブルー』という。
とは言え今目の前に広がるのはどれも美しく優しく、人の心に癒しを与える青。
相馬晴日呼(
ja9234)はそんなことをぼんやり思いながら、じっと本の表紙を見つめていた。
あらゆる青に溢れた、不思議な美しい本。
それを前にして、九人の少年少女は様々なことを考えている。
「とりあえず、コピー機はこちらです。必要なページをコピーして下さいね」
藤原 加奈子(jz0087)が微笑みながらそう伝えると、興味深そうに苧環 志津乃(
ja7469)がそれを見つめる。用意されたコピー見本の再現度の高さに驚いたようだ。
「今はこういうものも気軽に作れるのですね……すごいです」
楽しそうな声で、志津乃は微笑む。一方、
「折角ですから、本以外でも青を楽しみつつ作りませんか?」
メイド服に身を包んだ氷雨 静(
ja4221)が配ったのは、マローブルーティという青いハーブティ。それをティーカップに注いで回り、自分の分も注ぐと、優しい笑顔を浮かべた。
雨宮 祈羅(
ja7600)がカップに口をつける。そして一口味わうと、静にとびきりの笑顔を向けた。
「おいしー! 真っ青なお茶なんて、珍しいねー」
お茶請けとなるような物はないけれど、飲み物があるだけで気持ちも楽だ。
「もし良ければ、こんなものも」
静が用意したのは、いわゆる環境音を収録したCD。再生すると、海のざわめきが部屋の中に響いた。
「良い心地だな。……さて、皆はどんな物語を作るんだ?」
鳳 静矢(
ja3856)の問いに笑顔で応じたのは蓮華 ひむろ(
ja5412)だった。
「もちろん、『面白い』本がいいなーって、そう思ってるんだよー!」
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各々が必要とするページをコピーし、その脇に文字を書き込んだり、パソコンを使って体裁を整えたりする。
静かな中に響くは遠いさざなみ。それぞれの作業の音とともに時間はゆっくりと過ぎる。やがて完成を叫ぶ声が聞こえ始めた。そして最後の一人の声が上がったのを見計らって、各人の作った『青い物語』が集められた。
「どんな話をみんなが書いたのかしら。すごく楽しみね!」
文芸部に所属しつつも文章を書くのは苦手、という瑠璃堂 藍(
ja0632)の声は弾んでいる。趣味が似通った加奈子の作品も気になっているらしいが――加奈子はそんな藍に、笑顔をわずかに向けるのみ。
「じゃあ、ええと……誰から発表する?」
ルーネ(
ja3012)がやや照れ臭そうに、皆に問いかける。最初は誰も手を挙げなかったが、最終的にトップバッターとなったのは晴日呼だった。
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「青って、身近なのは空の青だが、海のない場所で暮らしてたからか、海の青も憧れと同時に好きなんだ」
そんなことをポツポツと呟きながら晴日呼が写真と文章を示す。選んだ画像は一枚――仔猫の、青い瞳の色だった。仔猫の品種はラグドールだろうか、ぬいぐるみのようなふわふわとした毛に包まれた仔猫のアップ、その瞳は不思議な輝きを秘めて青い。
そしてその横に、こう記されていた。
『瞳の色が違う奴には世界が何色に見えるのか、不思議に思っていた。
それでも、目の前の世界は同じ。』
シンプルな言葉選びながら、メッセージははっきりと。
同じモノを見ても、他の人は同様に感じるようにできるのだろうか――そう問いかけるような、そして、それでも同じなのだと再認識するような文章。
これから数多くの青を見るのに、その滑り出しとして相応しいものであったと言えるだろう。誰もが、その言葉に唸り声をあげた。
「不思議なものだな。たったこれだけなのにメッセージ性はとても強い」
静矢がそう讃えて、ふむと頷く。ほかの皆も同感だったのだろう、飾り気のない言葉ながらそれを真摯に受け止めていた。
「では次は、良ろしければ私に」
そう微笑んだのは、静だった。
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静の写真は涼し気な香りを宿していた。練り香水を少し塗ったのだという。
「永遠にとは参りませんが、こういう趣向もよろしいかと思いまして」
静は上品な笑顔を浮かべる。
情緒的な涼しさも伝えたい彼女が選んだのは雨上がりの青。雲のとんだ空は青く澄み、近くの小川も、そして雨に濡れた地面も、その青を吸い込んだかのように青く。傘を持ち、ステップを踏む少女も、青い傘、青いレインコート。
「題名はそのままですが、『青』と」
少女はゆっくりと朗読を始めた。
ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ
水たまり
胸の奥 重たい固まり
思い出したくない記憶
雨は嫌い 気持ちがよけいに沈むから
ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ
水たまり
胸の奥 重たい固まり
あんなこと言わなければ良かった
傘は嫌い 空が見えなくなっちゃうから
ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ
水たまり
橋を渡る
ふいに気づく
雨音が聞こえない
とうに雨は止んでいた
ふと空を見上げる 青
視線を戻す そこにも 青
濡れた地面と川に空が映っている
地上も空も 一面の青
青に包まれ 胸の奥はすっと澄んだ
そうだ ごめんねを言いに行こう
傘を畳んで走り出す
青 青 青
それはある雨上がりのお話
それは静の深層を表現したかのような詩だった。
雨の降る間重くのしかかる胸の奥、そしてそれがクリアになる雨上がり。
もちろんその意図を完全にわかる者は彼女以外いないだろう。それでも、少女はこの詩を優しく読み上げた。今の彼女の心がそうさせたのだ。
この本を見て、洗われた心が。
「詩というのも素敵だね。私は物語だけど」
ルーネはそう相槌を打つと、作品を披露することになった。
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彼女の青は、夜明けの僅かに白み始めた空の色だった。
まだまだ薄暗く、あちこちが闇の色と光の色、どちらともなくぼんやりとしている。建物の影も不思議な色合いだった。
やがてルーネはそっと物語を紡ぐ。題は、『夜明けの青(ブルーアワー)』。
『夜の闇は全てを内包する。
悲しみも、怒りも、憎しみも。暗い感情全てを飲み込み、静かな安らぎをくれる。だから夜は怖くない。闇が優しいことを知っているから。
けれど、とふと思う。
闇はそれをどうやって吐き出しているのだろうか?
疑問はつい口から漏れ出てしまう。
闇は人ではないのだからそんな心配しなくてもいいんじゃないか、ある友人は苦笑して頭を撫でた。
――妖怪や魑魅魍魎の類はそんなヒトの感情から生まれているんですよ、知っていましたか?
態と声を低めてそう嘯く友人の頭を、怖がらせること言うんじゃない、と別の友人が叩いた。
そして全員が笑う。闇に対して投影しすぎなのだ、と。
身近な昼でなく、夜の闇に重ねるのは、そこが安らげる場所だと無意識に知っているから。
自覚しているからそこから離れ、自分だけの闇のもとへ向かう。
柔らかく出迎えられ、つい同じ疑問をぶつければ深夜の待ち合わせを提案される。
そうして連れ出されたのは夜明け前の暗い海。
見ていてごらん。
日の出が近いのか、白み始める空。夜空の黒がどんどんと薄くなり、青色を覗かせ始める。
宵闇でも暁光でもないこの曖昧な時間は、きっと赦しの時間。受け止めた全てを肯定し、明ける空が浄化する。
だから闇はいつでも優しいのだ。
そう言って微笑むから、照れ隠しに空の色を見つめ続ける。
この空の色に、自分が染まれるように。』
そう言えば、この写真の如き明け方のことを『かはたれどき』という。相手の顔がはっきり見えず、『彼は誰』と問わねばならない、そんな時間なのだ。
加奈子がそれを思い出して意図の在り処を尋ねると、ルーネは、
「さて、ね」
そう言って空とぼけた。
「じゃあ折角だし、次は私の話、読んでみて?」
藍がくすりと笑う。腐っても文芸部、やはりいろいろと触発されているのだろう。
「面白い?」
ひむろが尋ねる。藍はどうかしらというような表情を浮かべると、そっと紙を机の上に広げた。
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藍の用意した写真は、三枚。
「子どもの頃のことを思い出して書いたの。ありきたりになった気もしなくはないけれど」
真っ青な花のように開く、傘の写真の横。
『ざあざあ。どしゃぶりの雨の日。
ばたばた。傘が水をはじく音。
傘に隠れるようにして――。
とぼとぼと、うつむいて歩く女の子。
――頬を水滴が、零れ落ちていきます。 』
雨に濡れそぼつ紫陽花の写真の横。
『そんな中、紫陽花が雨に濡れていました。
それに気づいた女の子は、立ち止まって尋ねました。
あなたも悲しいことがあったの……?
紫陽花は何も答えず、ただ、降りしきる雨に打たれているだけでした。
――その姿は、泣いているように見えました。 』
そして水彩の画面の脇に。
『止む気配のない雨。
傘の青も紫陽花の青も溶けだしてしまいそうで。
一緒に悲しい気持ちまで溶かされていくようで。
雨はそうやって、晴れた日の空を作るのでしょう。
そう、明日、雨が上がったらきっと。
紫陽花と女の子が、笑ってまた会えるように。
世界中の青を溶かした水彩画のような青空の下で――』
文章は確かにうまいとは言いがたい。しかし、優しくあたたかく、そして何より細やかな思いやりに溢れている。
「素敵ですね」
志津乃がおっとりと微笑みを浮かべた。藍は感想を述べられて、わずかに顔を赤らめる。
言葉を書くことは思いを綴ること。それぞれの持つ心が、それぞれ違う物語を生み出す。
それがわかるから、志津乃も藍も、この企画に参加したのだ。
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「それでは、私も」
志津乃が広げた紙は二枚。
他の青よりもそれは落ち着いた、あまり見ない色味の青であった。それを絵本のように綺麗にレイアウトしてある。
一枚目は特に目を引いた。藍染めの反物の、味のある青の横に添えられたのは、
『十年のちの冴えを見よ』
ただそれだけ。
藍染めは長く使えば使うほど、色が冴えて美しくなるのだという。和装の知識がある志津乃の言葉に、皆はほう、と息を吐く。
その裏にある小さな想いは、心にそっと秘めておく。
大切な人への想い、でもいつかそれも変化するのだろうか、この藍染の変化のように。
そしてもう一枚はこれも珍しい、雪の青だった。
「雪は白いイメージかも知れませんが」
雪原の、空の色を僅かに吸い込んだ青。その横に、
『快晴の空に応えるように
雪原は青を帯びて輝く
月光の静かに降る夜
雪原は青を呼吸する 』
そのセンスには脱帽だ。切なくも美しい。
「青にも本当、いろいろあるんだな」
晴日呼が感心した声を上げた。選ぶものも、抱くものも、千差万別なのだ。
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「じゃあ、次はいいかな?」
手を上げたのは祈羅。美しい夜空を写した濃紺が、視界に飛び込む。
『私の手を繋いで、お父さんは空を指さして、こういった。
「知ってる? お星様はね、夜だけでなく、
私たちが見えないだけで、昼にもちゃんと輝いてるんだよ」
お星様に見守られながら、
夜空の下、親と三人でいっぱい笑顔を咲かせた。
そして時が過ぎ、
今度は私の番。
誰かの手を繋いで、またこの夜空を見たい。
そして誰かのお星様になりたい。
ちゃんと傍にいられる「夜」にも、
傍から離れちゃってる「朝」でも。
ずっとずっと、一緒に笑顔で生きていきたい。』
それは祈羅の願い。かつて見た世界、そしてこれから誰かと見たい世界。
「うちはね、父ちゃんがいなくなってから、いろいろあっていろいろ変わって。不安にもなるけど、夜空を見上げると安心するんだ。だから、夜空の青が大好き」
だからいつか、大事な人と手を繋いで夜空を眺めたい。
祈羅の笑顔はとても幸せそうだった。
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大事な存在がいるといえば静矢もそうで。用意したのは同じ場所から撮影したらしい三枚の写真。ただし、朝、昼、夜と、その有様は三様だ。
そしてその横に、文章が添えられていた。
朝。
『海は新たな息吹を潮風に乗せて夜明けを告げ
日の光に満たされた空は爽やかな青色に染まる
全ての生命が目覚め、闇を晴らす光の暖かさに喜び歌いだす』
昼。
『海はどんな生き物をも受け入れ包容する深き青に染まり
風に吹かれた雲が空のキャンバスにアクセントを添える
すべての生命が舞い踊り、絶妙なる自然の絵画を描き出す』
夜。
『海は神秘の色を湛え眠りにつく者を優しく包み込み
彼らが見る夢を天空の星達が煌びやかに彩り輝かせる
全ての生命が安息の時を迎え、深く深く身を沈める、明くる日を夢見て
そしてまた新しい一日が始まる、緩やかな時の中で延々と続く生命を紡ぐ永久の営み』
生命の尊さを訴える詩だ。彼自身なにか思うところがあるのだろう。どんなに年月が経っても、生命の営みは変わらないのだ、と。
「いい詩ね」
誰かがそう呟いた。
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「最後は私だよ!」
『わからないこと』が多いなりに頑張って書いた、ひむろ。選んだのは、水分を多く含んだ、柔らかい色味の青空だ。その脇に、可愛らしい文字で綴られていたのは――
『三歳のころ、家族三人初めて揃って、見た青空。
あれはどんな「青」、だったかな?
私は「面白い」ことしか知らない。わからない。
おとうさんがある日、突然やってきて。
おかあさんを連れて、どこかへ行っちゃった。
「寂しい」はわからない。
「悲しい」や「辛い」もわからない。
おとうさんとおかあさんは、私の周りにはいない。
ただ、その事実だけ。
「青」は私の色。
青い瞳は、おとうさん譲り。
青い瞳は、おかあさんの好きな瞳。
事実としてだけ憶えてる。
「青」は私の色。
銀の髪は、おとうさん譲り。
青い髪は、おかあさんと別れた日の空の色。』
今の彼女の髪色はアウルの影響だ。その発現は、同時に両親との別れだった――天に魅入られた父と、それに拉致された母。ひむろ自身も、一時的にゲートに閉じ込められた。
ひむろの喪失しているものはきっととても根深い。しかし恐らく本人はそれをはっきりと認識できておらず、作文めいた文章の稚拙さが更にそれを強調しているようだった。もっとも本人は不思議そうに微笑んでいるが。
加奈子はひむろの頭を撫でた。
「面白かった、ですよ」
それだけ言って、笑顔をぎこちなく作る。その言動に、ひむろもいっそう笑顔を浮かべた。
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集まった作品は志津乃を中心に、その場で丁寧に製本した。
「素敵な本になったね!」
ルーネが嬉しそうに笑う。誰もが同じ事を思っているのは明らかだった。
「そうだ……この本は、皆で作った本。もし良ければ、もっと多くの人に読んでもらいませんか?」
加奈子は図書館での保存を提案する。きっといい記念になるから、と。異存はなかった。
「……ありがとう」
お礼の言葉は喜びに溢れていた。
――そして、きっと図書館の片隅に、この青い物語はあり続けるだろう。
ずっと、ずっと。