●鼠
店内は、所謂「洒落たレストラン」と言った内装をしていた。
天井には植物のツタで作られた球体の照明がいくつも吊り下げられて淡く、まばらな光を放ち、調度品もシックで、如何にも高級そうな、しかし決して嫌味ではない物があつらえられ、どこか見えない場所にスピーカーがあるのだろう。店内の雰囲気に合わせたのか、微かに流れて来るジャズのサクソフォンが心地良い。
――だがしかし、それは元々の店内なら、という話だ。
お客達が逃げる際、パニックになってなぎ倒していったのだろう。折角の机や椅子は勿論の事、雰囲気作りの小物等が入れられていたであろう棚も殆ど床の上に、乱暴に転がされ、各テーブルにあったと思われるランプ等のガラス製品も全て、砕けている。
更に店内には、じっとりと纏わり付く、血と、糞尿と、臓物と絶望とが入り混じった――嗅ぎ慣れた死の臭いと、チーズ独特な乳臭さと脂の香り。そして鼠から発せられているのだろうと思われる、生臭く、それでいてドブにも似た臭いが充満しており、とてもではないが「心地いい」という感想からは程遠い物となっている。
雪室 チルル(
ja0220)は悔しそうに眉を寄せる。
先程、エルム(
ja6475)が大通りの窓から中を伺った時、鼠は入口からは背を向け、客席を覗く夢中になってチーズと『つまみ』に舌鼓を打って居た為、背後から奇襲をかけられるのでは、とも思っていたが、実際に中から眺めてみると、外からでは影になって見えなかった細々とした残骸が散らばっており、駆け抜けるには足場が悪く、かといって、それらを避けて行こうとすれば大きな、まだ形の残っている机などを避けなければならない為、やはり駆けるには不向きなように思えた。
向こうから近付いてきてくれれば。
そう考えると、頭の中にふと、鼠捕りの姿が思い浮かぶ。鼠と言えば、という連想なのかもしれないが、しかしそれでも、この鼠が入るだけの巨大な鼠捕りがあったのなら、少しはこちらに引き寄せる事が出来たのではないだろうか?と、考えてしまう。
――尤もあったとしても、天魔相手には効かないだろうけどね……
自分で自分の考えを否定しながら、チルルは現実的に攻撃をするべく、ヒヒイロカネに手を伸ばし――
チルルのすぐ横を、一つの影が飛び出した。
何かのぶつかる鈍い音。同時に、その何か――太もも程の太さをした机の足だった物が、鼠に向かって行くのが、見えた。そしてそれは次から次へと断続的に続き、その殆どはまた鼠に、あるいは鼠の居る方角に向かって飛ぶ。
軽やかに踊りだした向坂 玲治(
ja6214)が、足元にある残片を蹴り上げながら回り込むようにして鼠への距離を縮めていたのだ。
当然、鼠は敵襲に気が付くが、次々に飛んでくる木の塊と玲治の気迫に押されて、驚いた事を表現しているのか、手にしていたチーズと『つまみ』を放り投げると気を付けををしたような恰好になり、そして慌てて、投げたチーズを拾い、更に残り一口分程となっている『つまみ』を拾い上げようと、手を伸ばした。が。
「あらァ、させないわァ……!」
声と同時に、鼠が手を伸ばしていた先にあった残骸が砕け、大気が揺れる。
黒百合(
ja0422)の放つアウルで出来た砲弾が、行く手を遮り鼠の手の先に落ちたのだ。鼠は即座に手をひっこめると、怖い、とでも言いたげにわざとらしく飛び上がり、ギィと短い鳴き声を上げて恨めしそうに床に落ちた『つまみ』を一瞬眺め、何かを考える素振りを見せていたが、直ぐに両手を打ち鳴らして、窓に向かって、トゥーンのキャラクター達がそうするように、腕を振り上げ、足を上げ、今にも駆け出そうというポーズを取り始める。
どうやらチーズさえあれば『つまみ』は外で新しい物を捕まえればいいと結論付けたらしい。しかし。
「させません……!」
間髪入れず、鼠の側部へと回り込んでいたエルムが、静かに刀の背に指を滑らせそして、大袈裟な動きをしていた鼠の脇腹へ向けて素早く、それこそ、眼にもとまらぬ速さで刃を突きたて、肉を裂き、すぐさま引き抜く。
一瞬の間。後、鼠は突然脇腹に起きた痛みを堪えるかの様に、グ、と呻くと両手で大袈裟に傷口を押さえて身体を捩り――鞭の様にしならせた尾を、エルムの頭に向かって一直線に、振る。
――速い。
視界に入った時には、鼠の尾は眼前にまで迫っていた。当たる。背筋を無理矢理逸らす。尾の表皮が髪に振れたのが解る。皮膚が裂ける。尾が振り抜ける。鮮血が散りそして――鼠の巨体が、弾き飛ばされた。
エルムに気を取られていた鼠の死角から放たれた光の塊が、鼠の身体にぶち当たり、抉り、勢いもそのままに、先程蹴散らした机の残骸の上へと落ち、木片を飛び散らせる。
頬を血液が流れるのを感じながらエルムは、背を逸らした体勢からそのまま自重を後ろに移し、距離を取る。直撃は、免れた。だが尾の風圧で、皮膚が裂けたらしい。
もしも直接当たっていたら――ぞっとしない。
「大丈夫かよ」
トンファーに残光を残し、鼠から眼を離さない玲治の声に短く「はい」とだけ答え、大したダメージを受けた様子を見せず、パフォーマンスのつもりなのか、跳び起きて身体を払う鼠をみやる。
そして鼠は、手にしたチーズを一口齧ると、愉快そうに、わざとらしく腹を抱えてケタケタとトゥーン染みた笑い声を立てた。
●調理場
耳障りな笑い声が聞こえる。戦闘継続。どうやら陽動は上手く行っているらしい。
ローニア レグルス(
jc1480)はそう状況確認を済ませると、未だに怯えを含んだ表情を浮かべ――しかし大分落ち着きを取り戻した顔をした店員に向かい「おい」と、静かに声をかける。
一般人が逃げ遅れている。
その可能性を考慮し、二手に分かれたのは正解だったらしい。仲間達が先行し、鼠の気を引いて戦闘を繰り広げている中、ローニアは気付かれないよう静かに、そしてゆっくりと、床の中に身を隠して店の奥、特に人の隠れていられそうな場所を集中的に探していたのだが、案の定、とでも言えば良いのだろうか。
コック服に身を包んだ若い女が一人、店内からは見えにくい、調理場の棚の影に身を潜め、小さく震えていたのだ。
声をかけられると同時に、店員は悲鳴を上げる代わりに体を小さくびくつかせ、ゆっくりと、ローニアに視線を向ける。どうやら店員は、床から身を現したローニアに対しても恐れを抱いているらしいが、それでもこちらが敵ではないと理解していて、且つこちらの話を聞くだけの冷静さがあるならば問題ない。ローニアは一点――唯一、外界と繋がっている、換気用の窓を指さし「本当に、あそこ以外には窓も、出口も、無いんだな」と、店員に念を押す。
と、店員は不安げながらも一瞬考えそして、首を縦に動かした。
調理場はカウンターを挟んだ場所に作られており、客席から見え易い作りになっていた。と言っても、カウンター自体の高さが五十センチ程はあるので屈んでいればそう、見つかる事はなさそうなのだが、だからと言って唯一見つける事の出来た窓は、防犯対策なのか、多く見積もっても十センチ程度しか開ける事は出来ず、また外には鉄格子が取り付けられていて、少なくとも『一般人』があの鼠に気付かれず、そこから脱出するのは不可能でしかない。
器具がいる。音が出る。素早さがいる。そして何より、あの鼠に対抗する為の力がいる。それを考えると、殆ど不可能としか思えなかった。
――が。自分は、「一般」でも、ましても「人」でも、無い。
店員を一瞥する。
目には怯えと同時に、縋る様な色を滲ませていて「どうするのか?」と問いかけているように見える。
「そうだな」
誰に言うでもなく、声に出す。どうしたって、音は出るだろう。
だから、変える必要は感じられない。
ローニアは手にしたギターを静かに構えて腕を振り上げると、そのまま勢い良く振り下ろした。
●
店中に突如、熱気を帯びたギターの音色と、硝子やコンクリートの砕ける轟音が響き渡り、カウンターの向こうからは濛々とした土煙が立ち上っている。
一瞬、何が起きたかを考える。が、すぐさまそれが、一般人を逃がす為に壁を破壊した音なのだと思い当る。
僅かな、間。しかしその間の内に、何かを感じたのだろう。
どうやら鼠は、音のした方向に何があるかを察したらしく、台所に向かって走り込もうと先程走ろうとした時と同じく、足を、腕を、振り上げ、地をかけようと足を踏み出しかけていた。
このままでは、僅かに間に合わないかもしれない。
しかしそれでも、間に合わせなければ。そう思い、誰もが同じく踏み出した――その時だ。
鼠の背に、何か緑色をした筒が投げつけられ、床を転がる。
辺りには、今までよりもハッキリと、そして強烈な鮮血の臭いが、漂う。遅れて、チーズの、ねっとりと絡みつく、乳臭さ。
その異臭を辿れば――自ら、肉を引きちぎったのだろう。右腕からだくだくと、とめどなく血液を流し、頭からは、何故か粉チーズを被り真っ白な筈のそれは、血液を吸って赤く、凝り固まっていた。
そんな状態だと言うのに、黒百合は、笑っていた。ただ一人。愉快そうに。実に、楽しそうに。そして「あらァ、可愛い鼠ちゃんゥ」等と、嘯く。
「追加でデザートなんて如何かしらァ♪うふふふゥ、チーズ風味の撃退士よォ♪」
その光景に、誰一人目を逸らせなかった。声を出せずにいた。
そして――鼠も移動するのを止め、黒百合に――極上の『つまみ』に、一瞬、眼を奪われそして――金切声が上がる。
「隙だらけだっつーの!」
今まで期を伺い息を潜めていたラファル A ユーティライネン(
jb4620)が、鼠の真上から飛び掛かりその無防備だった背中に刃を突き立て、体内で破裂させたのだ。
無理矢理に肉が剥がされ、引き裂かれ、掻き分ける感触が手に伝わる。
鼠が動く度に、刃が肉を掻き回し、血液を泡立たせるのが、伝わる。
そしてその度に、鼠は苦しげに呻き、涎を撒き散らし、体を捩っては、背に乗ったラファルを払いのけようと何とか暴れ――
「――うわ、あっぶねー!」
「今――!」
足が絡んだのか、それとも瓦礫を踏んだのか、鼠はバランスを崩し、そのまま倒れそうになりラファルは慌ててその背から飛び退く。と、その瞬間を狙っていたかの如くチルルが駆け出しその小さな体躯に見合わぬ大剣を振るい、作り物染みた鼠の足を一閃、切断する。
「そらネズ公。夢の国にでも帰るんだな……!」
玲治の影の中から伸びあがる幾数の黒い腕が、鼠を絡め、床の上に押し付けるようにしてギシギシとその体を締め上げて行く。
腹を押されたからだろう。鼠は先程まで食べていたチーズと『つまみ』を嗚咽と共に吐き出しながら、なんとかその拘束から逃れようと残った手足をばたつかせそして、拘束している主の、玲治に向かって鞭の様に尾をしならせ、その体を薙ぎ払おうとする。
しかしその尾は、玲治にぶつかる直前。再び、掻き鳴らされたギターの熱い音色によって引きちぎられて明後日の方向へと飛び去り、抵抗の手段を失った鼠は今までのわざとらしさも見えず、悔しげに、忌々しげに、唯の獣らしく、ギィギィとした鳴き声を発し、もがいている。
「これ以上の狼藉は――許しません……!」
身動きの取れなくなっている鼠にエルムは駆け出し、紫の焔を纏った刀を構え――脂肪のたぷついた腹を切り上げ、すぐさま手首を返し、もう一太刀、切りかかる。
切り裂かれた腹から、見た目のトゥーンらしからぬ生々しい臓物が零れ落ちるが、それでも鼠は抵抗を止める事無く、ギィギィ、ギィギィ、呻いて、泡を吹き、更に臓物をはみ出させる。
「さァ……これでお終いよォ……!」
黒百合の声が響き、今だ出血の収まらない右手を省みる事無くロケット砲を担ぎ上げ、息も絶え絶えになっている鼠に向け、そのままゆっくりと、鼠を狙い、引き金を引く。反動。体が後ろに引き倒されそうになる。弾き飛ばされないよう、残った左手に力を込める。足を突っ張り、腹に、下半身に、力を込める。
そうして、反動が無くなった頃には、先程まで鼠の居た場所にはもう、異臭を放つ、何かの肉片が散らばっているだけだった。
●エピローグ
「んー!やっぱチーズはいーな……!」
綺麗に片され、唯一無傷で残ったカウンターに寄りかかりながらラファルは、清掃の謝礼代わりにと提供されたチーズに舌鼓を打っていた。
結局。
この店は、一端畳む事になるらしい。それはそうだろう。店にあった調度品は殆ど全て壊され、目玉の一つだったラクレットチーズのヒーターも駄目になってしまっているのだから、少なくとも、それらを再び準備するまでは店を開ける訳にも行かないだろう。
しかしだからと言って、ここの店主は悲観する事も無く「また別の場所で頑張るよ」と嫌に前向きで、そして無駄に、自信にあふれていた。
それがラファルにはよく分からず、少しばかり疑問にも思ったのだが――成る程。チーズを食べて、その理由が良く分かった。
この店主の用意したチーズは、今までラファルが食べた中でも中々に上等の部類に入る物ばかりだった。
それは値段が、と言う事ではない。保存が、品質が、材料が、どれもこだわり、情熱を向けられているのが解るような、そんな味だったからだ。
これならば、別の場所に移っても上手く行くだろうと、自信を持てるだろう。
「次はどれ食おうかなー」
言って、再び並べられたチーズに視線を落とす。
チーズはどれも、魅力的だ。